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カテゴリー 形への依存
配信日 09年9月7日
タイトル 肩書きオンリー
かなり以前になりますが、警視庁の警部補が万引き事件を起こしました。なんでも夜のスーパーマケットでやってしまったらしい。
その手の不祥事に、いまさら、考察をしても意味はない。
むしろ、興味深かったのは、犯人である警部補の事件の後でのコメントです。
何でも「人がいなかったから・・・万引きしてしまった・・・」とのこと。
この「釈明」のコメントは、公務員に典型的なコメントなんですね。

公務員がチョンボをして、見つかったりすると、まるでテンプレートがあるように、必ずと言っていいほど、「○○だから・・・△△してしまった・・・」と釈明するものです。
今まで気がついていなかった方々は、今後は注意してみてくださいな。
実に面白いですよ。

人間は誰だってチョンボもあるでしょうし、魔が差すこともあるでしょう。すべての人が聖人君子というわけには行かない。釈明を迫られる時だって、やっぱりありますよね?
その時に、どんな弁明をするのか?
その弁明の言葉によって、普段の当事者意識なり、被害者意識が見えてくるものです。

じゃあ「○○だから・・・△△してしまった・・・」というのは、心理的には、どのような意味なの?それこそ「人がいなかったから、万引きしてしまった・・・」と言うことは、またお店に人が少ない状態が発生したら、また万引きするの?
その弁明の言葉って、そういう意味でしょ?

しかし、その弁明の言葉の意味は、もう少し違った意味があるわけです。「オレ以外のオマエたちも、人が少なかったら、万引きするだろう?」そして「人が少ないお店に入ってしまったオレは、万引きすることになってしまった、かわいそうな被害者なんだ!」「万引きしたことは、おれの被害なんだ!」

彼としては、そのようなことを言っているわけです。
「何をバカなことを?!」なんて思われるのは当然のことでしょう。しかし、この手の公務員の不祥事での弁明のコメントをよく考えると、往々にして「自分こそが被害者なんだ!」と言う感情が見られたりするもの。

何もニュースで見られたりする時ばかりではありません。その手の公務員とやり取りして、そんな弁明をされて不快に思ったことがある方もいらっしゃるのでは?
素直に自分の非を認めればまだしも、「だってぇ・・・○○なんだもん!」・・・じゃあね・・・
そんな言葉を、40歳過ぎの人間から言われて思っちゃうのは、
「このオッサンの、親の顔が見てみたい!」

ダメダメ家庭というものは、会話不全の家庭です。だから、そんな家庭で育った子供も会話の能力が付きにくい。だから会話が不要な職業に就きたがる。
それに、ダメダメ家庭というものは、権威主義。会話の能力がなく、命令と服従のコミュニケーションしかないので、権威に頼らないといけない。
おまけに、ダメダメ家庭は当事者意識がない。自分が本当にしたいことが自分でも分かっていない、というか、実際にはそんなものは持っていない。そんな人は、リスクを取ってまで何かをやりたいなんて思っていない。だから極端にリスクを回避するようになる。
加点法的に物事を考えるのではなく、減点法的に考える。

そんな人が、公務員を目指すのは当然でしょ?
公務員あるいは、それに類するNTTとか郵便局とか、学校の教員とか・・・この手の職業って、ダメダメ家庭出身者のメッカの状態。
実際に、イラクでつかまったバカなボランティアたちの親って、そんな類だったでしょ?
あるいは、それこそ教員の家庭の出身者で、会話が自然にできず、周囲にオドオドしたり、あるいは途端に強圧的になったりして、周囲の人から呆れられたり、突拍子もない行動をしてしまって、「アイツは空気が読めない!」なんて言われたりする・・・そんな人を皆さんも実際にご存じなのでは?

そのような会話不全で当事者意識のない人間と結婚する女性も、基本的に同類と言えます。だからダメダメ家庭出身の男女が、「て・き・と・う」で、結婚することになる。公務員の家庭では、そんな事例が結構あったりするんですね。「自分で物事を考えたくない」当事者意識が欠如した女性にとって、公務員の男性ほどターゲットとしてふさわしいものはないでしょ?だからどうしても、そんなダメダメなカップルが誕生してしまう。

ちなみに、ここで公務員と書いていますが、これは一般の窓口公務員のことです。
まあ、いわゆるキャリア官僚は別です。
キャリア官僚の不祥事があっても、そんな不祥事を起こした官僚の弁明の言葉って、「○○だから・・・△△してしまった・・・」なんてチンケな言葉はあまり出てこない。
むしろ「○○しかたったから・・・△△してしまった・・・・」そんな感じになります。

今後注意して聞いてみてくださいな。
「○○したかったから・・・」という弁明から、その不祥事をした官僚には、曲がりなりにも当事者意識があることが分かりますよね?ありがたくない当事者意識ですが・・・

何も上級職試験を合格しなければ、ダメなんて申し上げてはいませんヨ。当事者意識がないとダメと申し上げているだけです。
キャリア官僚は、成果を出しやすい。「このような現状認識や問題意識を元に、このような企画をたて、政治家や関係各省と折衝しながら、予算措置を講じ、法律を通した・・・」なんて、まさに「成果」でしょ?その法律が本当に、国民に役に立ったのか?それはまた別問題でしょう。しかし、仕事の成果としては、非常に分かりやすい成果ですよね?成果が分かりやすいので、当事者意識を持って仕事をすることも容易となる。霞ヶ関の官僚は、自分の考えを相手に分かりやすく伝え、相手の意向を聞く、そんな会話の能力が必要であり、それは家庭を維持するにも必要なこと。そして、仕事の遂行に当たっては、その人なりの判断も必要になってくる。もちろん、その能力を自分の家庭に対して実際に使うかどうかはまた別問題。
ただ、もともとの能力としては、持っていると言えます。

ところが、一般の窓口公務員は、その手の「成果」が分かりにくい。だから、逆に難しい面もある。自分の仕事の成果が分かりにくいので、常に減点法の思考になる。だから自己弁護の習慣が付いてしまう。だからスグに、「○○だったから・・・△△してしまった・・・」となる。
一般の窓口公務員でも、「地域住民の笑顔・・・それがワタシのやりがいですっ!」なんて堂々と言えればいいわけでしょ?
その意識を常に持ち続けていれば、立派な人と言えますよ。

それこそ、父親が公務員という家庭の子供と、自分の子供が結婚という段になったら、そんな点について、ちょっとチェックしてみるのも有効といえるでしょう。
「あなたの公務員生活での成果は?」「やりがいを感じたことは?」「うれしかったことは?」
そんな質問に対して、考え込むようだったら、気をつけないとマズイといえます。

会話が不在の家庭の子供は、自分の存在価値を安直に見つけようと、ボランティアとか自分探しの旅とかの方法を取ったりするもの。それだけ、その出身家庭が居場所としての機能を果たしていないわけです。そんな人と結婚したら、居場所として機能しない家庭を作ってしまうのも当然でしょ?

ダメダメな公務員当人の問題だけでなく、そんな人と結婚してしまう側の問題もあります。相手が公務員だったら、結婚相手として人格はどうでもいいと思っている人も、現実にいますよね?そんな親に育てられたら、ダメダメな子供である可能性が高いでしょ?それこそイラクで捕まったボランティアの連中のようなもの。

あるいは権威主義的な発想なり序列意識を持っている場合も多い。
そんな親に育てられたら、子供もダメダメの可能性が高いでしょ?
使命感なりその仕事が好きで、その職業に就くケースもあるわけですが、自分の会話の能力の低さゆえに、問答無用でことが済むので、そんな職業に就いた人をご存じの方もいらっしゃるのでは?あるいは、たとえ、当人自身が使命感でその職業についても、周囲の人間が会話不全なので、当人も結局は会話不全になってしまうこともある。学校の教員って、歳を取るごとにダメになっていく人も多いでしょ?

あるいは、ちょっと思想的に偏った返答をされても・・・
思想信条は色々とあるでしょうが、あまり極端だったら、その極端な思想が登場してくる背景をちゃんと認識していないと、別の面が出て来るケースもあるでしょ?
それこそ、「組合活動を一生懸命!」も、一般論としてはいいわけですが、それって、その人の強い対抗心の証明でしょ?そのような対抗心の背景として強い被害者意識があったりするもの。そんな被害者意識がある人は、他者を犯人認定したりする・・・そのことはこのメールマガジンで頻繁に書いています。その犯人認定がいつ自分の側に向かってくるのか、分かったもんじゃない。
そんな人とは、付き合うにせよ、距離を置いた形の方がいいわけです。

ちなみに、20世紀の最大の有名人であるアドルフ・ヒトラーの父親は地方公務員でした。
今まで言及した会話の不在や序列主義や権威主義、そして「悪くはない」という弁解を求める心理・・・そんな姿をよく見ていたと言えます。ヒトラーは、心理的に抑圧されている人間のツボが分かっている人なんですね。

心理的抑圧から来る肩書き志向は、公務員のような領域では、実に頻繁に見られるもの。
自分自身でやりたいこと、伝えたいものがない人間は、人を評価判断するのに、レッテルにすがってしまうことになる。
人だけでなく、そんな姿勢で芸術作品を評価することになる。

よく映画などで、「○○映画祭のグランプリ」とかで、賞を取ったとか取れなかったとかで、ニュースになったりしますよね?
しかし、本当に重要なのは、その作品のテーマでしょ?そして、そのテーマをどのように作品としてまとめ上げて、表現力があるのか?その点が最重要でしょ?
受賞したとかしないとか・・・そんなことばかり言っているということは、肝心なこと、つまり作品の中身について何も分からないと自分で言っているようなもの。
結果的に分からないくらいならともかく、そもそも内容を分かろうともしない場合はもっと厄介になる。だって、それだけ、作り手の意図を受け取ろうとする発想自体を持っていないということになるでしょ?そんな人が人と会話ができるわけがないでしょ?とは言え、そんなパターンが実際に発生している・・・それがダメダメな領域。

そもそも、芸術作品において、一般大衆がどう評価するかは、重要ではありませんよ。ただ、受賞によって、次回作を作ることができるのは、プラグマティックな観点から見て大きなメリットと言えます。
しかし、作品の力は、受賞するかしないか「だけの」問題ではありません。
肩書きとか受賞歴は、中身がわからない一般人に向けたもの。
たしかに一般人にしてみれば、肩書きとか称号の方が重要でしょう。

それこそ、フランスの詩人でヴェルネーヌという人がいましたが、ヴェルネーヌ研究家の称号があれば、一般人から絶賛され、政府から勲章をもらったりする。しかし、ヴェルネーヌ本人は刑務所行き。ヴェルレーヌ本人と言っても、本人という称号はありませんからね。現実社会においては、「ヴェルレーヌ研究家」は権威者と呼ばれ、ヴェルレーヌ本人はまったく相手にされない。
「どっちが幸福か?」の問題はあるでしょうが、「ヴェルレーヌ本人とヴェルレーヌ研究家のどっちが創造的なのか?」その点は言うまでもないことでしょ?
称号や肩書きはあくまで一般人に向けたものであって、作品の成果とは直接には関係ないわけです。

学校時代に優秀だった人が創造的な活動をするというものではないもの。むしろ、既存のものに不満なり違和感があるからこそ、新しい創造的なものができることになる。文学青年が、そのまま創作者になった例は、それほどないでしょ?
あるいは、宗教の分野でも、宗教学校を優秀な成績で卒業しても、優秀な宗教官僚にはなれるでしょうが、アッシジの聖フランチェスコのレヴェルにはなれないでしょ?
自分の苦悩を真摯にみつめることから、神に目覚めることになる・・・それが偉大な宗教家というものでは?

芸術作品を理解できないくらいなら、笑って済む話ですが、あまりに肩書きや称号に頼る発想は、その人の当事者意識の欠如や、会話の能力の欠如、そして心理的な抑圧を示しているもの。
能力の欠如ならともかく、意欲の欠如は、トラブルに繋がっていくことになる。

抑圧的な人間は、自分で考えることから逃避している。
やり取りにおいても、最初に評価を規定してしまって、最後の段階では何も評価しない。最後を締めるという発想がない。トルストイが描写するアンナ・カレーニナのように、見たくない、聞きたくないと思っている。
肩書きで判断できてしまえば、それ以上は、見なくても聞かなくてもいいわけでしょ?

肩書きで判断するダメダメ人間が、もっともありがたがる肩書きが「親」という肩書きと言えます。
親子関係を絶対視し、親の肩書きがあれば、どんな行動でも、それすなわち、子供への愛情の発露だと認定してしまう。そして「子供を愛さない親はいない!」と二重否定の一般論を連呼する。そんな発想は、自分自身の親子関係を考えることからの逃避なんですね。
それだけ、自分の親子関係を「見たくない」「考えたくない」と思っているわけ。

見ることや聞くことから逃避するそんな態度は、往々にして被害者意識とつながっており、そんな人の近くにいると、ヘタをすれば犯人という肩書きを付けられてしまう・・・そうして、「報復」をされてしまう・・・そんな危険があるものなんですよ。

(終了)
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発信後記

今週は、ダメダメ家庭の人間が、人を評価し、判断するにあたって、その人の努力とか行動とか人間性とは別のものに頼ってしまうということについての文章を、集中的に配信いたします。

抑圧的な人は、肩書きが、その人とは無縁であるほど、その肩書きをありがたがるもの。それこそ宗教改革のルターのように「神は我々の正義と知恵によってではなく、・・・・我々から出てくるのでもなく・・・・我々のうちに潜むものでもなく、どこか外から我々にやってくる正義によって、神は我々を救おうとし給う。・・・言い換えれば、正義はもっぱら外部からやってくるものであり、我々とはまったく縁がないということが、教えられなければならない。」という考えとも近い。

ちなみに、現在、自民党の総裁という肩書きでモメていますが・・・
どの名前を書くのかなんて、野党なんだから現実的にはどうでもいい話。たぶん・・・自民党の支持者でも、「何をアホなことをモメているの?」と呆れているのでは?

しかし、前にも書きましたが、ダメダメ人間が持っている「犯人認定」の心理、そして、じっくり物事を考えることを恐怖する心理があると、あのようなことでモメてしまうわけ。
そんな人たちは、形式論の議論は色々やっても、中身のある議論はしないもの。というか、それが心理的に怖いんですね。
R.11/2/13