トップページに戻る 配信日分類の総目次に戻る
カテゴリー分類の総目次に戻る タイトル50音分類の総目次へ
カテゴリー 会話のスタイル(発言側)
配信日 09年10月14日
タイトル 爪のない言葉
このメールマガジンにおいて、抑圧的なダメダメ家庭の人間の文章は、「造花で作った、見事なフラワーアレンジメント」に似ていると書いたりしております。
あるいは、フランスの作家マルグリット・デュラスが「おもしろくない本」を定義した『感じがよくて、何も残らず、夜がなく、沈黙がなく、真の作者がなく、昼間向きで、時間つぶしに最適で、よき旅行のお供・・・』という言葉を紹介したりしております。

言わんとしているところは、この私もデュラスも同じ。

きれいな薔薇には刺がある・・・じゃないけど、生命力のあるものには、刺があったりするもの。そんな生命力のある言葉を使わないと、相手に対して何も伝わりませんよ。
刺があればいいというものではありませんが、相手の心に「引っかかる」刺とか爪がないとね。言葉だって、ただ素通りするだけになってしまいますよ。

しかし、ダメダメ人間の言葉には爪がない。会話でも、思考でも、使う言葉が軽い。だから、食い付きがないし、引っかかりがない。
そもそも、どうしても伝えたいという意欲や覚悟も気迫も決意ない。
だから文章も「詰め」られていない。

相手を傷つけないし、自分も傷つかない・・そして何も残らないし、何も達成しない。
それがダメダメ人間の言葉。
以前に配信したように、いい子ちゃん志向のダメダメ人間は、周囲から加害者認定されてしまうことへの耐性が低く、人を傷つける自分自身と向き合うのが怖い。だから、自分の存在を根源から規定するような深い思考へ至ることもなく、どうでもいい知識を集めて悦に浸っている。

思考につながる言葉は、つまり、その人の存在を規定するような言葉は、痛みを与え、痛みをもたらす、いわば「つめ」があるもの
「つめ」から逃避する人の言葉は、言葉の流れはよく、分かったようで意味不明な言葉が頻発している。自分にとって切実であることよりも、周囲の人間に受けがいいことが優先されてしまう。
相手から共感してもらえることを求めるが故に、否定されにくいことばかり書いて、結局は毒にも薬にもならない文章になってしまう。そんな文章ばかりだから、結局は信頼されなくなる。信頼と好意の区別が付かないダメダメ人間は、人から信頼を得ていないことを、好意の問題としてとらえ、相手から嫌われないようにしようと、ますます毒にも薬にもならない言葉の羅列となってしまう。だからこそ、その人の「顏」が見えず、ますます人からの信頼は得られない。

抑圧的な人は、自分自身から逃避しているんだから、それなりの学力はあっても、思考力がない。権威筋から与えられたご高説を、ただオウム返しに繰り返しているだけ。

分かったようで分かっていない・・・そして、権威主義的となると、「○○主義」とか「△△論」などの言葉が典型ですよね?
歴史を見てみればわかるものですが、新たな考えや新たな視点を世の中に提示した張本人は、自分自身の考えを「○○主義」とか「△△論」などと、もっともらしく「飾ったり」はしないものです。だって中身の方が重要なんですからね。
むしろ、自分自身の考えを、できるだけ分かりやすく伝えるために、平易な言葉を使うものです。それこそキリストが典型でしょ?あるいはソクラテスだって、使っている言葉自体は、平易なもの。彼らはたとえ話を駆使して、実に分かりやすく表現している。

そもそも、「○○主義」とか「△△論」などと余裕を持って語れるような精神状態の人は、新しい考えを提示する必要はない人と言えます。新しさというものは、その人の切実さと繋がっているもの。それだけ既存のものでは「収まり」がつかないわけです。

逆に、色々と小難しい言葉が出てくる文章を読んでいると、「これらの言葉って、どんな意図で使っているの?」あるいは、「どんな意味で使っているの?」「コイツ・・・自分の言っていることが分かって言っているの?」「と言うか、読んでいる私は何を分かればいいの?」そう思わされることってありますよね?何となくの雰囲気は分かっても、その実体がつかみきれないような言葉があったりするでしょ?

ダメダメの実例として、たびたび取り上げております、韓国の歴史教科書ですが、まさに「わかったようで、意味不明の言葉」のオンパレード状態。
たとえば、「民族意識」とかの言葉が頻繁に出てきますが、その民族意識って、具体的に何なの?
私にはさっぱり分からない。

あるいは、「歴史問題」なんて言葉が言われたりしますが、歴史問題なんて言われても、具体的には、「歴史上のどの事件での、どのような点が問題なのか?」さっぱり分からない。
ただ、自分に自信がない人は、そのように「小難しい」言葉を使われると、なかなか突っ込めない。逆に言うと、当人がその言葉の意味が分かっていない場合でも、相手から突っ込みを回避するための目的で、わざわざ小難しい言葉を使ったりする。

しかし、相手から突っ込まれないとしても、相手に何が伝わったの?
「突っ込まれない」は、二重否定であり、肯定ではない。

何も分かっていないもの同士が、小難しい言葉を使ったやり取りで、分かった気になる・・・って、ダメダメ人間のやり取りではよくあるパターンと言えます。そんな状態は「分かっていないことが、分かっていない」状態に安住しているだけ。「分かっていないことが、分かっていない」って、まさに二重否定そのもの。

だからこそソクラテスは「自分が、分かっていないことを、まずは分かる。」ことが、知への第一歩なんだよ!って言っているわけでしょ?二重否定のドグマから脱却するためには、二重否定の否定を一つずつ外していくしかないわけです。

さて、「分かっているようで、実は何も分からない」言葉の代表が「ふつう」ですよね?
「ふつう」という言葉の意味を説明できる人っているの?
「平均的」とか、「一般的」とか「規格品的」とかの言葉だったら、まだ分かりますよ。
しかし、「ふつう」という言葉の意味は説明できない・・・んじゃないの?
だから、そんな言葉は使わない方が無難なんですね。自分が分かっている言葉を使って文章をまとめるのがスジでしょ?その言葉の理解に誤解があっても、それはしょうがないわけですが、そもそも理解もしていない言葉は使ってはダメですよ。

「この人・・・自分で言っていることが自分でも分かっていないんだろうなぁ・・・」と思わされる人って、実際にいたりしますよね?
そんな人が周囲に対してよく言ったりするのが、『どうして、みんなはワタシのことを分かってくれないの?』なんだからタチが悪い。まあ、そんな言葉に対し「じゃあ、アンタの何を分かればいいの?」なんて聞こうものなら、お約束の逆上。

まずは、自分の言いたいことを、自分自身で理解することが最初でしょ?
しかし、何回も書きますが、抑圧的なダメダメ人間は、爪も詰めもない言葉を使って、当たり障りのない言葉が、流れているだけ。

そんな人は、何かを解決するための議論はできない。議論のための議論にしたがるだけ。そして、自分が傷つかない結論にしたがる。
そうして、「ああ!オレたちって、この○○による被害者なんだよなぁ・・・」と自分で納得できればそれでオシマイとなる。

伝えたいもの、分かってほしいことがないので、自分の現状を説明する段でも、実に「人ごとのように描写」したりするもの。傍観者に近い立ち位置からの表現になってしまうわけです。
自分自身について語る際にも「〜じゃないのぉ・・・」なんて物言いが登場したりする。
それこそ、「オレって、今日は気分が悪いんじゃないのぉ・・・」なんて物言いで語ることになる。いったい誰のことを言っているのやら?そして、「夫はいつもそんな感じで人ごとのように自分のことを語っている・・・そんな夫に困っている妻は多いんじゃないかなぁ・・・」と、グチグチ言っている妻の文章も、またそんな調子なもの。そんな文章に対して、「アナタの文章も十分に人ごと描写ですよ、アナタ自身には自覚がないの?」なんて聞くと、『アンタがそういうんだったら、ワタシの文章も人ごと描写と言えるんじゃないのぉ・・・』と、やっぱり堂々たる人ごと描写なんですね。

そんな人ごと描写を受けた私としては「そのように困っている人は、アナタ本人なの?それともアナタの知人なの?アナタがその知人の代わりに相談の文章を書いているの?」と聞くハメになってしまう。
客観描写と、人ごと描写は、全然違うものでしょ?

自己逃避のダメダメ人間は、自分自身を騙すために、いつでも逃げられるように、人ごとで描写する。
誰かとやり取りしたとか相談したというアリバイがほしいだけ。本気で事態を解決する意欲も覚悟もない。だから常に逃げ場所を意識することになる。
そうやって、相手から突っ込まれると、前々から準備していた逃げ場所へトンズラしてしまう。

自分を騙すために、そして、相手から「アナタは、かわいそうねぇ。」と言われるための認識であり描写となっている。自分が判断するための認識ではなく、いわば、語ることによって、それ以上その問題を考えることから逃避しているだけ。そんな人は、自分のイタイところを相手から突かれないように、教科書とおりの言葉をくりかえす。

だから自分のペースで語らないと困ってしまう。だからやり取りの主導権にこだわり、情報の小出しも頻発することになる。自分が分かっていないことを認めることから逃避し、結局は、グチの予定調和が達成されただけ。

そのように、自分から逃げ回っている人間は、それに相応した文章などを読みたがるもの。このことは以前より頻繁に書いています。まさにマルグリット・デュラスがいう「面白くない本」のような文章しか読まない。
決して「自分に厳しい爪のある言葉」が出てくるような文章などは読もうとしないんですね。「まあ、お気の毒ねぇ!」そんな言葉がちりばめられているような文章だけを読もうとするわけです。

そんな「まあ、お気の毒ねぇ・・・」なんて調子の文章を書く人間も、やっぱり「自分から逃げ回っている」人間。自分から逃避するために、とりあえずの「言い訳」を文章にしている・・・そんな文章ってよくあったりするでしょ?
そんな、通りのいい言い訳こそ、ダメダメな人間が求めてやまないもの。
安全圏から一歩も出ようとしない書き手が書いた文章は、読み手も安全圏から出ないで済むわけ。そんなモンでしょ?

私個人は、読み手を逆上させることが目的ではありませんが、このメールマガジンの読み手の方がイタイところを突かれて、顔が青ざめたり、顔面蒼白になったり、顔を真っ赤に怒ったり・・・それくらいはあると思っています。顔が青くなるとか赤くなるか白くなるかは、フランス人でもロシア人でもないのでどうでもいいことですが、やっぱり読み手に変化をもたらさないとね。読み手が安全圏に居られないからこそ価値がある・・・そう考えることもできるでしょ?

しかし、ダメダメ人間は安全圏にいたがる。被害者意識が強いので、不都合な事態から逃げる権利があると思っている。
「だって・・・ワタシはこんなにかわいそうなのよ!それくらいいいじゃないの?」と、やっぱり言い訳。
まあ、もちろんその人の勝手ですが、そんなに自分から逃げ回っていて、何が出来るというの?

安全圏にいる書き手が、誰からも突っ込まれない公序良俗に満ちた文章を提示する。それを自己逃避の読み手が読んで安全圏の中で、「いいわねぇ・・・この文章!」と思い、そして1日後にはさっぱり忘れる。

それって、文章を通じて、書き手と読み手がグチで共鳴しているだけでしょ?
「ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの!?」
あるいは、いい子として認め合って喜んでいるだけ。
「ああ!ワタシたちって、なんていい子なの?!」
その手の文章って、ちょっと読んだだけでわかるものなんですね。まさに「爪」も「詰め」もない。私としては「そんな文章を読むな!」なんて言う気はありませんが、所詮はデュラスが言う「よき旅行のお供」とまりでしょ?

と言っても、そんな言い訳がましい文章って、たまに読むと面白いもの。
私個人は、「真実」にしか関心がありませんが、そんな言い訳がましい文章のどこが真実なの?しかし、目の前の真実から目を逸らす「心の弱い」人間の姿は、ある意味において、人間の「真実」そのもの。

言い訳がましい文章を読んで、自身の言い訳のネタを探すよりも、「自分がしたいこと」を自覚したり、自身の問題点を指摘してくれる文章を読んだ方が、自分のためでしょ?
何もこの私の文章を読む必要はありませんが、グチの共鳴で終始するようなことはもったいないですよ。

自分自身から逃避するダメダメ人間は、文章を書く際にも、読む際にも、逃げ場所が意識されている。まさに「つめ」のない、どーでもいい文章でないと、恐怖となってしまう。

傷つかないのはいいとして、本来は、問題を認識し、事態を解決することが重要でしょ?
文章を書く際にも、読む際にも、解決する問題が明確になっていて、付随する情報があって、あとオプショナルな雑談がある・・・そんなプライオリティの明確な構成の「詰めた」文章の方がわかりやすいものでしょ?
それは、文章の上手下手の問題ではなく、主目的の明確さの問題です。

しかし、抑圧的な人の文章は、表現の緩急はあっても、重要度は全部いっしょ。
相手に伝えたいことがなく、いつも、逃げ腰なので、どの個所も、逃げが入っていて、腰が入ったものにはなっていないわけ。
まさに、断片が「てきとう」に並んでいるだけになっている。

マトモな人の文章は、重要なマターには腰が入って、些細なマターには、腰が入らないので、読んでいて重要度が自然と分かる。それこそが、文章の「詰め」でしょ?

しかし、ダメダメな人は、どの表現にも逃げが入っている。と言うか、本来その人にとって重要なことほど、逃げがある。自己逃避しているダメダメ人間は、自分にとって重要ではない・・・切実ではないことについては、詳細に記述できる。
しかし、自分にとって身近で切実な問題に関しては、「腰が引けた」状態となってしまう。
そんな人が文章を書いても、読んだ側は、重要度がわからない。

だって、切実なマターは、一般論ばかりで具体性がない。
しかし、些細なマターは、具体的にしっかり記述。

まさに絵に描いたような「人ごと描写」となっている。別の言い方をすると、トカゲの尻尾ばかりになってしまう。一番目立つものが、一番どうでもいい存在になっているわけ。そうして都合が悪くなると、ストックしてあった尻尾を、満を持して出しきて、トンズラするだけ。

自分の身に直接関係のないマターについては、安心して文章を書いたり読んだりできる。
だから、ムダ知識のようなものが大好き。だからこそ、ますますトカゲの尻尾のコレクションが増えてしまう。
それこそオタクの方々がよくやる知識自慢ですが、色々と知っているのはいいとして、自分の精神にどんな影響があるの?そっちの方が重要でしょ?漫画やアニメからでも自分の一生に大きな影響を受けたのなら、それはそれで結構なこと。しかし、ムダ知識を、「これって知ってる?」と自慢してもしょーもないだけですよ。

しかし、抑圧的になると、自分の目を逸らすマターについては熱心になってしまう。
そんな姿は、トルストイが描くアンナ・カレーニナがその典型でした。
その手の人は、アロマテラピーとか、カラーコーディネートとか、オカルトとかの、本質を直視することからの逃避のための知識が大好きなんですね。
そうして、自分自身の現実から目を背けて、他者のやることに対して、上からの目線で、論評して喜ぶ始末。

その論評の言葉も、また「つめ」がない。そもそも、どんな情報を、どんな人に対してわかってほしいのか?そんな意識が何もないのに、ただ他者のやっていることを論評して喜んでいるだけ。自己逃避が目的の論評なので、傍観者的な距離感がある、まさに引っかかりのない文章。だから、そのコメントなり感想も、他者の心に響かない・・・ただ、その流れてしまう言葉が、自己逃避の人間には安心だったりするわけ。
評価者然としたコメントをするのは勝手ですが、その評価したもので、自分自身はどうなったの?問題が解決したの?それが重要でしょ?

「参考になった。」とかの肯定的なコメントならともかく、「つまんない」とかの否定的なコメントなら、そんなコメントを読んだ方はどうすればいいの?あるいは、どうしてほしいの?何を分かってほしいの?
しかし、そんな傍観者然としたコメントから、その人の普段のコミュニケーションのスタイルなりレヴェルなり、その精神が見えてくる。他者のやることを否定的に評価するにせよ、だったらなおのこと、自分自身の考えを明確にするのが必要でしょ?否定的なコメントというものは簡潔すぎると「バーカ!バーカ!バーカ!」と書いているだけのようなもの。

そんな傍観者然としたコメントの文章は、言い回しは乱暴だけど、つめがなく、言葉自体に厳しさがない。そもそも自分の心を詰めていかないと、文章を詰めることはできませんよ。しかし、自己逃避人間は、その自分の心を詰めていくことができない。詰めていない状態でコメントしているので、その言葉に力がない。だから、そんな人から悪態を投げつけられても、厳しい印象を受けるわけではない。爪のある言葉だからこそ、相手の心を傷つけることができるわけでしょ?せっかく悪態を付くのなら、相手にとってダメージとなる言葉を使えばいいじゃないの?乱暴な言葉による悪態を受けても、衝撃を受けるどころか、笑撃を受けるだけですよ。

詰めることがないので締まりがなく、心が水ぶくれで、メタボ化しているようなもの。心のメタボは、身体のメタボ化よりももっとタチが悪いものですよ。メタボなので、どんな言葉も思考も、作品も、心に突き刺さらない。むしろ、自分の心に突き刺さることを避けるための皮下脂肪のような言葉なり知識になってしまっている。

と言うことで、つめのない言葉を求め、つめのない文章を書き、やっぱりつめのない言葉を求め、やっぱり、つめのない文章を書いて・・・と、延々と、というかブクブクと膨らんでいくことになる。
結局は、やり取りの相手から「アンタ・・・グダグダ書いているけど・・・結局は、何が言いたいの?」「アナタ自身が、これだけはやり遂げたいものって、何もないの?」と言われてしまう。

そう言われちゃったら、やっぱり、前から準備してあった逃げ場に向かってトンズラ・・・
そうして、また振り出しに戻ることになるわけです。

(終了)
***************************************************
発信後記

今回の内容のような文章は、わりと頻繁に配信しております。
まあ、だいたいがマルグリット・デュラスに言及されたりします。この問題に対しては、マルグリット・デュラスは私の最大の同志といえますね。

ちなみに本文中で言及した「人ごと描写」ですが、ちょっと前に、実際にニュースの記事で見ることができました。

なんでも18歳の大学浪人生さんが死亡し、38歳の母親が当初は、賊に襲われたとかの証言をしていたけれど、どうも矛盾しているようなので、結局は自殺として処理することになった・・・そんな事件です。
その母親が、「警察が自殺というなら、自殺ということなんじゃないのぉ・・・」とふて腐れているそう。

色々とお約束満載の事件ですが、被害者意識が強いダメダメ家庭の人間は、どんなトラブルも「自分が被った被害」としてしか認識できないもの。だからこそ加害者の存在が必要になる。逆に言うと、そんな発想だからこそ、「子育ては親である自分が被った被害」と認識していることが見えてくるわけ。

まあ、人ごと描写をする人が、当事者意識を持って、子育てをするわけがない・・・って、当然のことでしょ?
R.10/12/28