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カテゴリー 事件の前
配信日 09年9月21日 (11年1月4日 記述を追加)
タイトル ダメダメ過程
「結果が重要じゃあないんだ!過程が重要なんだ!」
なんて言葉は、学校ではよく言われていること。
そんな正論は正論でいいとして、「見事な過程」に自己満足しているだけでは、永久に「求める結果」は得られませんよ。
求める結果が得られなかったら、その過程も見直さないといけないでしょ?
求める結果が得られない過程って、やっぱりダメダメな過程ということじゃないの?

あるいは、ある人から、自分の問題点を指摘された。
受けた指摘が適切なものであり有意義なものだったら、その指摘を受け入れ、その後に反映していく・・・そうしていくものでしょ?世の中には完璧な人間はいないんですからね。
問題点があることがいけないのではなく、問題点に対処しないのがいけないことでしょ?
しかし、ちょっと考えなくてはならないことは、どうしてそんな問題が起こってしまったのか?あるいは、その問題点が今まで、誰からも指摘されなかったのか?
そのような自分の周囲の環境面も見直す必要があるでしょ?

たとえば、自分がやった「ぞんざい」な物言いを、人から指摘された・・・・
その指摘を受けて、その点について、今後は自分なりに注意することを考えるとともに、「どうして今まで、周囲の人から注意されてこなかったのだろう?」そんなことも考えてもいいじゃないの?そのような点を考えることによって、周囲の問題、とりわけ実家の問題も考えることができるわけでしょ?
自分の「ぞんざい」な物言いを放置する実家は、他の面でもダメダメの可能性が高いでしょ?そのような点を自覚して、実家から上手に距離を取る必要が自覚できるのでは?

しかし、「ぞんざい」な物言いを人から注意されて、『実家ではいつもこんな感じだから・・・』と弁明することで終わってしまったら?
確かに、当人にしてみれば、「しょうがない」ことではあると言えるでしょうし、まさに当人は「悪くはない」と言えるでしょう。しかし、「じゃあ、このままでいいの?」あるいは、「そんな実家とどう向き合っていくの?」そんな疑問が出てくるでしょ?

このような問題は、以前より頻繁に書いております。たとえば、メールなどにおいて、平気で略字を使う人もいますが、今まで誰もその点を注意しなかったのかな?注意されていないとしたら、そんな環境面から見直す必要があるでしょ?「みんな略字を使っているから・・・」「誰も指摘してくれなかったから・・・」そんな弁明の理屈はいいとして、その人自身にも、周囲の環境にしても、略字の問題以外にも様々な問題があることが予想されるわけです。

あるいは、以前に書きましたが、不適切に使われる「笑」なる表記のケースがあります。的確な文章を書ける人が、ちょっとしたアクセントとしてそんな表記を使うのならまだしも、意味不明なヘタクソな文章のくせに、そんなオプショナルな表記だけは多彩・・・そんな文章を読むと、「この人は、今回のやり取りの以前には、どんな人と、どんなスタイルのやり取りをしてきて、どんな結果を出してきたんだろう?」と怪訝に思ってしまうんですね。

あるいは、携帯メールばかりを使うのはいいとして、では、それまでちゃんとした文章でやり取りをしたいと思ったことはないの?
離婚の際にモメるのはいいとして、それまでは、どんな会話だったの?
反抗期で子供から反抗されるのはともかく、それまではどうだったの?
一時的な天候不順で飢餓になるのはともかく、それまでにどんな準備をしていたの?

映画「マイ・フェア・レイディ」で描かれているように、ドブ板英語のまま努力しても効果は期待できないでしょ?もっとも本質的な面を自覚する必要があるわけです。まさに三島由紀夫がその作品「金閣寺」の中で書くように「血が流れた後は事件が起こったあと」であり、重要なのは、事件が起こる前の問題なんですね。しかし、ダメダメ家庭の人間は、当事者意識がなく、被害者意識だけなので、被害が顕在化する前には、何も考えない。

トラブルそのものに目を向けるのは当然として、「それまで」の状態に目を向けないと、その土壌の問題が温存されたままになってしまう。逆に言うと、弁明をしやすくするためには、トラブルを発生させる土壌がそのまま存在したほうが都合がいい。
そうして、「ミンナも、やっているじゃないの?」と弁明することになる。

弁明の理由として実家などが登場してくる人は、逆に言うと、実家に強く依存しているわけです。いざとなったら「実家のせいで・・・」と言いたいがために、逆に言うと、実家から距離を取るわけには行かない。
これって、韓国が日本から距離をとれない理由とよく似ていますよね?

結局は、ダメダメな結果を生み出す過程(プロセス)は温存されたまま。ということで新たな失敗を生み出し、「○○という事情があって・・・」とやっぱり同じ弁明を使うことになる。

このようなことは、人に相談する場合などには顕著です。
「何回相談してもいい回答が得られない!」なんてグチっている人に限って、「じゃあ、いい回答をどうやったら得られるのか?」なんて何も考えていない。いつも同じスタイルで、似たキャラクターの人に相談して、何も解決せずに、「ああ!いつもうまくいかない!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と同じ言葉で嘆くだけ。

それこそドメスティック・ヴァイオレンスの問題なども典型でしょ?
そのような男性と結婚するまでのプロセスを見直すことがほとんどないから、結局は似たような事態の繰り返しとなってしまう。
「どうして、自分の親は適切なアドヴァイスをくれなかったのだろうか?」
「どうして、周囲の人は、助言してくれなかったの?」
「どうして、こんなオトコを好きになっちゃったの?」
そんなプロセスを見直していけば、次にはつながるでしょ?
逆に言うと、結果だけを見ているうちは同じことの繰り返しとなるだけ。

ダメダメ家庭というのは、まさにダメダメ過程によって出来上がっている。
その過程の方向がダメダメになっているわけです。

何も家庭だけでなく、最近では自民党が典型的にこのパターンでした。
ダメダメなトップを選んで、自分たちの問題から目をそらし、結果的にうまくいかず、そのトップを犯人認定して、「ああ!オレたちはあの○○による被害者だ!」と勝手に納得して、そこから目をそらすために、またダメダメなトップを選ぶ。
そしてそんなことを繰り返す。
だから、ダメダメが進行するばかり。

マトモな集団が、自分たちの問題を地道に改善して、どんどんとマトモになっていくのに対し、ダメダメな集団は、自分たちに問題があっても、「それはアイツが悪いんだ!」なんて誰かを犯人認定するだけで、何もしない。だからどんどんと悪くなる。それどころか、そんな犯人認定を通じて、自分たちの被害者意識がより強くなり、ますますダメダメが進行してしまう。

たとえ、現在においては、それなりにマトモな家庭であって、経済的にも裕福であっても、いったんダメダメのスパイラルが進行し出すと、どんどんと転落していくことになる。
ダメダメのスパイラルが進行しだすと、心理的にもっとも影響を受けるのは子供です。

だって、子供の最大の財産は、その未来でしょ?
今現在が、それなりに良好な状態であっても、将来においてダメダメとなってしまうのだったら、子供にしてみれば意味ないじゃん?
そして、子供という存在は、将来がどうなるかって、感覚的に分かるものでしょ?

今現在が、それなりに裕福だったら、大人は、自分たちのダメダメに気がつきにくい。だって、ほしいものは、それなりに手に入るわけですし、やりたいこともそれなりにできる。
今現在は「問題はなく」、「悪くはない」かもしれませんが、「じゃあ、アナタは、将来は、何をしたいの?」「どのような未来を想定しているの?」
そういう話になりますよね?

自分がしたいものを明確に意識し、その実現のために、少しずつでも努力すれば、速度は別としてスパイラルはマトモな方向に回っていくでしょう。少なくとも、ダメダメの方向に回ることはありませんよね?
しかし、当事者意識がなくなってしまうと、単にマトモな方向にスパイラルが回らないというだけでなく、ダメダメな方向に進行しだしてしまう。しかし、その時点では、それなりに裕福な状態だったら、愚鈍な大人はそれに気がつかない。
子供は、そのスパイラルの「果て」を予感しているのに、親の方は、「それなりに裕福」な現状なので満足してしまう。小さな問題が顕在化しても、大人はその意味がわからない。
と言うことで、家庭内の問題が発生することに。
しかし、親の方は、子供の危機意識がわからない。だって、ダメダメな親は現状だけを見ていて、スパイラルの方向は見ていない。

そんな状態になると、ダメダメな親が頼るのは、「下には下がある」という考えです。
この「下には下がある」という考えについては、このメールマガジンで度々触れております。自分たちより下を見ることによって、「このままでいいや!」「まだ余裕だよ!」と自分で納得させちゃうわけ。と言うことで、自分たちより下の存在を探すようになる。
それこそボランティア活動などをやって、不幸な人を眺め、「ああ!下には下があるものだ!」と安心するようになってしまう。

しかし、そんなことをしても、ダメダメの方向に進行している自分たちのスパイラルが止まるわけもなく・・・
結局は、自分よりも下を探す努力が、スパイラル進行するだけ。
「より不幸な人を見たい!」
「もっともっと恵まれない人を見たい!」
そして、
「ああ!なんてお気の毒な人たちなんだろう!」
「こんな気の毒なことになったのは、きっと、あの○○が悪いんだ!」
と、犯人認定することを覚え、「悪いのは全部○○のせいだ!」・・・「だから、自分たち自身は何もする必要はないんだ!」と勝手に納得することになる。

たとえ、現状が経済的に裕福でも、そうなってしまうと未来がないでしょ?そんなダメダメな未来を子供はどう生きればいいの?
だって、子供が親に対して何を言っても、「オマエはいったい、何が不満なんだ?」「下には下がある」「悪いのは全部○○のせいだ!」と言われちゃったら、会話も何もないじゃないの?

ダメダメな土壌に、ダメダメな作物を植えているのだから、ダメダメな果実が実るのは当然のこと。
だからこそ、土壌を変える必要があるし、作物を変える必要があるでしょ?
しかし、ボランティアがやってきて「アナタは何も悪くないわ!」と弁護してしまう。
逆に言うと、甘言を弄するそんなボランティアもダメダメな土壌の重要な構成要素となっているわけです。
ダメダメな人は、そんなボランティアからの甘言を喜んで受け入れてしまう。
だから、ダメダメな過程がさらに進行することになる。
土壌がダメダメで、植えている作物がダメダメなことは、子供にはちゃんと分かっている。だから結果的に、ダメダメな果実ができるのも子供には見えているもの。
だからこそ、子供から問題が顕在化する。

その時点で対処すればまだしも、またもや、ボランティアが出てきて「彼らにも事情があって・・・」とかの方向違いの弁護をするばかり。
しかし、その「不幸な事情」の一つとして、甘言を弄しながら、人々をダメダメにしていく、ボランティア自身の存在もあるわけです。
本当に、困難な事情があるのなら、「その事情にどのように対処するのか?」という問題こそが重要でしょ?
しかし、ダメダメな環境では、ただ、言い訳のしやすさが優先されるばかり。

ダメダメ家庭のスパイラル進行で一番重要な点は、現状ではなく、その方向です。マトモな方向に回っているのなら、その速度が遅くても、子供としては安心でしょ?
ダメダメな方向に回り出すと、事態がどんどんと悪くなるだけでなく、進行の速度も加速度がついてしまう。だって、家族に将来への希望がなくなるわけですから、雰囲気だってどんどんと悪くなってしまう。

たとえ経済的に豊かでなくても、スパイラルがマトモな方向に回っていれば、子供としても将来に期待が持てるし、少なくとも安心はできるでしょ?
その家庭の10年後の姿って、分かる人には、意外なほど、分かるものなんですね。

極端な話になりますが、子育てに対する当事者意識がないダメダメな親は、自分の子供がどうなってもいいと思っている。以前にも言及しておりますが、19世紀のフランスのラスネールという人は、子供時代に、親から「オマエは将来はギロチン台行きだ!」と言われながら育ったそう。そんな感じで親から言われ続けたら、子供だって親には何も相談できませんよ。そしてラスネールは殺人鬼になって、実際にギロチン台に送られました。

ラスネールの親にしてみれば、「それ見たことか!」「オレが予想したとおりじゃないか!」と言いたいのでしょうが、そのように育てたんだから当然でしょ?そしてダメダメな親は「こんな出来の悪い子供を持ったオレって、なんてかわいそうなんだ?!」と自己憐憫するばかり。
断頭台は別として、そんな親の姿は、21世紀の日本でもポピュラーでしょ?

過程を見直さない限り、求める結果は得られない。
しかし、実際には、ダメダメな人は、嘆きを並べることそれ自体が目的となっている。
つまり、目標自体がダメダメなんですね。
まさにエミリー・ディキンソンが言うように、嘆きを求めている人は、日頃から、それにふさわしい選択をしているものなんですね。
ダメダメな土壌に、ダメダメな作物を植え、ダメダメな肥料を与え、そして、結果としてのダメダメな果実を得て、「どうして、こんなことに?!」「ワタシって、なんてかわいそうなの?!」そのように嘆いている・・・
ダメダメ家庭というものは、そんなダメダメな過程の中にいるわけです。

(終了)
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発信後記

本文とは関係はありませんが・・・
図書館で本を借りようとして、スタッフの人に「この○○という本は、ここにおいてありますか?」と質問したところ、スタッフの方がパソコンで調べてくれて「申し訳ありません・・・ウチには、その本は数種類の翻訳者さんしかないんですよ・・・だからあまり選択肢はありません・・・」とか言われたことがあります。
私としては、「とりあえず、翻訳者さんにはこだわっていませんから、どれでもOKです。」と言って本を借りました。

不思議だったのは、この私が翻訳者さんの選択にもこだわる人間と判断されたこと。ちょっと質問しただけなのに・・・「どうしてなんだろう?」と怪訝な思いを持ちました。
図書館を出る時に、ドアのガラスに写った自分の姿を見て、何となく見当がつきました。
別にたいした格好をしていたわけではないんですが、ふわっとしたタートルネックのセーターに、細身のパンツといういでたち。そんなスタイルが知的に見えたんでしょうね。
服において、上半身をルーズフィットにして、下半身をジャストフィットにすると、何となく知的に見えるモノなんですよ。皆さんもやってみては?
たぶん、それだけ下半身を動かさないで、上半身だけ、動かす・・・そんな行動に適したスタイルなんでしょう。

ちなみに、上半身をルーズフィットにして、下半身をジャストフィットだと知的に見える・・・その逆で、上半身をジャストフィットにして、下半身をダボダボの服装にすると、知的には見えない・・・そんな心理を「突いた」のが、有名なコメディアンである、チャーリー・チャップリンのいでたち。

チャップリンの服装を、上下逆にして、上をダボダボ、下をチンチクリンにすると、印象がかなり変わるはずです。ヘンな話になりますが、ドタバタでの殴り合いでも、まるで芸術談義をしていて、熱くなってしまったので、殴り合いになってしまった・・・そんな印象になってしまう。上がチンチクリンで、下がダボダボの服装だから、ドタバタも、気軽に笑えるわけ。逆に言うと、そんな配慮もないと、笑えない。
見る人が見ると、チャップリンが、どんな観察眼や思考をしていたのかが、あの服装からも見えてくるわけ。

コメディとかギャグとかは、面白いことを考えていれば出来上がるというものではないんですよ。細かな観察眼や違和感の積み重ねがあるだけ。そして、その中から、笑えるものを選択しただけ。だから、笑えないものが、何も表現されないまま、自分の心に残ることになる。表現力が上達すると、それまでは使えなかった素材も、上手に料理して、笑いのネタにすることもできますが、それでも「とてもじゃないけど笑えない」ものは、心の中に残ることになる。笑えるネタを多く見いだせる人は、「とてもじゃないけど笑えない」エゲツナイようなネタもいっぱい見えているわけ。

そんな「笑えないモノ」を、どうやって、表現したり、自分の中で消化していくのか?
ギャグやコメディでの表現だけだと、使えないまま、心の中に残って、やがては臨界点を突破してしまう。笑いをひねり出せる人は、その背後に、「笑い事ではない」ものを山ほど抱え込んでいるもの。

なんでも、「クレヨンしんちゃん」の作者さんがお亡くなりになったそうですが、ギャグというものは、作者の命を削るもの。
実際に、そんな傾向があるでしょ?
R.11/1/3