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カテゴリー ダメダメ家庭の雰囲気
配信日 09年10月5日
タイトル たとえ山を動かすような (愛のようで、愛ではない)
以前にこのメールマガジンで、新約聖書にあるヨハネの黙示録の「冷たくも、熱くもない」という言葉を取り上げました。
今回は、その新約聖書の中から、別の言葉を取り上げてみたいと思います。
「たとえ、山を動かすような完全な信仰を持っていても、愛がないのなら何の値打ちもありません。」という言葉です。
パウロが書いた、「コリント人への手紙」の第13章です。
あまりに有名な一節ですから、皆さんもご存知でしょう。映画などでもよく出てきますし、イギリスでダイアナさんがお亡くなりなった際の葬儀で、当時のブレア首相のスピーチにも含まれていました。

ちなみに、その言葉をもっと広い範囲で引用すると、こうなります。
「たとえ、私が、人の言葉や、御使いの言葉で話しても、愛がないのなら、やかましいドラや、うるさいシンバルと同じです。また、たとえ私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識に通じ、またたとえ、山を動かすような完全な信仰をもっていても、愛がないのなら何の値打ちもありません。また、たとえ私が持っているものの全部を貧しい人たちに分け与え、また私の身体を焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。・・・」

以前にも書きましたが、私はクリスチャンでも何でもありません。
ただ、新約聖書は、実に、いい本だとは思います。人間のやっていることなんて、この時代も今も何も変わっていないもの。

実はある人とのやり取りで、痛感したんですね。
このメールマガジンでは、ダメダメ家庭とは、会話不全で被害者意識が強く、当事者意識がない家庭であるなんて書いていますが、別の言い方をすると、このようにも言えるわけ。
それは、「ダメダメ家庭とは愛がない家庭である。」
そのように書くと、実に当たり前になってしまう。

あまりに当たり前すぎて、逆に何も伝わらない。
そもそも、この私は反語的な表現を駆使する人間なんだし。
しかし、実際に、ダメダメ家庭とは、やっぱり愛がない家庭なんですね。

この問題については、以前に「慈愛」というタイトルで文章を配信しております。ダメダメ家庭というものは、形にはこだわりますが、中身がないわけです。

実は、私に意見をされた方がいて、その論調はこんな感じでした。
「オマエの考え方は児童心理学でオーソライズされているのか?」

その手の意見は、たまにあったりします。
しかし、学術的な見地から一般論的に検討したり、実際に見ることが出来ない遠くにいる他人の子供がどうなろうと、一般の人にしてみれば、重要とは言えないでしょ?
自分の目の前にいる児童を、しっかり見ること・・・そっちの方が重要なのでは?
それができないとしたら、そのこと自体が問題でしょ?

自分の目の前にいる児童・・つまり自分の子供が、心から幸福に笑っていれば、それでいいんじゃないの?愛を持って子供の表情を見れば、それが心からの笑顔なのか?それとも親に合わせた作り笑いなのか?それくらいは分かるでしょ?
それに顔の表情から判断するだけでなく、実際に子供と話をすればいいだけ。

それが「作り笑い」だったら、その時には、児童心理学でも導入すればいいんじゃないの?
まずは、愛を持って子供を見つめることが先でしょ?
しかし、ダメダメな親はそれができない。
一番最初の段階が出来ていないんだから、児童心理学で考える以前の問題ですよ。それに「作り笑いかどうか」が判断できないような人は、学術的な考えを導入しても、どうせ何も改善できませんよ。
そんな鈍感な大人が、ヘタに対処すれば、子供の「作り笑い」が進化して、トラブルが進行するだけ。

愛というものは、あまりに頻繁に使われるので、人は愛について考えない。
だから、別のものと混同してしまっている。

たとえば、「施し イコール 愛」ではないでしょ?
誰かに恵んでやったからと言っても、愛からのものではないケースも多々あるでしょ?
愛があったら、相手に厳しいことも言うもの。しかし、誰かに施しをして喜んでいるような連中は、相手に対して決して厳しいことを言わないでしょ?結局は、相手を見ているのではなく「ボクって、いい子でしょ?」と自己満足に浸っているだけでしょ?それのどこが愛なんだか?と言うか、そのような自己満足の施しは、キリストさんが一番忌み嫌っていることでしょ?

むしろ、相手に「施す」ことによって、「支配・被支配の関係」を確立している例も多いわけです。それは一見「保護」に見えるわけですが、相手を肯定したものではないわけ。むしろ、相手を支配下におきたいという相手に対する否定的な感情なんですね。

あるいは、「配慮 イコール 愛」ではないでしょ?
ダメダメ家庭の子供は、親に配慮する。親に迷惑を掛けてはいけないと常に切羽詰っている。しかし、その配慮は愛なの?単に遠慮しているだけでしょ?むしろ、関わり合いたくない、そして考えたくないがゆえに遠慮しているわけでしょ?

何か不都合な事態になると、自分の親のことを必死で弁護する。そのために周囲の人間に荒々しい言葉を使うことにも躊躇しない。しかし、それが愛なの?自分の尊厳を損なってまで、親を弁護することを子供に強いる親って何?しかし、親を必死に弁解する子供の姿って、まさに児童虐待の現場にはお約束の姿でしょ?

あるいは、「同情 イコール 愛」ではないでしょ?
ドメスティック・ヴァイオレンスのボランティアなどで、「まあ!なんてお気の毒な!」と「被害者」に同情の声を掛けるだけの存在は、本当に「被害者」を肯定的に見ているの?たた「加害者」を否定したいだけでしょ?対象を肯定しているのではなく、対象の敵を否定するという二重否定状態になっている。

あるいは、「依存 イコール 愛」ではないでしょ?
この依存の問題は、このメールマガジンで頻繁に触れております。
以前にも書きましたが、依存状態といえる「I need you」は、「ワタシはアナタを必要としています。」となるわけですが、それは別の言い方をすると「ワタシはアナタから離れられない。」となり、意味的には二重否定となる。「ワタシはアナタを愛しています。」という単純な肯定形ではないわけ。

しかし、一般的には、この依存関係と、愛情との違いが認識されにくい。
それは、二重否定と肯定形の文章の区別を、一般の人がしないのと同じ。
しかし、その違いからダメダメは見えてくることになる。

依存関係を説明するに当たっては、つまり「離れられない理由」を説明するためには、それこそ「山を動かすような」までに壮大な理屈が登場したりするもの。法律的だったり、経済的だったり・・・それこそ「子供を愛さない親はいない。」なる二重否定の説明が登場したりするもの。
しかし、ダメダメな親は、自分の子供を必要としているけど、愛してはいないわけ。

ダメダメ家庭は、常に否定形であって、何かを肯定することはない。
だから、何も愛していない。
以前に取り上げました社会心理学者のエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」の中には「愛とは相手を肯定する感情である。」なる記述がありました。
難しいことを書いているように思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、「まずは肯定から入るのか?」「まずは否定から入るのか?」そんな点から見えてくるものなんですね。
常に否定ばかりのダメダメ人間は、本当の意味で、人を好きになることはない。

自分の子供だって愛しているのではない。
他の人間が自分の相手をしてくれないだけ。まさに二重否定の結果として、子供に依存しているだけ。自分の子供は自分の命令を聞くから、相手をしてくれる。
相手をしてくれると言っても、ダメダメな親は、自分の子供の美質を言えない・・・つまり肯定的に見ているものはない。だから愛とは言えない。

愛とか好きな気持ちは存在しないけど、好きという「形」は存在する。
その「形」を整えることはできる。まさに「離れてはいない。」「疎遠になっていない。」という二重否定的な状況を作って、「好き」という形としてしまう。
形を整えることはできても、「自分の子供の何が好きなのか?」「自分の子供のどんな点を肯定しているのか?」その点について人に説明できない。
言えるとしたら、「気を使わなくてもいいから・・・」くらいの理由くらい。しかし、気を使わないからといって、じゃあ、会話があるかというと、現実には会話もない。
会話がないので、相互理解が何もない。
子供の好きなものが言えないし、子供は親の好きなものも知らない、まさに「ふ・つ・う」の境地。そんな状態で、どんな話題で会話するの?形があると言っても、逆に言うと、子供がやりたいことをやろうとすると、「それはダメ!」と言下に否定する。形の維持が最優先になっていて、子供の嗜好や希望には関心を持たない。

だから、「子供が何を好きなのか?」そんなことも全然知らない。知らないだけでなく、子供としては、それを抑圧してしまっている状態。
好きなこととか、遊びとか、勉強も、あるいは食べ物や将来やりたいことなど、好きという肯定的な感情が何もない。
やらないわけには行かない・・・という二重否定があるだけ。
そんな家庭は、「問題がない」という二重否定的な形を整えながら、殺伐とした心象風景になってしまう。

好きなものがないし、熱中できるものがないし、達成したいものがないし、だから忍耐がないし、だから達成感を持っていない。まさに愛がないまま。
そんな人が、じゃあ、どうして結婚しちゃうの?
しかし、自分自身を抑圧しているので、そんな疑問すらない。
結婚しないとマズイという二重否定があるだけ。

結局は、何も肯定しないまま、何も愛さないまま、突っ走ってしまう。
そしてお約束のドッカーンに。
そんな流れを持つ文芸作品となると、以前に取り上げたトルストイの「アンナ・カレーニナ」が、まさにそんな作品です。
あの「アンナ・カレーニナ」を恋愛小説であると「解説」するオバカさんが結構いるようですが、じゃあ、いったい、あの作品に愛はどこにあるの?

アンナは、情夫のアレクセイのどこを愛しているの?
アンナは、自分の子供のどこが好きなの?
建築や美術など、色々と趣味の分野に手を出すアンナだけと、本当に好きなのは何?

アンナさんにあるのは、二重否定だけ。それを一般の人は、肯定と捉え、愛と誤認してしまう。
ダメダメな人間が、何かを愛するためには、つまり何かを肯定するには、二重否定状態を一つ一つ解きほぐす必要があるわけです。それには、まず現在の状況が二重否定であって、肯定ではない・・・それを認識することが必要になるもの。

もちろん、それが実に難しいことは、このメールマガジンで頻繁に書いていることですし、このメールマガジン以外にも、数多くの偉大なる芸術作品が描写しているとおりです。
そんな作品を参考にすればいいのでは?

しかし、愛のない、肯定の精神がないダメダメ人間の周囲には、同類がやってきて、「アイツが悪い!」否定形で共鳴してしまう。そして「アナタは悪くないわ!」と、お約束の二重否定。
そんな状況は、トルストイどころか、キリストの時代から全然変わっていないわけです。

以前に国会議員の選挙があって「ワタシたちは勝った!」「山は動いた!」と言っていた人がいました。じゃあ、その人は何を達成したかったの?何を肯定しているの?何を愛していたの?
結局は、自分以外のものを、否定するという二重否定とまりでした。
そんな人は、それなりの信念はあったかもしれませんが、愛はないわけです。

愛の言葉を発するのは簡単。しかし、実際に相手を愛するのは簡単じゃない。
先週の土曜日に、鳩山さんについて考えてみましたが、言葉として友愛を語るのは簡単でも、身近な人間の苦悩をサポートすることは簡単じゃない。

実際の山が動くわけがありませんが、現実世界では、「山が動くほど」の大きな動きがあったりするもの。しかし、そこに愛がないと、結局は元に戻ってしまう。そんなことは、キリストの時代から何も変わっていないものでしょ?

(終了)
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発信後記

900回記念ということで、歴史的に有名な言葉を取り上げました。
頻繁に書いていますが、二重否定と肯定の違いに注目しないとダメダメは理解できないもの。

話は全然変わりますが、先週ちょっと言及いたしました、中川昭一さんがお亡くなりになったようで・・・
彼は、政治家をやるには繊細すぎたのでは?

せっかく落選したんだから、それこそ大学の教官にでも転身すればよかったのに・・・
彼の周囲の人も、そんなアドヴァイスをしなかったのかな?

アル中の人にお酒を提供するのが善意ではないでしょうし、政治家に向かない人に、「次の選挙ではガンバレ!」と励ますことも、本当の善意ではないでしょう。
愛というのは、一方的に気持を押しつけるのではなく、やっぱり相互理解が不可欠なのでは?相互理解のない愛は、結局は、うまくいかない・・・これはいつものことでしょ?
R.10/12/28