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カテゴリー ダメダメ家庭の雰囲気
配信日 09年10月26日  (10年12月31日 一部分を分離)
タイトル 言わせない雰囲気
 追加  メールマガジン配信時の文章から「生きてやっている」を分離独立。(10年12月31日)
よくこんな物言いがあったりしますよね?
「言いたいことがあるのなら、ちゃんと言え!」

この物言いはもっともなこと。
当人が誰かに対して希望があるのなら、それを客観的な言葉にして、直接的に相手に伝えないとね。
陰でブチブチと言ってもしょうがない。
ちゃんと明確な形で相手に伝えることが必要でしょ?

このようなことは、以前に、日本で首相をされておられました麻生さんが、総理になる以前に言っていました。
インタビュー番組で、「ブチブチと文句を言っている彼らは、どうして、明確に言わないんだろう?」そんな疑問をインタビュアー相手にしていました。そしてインタビュアーも、『そうですよねぇ・・・』と相槌。

「言いたいことがあるのなら、ちゃんと言う。」のは、論理的にも当然のことですし、現実的にも必要なこと。
しかし、ことは単純ではない。

ダメダメ家庭は被害者意識が強い・・・このことは、このメールマガジンで明確に言っています。被害者意識が強いので、それこそ子育てだって親である自分がこうむった被害と認識している。そしてダメダメな親は「自分こそが一番かわいそうな人間なんだ!」と確信している。

自分こそが一番かわいそうと思っているので、自分よりも恵まれている人間の意向など、聞く気もない。当然のこととして、子供の意向などにも関心がない。
ダメダメな親が自分の子供に対して抱くのは、「コイツのせいで・・・ワタシはこんな目に・・・」という犯人認定の心理だけ。

しかし、子供だって、子供なりの意向を持っているのは当然のこと。
じゃあ、「言いたいことがあるのなら、ちゃんと言う。」という日本国認定の原則?にしたがって、ダメダメ家庭の子供が、親に対して、自分の意向を伝えたらどうなるの?

こうなると、ダメダメな親は立腹することになる。
そもそも、子供は親である自分より恵まれている存在であると確信しているんだから、そんな「自分よりも恵まれている」存在の意向を、「一番かわいそうな」自分がサポートする義務はないじゃないの?そして「また、面倒を持ってきて・・・」「コイツのせいで、面倒な目に・・・」と子供に対し怒り出し、結局は「いったい誰のために、こんな苦労をしていると思っているんだ?!」と逆ギレするだけ。まあ、首相となった麻生さんに直接文句を言ったら、どうなったのか?やっぱり逆ギレしたでしょ?ダメダメというよりも単なる無能の麻生さんでもその調子なんだから、ダメダメ家庭では子供は親に文句なんて言えませんよ。北朝鮮の民衆に対して『言いたいことがあるのなら、将軍様に対してちゃんと言え!』と要求することは、人道的に外れているでしょ?
ダメダメ家庭の子供に対しても、そんな要求は現実的ではないんですね。

つまり、子供としてみれば、自分の意向を親に伝えると、面倒な事態になるだけ。このようなことは、困りごとを相談しても同じこと。
「自分こそが一番かわいそう。」だと思っている親に対して、子供の困りごとを伝えても、「そんなことで、何を困っているんだ?ワタシなんか、もっとかわいそうなんだぞ!」とイヤミを言われるだけ。

つまり「言いたいことがあるのなら、ちゃんと言う。」という一般的な原則はともかくとして、ダメダメ家庭においては、「言ってしまった段階」で面倒なことになってしまう。
と言うことで、子供も親に対して何も言わなくなる。
意向を伝えても面倒になるだけなので、そんな子供は、意向そのものを持たなくなる。
ダンテが言うように「この門より入るもの、希望を捨てよ!」にならざるを得ない。

このようなことは、以前にも、このメールマガジンで色々なスタイルで書いております。

マトモ家庭においては「言いたいことがあるのなら、ちゃんと言う。」原則が成立しているわけですが、ダメダメ家庭においては成立してない。
そして、世の中でトラブルを起こすのは、ダメダメ家庭出身者でしょ?

つまり、トラブルが発生している領域では、「言いたいことがあっても、言えない。」という常識の中で育ってきた人たちが主流なんですね。だからこそトラブルを考える際には、「言っていること」「していること」から考えるのではなく、「言おうとしないこと」「しようとしないこと」を考える必要があるわけです。

そんな人たちも、自分の意向や希望は言えなくても、自分の被害は言えたりする。それこそ、その人の親がそうであったように。
当事者意識がないダメダメ家庭においては、「達成したいもの」がない。だからお互いの意向を伝え合うことはない。しかし、被害者意識が強いので、被害は認識している。だからお互いの被害を主張し合うことになる。
「オマエを育てるために、ワタシの人生を棒に振った!」
「オマエよりも、ワタシの方がもっとかわいそうなんだ!」
そんな被害の主張が飛び交っている。
そして、「どっちの被害が大きいのか?」競争している。
そしてより被害が大きい方がランクが高く、一番「かわいそう」とされた人間が、一番序列が高いことになる。

つまり、ダメダメ家庭においては、「言いたいことがあるのなら、相手に分かりやすく言う。」のではなく、「被害を受けたら、声高に主張する。」という状態になっているわけです。
そんな状態の中で育ってきた人が、クレーマーになったり、市民運動の活動家になったりするのは当然でしょ?

一般論ばかりだとわかりにくいので、子供の意向を言わせないパターンの実例をあげてみましょう。
たとえば、以前より言及することがある歯並びの問題ですが、ダメダメ家庭では、子供から『自分の歯並びを矯正したい!』と言えない雰囲気となっている。だってダメダメな親は常日頃からこんなグチばかり。
「ウチはそんな贅沢をする余裕はないんだ!」

子供としては、こんな雰囲気では、とてもじゃないけど、自分の歯並びの矯正なんて頼めないでしょ?しかし、そんなダメダメな親は「贅沢をする余裕」はなくても、子作りはする。
頻繁に書いていますが、ダメダメな親は、子供から受け取ることを考え、子供に与えることは考えない。いわば、道具として子供を見ているわけです。

以前に起こった岡山駅での突き落とし事件でも、あの加害者の青年の親は、自分の子供に自分の意向を言わせない雰囲気だったでしょ? だから子供の希望なんて何も知らない親だったでしょ?
あるいは、未成年の女の子が妊娠して、嬰児を殺害してしまう事件がありますが、そんな女の子の家庭は、まさに意向や困りごとを「言わせない」家庭でしょ? だから娘の妊娠なんて何も知らない親だったりするでしょ?

そんな親は、やたら下を見せたがるもの。自分たちよりみじめな存在を、子供に見せて安心させたがるわけ。それについては、以前に「下には下がある」というお題で配信しております。「こんなに下があるんだから、オマエは幸福なんだ!」「オマエは幸福なんだから、ワタシに問題を持ち込むな!」そう言いたいわけ。それこそ、この手のダメダメな親は、二言目には「食べるものも食べられないアフリカの子供たちよりもオマエは幸せなんだ!」と主張する。しかし、逆に言うと、ダメダメ家庭の子供は、アフリカの子供と比較できるレヴェルというわけです。

あるいは、わざわざ病院などで不幸な人を見せたりする。それこそ以前にも言及いたしましたが、原爆ドームのような不幸満載の施設にわざわざ連れて行ったりする。あるいは、ダメダメな親は、「オマエは親に殺されなくて幸せモノだなぁ・・・」と、殺さないことへの感謝を子供に要求する始末。「親から殺されないことを感謝しろ!」と主張する親に対して、何か頼み事なんてできるの?ヘタに頼み事をしたら、親に殺されちゃいますよ。

そんな雰囲気の中で、自分より下を見て安心する習性がつくので、長じた後にはボランティアをするようになる。あるいは、インターネットの掲示板にたむろして誰かを揶揄して「イタイ」と書き込んで大喜びするようになってしまう。自分より下の存在を見ないと禁断症状が起こってしまう。
それこそ、そんな人が親になったら、ボランティア活動などで仕入れた新鮮な不幸ネタを、子供に対して語ることになる。そんな不幸話ばかり聞かされたら、子供だって要望は言えないでしょ?

そんな人間は、ご立派なご高説が大好き。
「人間は生きているだけで価値があるんだ!」なんて言葉は、この手の、子供に「言わせない」親がよく言うセリフです。ただ生きてさえすれば、それでOKなんだから、それ以上は何もする必要はないということでしょ?「余計なことをして、親に面倒をかけるな!」ダメダメな親としては、そう言いたいわけ。これでは、歯並びの矯正どころか、「余計な頼み事」なんて持ちかけられませんよ。

そんな人は現実を見せられると逆上してしまう。それこそトルストイ描く「アンナ・カレーニナ」のように、「私はそんなものは見たくない!」と、すぐに逆上する。何かを聞かされて、スグに逆上する姿を見ているんだから、周囲としても、そんな人には怖くて何も言えませんよ。

「ワタシは見たくない!」なんて逆上する姿は、それこそアンナ・カレーニナのご主人のアレクセイも同じです。陳情者が泣き出すと逆上するというキャラ設定でした。いわば困った姿を見たくないわけ。自分が見たくないのであって、将来は、その陳情者が困ることになっても、あるいは、別のところで困るのなら、それでいい。「ワタシの前で、困っている姿を見せるな!」と命令しているだけ。
そんな人は、内心では、「ほんとうは・・・ワタシの方がもっとかわいそうなのに・・・」と思っているわけです。見たくない、知りたくない、考えたくないと思っているので、不都合な現実を見せられると、「ああ!もう放っておいてくれ!」「ああ!鬱陶しい!」と逆ギレするだけ。

当然のこととして、子供に対して「ワタシの前では笑顔でいろ!」と命令する。
そうして、「作らせた」笑顔に囲まれて「ウチは何も問題がない家庭だ!」と豪語することになる。
そうして、周囲にアドヴァイスしたり、ボランティア活動をしたりする。
ボランティア活動をして、困っている人のところに出かけ、「恵んでやって」とりあえず笑顔を作らせ、「ああ、ワタシって、なんていい人なの!」と自画自賛。しかし、簡単に笑顔を作らせることができない深刻な状況だったら、さっさとトンズラしてしまう。

そんな人は、事態を解決するのではなく、とりあえずの終結があるだけ。とりあえず自分が考えなくてもいい状態を獲得する・・・それがダメダメ人間の終結となる。だから、実際問題としては何も解決してない。そんな人は、誰かを犯人認定して、「アイツが全部悪いんだ!」という形で自分を納得させてオシマイにしてしまう。だからつるし上げが好き。
日頃からつるし上げをしている人に、子供だって何も言えないでしょ?

そんな人は、困りごとを言わせないための、物言いを駆使するもの。
それこそ、「アナタを信じているぞ!」なんてご立派な言葉を使って、子供の問題から逃避する。

信じているのはともかく、じゃあ、どのような根拠で信じているの?何を信じているの?
そんな「形だけの」「一方的な」メッセージは、「ワタシに相談するな!」というメッセージのヴァリエーションなんですね。だから、後になって、「裏切られた!」と大騒ぎするものでしょ?
本当に信じているのなら、黙って信じていればいいだけ。「信じているぞ!」と言うよりも、「困りごとがあったら、いつでも言いなさい!」というのが親としてのスジでしょ?しかし、本音では子供から困りごとを持ちかけてほしくはないわけです。

信頼というものは、情報および思考に基づいている。別の言い方をすると、相互理解があるからこそ、信頼関係となるわけです。
しかし、「信じているぞ!」という宣言は、情報も思考も理解も判断もないでしょ?
むしろ、情報を見たくない、思考がイヤという自己逃避で現実逃避の発想なんですね。いわば判断逃避のための決めつけの宣言であり、思考停止のための封印を貼り付けただけと言えるわけです。逆説的な言い方になりますが、「信頼」というのが理解できないからこそ、「オマエを信じているぞ!」という言い回しを使うわけです。

あるいは、言わせない物言いとしては、「言わなくても分かる」なんて物言いもポピュラーです。
「言わなくても分かる」はいいとして、「どんなことを、言わなくても分かっているの?」。その目的語が重要でしょ?それを明確に説明できない人に限って、この「言わなくても分かる」なんてありがたい物言いを使ったりするものでしょ?
「言わなくても分かる」わけだから、言わせない大義名分となり、会話から解放されることになる。要は聞きたくないわけです。

親としては、子供から問題を持ち込まれたくないだけ。子供の問題を見たくないだけ。
以前にも言及いたしましたが、ソクラテスに「重要なことは生きることではなく、よく生きることだ!」という言葉がありますが、その言葉をモディファイすると「重要なのは、ただ親になることではなく、よい親になることだ!」となります。結果はともかく、その努力はしないとね。

しかし、ダメダメな親は「産んでやったことを感謝しろ!」「殺さないことを感謝しろ!」「親がいるだけでもありがたいと思え!」と子供に命令するだけ。よい親になるつもりはさらさらない。親であればそれでオシマイと確信している。よい親になるつもりがないだけでなく、何回も書きますが親になった被害を考え続けている。
だからこそ、子供の意向などには配慮する発想そのものがない。

しかし、そんな状況だからこそ、子供の側からトラブルが起こることは、本来なら誰でもわかること。
そして、小さなトラブルが発生しても、トラブルを見ないという対処しかできないがゆえに、トラブルが蓄積され、結局は大爆発することになってしまう。

本質的な解決のためには、ちゃんと見て、考えることが必要でしょ?
たとえば、天然痘の撲滅のためには、みんながワクチンを接種する必要がありました。ちゃんと認識し、対処することが必要になるわけです。その積み重ねの結果として根絶となったわけでしょ?
しかし、ダメダメな人は見ないこと、考えないこと、忘れることしか対処の方法がない。実質的には何も解決しないから、ますます見ないようになる。

課題や問題点を見せようとする人がいると、猛然と反抗する。普段から思考を抑圧しているので、逆上時にその抑圧が爆発する。だからこそ、そんな人に対しては、ますます何も言えなくなる。

そんな人は、言われてしまうと困ってしまうので、「語る資格」にこだわることになる。
それこそ、「大学で世界情勢を勉強していないと、現在の世界情勢について語る資格はない。」とか、「世界中を旅行していないと、この○○という映画について語る資格はない。」とか、「スタンダールの権威でないと、『赤と黒』を翻訳してはいけない。」とか、「オマエにはこんなメールマガジンを発行する資格はない。」とか、「日本人は韓国の問題を語る資格はない。」とかで、いわば議論の発生段階で抑えようとすることになる。

本来なら、出された見解が気に入らないのなら、それ以上の的確な見解を自分で出せばいいし、トンチンカンが意見が出てきたら、失笑すれば済むだけじゃないの?
しかし、自分で考えることから逃避する人間にしてみれば、発生段階で抑えないと怖いわけ。それこそ「こんにゃくゼリー」を買わないという判断すらできない人間なんだから、発生段階での排除を志向するのも当然といえば当然のこと。考えたくない、選択したくないがゆえに、選択肢が増えるのはイヤだし、恐怖ですらある。
結局は、自分に都合が悪いものを見たくないだけなんですね。何も言わせたくないわけ。

そして、いったん言われてしまったら、権威主義的に評価する。
それこそ、子供の問題だったら、児童心理学とかの権威付けで評価する。しかし、目の前にいる自分の子供の話はまったく聞こうとしない。
子供が問題を起こして、その解決法を、やっぱり権威に求める。しかし、やっぱり子供の話は聞かない。そんな流れは、長崎県でいつもやっていることでしょ?
権威主義的に考える人にしてみれば、「子供は子供の問題について語る資格はない。」という発想になっている。だって、子供は児童心理学を習得していないでしょ?だから、当事者たる子供の意向を聞こうともしないし、子供が子供の意向を語ることを妨害する。
しかし、だからこそ、事件が多発することは、本来なら子供でもわかること。

そんな人は、子供の話を聞かないための、文章を求め、子供の問題を見ないための、文章を求め、子供自身の気持ちを言わせないための、文章を求めるもの。かと言って、「自分で考え対処する必要がある。」と思わない人に読解力があるわけがない。結局は、自分勝手に文章を読んで「ああ!ワタシたちって、やっぱりかわいそうなのね!この人もそう言っているわ!」と勝手に喜んでいるだけ。

自分で判断することから逃避している人は、たとえばメールマガジンの内容についての判断も購読者数を参考にするものです。私の経験上になりますが、購読者数に言及する人は、後になって必ず逆上するものなんですよ。それだけ、自分で判断するのが怖いんでしょうね。文章自体から判断することを抑圧しているんでしょう。私としては、やり取りにおいて購読者数の話題が出てきた段階で、「この人・・・いつ逆上するのかなぁ・・・」と思っちゃうんですよ。まあ、現実的には1週間以内に必ず逆上しますよ。
まあ、おかげさまで、どうでもいいノウハウは豊富になってきましたよ。

語る資格にこだわる人は、「いったん言われてしまったら、どのように対処するのか?」という点において、お約束的な方法論を持っているわけです。どうやって「流してしまうのか?」という点について、自分で考えることなくシステマティクに対処できるものなんですね。
メールマガジンの購読者数も、いわば、「流すための方法論」となっているわけです。
逆に言うと、その手の方法論を常備しているということは、人の話を聞いていない人ということも見えてくるわけです。
まさに、都合の悪い言葉が出てきたら、とっておきの「流す」ための理屈を持ち出し、そして、当人自身は逆上して、思考停止となり、これ以上聞くことから逃避してしまう。
そんな「聞かない」ための方法論が確立している人と一緒に暮らしている子供が、フランクな会話をしているわけがないでしょ?

ダメダメ人間は、当事者意識がもともとないので、現実を改善するという発想はない。
現実と向き合うにしても、「べき論」を持ち出し、スグに政治などなどの問題にしてしまう。
自分自身の現状についての認識においても、同じこと。不都合な事態であることを認めると、自分で対処する必要がある。自分を抑圧している人は、それが不快。
だから、自分は申し分のない幸福状態だと自分を騙す。
「わたしたちは幸福よ!」と先制的な幸福主張をして、自分の問題から目をそらす儀式とする。そんな人に対して、その人の子供は困りごとを相談できるの?だって、相談する前から「ワタシたちは幸福よ!」と決定されてしまっているわけですからね。それに、そんなことを言い出す人は、顔の表情だって「いっちゃっている」ものでしょ?そんな人に対して話しかけることなんてできませんよ。
そして、そのような「知りたくない」「見たくない」「考えたくない」という逃避のスタイルはスパイラル的に進行することになる。

子供のことを知ろうとしない → だから、子供も親に何も話さない → 子供の現状について何も知らないので、子供の話を間接的に聞いてもさっぱりわからない → わからないから、ますます興味がなくなる → 興味がないから、ますます聞こうとしない → 
聞こうとしない相手に話しても虚しいだけなので、子供もますます話さなくなる・・・と、スパイラル的に進行することになる。

考えることから逃避するんだから、丁寧に説明されると、逆にプレッシャーになってしまう。まさに「見せられている」恐怖を感じてしまう。説明されることから逃避し、自分では何も考えないんだから、そんな人の見解は、実に軽い。通りのいいありきたりなご高説を消費しているだけ。そんな人の文章は、その軽さですぐにわかるものなんですよ。その軽さは軽妙洒脱というニュアンスではなく、どうしても分かってほしいという気迫のなさや安直さが文章から漂っているんですね。
逆に言うと、その軽さから、「日頃から人の話を聞いてない」ところが見えてくるわけです。

説明されること自体が怖いので、やり取りの際に、質問する際にも、回答を引き出すような質問ではない。本質的には、自身で考えたくないので、相手から説明を受けたくない。だから、「こうすべき!」などとべき論での強圧的な物言いになってしまう。あるいは、「どうして、そんなことをしたんだ?」という文言的には疑問形で、意味的には否定形の物言いが頻発する。いわば、会話が発展しない物言いをするわけ。

以前に、このメールマガジンで、「書かない人の意向」というお題で文章を配信しております。世の中の多くの文章は、文章を書ける人によって書かれている。
だから、文章を書けない人の気持ちを伝えた文章は量的に非常に少なく、そんな人の意向は無視されやすい・・・そんな内容でした。

その折の文章は、「文章を書く」技法的なものに焦点を当てた文章です。
ダメダメ家庭においては、子供は自分自身を抑圧するようになり、自分の意向を表現する意欲がないので、当然のこととして、表現の能力も付かないことになる。
文章を書くに当たっては、ある程度の、技術も必要になるでしょう。ある種の客観的な表現力が必要になってきますよ。

しかし、本来は、「言いたいことがあるのなら、ちゃんと言う。」くらいのことは、誰でもできることでしょ?
しかし、ダメダメ家庭においては、子供が自分自身を抑圧せざるを得ない状況であり、子供の意向を言わせないようにするわけですし、伝えたい意向そのものを抑えるようにしてしまうわけです。

文章を書けない人の意向が無視されるように、「言いたいことがあるのなら、ちゃんと言う。」ことができない人の意向も、当然のこととして無視される。
しかし、世の中のトラブルが、その手の人によって起こされていることを考えれば、その手の人に対する理解は必要になってくるわけです。言えない人であるがゆえに、その「表現手段」は、フィジカルな方法になるわけですから注意が必要なんですね。
以前に取り上げたエーリッヒ・フロムが言う「破壊性は生きられない生命の爆発である。」という言葉をモディファイすると、「過激な表現手段は、伝えられない意向の爆発である。」とも言えるわけです。

言われないから、あの人の気持ちがわからない・・・それは、当然のことですが、注意しないと、そんな人によって、犯罪の被害者になってしまう・・・現実はそうなっているわけです。

麻生さんも・・・マンガばかり読んでいたので、そのようなことが分からないのかもしれませんが、本来は、そんな点に配慮しないと、社会を統率できないわけですし、当然のこととして、様々なトラブルに対する理解も不十分なものになってしまう。

前にも書いておりますが、「アンナ・カレーニナ」における主人公のアンナがスグに逆上する人間でした。
逆上することによって、自分で認識し、判断することから逃避してしまう。
それに対し、「アンナ・カレーニナ」におけるサブキャラと言えるキティという女性は、ちゃんと認識し、判断する女性です。

キティは、自分の判断を踏まえて行動し、結果をチェックし、そして、次の判断のための材料を集め、その積み重ねにより、判断の材料を集める技術や判断能力も向上する。そうやってスパイラル的に向上していくことになる。
それに対しアンナの認識はあら探しばかり。
「あら」を探して、「あの○○には、こんな欠点がある!だから、ワタシはうまくいかないんだ!ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と自分を憐れんでいるばかり。

そんな人に対して何を言ってもムダ。ムダというか危険なだけ。
だからこそ、そんな環境に育った子供も、親に対して何も言わなくなってしまう。
ダメダメな親なり、ダメダメな環境では、子供に何も語らせないわけです。
直接的な要求によって、子供に言わせなかったり、いわば、子育てによる被害者という後姿を見せることで言わせないようにしたりする。
だからこそ、ダメダメ家庭の問題を理解するためには、「言おうとしないこと」を見出すことが絶対に必要になるわけです。

(終了)
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発信後記

今週は、ダメダメ家庭において、子供の意向が無視され、その負荷が子供に集約することに関する文章を集中的に配信いたします。

本日は、実に長い文章ですが、水曜日も金曜日も、今回の半分くらいの文章量です。
といっても、やっぱり長い文章ですが・・・

このメールマガジンの文章は、私が死んだ後でも読めるように、できるかぎり書き込むようにしておりますので、どうしても長くなるわけです。
同時代においては、不必要な記述も、違った時代に読むと、必要になる・・・そんなことは発生するものですが、できるだけ、そのようなことが少なくなるようにと書き込んでいるんです。
ダメダメ家庭の問題は、50年後にも同じように起こっているでしょうしね。そのような方々にも役に立つような文章にしたいと思っているんです。
R.10/12/31