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カテゴリー | ダメダメ家庭が持っている発想 | |
配信日 | 09年9月9日 | |
タイトル | 烙印 | |
以前(08年)に、エーリッヒ・フロムの著作である「自由からの逃走」を集中的に取り上げました。 かなり時間的に離れていますが、今回の文章は、その番外編的なものとお考えください。 「自由からの逃走」において、フロムは、人間の罪に対する見方が、カトリックとプロテスタントでは、大きく違う・・・そのような点について触れております。 カトリックでは、罪と言うものを、人間の「弱さ」と認識し、 プロテスタントにおいては、罪というものを、ある種の「烙印」とみなしている。 フロムは、そんな違いを指摘しております。 カトリックにおいては、ある種の「生成感」を持っています。 別の言い方をすると、過程という感覚です。あの悪名高い免罪符だって、現世での人間の罪を、現世で償うことができる・・・つまり、現世も人間の活動の重要な「過程」の一つである・・・そんな認識とつながっているわけです。 別の言い方をすると、それだけ、現世というものを肯定的に見ているわけです。 しかし、プロテスタントではそうではない。 まさにカルヴァンが言うように、「人間の救済は、現世における人間行動とは無縁である。」と考えることになってしまう。完全に現世否定的なんですね。 ルターにより、現世の尊厳が否定されたがゆえに、現世は過程ではなく、単なる結果になってしまったわけです。 結果だから、まさに烙印だからこそ、悪い評価を必死で回避する必要がある。 まさに「ワタシは悪くない!!」と叫ぶことに。 良くも悪くも、カトリックだったら、罪を犯しても、後になって、ある種のリカヴァリが可能となる。それこそ免罪符を買えばいいだけ。 しかし、プロテスタントだったら、リカヴァリができないことになる。 逆に言うと、リカヴァリができないがゆえに、何もしなくていいことになり、つまり何も考えなくてもいいので、抑圧的な人間にしてみれば、精神的にラクと言える。 精神的にラクではあっても、いったん罪が見出されれば、リカヴァリができないわけだから、罪を認めることは、自分自身の救済の可能性を否定することにつながってしまう。だから、まず持って「認識すること自体」に恐怖を持つことになる。 過程という感覚を持っていれば、不都合なことがあっても、それを人間の弱さと捉え、それを改善すればいいだけ。 しかし、現世を否定し、人間の無力感を強調しているがゆえに、自分に起こったトラブルは神からの烙印となり、対処不能となる。だから烙印を押されないように、烙印を見ないように、過剰に、強迫的に対処することになる。だから、その手の人たちは、他者からの評価に対して、非常に敏感になってしまう。他者から烙印を押されないように、自分の内なる烙印を指摘されないように必死なんですね。 現世否定で、自分で対処することができないがゆえに、自分自身の価値は、自分が生まれる前から成立していたものだけになってしまう。マイナス面は烙印となってしまうわけですが、プラス面だけに着目すると、たとえばある種の選民思想に向かいやすい。「自由からの逃走」においては、ナチスとプロテスタントとの心理的な共通性を明らかにするのが主眼ですが、抑圧的な人間にとっては、選民思想は心休まるものと言える。だってそこには個人の努力の必要性が存在しないわけですからね。現世否定的であるがゆえに、個人の努力には意味も価値もなく、集団化されて選民思想になってしまう。あるいは、同じような感覚だと、家柄重視の発想になる。生まれる前から決まっていたものだけを重視するんだから、そうなってしまいますよ。だから、政治家も世襲が増えてしまう。世襲だと、選挙民も考えなくていいでしょ?抑圧的な人間にしてみれば、精神的にラクなんですね。 何もナチのような集団ばかりではなく、抑圧的な人間は、この手の烙印のような感覚を持っているでしょ?それこそ、前世の悪行による烙印とか、祖先の悪行による烙印とか・・・その手の文言が登場してきたりするもの。 そして、自分自身の烙印からは逃避し、他者に対しては、烙印を発見しようとするもの。 まさに、ある種の「あら探し」が多くなってしまう。 こんなことだから、たとえば、身体的な障害者に対して、差別的な対応をとることになってしまう。以前に配信した文章で、ダメダメ人間は「ハンディキャップ」という考えが理解できない旨の文章を配信しておりますが、抑圧的な人間にしてみれば、身体のハンディは、まさに烙印とみなしてしまうことになる。神からの罰として、その手の障害を認識することになり、その手の差別が正当化されてしまう。ナチの身体障害者への差別は有名ですが、それはプラグマティックな観点から来ているのではなく、むしろ倫理的な観点から差別しているわけ。 あるいは、烙印とみなしているから、絶対に自分の非を絶対に認めようとしなくなる。 それこそドメスティック・ヴァイオレンスのような事態になっても「ワタシは悪くない!」と主張するだけ。トラブルを自分がこうむった被害と認識し、いわば烙印に近いものとして、ヘタをすれば神からの罰のような感覚で認識する。「そんな状態からどのように脱却していくのか?」そんな過程としての感覚がない。 そんなことだから、また同じような事態を繰り返してしまう。 欠点を、烙印とみなすわけだから、欠点の自覚は、神からの罰を認識することにつながってしまう。だから欠点の自覚から必死で逃避してしまう。 あるいは、その欠点を認めると過剰な反応となってしまう。 欠点に対する過剰な反応も、いい形として発現すると、完璧主義と言えます。 しかし、それは減点法からくる完璧主義であって、欠点が「見えない」ようにしたいだけ。 そんな人は、一個人として聖人君子であり、家庭として「絵に描いたようなすばらしい家庭」の姿にこだわる。いざ減点があったりすると、減点法のダメダメ人間には対処できない。だからパニックになってしまう。そこから必死で目を逸らそうと、他者を犯人認定してクレーマーになってしまう。 その手の完璧主義は、高い目標を掲げ、努力するのではなく、「減点がいや!現実がいや!」という否定的な精神から来るもの。生成感がなく、すべてが結果であるがゆえに、負けを認めることができずに、異常に勝ちにこだわることになる。そんな姿はまさに韓国人がいつも見せている姿でしょ?ちなみに韓国人は、名前が左右対称のシンメトリーなものが多いそうですが、そんなスタイルは、欠点を認めたくない発想と繋がっているのでは? 欠点の自覚から逃避すると言っても、もともと「完全な人間なんていない。」わけでしょ? 実際に、そのセリフが映画にありました。 アメリカのビリー・ワイルダー監督の「お熱いのがお好き」という映画です。有名なマリリン・モンローが出演している映画。 自分を殺そうと追いかけてくるギャングから身を守るために、女性に変装している男性に、プロポーズした男性がいて、「オレ・・・実は、オトコだし・・・」なんて言うと、『そんなことは気にしないよ!完全な人間なんていないんだし・・・』 そんなやり取りです。 まあ、コメディー・ドラマのオチなんだから、これは笑えば済む話。 ドラマに限らず、現実としても「完全な人間はいない」わけでしょ? 要はそれを自覚するしかないわけです。「自分の欠点はどんな点なのか?」「どんな点に注意すればいいのか?」 一般的には欠点と思われなくても、「過ぎたる」と欠点となってしまうものもありますよね?以前書きましたが、「ソツがない」なんてのも、そんなことになるケースがあります。 「ソツがなさ過ぎると」周囲の人間にしてみれば、自分がバカに見えてしまって、いたたまれない心情を持ってしまう。 そんなケースだと、周囲に配慮するために「ソツのない人」としては、意識的にバカをやったりしなくてはならない。「ソツなく」バカをやる・・・なんて不条理な話ですが、現実問題としては必要だったりするわけ。 しかし、実際のダメダメ人間の場合は、そんな「過ぎたる」能力があるがゆえに、それが欠点となる・・・なんて高尚なパターンにはならないものです。 そもそも、当事者意識がなく、会話の能力がないわけだから、社会生活を送るにあたって必要なものがないわけ。 そういう意味で、「過剰」から来る欠点ではなく、「不足」から来る欠点なんですね。 そして、「不足」から来る欠点なんだから、認識するのは難しい。このメールマガジンでよく書いていますが、自己逃避人間は、自分が自己逃避であるという認識自体から逃避する。 それに、被害者意識が強いダメダメ人間は、自分の欠点を自覚しても、それを自分が被った被害と認識し、「だって・・・○○のせいで、こうなったんだ!」、そして「ワタシは悪くない!」と弁解を始めるだけ。そんな弁解なんてしなくても、指摘された欠点を自覚して、今後修正していけば済む話なんですが、過程という感覚がなく、烙印と捉えているわけだから、そんなことはしない。ただ弁解に明け暮れるだけ。欠点を烙印として認識しやすいので、結局はそれを、被害ということにしてしまう。「被害だから → 烙印じゃないんだ!」そんなロジックに持っていくことになる。 本来は、欠点を自覚すれば、それをどうやって直していくのか?あるいは補うか?そのような問題を自分で考えればいいわけでしょ? 「欠点だから → 直していこう!」でいいじゃないの? たとえば、「ワタシは優柔不断だなぁ・・・どうも、自分一人では決められない!」なんて自覚していれば、結婚する際には、決断力のある人と結婚すればいいわけじゃないの? 夫婦で補っていけば、当人が優柔不断でも、まあ、それほど大きな問題にはらないでしょ? しかし、ダメダメ人間は、自分から逃避している。だから、自分自身の欠点なんて、そもそもが知らないし、見ようとしない。優柔不断な人間が、短期的に居心地のいい相手となると、やっぱり優柔不断な人。だって、一緒になって「あーでもない!こーでもない!」で言っていればいいだけでしょ?お互いに精神的なストレスなんて掛からない。 しかし、短期的にはいいでしょうが、長期的には、トラブルになるだけでしょ?だって問題解決能力がないわけですからね。問題なんて放置すればどんどんと大きくなるだけですよ。 現実のダメダメって、似たダメダメを持ったもの同士で結びついていますよね? 優柔不断なもの同士、被害者意識が強いもの同士。 これは夫婦のような結びつきだけでなく、宗教団体やボランティア団体のようなケースでも状況は同じでしょ? 確たる目標などがないから、短期的な居心地のよさだけで、パートナーを選んでしまう。短期的な居心地の良さって、実際的には共通の欠点を持つもの同士の間柄。 だから、結局は修羅場になってしまう。 自分の短気を自覚している人なら、根気のある人とくっついたほうがいいわけですし、会話の能力が低いと自覚しているのなら、無理をしても話し上手な人とくっついた方がいいわけ。人を見る目がないと自覚していれば、人を見る目のある経験豊富な人間とくっついた方がいいわけでしょ? そのためには、自分の欠点を自覚していないとね。 しかし、特にダメダメ家庭では、つまり、ダメダメな点が多い人ほど、自分の欠点を指摘されると怒ってしまう。 マトモな人は、自分の欠点を指摘されても、「なるほど!今後気をつけるよ!」で、自分の将来につなげていくわけですが、ダメダメ人間はそうは行かない。 『アナタも、こんな点を直した方がいいんじゃないの?』なんて指摘に、「だってぇ!だってぇ!キーっ!」と逆上するばかり。欠点を烙印と捉えているので、どうしてもそうなってしまう。 自分の欠点と向き合えないのは、欠点を烙印と捉えていることばかりではありません。ダメダメ家庭の人間の憲法の一つとして「親に迷惑をかけるな!」ということがあります。何と言っても、ダメダメな親は、子育てだって、親である自分が被った被害と捉えているわけ。だから子供に対し「親に迷惑を掛けるな!」と厳命し続けることになる。 そのような場合だと、「自分の欠点を認める」という行為すら、親に迷惑を掛けるということにつながってしまう・・・そのような恐怖もあるんですね。 その恐怖が発動した時点で、マトモな思考は吹っ飛んでしまうもの。だから逆上するしかない。そして『アナタはこんな点を直した方がいいのでは?』なんて言葉には逆上し、「アナタは全然悪くは無いわ!」なんて言葉を掛けてくれる側に吸い寄せられてしまう。 ダメダメな人間ほど、その傾向が強いわけ。だから、ますますダメダメが進行してしまう。 それに、ダメダメ家庭の人間は、自分に自信がない。そもそも当事者意識がないので、自分で達成したものが何もない。だから自信なんて持ちようがない。自信があれば、「アナタの欠点はこんな点だよ!」なんて話にも素直に聞けるわけですが、自信がなければ、欠点を指摘されると混乱するばかり。だって、当人には長所がないんだもん。長所がないのに、欠点だけあるって、そんな人間の価値はどうなるの? 自分で自分の長所がわかっているからこそ、短所について冷静に聞けるわけでしょ? 人から自分の欠点を指摘された、しかし、自分の長所が思いつかない・・・だからこそ、「ワタシは悪くない!」なんて言わざるを得ない。短所は認めたくないし、かと言って長所はないし・・・まさに「悪くない」状態。そんなことだから、何も達成できず、ますます自信がつかない。だからますます、欠点を受け入れられない。 初対面でいきなり「アナタの欠点は・・・」なんて言うことはできませんが、ちょっと付き合いが深まった後で、「アナタはこんなよくない点があるわね!」なんて言葉にどんな反応を示すのか?見てみると面白いですよ。 まあ、いきなり欠点を指摘するなんてことではなくて、「今後は、この点に注意してね!」なんて要請する形でもいいでしょう。 ちょっとした問題点を指摘され、どう反応したのか? マトモな人間だったら、以前に書きましたが「自分で自分を笑う。」こともできるわけですが、ダメダメ人間ほど、過剰反応するもの。 欠点を指摘され逆上することが、一番の欠点なんですね。だって、絶対に改善できないということでしょ?欠点を指摘された時に過剰反応するということは、「それ以外」にも、相当の欠点が存在するという証明と言える。 欠点に過敏な反応をする人間は、自分の弱さをみせないように必死になる。 自分の弱さを必死で隠す姿が、また弱さと見られてしまう。 それを指摘されると逆上するばかり。 何か表現する際にも、自分の強さをアピールするだけになってしまう。 そんな姿が、またみみっちい。北朝鮮って、そのパターンでしょ? あるいは、逆に、自分の弱さを見せびらかして、「ボクってこんなに人間味があるんだよ!」と言い出したりすることもある。たとえば以前に長野県の知事をなさっておられた田中さんはそのパターンでした。しかし、自分の弱さを見せびらかして喜ぶ姿は、気持悪いでしょ? 弱さなんて、無理に隠す必要もありませんが、無理に見せる必要もありませんよ。 そんな姿から、弱さや欠点との距離の取り方のぎこちなさが見えてくるわけ。 自分の欠点と上手に付き合うことができず、欠点を見ることから逃避することがスパイラル状に進行してしまう。 たとえば、妄想癖が強いダメダメ人間は、マイナス面を見ない状態で妄想の世界に逃げ込む。そして、自分は欠点が何もない人間であると確信したり、根拠のない自負心にすがることになる。 「オレって、なんて立派な人間なんだ!」 何か不都合なことが起こっても、自分は欠点がない人間なんだから、「悪いのはアイツのせいだ!」となる。となって、ますますマイナス面を見る必要がない。これってまさに韓国人の姿。 欠点を見ようとしないわけだから、自分の欠点との付き合い方がわからない。 自分に甘いダメダメ人間は、自分のネガティヴな面を許容してくれる周囲を求めるようになってしまう。 日本語がヘタな抑圧的な人は、ヘタな言葉でも受け入れてくれる環境を求めてしまう。 だから、ますます日本語がヘタのまま。日本語がヘタだったら、それを向上させていけばいいだけ。それこそ映画「マイ・フェア・レイディ」のように言葉を向上させればいいだけですよ。しかし、過程という感覚がなく、烙印という感覚なので、当人は何もしない。ただ嘆いているだけ。 被害者意識が強いので、自分に甘い。 何かあると、「だって・・・ワタシはかわいそうな被害者なのよ!」と弁解ばかり。 周囲の人間も、『そうよ!そうよ!あなたはなんてお気の毒なの?アナタは悪くないわ!』と同調。 そんなことだから、ますます自分では何も努力しない。 自分に欠点があっても、それを自分でケアーしたり、誰かと補い合う工夫をすればいいだけでしょ? 前にも書きましたが、自分自身がわかっていて、相手も見えていると、欠点を補い合う組み合わせを作ることができることになる。 ダメダメの現実では、逆に、欠点が共鳴し合う組み合わせが多いもの。お互いが、「痛い」ところを突くことがない。馴れ合い状態の組み合わせが多くなる。 だから長所が共鳴しあう組み合わせとはならない。 むしろ、長所をつぶしあう組み合わせ。 己を知らない、人を見る目がない、会話ができない、目的がない・・・そんな人間同士がくっついてしまう。夫婦でも、友人でも、市民団体でもそんな組み合わせ。 そんな状況は、キリストが言うように「盲人が盲人を道案内する」ようなもの。 自分で考え、行動する自由を放棄することによる安逸。 それは確かに精神的にラクなことこの上ないものと言えるわけですが、そんな人が実際にやっているのは、烙印を押されることからの必死の逃避だったりするもの。 そんな人って、実際に多いでしょ? (終了) *************************************************** 発信後記 自分自身の欠点との付き合い方なり、あるいは可能性との付き合い方・・・そんな点からダメダメというものが見えてくるもの。 ちなみに、次回(金曜日)は、可能性との付き合い方に関した文章です。 欠点があれば、それを修正すればいい・・・本来なそれでいいわけでしょ? しかし、自己否定の精神なので、そんなことはしないわけ。 ちなみに、選挙で大敗した麻生さんは、「安倍さんや福田さんの粗相が積み重なって、今回の大敗に繋がった・・・」とか語っていましたが、それが分かっているのなら、対処するのが組織の長というもの。何も対処せずに、後になって何を訳知りのコメントをしているの? ちなみに、麻生さんはカトリックとのことですが、欠点や問題点を対処不能として認識してしまうのは、ルターやカルヴァンの発想に近い。よく破門されないなぁ・・・とビックリですよ。 |
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R.10/12/27 |