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カテゴリー | 事件の前 |
配信日 | 09年9月23日 (10年8月9日 記述を追加) |
タイトル | 避けるしかない (離れるしかない) |
このメールマガジンで、ダメダメ家庭の人とは避けるしかない。 このように書いています。 まあ、どのみち会話能力のない人たちなんだから、やり取りをしても楽しくない。 おまけに、語ることといえば、自分の被害ばかり。 自分が一番かわいそうな人間と確信しているんだから、他者に迷惑をかけることも平気。 だから「避けるしかない」わけ。しかし、そんなことは、わざわざ私が言わなくても、まあ、わかること。 しかし、現実では、避けたくても避けられないようなケースもやっぱりあったりするもの。 会社の中にも、その手の人間がいたりする。 地域の集まりでも、その手の人間がやっぱりいたりする。 学校関係でも、やっぱりいたりする。 おまけに、ダメダメ人間は、自分の被害ばかりを語っているので、そんな「かわいそうな」被害話を聞いた誰かが同情してしまって、その同情した人のサポートで、分不相応な地位に就いたりすることもある。 「ワタシは、アイツから迷惑を受けた!だからワタシを助けて!」そんな訴えに同情して、助けようとする人が登場する場合も現実にあったりするでしょ?しかし、嘆きの声を上げる人は、自分の現状を客観的に説明することができない。と言うことでやり取りをしても、何もわからずにいると「アナタはどうして私のことを分かってくれないの?」と非難されるだけ。 次には「みんなはワタシのことをわかってくれないわ!あの人にもアッチの人にも迷惑を受けた!だからワタシを助けて!」と、より一層悲壮な訴えを周囲にすることになる。 そんな悲壮な訴えを聞いて、その「かわいそうな」人をサポートしようとする別の人が出て来る。しかし、当然のこととして、結果はやっぱり同じ。しかし、当人にはまったく自覚がない。だから「人から理解されていない。」「人から迷惑を受けた。」という心象が、どんどんと積み重なってくる。まるで、雪だるまのように、語る被害がどんどんと大きくなってしまうことになる。 しかし、語られる被害は大きくても、もうそんな人の相手をする人はいない。 そんな状況を、その集団の外から見ていた人が、集団の中で孤立している「気の毒な」人を助けようとする場合もあり、結果的に構ってもらえる。身近な人が避けるので、ちょっと遠くの人が、構ってしまうわけ。しかし、その遠くの集団の一員になると、やっぱりトラブル。 その時点になって、新たに関わった人も、やっとのこと、「ああ!あの人は避けるしかないんだなぁ・・・」と実感することに。それこそ田中真紀子さんなんて、そんな状態でしょ? 一般的な人は、嘆きを叫ぶ人たちの状況そのものには同情するところはあっても、その行動を見せられると、引いてしまう・・・ そうなると、マトモな人はそんな人の周囲にいなくなってしまう。 だから、ますます過激な手法を制御する役割の人がいなくなってしまい、その言動の過激さがどんどんと進行してしまう。 「あの人・・・孤立している・・・お気の毒に・・・あんなに嘆いていらっしゃるわ・・・」 という同情もいいのですが、実際に関わると、やっぱり危険が伴うものなんですね。 とは言え、ダメダメ家庭の人は、見ていて面白いところもある。本人自身はわかってやっているわけではないでしょうが、珍妙な行動ばかりしでかす。 だから、ちょっとチョッカイを出したくなるもの。 おまけに、「その珍妙な行動は、どのような心理から来ているのか?」そんな疑問だって、やっぱり起こってくる。 それに、いつも失敗ばかりしている人なんだから、やっぱりかわいそう。 それにその人当人がダメダメなのは勝手だけど、現実的にはそのツケはその人の子供に集約されているもの。 子供だったら早めに処置すれば助かりますよ。 ・・・だから近づいてみたくなってしまう。 そして、結局は「懲りる」ことに。 しかし、喉元過ぎれば・・・なんて言葉もありますが、目の前で大活躍するダメダメ家庭の人を見ていると、どうしても近づきたくなってしまうのも・・・事実。 そもそも、人間は、自分が作ったディシプリンを守らないと、必ずコケるもの。 「ダメダメな人には近づかない。」というディシプリンは自分自身のためにも守らないとね。 後で「痛い」目を見るよ! まあ、ダメダメ家庭についての文章を書いている、この私は、何回「懲りた」ことか?! そのたびに、「ああ!自分はなんてバカなんだ?!自分が立てて、その意味を一番わかっているこの私が守れないなんて?!」と情けなく思うものなんですよ。 しかし・・・最近は、ちょっと自分の情けなさも、受け入れるようになりました。 やっぱり好奇心が強かったり、腰が軽い人間だったり、同情心が強かったりすると、どうしてもチョッカイを出したくなってしまうもの。 何か珍しいものがあると、スグにチョッカイを出したくなってしまう存在って、別の言い方をすると子供ってことでしょ? このメールマガジンは子供の目線で物事を書いています。 そんなメールマガジンを書いている私は、行動も、そんなものなんですよ。 しかし、そうでないと、こんな文章は書けませんよ。それも800本以上もね。 この一連の文章は、そんな成果でもあるんですよ。 「虎穴に入らずんば虎子を得ず。」って、やっぱりそのとおり。 人はその人のありようでしか生きられないもの。そのありようによって、それぞれの成果も違うわけ。しかし、多くの人間にとってみれば、文章を書き上げることよりも、心の平安の方が重要ですよ。 社会生活をしていると「ダメダメ家庭の人とは避けるしかない。」って、現実的には難しいもの。しかし、避けられるものなら避けないと、とんでもないクラッシュになってしまう。 たとえ相手が気の毒に思えても、その人が自分のダメダメさを自覚した段階でサポートしないと、ヘタをすれば入れ込まれたり、クレーマーに遭遇することになってしまう。 ホント、「命がいくつあっても足りない。」って、ギャグじゃなく、本当のことなんですね。 「ダメダメを避ける」という『行動』も難しいように、「ダメダメを避ける」という『判断自体』も、意外にも難しい。 始めて見た人について、その人がダメダメかどうかを判断するのは比較的簡単なもの。 しかし、家族のように、いつも見ている人だったら、そう簡単にはいかないわけ。 凶悪事件などがあったりすると、「犯人は、心身耗弱状態だったのでは?」などと議論になったりするものですよね?しかし、そんな心神耗弱状態とかをどうやって判断するの? そもそもダメダメというものは、スパイラル進行するものです。 小さなダメダメを放置し、それがどんどんと悪化し、後戻りできない地点に至るわけ。スパイラル進行で悪化するんだから、どの地点までは判断能力があるのかなんて議論しても、結論は出ませんよ。 ダメダメを特徴つける被害者意識も、悪化すると被害妄想になる。 被害者意識があるので、「この自分に対して被害を与えている加害者は何なのか?」と犯人探しをするようになり、その認定した犯人に対し復讐することを考える。むしろ、そのような復讐行為を計画し、実行することで、「自分はこの○○による被害者なんだ!」と確認することになる。 このような流れは、規模の大小はあれど、ダメダメ家庭では日常的に起こっていること。 それこそ厚生省事務次官OBの殺害事件なんてその典型でした。 ダメダメにおいては、「どの地点まで判断能力があるのか?」そんな議論は無意味なんですね。常識では考えられない行動をする・・・それ以前に、発想の方向性が間違っているわけ。程度問題ではなく、方向の問題なんですよ。 常識では考えられない行動となると、天才がそうです。 よく「天才と狂人は紙一重」って、言うでしょ? しかし、天才は、多少ハタ迷惑な点があっても、基本的には危険はない。だって創造的な天才は、凡人のことなど眼中にありませんよ。ただ己の霊感に従っているだけ。周囲にいる有象無象の凡人どものことなど、どうなろうと知ったことではない。だからこそ、周囲の人に無理に危害を加えるつもりもないわけ。 「やつらは虫けらだ!だから殺してもいいんだ!」と言いながら、無差別殺人をやってしまう人もいますが、虫けらと本気で思っているのなら、そんな虫けらは放っておいて、自分に降りおりる高貴な霊感に従うのが真の天才と言うものでしょ?凡人を殺すだけ、時間と手間のムダですよ。「殺してもいい」と「殺す必要がある」は、全然別物でしょ? 逆に言うと、「やつらは虫けらだ!」とわざわざ主張する分だけ、そんな人自身が、所詮は虫けらレヴェルであるわけ。それこそ、負け組みの高校生が、ホームレスの人たちを襲撃するように、何も得るものがないのに、殺害などをすることになる。 犯人確定の儀式をすることで、自分がかわいそうな被害者だと自分で認定する発想は、程度の問題ではなく、心理の方向性の問題なんですね。ダメダメな方向が積み重なって、スパイラル進行しただけ。小さなダメダメが積み重なった分だけ、当人にも周囲にも認識しにくい。 おまけにダメダメとは、自己逃避であって、だからこそ他者の言動に依存することになる。 そして、その他者ばかりを見ることによって、ますます自分から逃避する。 天才は自分の内面を見るから、一人で行動できる。 それに対し、ダメダメは、まさに一人では生きて行けないわけ。 そして、一般の人が理解できる行動を今のところはしている軽症のダメダメよりも、凡人がさっぱり理解できない突拍子もない天才の方が、扱いはラク。だって放っておけばいいだけ。 ダメダメだと、たとえ軽症でも放っておくわけにはいかない。周囲に対し「ワタシに構って!」と常にチョッカイをかけてくるもの。 そんな段階で、危険の目はあるものなんですよ。 以前に東京で、漫画家さんとご近所のおばさんのバトルがありましたが、どっちが危険な存在なのか? だって漫画家さんはヘンテコな漫画なり家を作るだけでしょ? あの漫画家さんが天才かどうかは別として、何か「作品」を制作してそれでオシマイの人。 その「作品」がヘンテコな家になる場合もあったというだけ。 それに対し、被害者意識をバクハツさせているクレーマーの方が現実的にははるかに危険ですよ。そんなクレーマーおばさんは故意のあら探しするので、無理にでも犯人認定をしてしまう。周囲にとって使い物にならない存在だし危険な存在。 漫画家は、距離をとれば使えるでしょ?だって漫画を描いているだけだし、その漫画がキライなら読まなければいいだけ。 一般人から理解できない行動と言っても、危険性や有用性は大きく違うわけ。 昔の友人に久しぶりに会ったりすると、「あれ?老けたなぁ・・・」とか「太ったなぁ・・」と言えるけど、いつも会っている人間にしてみれば意外とわからないもの。 ましてや、ダメダメな当人は自己逃避しているんだから、自分自身の変化には気がつかない。そうこうしているうちにダメダメが進行して取り返しが付かないことになってしまう。 現実のダメダメとは、シュールなギャグとリアルとの紙一重。 そして、笑いと涙の紙一重。当人は悲劇の主人公のつもりでしょうが、周囲の人間にしてみればギャグそのもの。ダメダメの極致は、ギャグの極致でもあるわけ。 笑いというより、呆気にとられるだけですが・・・ 重症のダメダメの人とやり取りすると、アタマがおかしいのか?ダメダメなのか?判別できないもの。 しかし、判別する必要はないんですよ。 だって、対処としては、離れるしかないわけですからね。 離れればいいのに、相手に対してヘタに同情して近づいて、グチで共鳴し盛り上がってしまう。途中で気が付けばいいのに、そのまま突っ走ってしまうと、結婚したりする。 「ワタシだけが、この人を分かってあげられる。」 「ワタシだけが、この人を助けて上がられる。」 「ああ!ワタシたちって、なんてお似合いのカップルなの?!」 いわば共依存カップルが誕生するわけ。 それが集団化するとボランティアになる。 しかし、そんな共依存状態によって、自分の被害を語ることができない子供が犠牲になってしまう。北朝鮮でもドメスティック・ヴァイオレンスの家庭においてもそんな状況でしょ? 同情するのも結構ですが、的確な現実認識がないと、状況が悪くなるばかりなんですね。 ダメダメの問題は、倫理的な問題としてみると、分かりにくいし、対処ができない。 児童虐待とか家庭内暴力の問題が起こったりすると、すぐに倫理的な視点からの意見がでてくるでしょ?それこそ「親たるものは、子供を愛するべきだ!」「夫たるもの、日頃から妻と会話をするべきだ!」そして、「そうしないなんて、ケシカラン!」と言い放ってオシマイになる。 倫理的な視点は、言い放ってオシマイになるので、言い放つ側としてはラク。 しかし、そんな上からの説教で事態がよくなったことはあるの? 私としては、ダメダメ家庭の正式名称としての「機能不全家庭」における「不全な機能」を具体的に、個別的に取り上げ、考えているだけです。 いわば、病気を取り上げ、考えているようなもの。 それこそ、癌になって人がお亡くなりになったからと言って、癌に対して「ケシカラン!」と説教しても意味はないでしょ? 癌の発生メカニズムと、予防法なり対処法を、具体的に議論するしかないじゃないの? 「誰が悪い」「どちらが悪い」とかの倫理の問題ではないわけ。 むしろ、ダメダメ家庭というものは、事態を過度に倫理的に見ることで、プラグマティックな発想から逃避するところが、その不全な機能の一つ。 プラグマティックな視点の欠如を、倫理でごまかしているわけ。 しかし、ダメダメな人間が、「誰が悪いのか?」と散々と議論するので、そんなものに巻き込まれると、いつの間にかそんな発想が身についてしまう。 何でもかんでも倫理的に捉えることが習慣化するので、ちょっとでも欠点なり「あら」があったりすると、その点を集中的に攻撃する「モラル・ハラスメント」のようなことになってしまう。 前に、ダメダメの問題を、いわば病気のようなものとして考えている旨、書きましたが、ダメダメというのは、病気と言っても、伝染性がある。 空気感染というよりも、雰囲気感染と言えるでしょう。 しかし、感染力があるので、やっぱり離れるしかないわけですし、ヘタをすれば隔離するしかない。 もし、まだ感染していない子供がいれば、その子供をその場から放し、マトモな環境で育てるという対処も取れるでしょうし、対処としてはそれしかないわけ。 ダメダメな雰囲気の中においておいたら、まだ感染していない子供も、いずれは感染してダメダメになってしまう。 だって、ダメダメというのは、まさに会話によって伝染していくものなんですからね。 会話をシャットアウトするしかないし、そんなことをするためには、子供を引き離すしかないわけ。 しかし、そんな現実的な対処を妨害するのが善意のボランティア。 ボランティアとしては、当人たちが「恵んでやる」立場が獲得できる、ダメダメな状況を求めている。 そうして、自分たちの居場所を作ろうとするわけ。 逆に言うと、居場所がほしいので、ダメダメな雰囲気を改善しようとはしない。 以前に、デンマークのラース・フォン・トリアー監督の「ドッグヴィル」という映画を取り上げました。 「ダメダメな人を救いたい!」と、ダメダメな地域にやってくる若い善意の女性も、結局はダメダメの現実を見据え、ダメダメな地域を完全に駆除することを選択する。 逆に言うと、そんな過激な方法を用いないと、まさに雰囲気で伝染してしまうわけです。 その伝染の犠牲になるのは、抵抗力のない子供でしょ?子供は「避ける」という判断も行動もできませんよ。 ダメダメな人と無理に関わる必要もなく、基本的には避けるしかないわけですが、避けるだけでは済まない状況もあるわけ。 そうでないと、未来のある子供は救えないんですね。 (終了) *************************************************** 発信後記 今週は、ダメダメとの対処に関した文章を集中的に配信いたします。 とは言え、本文中に書いておりますが、離れることが最上。 同情心なり好奇心を持って近づくのも結構ですが、それ相応の覚悟が必要になるわけです。 常に的確な現状認識を絶やさずに・・・それが注意点。 そして何かあったら、スグに逃げられるように・・・ ダメダメの問題は、その距離感の問題。 ちょっと離れてみてみると、人間のマージナルな姿が見えるわけですから、様々な知見が得られるもの。 距離を取るためにも、逆に言うと、ダメダメの生態を理解しておくことが必要になるわけ。注意していないと、避けることを忘れて、いつのまにか巻き込まれてしまう・・・そんな事態こそ避けないとね。 |
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R.10/8/9 |