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カテゴリー ダメダメ家庭の人からのメール
配信日 09年10月12日
タイトル 短文オンリー
このメールマガジンでよく書いていますが「会話とおしゃべり」は違うものです。
会話というものは、自分の考えを相手にわかりやすく伝え、相手の話を真摯に聞く・・・そんなやり取りの積み重ねでしょ?
そして、ダメダメ家庭というものは、会話が不全の状態の家庭と言えます。一時的な楽しみとしてのおしゃべりはあっても、相互理解につながる会話がない。

そもそも当事者意識がないので、相手に伝えたいもの、それ自体がないんだから、「自分の考えを相手にわかりやすく」も何もありませんよ。そして当人自身が「伝えたい」「分かってほしい」という発想と無縁の人間なんだから、相手側が自分に伝えたいことがある・・・そんな相手側の気持にもピンと来ない。

「石にかじりついても」なんて強い気持ちがないので、何も達成できず、結局はトラブルになり、やがては「ワタシは悪くないっ!」と言い訳を持ち出し、捨てセリフを投げつけトンズラ・・・そんなお約束の流れがあるものなんですね。

そんな人の文章って、短文オンリーの傾向があります。ここでの短文はセンテンスが短いというのではなく、文章の全体の長さが短いという意味です。

もちろん、長い文章だと、これすなわちマトモなのか?というと話は別ですよ。
本来なら必要に応じて、長い文章と短い文章を使い分ける必要があるでしょ?さながら、おしゃべりと会話を使い分ける必要があるように。
短文オンリーということは、おしゃべりオンリーということなんですね。

本当に相手に伝えたいことがあるのなら、やっぱり文章も長くなりますよ。
事態を説明する際には、過去の経緯なり、現在の状況を、できるだけ詳細に記述した方が、相手にも分かりやすいでしょ?
そんな詳細な記述をしても、分からないような人は、相手にしなければ済む話。

短文だったら、その時点で思いついた「気持ち」をサクっと書けばいいだけでしょ?
と言うか、それ以外は書けないでしょ?
しかし、それで何が伝わるの?

おしゃべりのようなシチュエーションだったら、そんな態度でもいいでしょう。コッチが困ってしまうのは、相談のようなシチュエーションでも、そんな態度の人がいることです。
「自分の問題を何とかして解決したい!」なんて思っていないのに、相談してくる。以前にも書きましたが、それって「相談というスタイルのグチ」なんですね。所詮はグチだから、「困った!」とか「つらい!」とか「悲しい!」とかの感情表現ばかりで、「具体的に何に困っているのか?」「どんな状況なのか?」について相談の文章を読んでいてもサッパリ分からない。

こっちが『この点は、具体的にはどうなっているの?』なんて聞いても、具体的な記述はやっぱりなし。そんな人にしてみれば、短文というのは、実に便利であるわけ。
自分の感情を並べるだけで、現状を具体的に記述しなくても済むでしょ?

相手から突っ込まれると、「今まで書いていませんでしたが・・・実は、こんな事情があって・・・」と情報を小出しにしてくる。
情報を小出しにするスタイルとしても、短文オンリーのスタイルって、実に便利でしょ?

まあ、私のような人間は、『解決するつもりが本当にあるのなら、もっと的確に記述してね!』『順序だって説明する能力がないのなら、箇条書きでもOKですよ。』などと返事をいたしますが、そうなると、「相談者」からの返事なんて来なくなってしまう。コッチは何か意見を言っているわけではないんですよ。客観的で詳細な記述が先だと申し上げるだけです。

ただ、たとえ短文オンリーでも、形の上では相談という場を設定し、相手に対して自分の感情を伝えたわけだから、当人としては、ある種の対処をしたと思ってしまって、それ以上は、自分自身を見つめることはしない。
まさに「ワタシはやれることはやったわ!もう、知〜らない!」としてしまう。

短文オンリーの人は、そんな感じで、感情的な単語が多く、情報を小出しにして、スグにトンズラする傾向が強いわけです。
まあ、皆さんも、実際にご存知の人がいらっしゃるのでは?

それに、短文オンリーの文章しか書けない人は、当然のこととして、読む際にも短文オンリーとなってしまう。長い文章は読めない。
何回も書きますが、短文によるおしゃべりは、それに応じて楽しめばいい話。
しかし、短文オンリーばかりになってしまうと、周囲も同類になってしまう。
こうなると、まさに、おしゃべりオンリーとなり、会話の能力が欠如していき、ダメダメがどんどんと進行してしまう。

せめて人に相談するような段になったら、それなりの長文で詳細に記述しないとマズイでしょ?短文による相談って、いったい何が伝わるの?
まあ、この私だったら、そんな短文の相談を受け取ると、「この人は・・・いつトンズラをするんだろう?」と見ることになってしまいます。
まあ、実際に必ずトンズラされてしまうものなんですが。

しかし、長い文章を書けるくらいの気迫がければ、何事も解決しませんよ。
それに、表現の上手い下手はともかくk、客観的な説明をしないと、相互理解もあり得ないでしょ?
長文に纏め上げるためには、それなりに「自分が伝えたいことは何だろうか?」と継続的に自問自答する必要があるもの。抑圧的な人間は、それができないわけ。
逆に言うと、だからこそ、トラブルになったりするわけです。

まあ、そんな短文オンリーの人が、たまたまがんばって、ちょっと長めの文章を書いたりすると「長文失礼します。」なる文言が登場したりするもの。
このメールマガジンの購読者さんからのお便りの文章の中で、「長文失礼します。」という文言が多かったりするんですね。

色々と書いていたら長くなってしまった・・・読む時間を取らせてしまって申し訳ない・・・建前の上では、そういうことなんでしょうね。
何も、この「長文失礼します。」という文言があるからと言って、その人がダメダメな人だと申し上げているわけではありませんよ。本当に長文のケースももちろんありますし、ある種の「時候の挨拶」とか「社交辞令」とか、定例の末尾の文言に近い使われ方もある。ほとんど「敬具」と同じニュアンスなのかも?

ただ、わりと頻繁に登場してくるので、怪訝に思うこともあるわけです。

その「長文失礼します。」という言葉はいいとして、じゃあ、どれくらいの長文なの?
長文というからには、パソコンのアウトルック・エクスプレスなどのメール・ソフトで直接書き上げた・・・のではなく、ワードなどのワープロ・ソフトで書いて、後で貼り付けたのでは?まあ、そんな技術的な問題は別にして、「長文失礼します。」というからには、さぞかし壮大な長文なのか?というと、そういうものではない。

それこそ、ワードで1枚くらいの文章の容量だったりするわけ。

まあ、一般的なメールで、ワードが3枚くらいの文章容量だったら、「長文失礼します。」というエクスキューズの文言もありかなとは思いますが、ワードで1枚だったら、「長文」でもありませんよ。

ただ、どの程度からが長文なのか?その判断は人それぞれでしょう。
人それぞれなのはともかく、じゃあ、誰にとっての長文になるの?

そのメールを受け取り、その「長い」文章を読むこの私なの?

しかし、この私が、「この文章は長いなぁ・・・」と思う文章は、本当に長い文章ですよ。それこそワードで7枚程度だと「結構長いなぁ」とは思いますが、3枚程度だったら、「なんてことない」程度ですよ。ましてやワードで1枚程度だったら、長文なんて言われた方が不思議に思いますよ。だって、このメールマガジンの文章の長さを考えれば、それくらいは予想できるでしょ?読むにあたっての物理的な時間なんて、大したことではありませんし。
時間ではなく、知能の問題なの?この私は、ワード2枚程度の文章を理解するのが、困難なほどの知能なの? 「長文」読解能力が低い人間なの?
「長文失礼します。」という言葉も、あまりに乱発すると、その言葉自体が失礼に当たってしまう・・・可能性もあるわけ。

今まで其の言葉を書かれた方を非難しているわけではありませんよ。謙譲の表現には注意した方がいいと申し上げているだけです。「つまらないものですが・・」とお土産を渡す場合には、「つまらないものなんかを、このワタシに持ってくるなよ!オレをバカにしているのか?!」と思う人もいる・・・
そんな点への配慮も必要だろうと申し上げているだけです。
お土産での慣用表現は、日常的なので、皆さんはわかっているでしょうが、当人の使っている慣用表現を相手も使っているとは限らないわけ。

その「長文」云々の表現を受けた際に感じることが多いのは、この「長文失礼します。」と書いた人は、文章のあて先に対しての長文ではなく、文章の書き手・・・つまり当人にとっての長文と感じているのでは?
そう考えると理解できる場合も多いんですね。

文章というものは、その長さにかかわらず、主要なテーマと、それを補足するエピソード・・・そのような組み合わせになるでしょ?
主要なテーマが、常に意識されていて、エピソードがその主要テーマと有機的に組み合わさっていれば、たとえ長い文章でも、読み手には理解しやすい。
本来なら、そういうものでしょ?

長文が問題なのではなく、補足するエピソードが、主要テーマと有機的ではない・・・それが問題なのでは?もっと極端な例だと、そもそも文章の書き手が、その文章の主要テーマを自覚していない・・・そんなケースもあったりする。

その文章の主要テーマが自分でもわかっていないのに、ダラダラと書き綴ったら、そりゃ、そんな文章は、名実ともに「失礼な長文」となりますよね?
実際に、ワード2枚程度の文章でも、そんなスタイルだと、ものすごく長く感じるものなんですよ、というか、この私ですら、とてもじゃないけど最後まで読めないくらい。

抑圧的なダメダメ人間は、自分自身の「言いたいこと」「相手に分かってほしいこと」を文章を書く前にちゃんと自覚する・・・
それが出来ていないケースも多いわけです。

これが短文だったら、そんな状態でも何とかなるんでしょう。文章の構成なんて関係ありませんしね。断片的な感想を書いて、投げつけるだけでしょ?そのような短文が跋扈しているのは、言うまでもなくインターネットの掲示板の世界。
そんな世界に入れ込んでいると、短文しか書けなくなってしまうのでは?必要以上に長文である必要はありませんが、主要テーマと補足するエピソードという形がしっかりできていれば、そのような、しっかりとした構成の文章の方が本来は理解しやすいわけでしょ?
長文と短文をTPOに応じて使い分ければいいわけでしょ?
しかし、使い分けるためには、ある程度の長文も書けるようにしないとね。

以前に、「文章が長くなってしまったので・・・」ということで、3つに文章を分けた形でメールをいただいたことがありますが、一つ一つの文章は、それこそ20行くらい。
携帯電話からメールされたわけではないようでしたので、何も文章を3つに分ける必要はない長さなんですね。

しかし、主要テーマと補足するエピソードという形に纏め上げる・・・あるいは別の言い方をすると「主要テーマは何なのか?」そのことを考えること自体から逃避する・・・だから、短文になってしまう・・・そんなケースだと、どうしてもちょっと長めの文章を分割する必要があるんでしょう。
そんな状態に安住してしまうと、「主要テーマと補足するエピソード」という構成の、ちょっと長い文章を読むことが出来なくなるし、当然のこととして自分で書くこともできない。

自分自身で長文が書けないことを、「相手に失礼だから・・・」という名目にすり替えてしまうわけ。

しかし、問題になるのは、文章の長さそのものではなく、ムダに長いことでしょ?
あるいは、文章が長いことを謝罪するよりも、文章がヘタなことを謝罪することの方が先でしょ?
「ヘタな文章で失礼しました。」という言葉は、受けたことないなぁ・・・

ダメダメ家庭の周囲では、「相手のため」のいう名目で自分の考えをまとめることを逃避するケースが実に多い。
それこそ以前に、支離滅裂な逆上メールをいただいたことがありますが、私はその方に対して『内容はともかくとして、文章を書くのだったら、句読点は入れた方がいいですよ。』とお返事したことがあります。そうしたら、「句読点を入れると文章が長くなるから入れなかった。アナタへの配慮なんだから感謝しろ!」とのことでした。まあ、そんな逆ギレの文章を書く女性の子供が今どうなっているのかな?まだ娑婆にいるのかな?そもそも、その女性は自分の子供とどんなやり取りをしているんだろう?まあ、分かり切ったことですが・・・
そこまで『いっちゃっている』人はレアケースですが、文章を書くのなら、「自分の考えを自覚して、わかりやすく伝える。」ことが第一でしょ?多少長くなってもいいじゃないの?

おしゃべりだったら、長い話は実際に鬱陶しいわけですが、会話だったら、ちゃんとした内容でないと、不可でしょ?だって、分かりやすいことが最優先であって、そのためには客観的な説明が必要ですよ。
逆に言うと、おしゃべりどまりの人は、短文オンリーになってしまうわけです。

インターネットの掲示板の常識は、その世界の常識なりマナーとしてあるでしょう。しかし、文章の相手が、その世界の人なのか?それはわからないでしょ?だから、まずは一般的な世界の常識から入った方がいいわけでしょ?
一般的な世界では、文章などの伝達手段というものは、主要テーマがしっかり表現されている・・・そっちの方が重要ですよ。

前にも書きましたが、「長文失礼します。」と書かれた方をダメダメだと申し上げているわけではありませんヨ。大して長くもない文章なのに、そんな表現があったりするので、ちょっと怪訝な思いがする・・・それから見えてくることもあるというだけ。

文章を書きなれていない人が、「言いたいことを簡潔明瞭に表現しなきゃ!」って、そう思っているのなら、あえてこの私が言わせていただくと、
「簡潔明瞭なんて10年早いよ!」
「ナマ言っているんじゃないよ!」
ということ。

長い文章になってもいいから、「自分がどうしても言いたいこと」を伝える努力・・・その努力の積み重ねが、簡潔明瞭な文章になるんでしょ?
長文がダメということではなくて、書き手が「伝えたい」ことを自覚しきれていないことがダメダメなんですね。
そして、伝えたいことが自分でもわかっていないことを、文章の長さの問題にしてしまう。
だから、ますます自分が見えてこなくなってしまうわけです。
そして、会話ではなく、おしゃべりに終始し、
相談ではなく、グチに終始することになる。
そして、長い文章で嫌われたくないという名目で、いい加減な対応をして、相手から信頼されず、結局は嫌われる。
そんな人は、現実にもいるでしょ?

(終了)
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発信後記

今週は、文章などの表現に関する文章を集中的に配信する予定です。

ちなみに、本文中でも「句読点がまるでない」文章について言及しておりますが、そんな「文章?」は、インターネットの掲示板などで、たまに見ることができますよね?
まあ、メールで直接的に受け取ったことがある人は、実に少数派でしょう。

句読点がない自分の文章を、一回でも読み直してみたら、「こりゃマズイ!」と思わないのかな?
逆に言うと、読み直すことができない人がそんな文章を書いているわけ。
抑圧的な人間は、自己逃避であって、だからこそ自分が書いた文章を読み直せない。ただ、人のあら探しをするだけ。

そんな人に限って「ウチの家庭はうまくいっている!!」と豪語するもの。
そりゃそうでしょうよ。自分の書いた文章を読み直せない人なんだから、自分の家庭にどんな問題があっても、何も認識できませんって・・・
言われてみれば当然のことでしょ?
R.10/12/28