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カテゴリー 形への依存
配信日 09年9月16日
タイトル 正義感が強い (倫理的な視点)
ダメダメ家庭においては、「正しい」という言葉がよく出てきます。
それこそ、以前に取り上げた魯迅の「狂人日記」という作品においても、「あくまで問い詰めた。『正しいか?』」なる記述があります。自分で考えることから逃避する抑圧的な人間は、そんな「正しい」と言うことにこだわりを持つわけ。
かと言って、じゃあ、その「正しい」って何?どういう意味なの?その「正しさ」を、どうやって証明するの?
そんな話になりますよね?

数学の問題だったら、その正しさの証明だって可能でしょう。
あるいは、物理学などの自然科学だったら、豊富なデーターを元にすれば、「この考え方が正しい。」ということが言えるでしょう。

逆に言うと、データーを取らないで、「正しい」なんて言えるの?
以前にも書いたかもしれませんが、「正しい」という言葉は、排他的な意味を持つ言葉と言えます。
「正しく」ないものは、存在が許されないものでしょ?

「1たす1は2である。」という考えは正しい。たから、その考えと相反する「1たす1は3である。」という考えは存在が許されない。
そう言うものでしょ?
別の例だと、「地球が太陽の周りを回っている。」という考えが正しいのだから、「太陽が地球の周りを回っている。」という考えは存在が許されない。
そんなものですよね?間を取って、「1月から6月までは、地球が太陽の周りを回っていて、7月から12月の間は、太陽が地球の周りを回っていることにしよう。」と妥協しようとしても無理がありますよ。「正しさ」は排他性をその特徴としているわけです。

地動説なり天動説の「正しさ」の証明の際には、データーを取る事によって証明することが可能です。
しかし、一般社会における「正しさ」となると、その証明は簡単ではないでしょ?
「消費税率は、5%が正しいのか?10%が正しいのか?」
そう言われても、どうしようもない。
むしろ、このようなことを考えるにあたって、「正しい」という言葉を使うことが不適切でしょ?
それらの考え方を取り入れた場合はどのようなことになるのか?それぞれをシミュレーションして、そのメリット,デメリットを考慮し取捨選択すればいいだけ。
言うとしたら、「消費税率は、5%と0%のどちらが適切なのか?」という、「適切」とか「有効」とかの文言を使う方が、それこそ適切でしょ?
人間社会において、「正しい」ということは簡単ではない。だって人間なんて色々なタイプが居るわけでしょ?「自分の考えはこれこれで、自分はこれで行く!」ということならそれでいいじゃないの?その考えが気に入らなければ、その人を避ければいいだけですよ。

「オマエの考えは正しくないからケシカラン!」なんて言ってもしょうがない。だったら、その考えが「正しくない」という証明ができるの?
まったく面白いことに、「正しくないからケシカラン!!」なんてことをよく言ったりするような人間は、その「正しくない」証明って、決してしないものでしょ?

そんな人が往々にしてやるのは、「権威者の○○先生がこう言っているのだから、これが正しいんだ!!」そんなものですよね?
このことはこのメールマガジンでは何回も書いています。
「正しい」という言葉は、権威主義と結びつく例が多いわけ。
主張や要求が問答無用なんですね。双方の合意に基づいたものにはならない。

そんな問答無用の権威主義者が、周囲から好意的に評価されたりする際に、よく使われるのが、「彼は正義感が強い!」というもの。
この言葉は、以前にこのメールマガジンで取り上げた民主党の(故)永田議員が、「偽メール事件」の際に、言われていました。彼の上司とも言える鳩山さんによると「永田議員は正義感の強い人」なんだそうです。

へぇ・・・そうなの?
しかし、「自分は正しいことをやっている。」・・・だから、「自分と違っている人間は間違っている。」・・・「彼らは存在すること自体が罪だ!」・・・だから、「彼らを抹殺すべきだ!」。
そのような発想の流れは、まさに「正しさ」なり正義感の「裏面」としては典型的なものと言えます。

おまけに「存在すること自体が罪」の相手を抹殺するために、多少「いかがわしい」方法も使うことが許される・・・そう考えてしまうわけ。
そんなものでしょ?

正義感が強いと、そのようないかがわしい方法も許容する精神的な土台ができてしまうんですね。
それこそテロリストなんて典型でしょ?
「存在すること自体が罪」と判断したら、どんな方法も取っていいんだ!!
だって、「自分たちは正しい」のだから。

正義感というものは、ある種の「非人間的」な面を持っているんですね。だって、「正しい」ということは、どんな人間にも適用される考えでしょ?個々の人間を超えた概念ですよ。人によって適用されたり、適用されなかったりしたら、「正しい」とは言えない。
逆に言うと、「正しく」ないことをしているものは、人間ではない・・・「正義感」が強い人はそう考えたりするもの・・・現実にそうでしょ?

このメールマガジンは逆説的な表現が多く出てきますが、別に「ためにしている」わけではありませんよ。表現の細かな違いに注目すると、大きな真実が見えてくる・・・そう言っているだけです。

民主党の永田議員は「正義感が強い」とのことでしたが、まさしく「それにふさわしい」行動のスタイルだったでしょ?あのガセメール事件に限らず、様々な問題を起こしていたそうですが、「自分以外のものは認めない!」という意味では極めて正義感を持った人だったわけです。正義感の持つ排他的な部分を強く持っていたわけ。

話が変わりますが、よく援助交際のようなマターになって、「無理強いはよくないけど、お互いの合意があればいいんじゃないかなぁ・・・」と言っている人がいたり、逆に『ルールはルールだ!そんなことはケシカラン!!』と言っている人もいますよね?まあ、確かにルールはルールでしょう。

未成年を相手にするのは問題ありでしょう。だって、相手は判断能力が未発達なんですからね。しかし、面白いことに、現実社会で話をすると、「お互いの合意があればいいんじゃないの・・・」と、小声で、言ったりする人の方が、それ以外の話をしていて面白い。
これって、ある意味当然のこと。

だって、「合意があればいいじゃないの・・・」と言えるということは、当人が「合意を取れる」何らかの能力があるということでしょ?話がやたら上手かったり、まあ、お金を持っていたり・・・と、色々なケースはあるでしょう。
しかし、それなりに何かを「持っている」から、言えるわけ。世の中って、そんなもの。もちろん、実際にそんな行為をするかどうかは別問題ですよ。

逆に言うと、「ルールはルールだ!」と言ったりする人の方が話をしていて、つまらない。そんな人は、往々にして問答無用だったりする。
確かに正義感はあるのかもしれませんが、逆に言うと、「相手から合意を取れる人」ではないんですね。

「合意があればいいじゃないか。」と言う人は、現実的には、合意しなければ、何もしない。
「ダメなものはダメ。」と言う人は、他者との合意など平気で無視をする。

抑圧的な人は、そもそも合意というものに価値を見いださない。自分のやりたいことについて考えることから逃避し、何かを始めても最後に総括する習慣もない。そもそも判断というものから逃避しているんだから、判断の結果としての合意などは、むしろ「相手から判断を要求された」という形で、自分が被った被害として認識してしまう。

と言うよりも、合意の土台となる個々の判断や思考こそが、悪や罪に近いものと認識している。
それこそ、その代表例として、宗教改革のマルティン・ルターの言葉を引用してみましょう。
「神は我々の正義と知恵によってではなく、・・・・我々から出てくるのでもなく・・・・我々のうちに潜むものでもなく、どこか外から我々にやってくる正義によって、神は我々を救おうとし給う。・・・言い換えれば、正義はもっぱら外部からやってくるものであり、我々とはまったく縁がないということが、教えられなければならない。」
このルターの言葉で示されているように、抑圧的な人間にしてみれば、人間の判断と正義と言うものは、対立し、いわば排他的な関係となっているわけです。人間が判断したがゆえに、正義から逸脱し、人間にとっての罪であり、天国から遠くなってしまう・・・そんな発想の人にしてみれば、合意などは、どんな分野においても、罪になるわけ。

判断や思考を抑圧しているんだから、人の気持が分からなくなり、一般論的な正義しか語るものがない。個々の人間の思考に依存するものではやり取りができない。非人間的なものを持ち出さないと、対応ができない。

達成したいものがなく、最後を締めるという発想がないので、語り続けることそれ自体が目的化されてしまう。それはまさに典型的なクレーマーの様相となる。
クレーマーというのは、相手を嫌がらせしようとしてやっているのではなく、ただ自分の正義を狂信的に主張している、まさに正義感の強い人と言えるでしょ?
正義だからこそ妥協する必要もない。というよりも、自身が判断した時点で、それは罪であり悪となってしまう。逆に言うと、「どの点で妥協すればいいのか?」判断することから逃避するためにも、自分なりの正義を主張し続けることになる。

「あの人は、正義感があってすばらしい人だ!」
そのような評価は、ある意味において、もっともなことなんですが、その人の持っている考えと、別の人が持っている考えの間に不一致が起こった場合、その手の正義感の強い人は、逆上し、相手を攻撃するだけなんですね。
パステルナークの小説「ドクトルジバゴ」に登場していた正義感の強い人は、そんな感じだったでしょ?

正義というものは、問答無用の状態の反映であり、新たなる問答無用を作り出すもの。
たとえば、独裁体制において、自分の親の罪を告発する子供の例が、いわば美談として登場したりするものです。
それって、それだけ家族の間に会話がないということでしょ?子供が主張したいことがあれば、それを親が聞いて、議論して、親なりの判断を示し、子供を説得すればいいだけ。逆に言うと、親を告発するのは、そんな対話もないことがわかるでしょ?まあ、だからこそ告発されてしまうわけです。ダメダメ家庭の子供としては、非人間的な概念である正義しか頼るものがない。現実逃避の方法論としての精神論なんですね。権威主義的で問答無用の親に対する不満を、より大きな権威でやり返しているわけ。そして、そのまま成長してしまったら、どんな人間になるの?

正義というのは、基本的に「北の発想」と言えます。ヨーロッパの芸術作品だと南北問題をテーマにした作品が多くあります。それこそドイツでも、イタリアでも、スペインでも、精神的な北と、享楽的な南の間の対立が起こっているもの。北は戦争をすると南には必ず勝つけど、だからと言って人々が幸福かというと別問題。北の住人は、日々ノンキに暮らしている南の住人を見ると、憧れと侮蔑が入り交じった不快感を持ってしまう。

北の住人は、精神的だけど、それが「殻」になってしまって、人生を楽しめない。自分で作り上げた「殻」からどうやって脱却するのか?そんなことに悩んでしまう。だから放埒に生きる南に対して密かに憧れを持っている。その憧れを認めたくないものだから、なおのこと、南を侮蔑し、それを自分たちの成果や倫理で正当化する。
そんな北の住人を描いた作品は、結構あるんですよ。

精神的な豊かさも、ある種の閉塞感につながってしまうこともある。
自分の信念なり倫理観は、それ相応に誇ればいいでしょう。
重要なことは、それを相手にわかるように説明することでしょ?

正義というのは、倫理的に汚れがない状態といえます。
それはいいことなんでしょうが、そんな状態で人は生きられるの?
そもそも汚れなきキレイな状態の極限が死となることは誰でも分かること。
正義を突き詰めれば死になってしまう。曇りなき世界を追い求める宗教原理主義者が、死に近いことは、歴史上で常に起こっていること。

そして、その死も往々にして悲劇的な死であって、充足感に満ちた死ではない。
充足感に満ちた死は、キレイなものでも純粋なものではない。
ヘルマン・ヘッセの小説「ナルチスとゴルトムント(邦題 知と愛)」で、「君には母がない。だから死ぬことができない。」という言葉があります。文芸的に言うと、母親というものは、死を受け入れ、生を生み出す存在。だからその存在は、キレイなものとは言えない。母親というものは、心理的には「汚れ」を体現する存在と言えます。だから心理的に母親が不在の人は、汚れとの付き合い方がわからずに、実に純粋な人になってしまう。これは例えばパスカルなんてその典型でしょう。

罪を受け入れることによって、その罪を浄化する。そして再生へとつなげる存在となる。母親は、そういう意味で正義ではない。罪を受け入れる存在は、正義とは言えないでしょ?
正義感が強い人は、罪を受け入れてくれる大地から離れているがゆえに、必死で「いい子」としての存在証明をする。しかし、その必死さゆえに、実際にトラブルになってしまう。
そして、そんなトラブルを受け入れてくれる存在を探し求め、周囲に更に要求し続ける。
しかし、自分の親の問題はアンタッチャブル。だから自分の罪はまったく浄化されないまま。

正義感が強い人は、純粋に正義の中だけで生きているの?
そんな人は自分の中の不正義とどのように付き合うの?
当人は、その正義感ゆえに、自分の「不正義」な面を見つけて苦悩する。そしてそれを、全部破壊しようとする。正義感は破壊衝動と隣り合わせ。

歴史的に見ると、正義の名のもとに、数多くの殺戮が行われましたよね?
正義とは、個々の人間を超えた普遍的な観点であるがゆえに、問答無用で非人間的。
だからこそ抑圧的な人間が頼りにする。
人の気持ちがわからないがゆえに、正義しか頼れない。

正義というものは、人の世に属していながら、人の世を超えたもの。
本質的に矛盾を抱えた存在と言えます。
芸術だったら、もともと人の世を超えていて、人の世をさらに超えようとしているもの。
ただ、その「おき場所」が、人の世だというだけ。
「正しい」という言葉は、芸術の、特に創作の領域では使われない。音楽における演奏の分野では使われることもあります。しかし、作曲では使われないでしょ?まあ、「正しさ」という言葉が飛び交う領域はそれだけ、創造から遠いわけ。

正義感が強いことが、悪いわけではありませんが、正義感が強いがゆえに、その排他性から「アイツは存在すること自体許されない!」なんて発想になってしまう。
正義とは「存在すること自体が許されない。」という危険思想と隣り合わせ。それが他者に向くだけでなく、自分自身にも向いたりもするもの。

それは現実に生きる当人自身にとっても、周囲の人にとっても、見極めが必要な事態を暗示しているものなんですよ。

(終了)
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発信後記

この文章は、かなり前(実は06年)にドラフトが上がっていました。
文章が上がった後になって、永田議員の自殺があって、記述を修正したりいたしました。

正義感が強いといわれる人で、幸福そうに見える人って、あまりいないでしょ?
永田議員については、父親との問題を以前に取り上げておりますが、母親というか母性の不在も顕著なんですね。

ちなみに、正義感や倫理観と、母性の関係は、金曜日に配信する文章で、また考えてみます。内容的には今回と共通しております。ちなみに、取り上げるのはフランスの文芸作品です。
今週は、正義感なり倫理観の問題を集中的に考えておりますので、その分、記述が小難しくなっております。あるいは、メールマガジンにはあるまじきレヴェルまで文芸色が強くなっております。ですから、ちょっと時間が出来た時に読み直してみてくださいな。
R.10/12/27