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カテゴリー ダメダメ家庭出身者の活躍分野
配信日 09年9月2日
タイトル 情報の運び屋
ダメダメ家庭の人間は当事者意識がない。
自分自身で何か達成したいものがあるわけではない。

そんな人間は、当然のこととして自信がない。自分で達成ないので、自分の存在価値について自信がない。
だから、人の役に立つことをして、手っ取り早く自分の存在価値を得ようとすることになる。

このメールマガジンで頻繁に言及しておりますボランティアの連中なんて、その典型でしょ?自分自身の価値を自分で生み出すことから逃避して、他人を助けることで、自分の価値を得ようとしている。しかし、それって、典型的な共依存状態。助ける相手方がダメダメに安住するばかりではなく、当人のダメダメも確定していくだけ。
バルザックの「谷間のゆり」で出てきた表現を使うと、「介護している側の方が重症であって、当人たちはそれに気が付いていない。」状態。ちなみにこの重症は心理的な意味です。それだけ自分自身の価値を他者に依存してしまっている。

まあ、ボランティアは、金とヒマがないとできるものじゃない。
だから、手っ取り早く『人の役に立ちたい』と思っている人は、情報の運び屋になったりするんですね。

「あそこに、こんな話があった・・・」
「ここに行くと、こんなことができる。」
「このことについては、あの人がこんなことを言っている。」

そのような細々とした情報を、得意気に披露したりすることになる。
最近では、その手の人にとっては、インターネットの掲示板が格好の活躍場所になっているようです。
様々な情報を、「アナタに教えてアゲル」なんてスタイルで書き込んでいる例もありますよね?

書き込んでいる当人としては、「人の役に立っているボクって、なんていい人なんだ!」と自画自賛の境地なんでしょうが・・・
その手の人は、自分自身に自信がないので、まさに情報の運び屋に徹していて、自分自身の見解や判断がほとんどないもの。
「自分自身のケースでは、このように役に立ったのだから、アナタのような状況でも、役に立つのでは?」
なんてスタイルだったら、それなりに自分の思考も反映されていると言えるでしょう。しかし、自分自身から逃避しているので、そのような自分自身の判断がない。
「あそこにアレがあった・・・」
「ここに、コレがあった・・・」
そんな「情報」を羅列するばかり。

そんな情報を見せられると、思ってしまうのが、やっぱりお約束のコレ。
『で、アンタは、いったい何が言いたいの?』『何がしたいの?』『何が楽しいの?』

情報を運んで来てくれること自体は、ある意味、ありがたい行為と言えるでしょう。
しかし、そんな行為に尊厳なんてないでしょ?
尊厳のない人からの情報なんて、逆にいうと、その程度の価値しかないもの。
だって、その程度の人が、喜んでいるレヴェルの情報ということでしょ?
パシリに安住している人間は、結局のところ、そのように扱われるだけなんですね。

その情報も、「当人自身が判断するに当たって、どのように役に立ったのか?」と、その人の判断が見えるようなものなら、その情報も意味があるでしょう。
しかし、単なる情報だけだと、わざわざ「教えてあげる。」なんて上から目線で提供するものではないでしょ?

自分の存在価値なんて、手っ取り早く手に入れることなんてできませんよ。
自分自身のやりたいことを自覚して、その達成のために努力する・・・それが存在価値でしょ?しかし、ダメダメ人間は、自分でやりたいことがそもそもない。そんな自分自身を見つめるのが怖い。だから人の役に立つ自分という役割を作り出し、自分から逃避してしまう。

そうして、ボランティアをやったり、他人が生み出した情報を、アチコチに運んで人の役に立とうとする。
しかし、自分自身の判断がないんだから、当然のこととして、ボランティアの相手先なり、情報の提供先にも、形式的なサポートになってしまう。それに、そんなことで満足しているような人は、情報を運ぶことはできても、新しい情報を生み出すことはできないでしょ?

それに自身の判断から逃避しているので、「相手がどんな人なのか?」「どんな情報をほしがっているのか?」そんな判断もできない。前回書いた表現を使うと、対象についても、伝達する情報についてもスパム化されてしまっていて、まさにばらまき状態。
だから、相手が既に知っているような情報を持って行ってしまって、バカにされたりするもの。そんな事例については、以前にこのメールマガジンで配信したことがあります。
せめて、自分自身が役に立った情報なら、相手が既に知っていることでも、また言及することもありでしょう。しかし、自分とはまったく関係ないような情報を、わざわざ教えようとして、相手方から『そんなことは・・・とっくの昔に知っているよ!』『アンタは、いったい何がしたいの?』なんて表情を浮かべられてしまう・・・そんなシーンを実際に見たことがある人もいるのでは?
あるいは、他人の文章を紹介する際にも、紹介している人自身は、「こんな情報は、初めて知ったよ!どうだい?スゴイだろう?」と思ったような情報でも、紹介を受ける側が、『そんなことは、誰もが大昔から知っているよ!何をいまさら?』なんて状態になったりする。

何回も書きますが、自分自身がどうしても相手にわかってほしいことなら、それが結果的に相手が既に知っている情報でも、伝えようとすることも不自然ではないでしょう。
しかし、自分から逃避しているダメダメ人間は、自分にとって無意味な情報だからこそ、誰かに伝えようとすることになる。
無意味であり、だからこそ、いざとなったらスグに逃げ出せる、自分にとっても傷つかない情報ばかり。いわばトカゲの尻尾だからこそ、安心して、他者に提供できるわけ。

情報を運んで右往左往して喜んでいる人間って、本人は『ボクは役に立っている人間だ!』と思っているんでしょうが、周囲のみんなは、そんな人を白い目で見ているものでしょ?

以前に、アニメ作品を動画サイトに不正にアップロードした人がいて、「感謝されたかったから。」と答えていたようです。そんなにそのアニメ作品を気に入っているのなら、そのDVDを購入して無償で配ればいいじゃないの?そうすれば、まさにみんなから感謝されますよ。
しかし、そんな自分の身を削るようなことはしない。
そんな人は、自分が痛まない場所から、善意を施して、いい気になっているだけ。

そんな人は、「これだけは、どうしてもわかってほしい!」なんて気持ちを持って、アップロードしたわけではないでしょ?
自分にとって、重要ではないものこそ、安心できる。
いざとなったら、「だって、自分はただ、伝えただけだから・・・自分としてはそう思っているわけではないよ!」と逃げを打ちたい。

そんな人が提供する話は、役に立つ情報ということ以前に、人伝えの話ばかり。
他人の話だから、何かトラブルがあっても、「ワタシは悪くない!」と言える。
逆に言うと、そんな弁解を事前に用意しておきたい。自分の目で見て、自分の頭で考え、自分の言葉で表現することから逃避している。

自身の考えではないので、「伝えたい」という気持が、ますます希薄になってしまう。
だから、「どうやって、伝えるのか?」という発想がなくなってしまう。
いざとなったらトンズラできる、言い訳できるネタしか関われない。
だから、しょーもないウワサが大好き。

ウワサといっても芸能人の話とかスポーツの話くらいならともかく、ダメダメな親は、周囲の人の悪口が多かったりするもの。
子供の前で知っている人の悪口を平気で言って、それを聞いていた子供が、親の悪口のネタにならないように、常に気を使う。

子供が気を使っているから、ちょっと見には、「いい家庭」になってしまう。
もっと深刻になると「絵に描いたようなすばらしい家庭」になる。
だから、すばらしい家庭を実現したと確信したダメダメな親は、周囲の人に説教したりするもの。まさに「いい家庭を作る情報」を提供するわけ。そんな親の姿を見て、子供もますます切羽詰ってしまう。
そんな家庭は、結局はトラブルになってしまう。そんなシーンは現実のダメダメでお約束だし、テレビなどのドラマでもお約束のシーンでしょ?

平時において、うわさ好きの人は、トラブル発生時においては、何も対応できない。
誰かを犯人認定して、恨むだけ。逆に言うと、普段からウワサ好きなので、「あら探し」大得意。何かトラブルがあると、自慢のあら探しコレクションから、都合のいい「犯人」を取り出してきて、「あの○○のせいで!まあ!アタシって、なんてかわいそうなの?」と嘆くことになる。

うわさ好きの人間の周囲の人間も、同類のうわさ好き人間だけ。
だから、同じようにあら探しが大好き。
ちょっとでも都合が悪くなると、目先のものを犯人認定して本質的な解決を志向しない。

気分転換として、多少のウワサを楽しむくらいならともかく、ダメダメ人間は、自己逃避とあら探しのために、ウワサに逃げ込むわけ。
気分転換なら、逆にいうと、自分とはかけ離れた芸能界のウワサでもしていればいいだけ。
しかし、自己逃避のウワサなので、自分とは「ちょっと離れた」ご近所のうわさが多くなる。

そして、そんな人は流行りものに飛びつくことになる。
たとえば、名前なども、流行だけで決めてしまう。
自分の子供の名前に「萌」なんて字を、つけている親がいますよね?
まあ、流行だからとか、かわいいからとか、それこそ、な〜んとなく、とか・・・
しかし、その名前って、親としての希望なり考えを反映させた名前なの?
というか、「萌」なんて字に、そもそもどんな意味があるの?あるいは、どんな意味で使われているの?

名前というものは、子供本人が変えることは出来ませんよね?それこそ100年に渡って使っていくもの。だから、そんな長期的なスパンで物事を考える必要があるでしょ?「今流行だから・・・」って、じゃあ、10年後はどうなるの?

服装などの流行だったら、流行遅れの服などは、捨てればいい話。しかし、名前は流行遅れになっても、捨てられませんよ。単に流行遅れというだけならともかく、そんな名前の子供は、「流行に飛びつく軽薄な親によって育てられた。」という目で周囲から見られるわけでしょ?トクなことはありませんよ。

あるいは、ペットなどでも流行って、ありますよね?
一時は、テレビ・コマーシャルの影響なのか、犬のチワワが人気でした。まあ、テレビを見ていて「かわいい!」なんて思う・・・それはあるでしょう。「自分も飼ってみたい!」そう思うこともありますよね?
しかし、実際飼うとなると、「かわいい!」という一時的な感情だけでは、うまく行かない。

相手はそれなりの感情を持ち、命を持った生き物なんですからね。飼い主の人間の都合だけでは、動いてくれませんよ。「かわいい!」という感情から出発するにせよ、どこかで、先々を見据えた判断が必要になるわけでしょ?

もちろん、萌という字や、チワワを飼っている人がダメダメというわけではありませんよ。先々を見据えた判断の後に、そのようなことをしている・・・そんな人も多いでしょう。最初の動機はともかく、後でじっくり判断して、責任を持って最後まで飼えばいい話。
しかし、「かわいい!」とか「流行だから!」という理由だけで深く考えずに犬を飼いだした人も、現実に、いるでしょ?

「いかにも、今流行」というものを、持っている人は、危ない可能性があるわけ。服やアクセサリーならともかく、命にかかわるものだったらねぇ・・・
しかし、ダメダメ家庭の人間にしてみれば、子供だって、アクセサリーの一種と思っている。

そんな人は、結局は、自分で考えることはしない人。だから、ますます周囲に合わせてしまう。流行って、別の言い方をすると、周囲に合わせることでしょ?
自分の考えが、たまたま流行と一致したのか?
それとも、流行に合わせることに汲々としているのか?

流行りものに飛びつく人って、結構ダメダメの可能性が高いものなんですね。
自分で考えたくないが故に、流行りものに飛びついている場合も多いわけ。
それこそ、以前に学校で履修する外国語で韓国語が人気があるとかの報道がありましたが、韓国語は勉強してもしょうがないでしょ?だって韓国語の文献なんて存在しませんよ。
その筋では必要なのかもしれませんが。
そんなことはちょっと自分で考えれば誰でもわかることでしょ?
まさに「人に合わせてばかり」で、周囲の人から空気を読まないと言われるのが怖い。
そんな自己逃避の精神だったら、結局は、あら探しで犯人認定に明け暮れるだけ。

ダメダメ人間は、常に逃げ場を意識している。だから他人の問題をストックしておいて、「アイツのせいで・・・」と逃げを打ちたいわけ。
自己逃避で抑圧的で、自分の見解がない。
ヘタに表明して、突っ込まれるのが怖い、親に迷惑がかかるのが怖い。

当人はそれで満足なんでしょうが、そんな人の相手をしてくれるのは結局は同類だけ。
そしてそんな人ができるのは子作りだけ。
そんなものでしょ?

自分にとって、重要ではない情報を提供したところで、尊厳には繋がらない。提供する情報の程度によって、その人の程度も見えてくるもの。
権威主義の人は、権威者からのご高説を問答無用で連呼するだけだし、周囲に合わせているだけの人は、周囲のものを「てきとう」に運んでいるだけ。
相手に情報を提供するんだったら、それこそ「受け取りなさい。これはワタシの血である。受け取りなさい。これはワタシの肉である。」それくらいの覚悟で提供しないとね。

(終了)
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発信後記

いつも書いていますが、ダメダメというのは、心理的な問題であって、様々な領域で同じような事態がみられるもの。
先の選挙で自民党が大敗いたしましたが、次の国会での首班指名で誰を指名するのかでモメていますよね?

時間的な制約があるから、このまま麻生さんの名前を書こう・・・
それが執行部の方針のようです。
それに対し、今回の選挙の敗北のA級戦犯であり、国民から信任を得られていない麻生さんの名前は死んでも書けない。あるいは、首班指名は国会議員にとって、重要なことだから、とりあえずの流れでの麻生さんではなく、早急に次の総裁を決めよう!そんな意見もあるようです。

自民党は多くが落選したのだから、まあ、麻生さんに対しては感情的にいい気持ちはしないでしょう。死んでも麻生の名前は書きたくないという感情自体は、しょうがない。
あるいは、首班指名までに次の総裁を正式に決めよう!それが国会議員の責務だ!
という意見は、一見は、正論に見えるもの。

しかし、時間的な問題は、どうしようもないでしょ?
次の首班指名で麻生さんの名前を書くことは、国会議員の責務に反している・・・と思うのなら、そもそもそんな麻生さんをどうして1年前に選んだの?
そして、2年前には福田さんを選び、3年前には安倍さんを選んだの?
過去の問題を考えることなく、スグに次の総裁を選んだら、同じことの繰り返しですよ。

しかし、ダメダメ人間は、「アイツのせいで、うまくいかない!」と何かを犯人認定して、そしてつるし上げなどをやって、犯人確定の儀式をして、そして、現状から目をそらすために、目をそらすことが上手な軽い人間を次にも選んでしまうもの。過去を振り返ることから逃避してしまうわけ。

このようなことは何も政治の話だけではなく、それこそドメスティック・ヴァイオレンスの「被害者」の女性などにも典型的に見られるものです。
前の「選択ミス」をじっくり反省すればいいわけですが、それをしたくないがゆえに、スグに次の伴侶とくっついてしまって、また同じような事態になってしまう。
そうして毎度毎度「アイツのせいで・・・ワタシたちは困ったことに!ああ!ワタシたちってなんてかわいそうなの?!」と嘆くだけ。

自分の選択ミスを棚に上げ、「ワタシはなんてかわいそうなの!こんな事態に追い込んだアイツをやっつけろ!」このようなことは、それこそ韓国の政治だといつもやっていることでしょ?
自民党も、いったいどこの国の政党なんだか?

麻生さんの名前を書くのがイヤなら、白票でもいいでしょうし、開き直って、民主党の鳩山さんの名前でもいいのでは?ゼロからの出発とすると、それくらいのことをしないとダメでしょう。いずれにせよ、一致した投票行動が取れないとマズイでしょうね。
中途半端に次の総裁を選んだら、また同じことを繰り返すだけ。
そんな光景は、ダメダメの領域では、実に頻繁に見られるものなんですよ。
R.10/12/27