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カテゴリー 文芸作品に描かれたダメダメ家庭
配信日 09年8月28日
取り上げた作品 ワーニャおじさん(1899年初演)
作者 アントン・チェーホフ(1860〜1904年)
このメールマガジンに対して、「文章が長すぎる。」という意見があったりします。
まあ、お読みになった上での、ご感想は色々とあるでしょう。
ただ、その「文章が長すぎる。」という言葉は言葉でいいとして、「じゃあ、どうすればいいのか?」と言うことになりますよね?

たとえば、「ドストエフスキーやトーマス・マンの長編小説を読むワタシだけど、アンタの文章はムダに長い!もっと文章を切り詰めてよ!」という意見なら、ある意味、まったくそのとおり。この私としても、もっと考えないとネ。

しかし、「インターネットの掲示板をよく見るワタシだけど、アンタの文章は掲示板の文章より、かなり長い。だから文章をもっと短くしてよ!」という意見なら・・・そうなると書き手の私だけの問題ではないでしょ?

「文章が長すぎる。」という文章自体は短すぎるのでは?
私は何もクレームを言っているのではなく、掲示板を見るのもいいでしょうし、メールマガジンの文章を読むのもいいでしょうが、やっぱりちゃんとした本も読んだ方がいいと思うんですよ。

私のメールマガジンを読まなくても、ちゃんとした本を読んで、ちゃんと考える人間の方が、私としてはありがたい・・・そう思っています。
もちろん、いわゆるちゃんとした本と言っても、色々とありますし、それに、そんな本についている解説なんて、まさに「ものが見えない」人間が解説しているわけですから、トンチンカンの極み。
だから、そんな説教臭い本を読まなくなってしまった・・・そのような方も多いでしょう。しかし、作品そのものが悪いのではなく、周囲の人による解説の方が悪いことが多いんですね。作者としては説教を意図しているわけではないのに、ボンクラな人が、○○主義とか△△論とかの文言で解説してしまうので、結局はお説教として受け取ってしまう。
本来なら、読者は、作品から得られた視点を上手に使えばいい話ですよ。

本を読むことによって、多くの視点を得ることができるでしょうし、人間観察も深まるでしょうし、人の話をより聞けるようになるのでは?そうすれば、私の文章もより理解できるようになるでしょうし、逆に言うと、私の文章の意図が理解できるようになったら、このメールマガジンなんて読む必要はありませんよ。

「じゃあ、どんな本を読んだらいいのか?」
そんな問いかけもあるでしょう。
つまんない本を読んで「べき論」で説教されるのはこりごり・・・そう思っている人は多いでしょうね。

そんな場合に、この私が推奨するのが、19世紀のロシアの作家のチェーホフです。
何と言っても、彼は短編作家であって、「文章が長すぎる」ということはありません。比較的長い作品であっても1時間30分あれば読めるでしょう。それにどこの図書館にもおいてありますし、古本屋さんにも、おいてありますよ。

彼の作品ではダメダメ家庭の問題が扱われていることが多くあります。チェーホフ自身、父親から虐待を受けて育った人らしい。しかし、彼の筆致はどちらかと言うと軽めで、シリアス一直線の人ではありません。それに恐ろしいほどの洞察力の文章なので、読んでいたりすると、呼吸が止まってしまうほど。

ということで、以前よりチェーホフの作品を紹介したいと思ってはいたのですが、これが中々難しい。彼の作品は、さりげない日常風景を描いたものばかりであって、ストーリーを紹介しても、ピンと来ないでしょう。セリフもやっぱり日常的な言葉。そして登場人物も、やっぱり日常的な人物たち。
こんな「ありふれた」素材で、あんなに永遠に残る作品にしてしまうなんて・・・サスガに天才の中の天才ですよ。しかし、彼の作品にある「ありふれた」素材をそのまま紹介しても、興味にはつながらないのでは?

と言うことで、チェーホフを紹介する文章をまとめてこなかったのですが、できれば皆さんにも読んでいただきたいので、いささか無理を承知で取り上げることにいたしました。
・・・いやぁ・・・こんな導入をするから「長すぎる」なんてことになっちゃうでしょうねぇ。

彼は晩年に4つの戯曲を書いています。「かもめ」「ワーニャおじさん」「3人姉妹」「桜の園」です。タイトルくらいはお聞きになった方も多いでしょう。
「かもめ」の中の「わたしはかもめ。」なんてセリフは、たしか宇宙飛行士が使いましたよね?あるいは「桜の園」って、それを上演する学生を描いたマンガというか映画が日本映画にありました。

今回は、ダメダメ家庭を描いた面が一番強い「ワーニャおじさん」を取り上げることにいたします。彼は、「森の精」という元になった作品を以前に書いていて、それを書き直して「ワーニャおじさん」としました。それだけ彼にしても愛着があった題材なんでしょう。

チェーホフの作品の中では、事件もセリフも登場人物も・・・きわめて日常的。逆に言うと、日常のどこにでもありながら、多くの人が見落としているものを、的確に描き出していると言えるでしょう。ミシェル・フーコー的に言うと「見えているものを、見えるようにしている」作品といえるわけです。
ダメダメ家庭を作るのは、結局は、その人たちのキャラクターによっている。何か特別な事件や、特殊な時代背景があったからダメダメになったというわけではないわけです。
ですから、この「ワーニャおじさん」での主要な登場人物を取り上げ、どんなキャラクターなのか?ちょっと見てみることにいたします。

まさにダメダメ家庭を作る典型的なキャラクターなんですね。

1. ワーニャ・・・47歳。彼はダメダメ家庭による被害者と言える人。

2. ソーニャ・・・ワーニャの姪。彼女も家庭のダメダメに苦しんでいる。

3. ヴォイニーツカヤ夫人・・・ワーニャの母親でソーニャの祖母、権威主義的。「アンタたちは、何も考えずに、あの人に従っていればいいんだ!」そんな言葉が口癖の人。目の前にいる自分の子供や孫が精神的に参っていても、全く我関せず。ちなみに夫との思い話が全然出てこない。

4. セレブリャコーフ・・・ソーニャの父親。ワーニャの妹の夫だった人。退役した大学教授。芸術を教えていたが、自分では実は何もわかっていない人。始終グチばかり言っていて、人の気持ちなどはお構いなし。しかし、人からは構ってほしがる。「自分が一番かわいそうな人間なんだ!」という信念?のもと生きている人。

5. エレーナ・・・セレブリャコーフの後妻で27歳。いきおいで結婚してしまったが、夫には不満がある。しかし、その不満から目を逸らしている。だから方々にチョッカイを出して周囲を攪乱する。ちなみに容姿端麗。

6. アーストロフ・・・ワーニャの友人で医師。未来に対し、それなりに希望を持っているが、医師の激務に心身をすり減らしている状態。そんな中に現れたエレーナに恋してしまう。

7. テレーギン・・・人に合わせすぎるキャラ。

ここで、ダメダメ家庭を作る側のキャラとなると、上記ではヴォイニーツカヤ夫人,セレブリャコーフ,エレーナとなります。戯曲「ワーニャおじさん」は、ぎりぎりの均衡を保っていた家庭に、そのセレブリャコーフとエレーナが現れ、破綻が明らかになり、一応の収束を見る・・・そんな流れになっています。

セレブリャコーフが語るグチって、実にダメダメ家庭ではポピュラーなもの。実際に同じようなグチを聞いた人も多いはず。
このセレブリャコーフのグチについては、この文章の最後にまとめておきます。

さて、チェーホフはまずは、人物のキャラクターが重要だと書きました。
ということで、別作品におけるダメダメ家庭のキャラをちょっと取り上げてみましょう。
「ワーニャおじさん」の前作といえる「かもめ」では、

1. アルカーヂナ・・・舞台女優で「ワタシに構って!」の典型。被害者意識が強くケチ。

2. トレープレフ・・・アルカーヂナの息子。「自分は周囲から認められていない!」と思っているがゆえに、文章を書いている作家志望の青年。

3. ニーナ・・・女優志望の女性。まさに「恋に恋する」典型。だから「わたしはかもめ。」となる。

「わたしはかもめ」って、「ワタシは、とうとう飛んだわ!」ということではなく、「かもめのように地に足がついていない・・・現実から遊離したフワフワした自分」を表現した言葉というわけです。
ちなみに、女優アルカージナの息子であるトレープレフは、精神的な安定が得られていないので、問題行動が頻発。まあ、女優の息子の問題行動は洋の東西を問わないわけ。

まあ、実にダメダメ家庭的。いつか見たような人間たちばかり。
19世紀のロシアも、21世紀の日本も、ダメダメ家庭って、キャラクター的には全然変わらないんですね。

そして現実のダメダメ家庭がそうであるように、一時的な収束はあっても、解決があるわけではない。「ワーニャおじさん」での最後にあるソーニャのセリフは血が凍るくらいに感動的ですが、それで何も解決しない。一時的に収束しただけ。残念ながら、それがこの世と言うもの。

だからこそ、チェーホフは、最後の4つの戯曲の最後で、音を有効に使っています。
「かもめ」における、ピストルの音。
「ワーニャおじさん」における、ギターの音。
「3人姉妹」における、楽隊の音。
「桜の園」における、桜を切る音。

その音が、幕が降り、舞台が終わっても、観客の心に残り、そして観客の生き方に響くことになる。作者のチェーホフは、それを意図しているわけ。
作品で感動させるのが重要なのではなく、作品を通じて、受け手の目を開かせ、影響を与えたい・・・
だって、ダメダメ家庭って、ずっとずっと続いていくわけですからね。
終わりがないことを自覚することが、まずは最初というわけです。
心の中で音が鳴り響いている限り、人は考えなければならないわけ。

チェーホフの作品は声涙下る激情的なセリフではなく、ありふれた素材による劇場作品なんですよ。

ちなみに、チェーホフは本業はお医者さんでした。
だから、医者であるアーストロフの言動に、作者であるチェーホフのキャラクターや考えがかなり反映されています。

アーストロフは、時間を見つけては、植林をやっている。
森の価値を認め、それを周囲に対して説明しながら、当人は、一本一本、木を植えている。
「木を見て、森を見ず。」という言葉がありますが、一人の人間に実際にできることは、やっぱり一本の木を植え続けることくらいでしょ?
その積み重ねが、大きな森に繋がっていくわけでしょ?
作品を作っていくのも、まったく同じ。創作者にとって、木というのは作品のメタファーであることが通例で、木を植えるというのは作品の制作、そして、森は、作品群というか、創作者の業績の意味となります。

アーストロフはその洞察力で、エレーナに色々と言ったりします。
それがまさに図星であり反論できないがゆえに、エレーナは不快に思う。
だからエレーナはアーストロフに対してこんなことを言ったりします。
「聞けば聞くほど、腹が立つわ!」
腹が立つのなら、それ以上は聞かなければいいわけですが、その指摘が図星だからこそ聞いてしまって、やっぱり腹が立つ。そんな状態が、「聞けば聞くほど、腹が立つ」という状態・・・でしょ?

「聞けば聞くほど、腹が立つ」は、ともかく、購読者の皆さんは「読めば読むほど、腹が立つ」・・・という文章を読んだことが、実際にあるのでは?

しかし、「聞けば聞くほど、腹が立つわ!」と言ったエレーナは、アーストロフに対してこう続ける。
「あなたは、おもしろい風変わりな方だわ。」

「聞けば聞くほど、腹が立つ」「読めば読むほど、腹が立つ」言葉を言える人は、物事を一面的ではなく、色々な方向から見ているもの。まあ、確かに「風変わり」なのかもね?

(終了)
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★ 参考「ワーニャおじさん」からの様々なグチや嘆き
(作品からの抜き出し)

ワーニャが語る自分の母親の姿・・・「おふくろさんときたら、十年一日、開けても暮れても婦人解放論さ。片足は棺桶に突っ込んでいるくせに、残る片一方の足じゃ、新しい生活の曙を目指して、難しい本のページを、せっせとほっつき回っているんだ。」

ワーニャが語るセレブリャコーフの姿・・・「自分ほど恵まれない不幸な男はないと、年中こぼしてばかりいる。」

ワーニャが語るエレーナの姿・・・「厭で厭でたまらない老いぼれ亭主だが、さりとて浮気するのも女の道に外れる。そのくせ、みじめな我が身の若さと、生きた感情を殺すことは決して不道徳じゃない。」「アナタは生きているのがじつに大儀そうですよ。」

ワーニャが語るエレーナと自分自身の姿・・・「去年までは僕もあなたと同じように、あなたの屁理屈でもって、わざと自分の目をふさいで、この世の現実を見まい見まいとしていたものです、・・・そしてそれでいいのだと思っていました。ところが今じゃ、いったいどんな様になっているとお思いです!僕は、腹が立って、いまいましくて、夜もおちおち眠れやしない。」

エレーナが語る自分自身・・・「あたしほど、不幸せな女はいないと、つくづく思うの!」

ソーニャが語る自分自身とワーニャ・・・「わたしもワーニャおじさんも本当に不幸せなんですもの・・・」

エレーナが語る周囲の人たち・・・「どうにもやり場のない退屈なその日その日、あたりをうろうろしている連中ときたら、人間というか灰色のポツポツとでもいった方が早わかりするくらい。」

アーストロフが語るエレーナ・・・「あなたは、この世で何一つする仕事のない人だ。何ひとつ生きる目当てのない人だ。何一つ気が紛れることのない人だ。」

エレーナが語るこの家の雰囲気・・・「おかしな家ですことね、ここは。あなたのお母様は、パンフレットとお婿さんのこと以外はいっさいお嫌い。そのお婿さんといったら、かんしゃくばかり起こして、あたしを信用してくれず・・・・おかしな家ですことね、ここは。」

アーストロフが語るこの家の雰囲気・・・「どうもこのお宅は、わたしには一ヶ月とガマンができそうにもありませんな・・・」


セレブリャコーフとエレーナとのやり取り・・・

セレブリャコーフ「年を取るにつれて、我と我が身がつくづくいやになるよ。オマエたちだってみんな、このわたしを見るのがさぞいやなんだろうなあ。」

エレーナ『年を取った年を取ったって、まるでそれが、あたちたちのせいみたいにおっしゃるのね。』

セレブリャコーフ「さしずめおまえなんか、いちばんわたしを見るのがいやな組だろうよ。・・・じきにおまえたちみんなに、厄介払いをさせてやるからな。・・・」

エレーナ『あたし、病気になってしまう。・・・ごしょうだから、何もおっしゃらないで。』

セレブリャコーフ「おまえの言うことを聞いていると、まるでわたしのせいでみんな病気になって、退屈して、せっかくの若い盛りを蝕まれているのに、このわたしだけが生活を楽しんで、何不足なく暮らしているように聞こえるね。うん、まあ、そんなこったろうね!」

エレーナ『何もおっしゃらないでよ!まるで責め殺されるみたいだわ!』

セレブリャコーフ「どうせそうだよ、みんなわたしに責め殺されるのさ。」

エレーナ『ああ!たまらない!だから、このわたしにどうしろっておっしゃるの?』

セレブリャコーフ「別にどうとも。」

★ちなみに翻訳は神西清氏の訳から取っております。
R.10/12/27