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配信日 09年8月10日 (10年12月30日に一部分を分離)
タイトル 流すための言葉
追記  メールマガジン配信時の文章から、後日「理由なき」と部分を分離独立いたしました。
このメールマガジンでたびたび言及するフランスの女流作家のマルグリット・デュラスはこんなことを言っていたそう。
『オトコたちは、語るということに執り憑かれている。』
デュラスとしては、男性たちが、まるで、語らなければ自分で死んでしまうくらいの必死な心情で、やたら語りたがる・・・と言いたいでしょうね。

そんなデュラスの言葉に対して、「そう言えば、そうねぇ・・・」と同意なさる方もいらっしゃるでしょうし、「いつもブスーとしているウチの亭主がそれくらいだったら、むしろ面白いのに・・・」とか、「オレは、むしろ口下手だし・・・」とおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。あるいは「語ることに執り憑かれているって・・・そこまで大仰に言わなくても・・・そもそも、語るという行為は人間にとって本質的な行為であり、その心理の根本としては・・・」などと、反論?をする人もいらっしゃるかも?

デュラスの指摘に対して、同意しようが同意しまいが、大したことじゃない。デュラスの周辺の男性は、実際に、そんな男性が多いんでしょう。まあ、予想は付くけど。
この私が、デュラスのそんな言葉を聞くと思うのは、「つーか、物書きのアンタが何を言っているの?」「アンタこそ、作品中でいっぱい語っているじゃないの?」と言うものです。

とは言え、デュラスの文章は「語る」文章ではない。その文章からは沈黙とか空気感とか「間」が漂ってくる。言葉そのものよりも、その行間に意味がある文章と言えるでしょう。
そういう意味では、デュラスの文章は「語ることを拒否した文章」なんですね。

などと、語ってもしょうがない。それこそデュラスに笑われちゃうよ。

言葉というものは、まさにコミュニケーションの道具だったり、そして思考の道具でもある。そして、現実的には認識の道具でもある。言葉の枠組みを使って人は認識したりするもの。

当人の思考の結果として、執り憑かれているように誰かに語ろうと、あるいは、語るまいと、その人の自由でしょう。言葉は上手に使えばいいだけですし、その多寡はともかく、言葉を上手に使うのが知的な人間というもの。

しかし、ダメダメ人間の場合には、ダメダメに言葉を使ったりする。
これは何も言葉使いがヘタという問題ではありません。認識から回避するために、思考から逃避するために、言葉を使ったりする例が多いんですね。言語的な問題ではなく、心理的な問題が、その言葉に見えるわけです。

もっともらしい、周囲にとおりやすい言葉を持ち出して、「これは一般に言う○○だから・・・」「これは△△の問題だ!」などとさっさと認定してしまって、それでオシマイとしてしまう。
それこそ、ちょっと家庭内でモメると「これは子供の反抗期だから・・」とか、何か事件があると「これは人権侵害だ!」、あるいは、最近流行りの「現実と虚構を混同している!」「インターネットによる悪影響だ!」などと、反論されない言葉を持ち出して、それ以上の思考から逃避してしまう。
あるいは、実家の問題を考えることから逃避するために「親に迷惑をかけたくない!」なんて、スグに言い出したりする。そうやって実家の問題は思考停止にしてしまう。
言葉で流すことによって、真摯に現実を見ることから逃避し、認識が留まるのを流してしまう。そうやって問題意識を持たないようにしてしまう。

つまり、ありきたりの言葉を持ち出すことによって、現実逃避してしまうわけです。
しかし、現実から逃避するために、もっともらしい言葉を持ち出しても、事態がよくなるわけもない。
結局は、「全部アイツが悪いんだ!」と何かを犯人認定して、そして犯人認定のための言葉を探すことになる。

そんな人の言葉には、周囲にとおりがいい正論が並んでいて、そしてあら探しによって得られた他者の悪口がいっぱいあるもの。
そうして「まったく・・・○○のようなことをして・・・あの☆☆さんには困ったものねぇ・・・ワタシは、□□とか、■■とか、色々といいことをやっているのに・・・あの☆☆さんが、みんな悪いのよ!」と周囲に主張することになる。

そんな話を聞いたら、マトモな感覚を持っている人は、『うーん・・・言葉の上ではそうなのかもしれないけど、なんか、完全には納得できないなぁ・・・』と「違和感」を持ったりするもの。
ヘンな話になりますが、正論連呼だからこそ違和感を持つのであって、現実を否応なしに見せられると持つ感情は、違和感ではなく、不快感でしょ?

逆に言うと、不快感が発生したら、人はそれなりに対処する。
違和感の段階で、対処したり、警戒するかどうかが、人によって違っているわけです。
「必要以上の正論を受け、違和感を持って段階で対処できるか?」その点が、トラブルの回避につながるわけです。

それこそ、トルストイの「アンナ・カレーニナ」においては、主人公のアンナから別荘に招待されたアンナの義姉が、アンナが築いた「絵のようにすばらしい家庭」を見て違和感を覚えるシーンがありました。
その義姉にしてみれば、「何だか・・・すべての物事がキレイなんだけど・・・キレイすぎると言うか、地に足がついていないというか・・・それに、こんな外面的にキレイにするよりも、アンナは自分自身の離婚問題をどうするのさ?」って思ったんでしょうね。と言うことで、その義姉さんは、しばらく滞在する予定だったのを早めに切り上げて、一泊で逃げてしまう。「この雰囲気・・・何か落ち着かないわねぇ・・・」と言うわけです。逆に言うと、そんな現実無視のキレイごとが飛び交う世界に安住してしまうと、そのお義姉さんの家庭まで完全崩壊する可能性が高い。

アンナのような、地に足がついていない人間ほど、正論を語りがたるもの。
だって、現実を見ていないんだから、安心して正論を言えますよ。正論とはまさに「絵に描いたようにすばらしい」主張でしょ?結局は、地に足がついていないという点においては、共通しているわけです。それに自己逃避しているんだから、自分がやっていることについて何も自覚がないので、「うしろめたさ」とも無縁となる。だから、何も衒いもなく、現実離れした正論を連呼できてしまう。だからこそ、そんな正論を聞かされると、「何だかなぁ・・・」と思ってしまうものでしょ?

非の打ち所のないがゆえに、発生する違和感。
必要以上にキレイであるがゆえに、持つ違和感。
そんな事態は、たとえば、やたら親切な人の事例でもあったりしますよね?
「あの人・・・色々と親切にしてくれて・・・会うたびにモノもくれる・・・だけど、何か違和感が残る・・・」そんな場合もあったりしますよね?
その段階で、そんな「親切な人」に対して警戒すればいいわけですが、警戒もしないと、以前にあった神奈川県の綾瀬市の事件のように、ボランティアおばさんが、一転して、放火殺人を犯すようになってしまう。

誰かにモノを上げるという行為には、その心理に「支配・被支配の構図」を背景としているケースがあります。いわばムチではなくアメを使った支配欲なんですね。そんな心理分析まではできなくても結構ですが、「モノをくれすぎる」「必要以上に親切」な人に警戒するくらいは、誰でもできることでしょ?

しかし、現実逃避のために言葉を使うような人は、「あの人は親切な人だから・・・」と、ありきたりな言葉を持ち出して、考えるのをやめてしまう。
まあ、そんなことだから、殺されちゃうんですよ。

「言葉はそれなりに通っているけど・・・」
「こんなことってありえるのかな?」

皆様も、そんな違和感を持つこともあるでしょ?
その時点で注意することが必要なんですね。
しかし、以前にも書きましたがダメダメ家庭の人間は、皮膚感覚の常識を持っていないケースも多い。だからこそ、「反グローバル主義の運動家が、世界規模で連携。」「アナーキズム運動を実現させるために、政府に積極的に参加する。」なんて言葉でも通ってしまう。自分で考えたくないので、違和感を持つこと自体から逃避してしまう。

そんな人間が使う言葉は、違和感を流すための言葉であって、立ち止まったり、思考するための言葉ではない。言葉がその背景を失い断片化されてしまっている。だから正論も断片化されているし、人間としての実体が断片化されている状態。 そのよりどころは、周囲へのとおりのよさになってしまう。逆に言うと、周囲へのとおりのよさが優先され、自分の身からますます逃避する。そんな人は、語るという行為によって、自分で勝手に納得してしまう。そんな人は、都合が悪くなると、何かを安直に犯人認定してしまうことは理の当然でしょ?犯人認定して、「全部あの○○が悪い!ワタシは悪くない!」と主張し、だから、自分では何も考えないし、対処を丸投げしてしまう。

事態を客観的に改善するというより、自分で納得できればそれでOKなんだから、痴漢の冤罪事件も起きますよ。以前にも書きましたが「とにもかくにも、犯人として誰かを逮捕することが重要だ!その人が犯人かどうかは、重要ではない。誰かを逮捕すれば、その他の人もしなくなるはず。」などと真顔で主張することになる。とにかく不都合な事態を流したいだけ。自分の目の前から見えなくなればそれでいい。本質的な解決は考えない。

そんな人は、トラブルになると、実に言い訳がましいもの。言い訳はしても、説明はしない。まさに、言い訳の言葉によって、自分にとっての不都合な事態を流そうとするわけです。しかし、説明ではなく流すための言葉なので、その言葉も軽い。

以前に起こった料亭の吉兆の事件では、女将さんが「現場の独自の判断」とか言い訳してしましたよね?しかし、パートのおばちゃんが独自の判断って・・・その説明は無理がありますよ。あるいは、購入した物品が期日までに届かなかった場合には、ありもしない台風などを持ち出して弁明したり・・・そんな例が実際にあったりします。しかし、台風なんて、ちょっと調べれば、スグに嘘もばれてしまいますよ。ウソを付くなら、もっとちゃんとしたウソにしないとね。

トラブルが発生しても、事態を直視せず、反論されない通りのいい言葉を、「コレ言っておけば、安心!」「もうっ、鬱陶しいなぁ・・・」「誰も文句を言わないだろ?」なんて雰囲気で持ち出している姿に、マトモな人は、違和感を持ったりするもの。だから、アンナ・カレーニナの義姉のように、さっさと逃げ出してしまう。
結局は、残っているのは、同類の愚鈍な人間ばかり。
そんな人間が集まったら、当然のこととしてトラブルにもなりますよ。

ちょっとした違和感を持った時点で、ちょっと考えてみる。
それくらいなら誰でも出来ること。
文章を読んだ際にも、
「どうして、こんなに正論連呼なんだろう?」
「どうして、わざわざこんなことを?」
「どうして、こんな当たり前のことを、熱心に書くの?」
そう思うこともあるでしょ?そんな違和感こそが重要なんですね。そこから認識なり思考が広がっていくわけです。

しかし、抑圧的な人間は、そんな違和感の価値がわからない。
だから、違和感を持たずに済むような「当たり障りのないもの」ばかりに接するようになる。文章を読む際にも、ブログの文章程度のものしか受け入れられない。ブログどまりどころか、違和感を持ったブログを炎上させて喜ぶ始末。

その違和感の段階で対処すればトラブルにはならないもの。しかし、抑圧的で現実逃避のダメダメ人間は、何も対処せず、結局は実際にトラブルが起こってしまう。
トラブルが起こってしまって、そんな避けようのない現実に対して不快感を持った段階で、しっかり対処すればまだ救いがあるわけですが、現実はそうはいかない。自分の感情を抑圧し、現実から、より逃避することで、そんな状況を流そうとする。別の言い方をすると、不快感の不快な状況は放っておいて、不快感の「感」の面に対処することになる。まさに感情を抑圧して、何も感じないようにしてしまう。かと言ってトラブルを引き起こす不快な事態は残ったまま。

と言うことで、「あの○○のせいで、うまくいかないんだ。」「アナタは何も悪くない。」という言葉を求めることになる。その言葉を得て、自分で対処することから逃避しようとする。
だから、周囲に対して、「ワタシをかわいそうな被害者である説明の言葉がほしい!」と求めるもの。このメールマガジンを発行している私の元に、そんなお便りもあったりします。まあ、様々なことを言葉にする能力は、私は優れているでしょう。それに何と言ってもダメダメの問題には通暁している。
だから、たとえば「ワタシをダメダメな親によるかわいそうな被害者である。」と言うことについての説明の言葉をくれる相手としては、この私が世界的に見ても最適任でしょうね。
もちろん、それくらいは出来ますが、そんな言葉をもらったとしても意味があるの?結局は、そんな言葉を頼りに、これからの問題だって、「ダメダメな親」のせいにしてしまうだけでしょ?

ダメダメな自分の親の問題を客観的に見つめ、自分自身の現在の問題の解決にフィードバックしないと意味ありませんよね?しかし、抑圧的な人は、自分の現状を流すための言葉を求めるもの。だから、その時の問題を踏まえて、次にはこうならないように改善していこうなんて、全然思わない。しかし、そんな当事者意識がないからこそトラブルになったのでしょ?

しかし、そんなことを言ったりすると「ワタシはこんなにかわいそうなのに、アナタは分かってくれないっ!」と、結局は被害者意識が爆発するだけ。
ダメダメ家庭出身者は、そんな「親譲り」の行動をよくやっているもの。だからこそ注意する必要があるわけですが・・・そんな自戒ができる人は、実に少数なんですね。

ダメダメ人間は、自分を納得させるために、多くの言葉を使うわけですが、結局は、見ないためだったり、自分を騙すためだけ。事態を改善する意欲などはない。自分で納得できればそれでいい。
言葉で流す人は、言葉で流しきれなかったら、まさに実力行使に出ることになる。
ご近所のトラブルメーカーさんって、そんな感じでしょ?

そして実際にトラブルが起こった後になっても、結論を出して、最後を締めるという発想がない。やっぱり流すだけ。だからまたトラブルを繰り返す。とりあえず「見なくて済む」状況になればそれでOKとしてしまう。和解するにせよ、「な・ん・と・な・く」で、いつのまにかトラブルが終息しているだけ。

抑圧的なので、自分の目で見て、自分のアタマで考えることが怖い。だからこそ「かりそめ」の終結の形にすがってしまう。そんな「かりそめ」に依存している人は、アンタッチャブル領域が大きく、スグに逆上するもの。逆上によって、思考停止を獲得する。自己逃避であるがゆえに、自分では何も判断しないまま。だから他者の判断に依存することになる。だからなおのこと、他者からの評価が気になってしまう。

そうして、自分自身から逃避するために、周囲から厳しい指摘を受けないようにするために、そして周囲から高評価を得るために、周囲に対して先制的に幸福主張することになる。

「オレはエライんだ!」
「ボクって、いい子でしょ?」
「ウチの家庭は上手く行っている!」

そんなありがたい言葉によって、自分自身の問題を自分で認識することを流してしまうわけです。その点に疑問を呈せられると、その思考停止から、結局は逆上するようになってしまう。逆上による思考停止状態が、その主張が「かりそめ」であることを証明しているもの。その主張が真実なら、もっと余裕を持って答えることができるわけでしょ?

問題が起こった後で、マトモな人間は、「どうしたら今後はうまくいくのか?」「このような事態を繰り返さないためには、どうすればいいのか?」と、言うことを考えるもの。しかし、ダメダメな人間は、事件が起こった後では、真っ先に自己憐憫の言葉を発し、周囲に対しては「ワタシの側こそがかわいそうな被害者である。」という説明の言葉と、それに対する承認を求めるものなんですね。
以前に、メールマガジンで取り上げましたが、「起こってはならないこと。」なんて言葉もその典型と言えます。「起こってはならないことが起こってしまって・・・オレって、何てかわいそうなんだ!」そう嘆くだけ。

何か事件があった後で、当事者のコメントを聞いていると、結構面白いですよ。
ああ、『こんな人だからトラブルも起こるわけだ!』
そう思わされることが実に多いんですね。

ちなみに、最初に取り上げたマルグリット・デュラスの「オトコたちは、語るということに執り憑かれている。」という言葉ですが・・・
どうしてなの?どうして、そんなに語りたがるの?

今まで書いてきたように、言葉というものは、ある種の「流す」ために使われたりするもの。特に恐怖感を流すのに使われることも多い。いわば無形の恐怖を言葉によって形を与え、それによって、心理的な落ち着きを得ようとするわけです。言葉で説明されると、なんとなく落ち着くって、実際にあるでしょ?
マルグリット・デュラスが言う「オトコたちは、語るということに執り憑かれている。」と言うことは、それだけ男性が怖がりということなんでしょうね。

そんなことを書くと、「それは一般的に見て違っているだろう!女性の方が怖がりだよ!」と思われる方が多いでしょう。現実的に言うと、女性の方が「早い時点」で怖がるもの。しかし、その恐怖感は、長くは続かない。ある一点を超えると「腹をくくる」状態になってしまって、恐怖感が薄らいでくる・・・往々にしてそんなものでしょ?
それに対し、男性は、「腹をくくる」状況に到達できず、いつまでも恐がり、それゆえ「執り憑かれたように」言葉を求めることになる。

それこそ、近松門左衛門の心中ものにおいても、最後の場面で、女性の側が「腹をくくって」しまっているのに対し、男性の側が、最後まで逡巡するシーンもありますよね?
あるいは、ドイツ映画の「ヒトラー 最後の12日間」という映画においても、ゲッペルスの奥さんとかエヴァ・ブラウンが、腹をくくって堂々としているのに対し、ヒトラーやゲッペルスが「あ〜、どうしよう!」とオタオタしているシーンがありました。

まあ、戦争の攻防戦とか、心中なんてのは、しなければいいだけ。
しかし、どこかでは腹をくくらないとね。
恐怖感を流すための言葉は、所詮は、そこどまり。

「取り憑かれたように」語っている段階では、まだ恐怖感に基づいているわけです。
それでは、結局は何も表現できていない。相談のような場においても、ダメダメな人の言葉には、その心理として恐怖感が見えたりするもの。言葉によって、恐怖を流そうと必死なんですね。だからこそ、何も改善しないし、何も表現できない。

恐怖におののく地点を超えて、善悪も、生死も超えた地点から、真の言葉は始まるもの。
ドイツの詩人のハイネは「言葉が止まったところから、詩は始まる。」というようなことを言っていましたが、流されない重い言葉、生命を持った言葉は、命をも超えた、腹をくくった地点から始まるものなんですよ。

(終了)
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発信後記

最近は、やたら文章が長くなってしまって申し訳ありません。
このメールマガジンもいつまでも続けるわけにはいかないので、一つの文章に色々と詰め込んでいるので、その分だけ長くなっております。

今週は、ダメダメ人間が、自分の目で見て、自分の頭で考えることから逃避することに関わる文章を集中的に配信いたします。水曜日の文章も、また地震があっても、同じような内容です。地震はダメダメとは関係ないので、その手の時事ネタで文章を変更したりはしません。

ちなみに、いざとなったらオトコは執り憑かれたように語り、女性は堂々としている例となると、麻薬というか覚醒剤で逮捕された芸能人で、まさにそんなパターンでしたよね?
グダグダ弁解するよりも、さっさと逃避行の支度・・・
さすがですよ。
R.10/12/30