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カテゴリー | ダメダメ家庭にないもの |
配信日 | 09年11月13日 (10年6月8日 記述を追加) |
タイトル | 託す気持ち |
ダメダメ家庭の人間は、当事者意識がない。 このことは、いつも書いています。「自分は、このことを達成したいから、これをやる。」という能動的な発想で物事に取り組んだりはしない。 「周囲の人が色々と言うから、しょうがなく、やる。」「ワタシはやらされた。」そんな受身のスタンス。 逆に言うと、だからこそ、うまくいかない場合は、「やることを自分に対して要求した」周囲の側の問題になり、当人としては「ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と被害者意識に浸っているだけ。 逆に言うと、後になって、それを自分の被害と認定するためには、自主的に取り組み、自分で判断してはマズイことになる。だからこそ、常に「やらされている」という立ち位置を確保しようとするわけ。 その代表例がまさに子供を作ること。 周囲の人が色々と言うから、子供を作る・・・そんな受け身のスタンスにしようとするわけ。 もちろん、子供を作ることに関しては、「避妊するのがメンドウだった、だから、結果的に子供が出来てしまった。」・・・そんな二重否定のパターンもあります。 いずれにせよ、子供に対して、積極的に「託す気持」なんてものはないわけ。 「できてしまった」とか「させられてしまった」とかの、受動的な行為の結果としての子供なんですね。 ただ、子供に対しては、「託す気持」はなくても、「託す義務」はあったりする。 それこそ自分の老後の面倒を見させるためとか、自分の墓の管理のために、子供を作ったりする。しかし、子供を幸福にしたいとは思っていないわけ。お墓には託す気持はあっても、あるいは、子供からの資金には関心があっても、子供本人に対しては託す気持はないわけ。 だから、子供に名前を付ける際にも、託す気持がない。 それこそ、子供の名前でも「て・き・と・う」に付けたり、「なんか面白そう!」・・・くらいのその時の感情で付けたりする。あるいは、親の側の都合だけで考え、子供の将来を踏まえて考えたりはしないわけ。それこそ、名前を付けないと法律的に差し障りがあるから、名前を付ける・・・「しょうがないなぁ・・・面倒だけど、名前を付けなくては、周りから怒られちゃうし・・・」それくらいの、まさに受身の心理。 そんな親は、何かイヴェントのようなものを開催するにあたっても、そのイヴェントの意味などは考えない。誕生日プレゼントでも、クリスマスパーティでも、家族旅行のようなものでも「人に合わせて」「しょうがなく」やっているだけ。 だから、子供としてはそんなイヴェントでも何も楽しくない。 むしろ、「親の意向」に合わせて、楽しんだふりをしないといけないので、気を使ってしまうだけ。それどころか、そのイヴェントの後になって、「オマエのために、こんなメンドウをさせられて!」とグチグチ言い出す。そして子供に恩を着せる。 当事者意識のない親は、子供を喜ばせようという気持を持って、そんなイヴェントをやっているわけではないんですね。周囲から非難されないためにやっているだけ。 何をするにも、気持が入っていない。いわば言い訳としてやっているだけ。 「やればいいんでしょ?」 「あ〜あ、もうっ、鬱陶しいなぁ・・・」 実際に言葉で言ったりしなくても、態度にそんな気持がありあり。 プレゼントのようなものも、相手の都合について何も考えなかったり、「て・き・と・う」だったりするもの。 「とりあえずお守りでも渡しておけば、あとは面倒なことにはならないだろう・・・」そんな感覚で、神社で買ってきた「お守り」を子供に渡したりする。まあ、そんな心根だったら、何も御利益がないんじゃないの?あるいは、お中元なりお歳暮なり誕生日プレゼントでもそんな雰囲気。 「あ〜あ、やればいんでしょ?メンドウだなぁ・・・」 と言った、ふて腐れたようなズボラさがにじみ出ている。 そんなことで、相手に何が伝わるのやら? 子供を喜ばせたいとか、子供が幸福になってほしいとかの気持がないので、逆に言うと、子育てはラクなもの。だって、周囲からの要求やマニュアルに従っていればそれでいいわけでしょ?自分の目の前の子供が何を考えているのか?どうしてほしいのか?そんなことを何も考えなくてもいいわけ。 だからこそ、また子供を作ってしまう。 それこそ、子供には兄弟があった方がいい・・・なんて言葉をそのまま採用して、何も考えずに子供を作ってしまう。 子供には兄弟があった方がいい・・・という考えは実際にあるでしょう。しかし、目の前にいる自分の子供はどう思っているの?というか、親本人は、自分自身の兄弟とはどんな関係なの?兄弟がいて、そんなに楽しかったの?あるいは、兄弟がほしかったの? 逆説的になりますが。ダメダメ家庭においては、子供に託したいモノがないがゆえに、子供をたくさん作ったりすることになる。 子供の個々が喪失し、いわばその他大勢のスパム感覚となってしまうわけ。 自分の子供だったら誰でもいい、あるいは伝わるものは何でもいい・・・そんな雰囲気。 何でもいいとか、誰でもいいはいいとして、実際には託したいものがないわけ。 「とりあえず、たくさん作っておけばいいだろう・・・一つくらいは、何かいいこともあるじゃないの?」 とにもかくにも「人に合わせて、子供を作っておけ!」 一人目の子供で、何を託したのか?託せたのか?自分自身は親としてどうだったのか? 本来ならそんな判断をして次につなげればいいわけですが、現実逃避のダメダメ人間はそんなことはしない。だからこそ、次々と子供を作ってしまう。 子供を見ないために、心理的に見ないようにするために、個別に考えないために、たくさん作るわけ。 託す気持のなさは、「分かってほしい」という気持のなさとなる。 だって、何をするにも、自分で考えてやったわけではないんだから、「分かってほしい」ことそれ自体が存在しませんよ。分かってほしいことがあるとすれば、「ワタシが、かわいそうな被害者であること」くらい。だから「こんなにしているのに、どうして分かってくれないの?」そんな被害感情を常に持っている。そして、その自分の被害感情や「かわいそうな被害者としてのワタシ」を周囲が分かってほしいと思っている。 つまり、当事者意識のないダメダメ人間は、「分かってくれない」という被害感情が先にあって、「分かってほしい」ことは後になるわけ。 上記の文章をよく読んでくださいね。 そんな状態はギャグそのものですが、ダメダメ家庭の現実は、まさにそんなものなんですよ。 だからこそ、そんな人の物言いなり文章は、実にズボラ。 それこそ、文章には略字が頻発しているし、一つの案件を、一つの文章にまとめ上げることもしない。様々な文章の中に「て・き・と・う」に言葉が投げ散らかっているだけ。そんなズボラな文章を書いておいて「どうしてミンナは、ワタシのことをわかってくれないの?!」「ボクたちは、いつも誤解されているんだ!」と周囲にグチグチ。自分の表現能力の全部を使っても、それでも伝わらないのなら嘆くのもしょうがない。しかし、もっと的確な文章を書けるのに、書かなかったら、結果として伝わらなくても当然でしょ?しかし、そんなズボラな文章を書いておいて、「ミンナはワタシのことをわかってくれない!」と嘆くだけ。 そんな人は、それこそインターネットの掲示板を見ればいっぱいいるでしょ? 分かってほしいことを自覚して、分かってほしい対象についても考える・・・もし託す気持があるのなら、まず最初にその検討をするでしょ? その気持がないから、何事も「て・き・と・う」。 そのようなことは、ダメダメな親が自分の子供に対してやっているだけでなく、それこそボランティアの連中などにも顕著でしょ? 恵まれない人たちに援助しているのはいいとして・・・どんな気持で援助しているの? 実際では、ただマニュアルに従っているだけでしょ? あるいは、「共通の敵」の話題で一緒に盛り上がっているだけでしょ? 逆に言うと、託す気持がない人は、ボランティアのように、形さえ整っていれば、やりさえすれば周囲からほめられるものをやりたがる。 相手について、相手の心情について、真摯に考えることができないし、それが怖い。 自分が勝手に納得できればそれでいいわけ。 ダメダメ人間は、相手の顔が見なくても済むボランティアのような領域でズボラなのは当然として、自分の子供へのサポートもそんな感じになっている。本来なら、それぞれの子供によって、必要なサポートも違っているでしょ?子供だって、本来はそれぞれの方向の向上心があったりするもの。 ダメダメな親は向上心がない、だから、子供の向上心も理解しないし、認めようとしない。目標とする将来像によって、それぞれの必要なものも違いますよ。自分の子供がそれなりの勝ち組階層にたどり着いてほしければ、それ相応のサポートをする必要があるでしょ?それこそ進学の際でも、そうなるでしょ?経済的な問題があれば、奨学金を使えばいいだけ。 しかし、子供のことを見ようとしないダメダメな親は、子供の希望に添ったサポートをする意欲はない・・・というか、子供へサポートするという発想そのものがないわけ。だって、ダメダメな親の基本認識は「ワタシは子供を育てるハメに陥った、かわいそうな被害者。」というものなんですからね。そんな人間が、自分の子供へのサポートなんてしませんよ。 本来なら、現状においてはそのサポートはできなくても、今のサポートの限界を子供に説明できればいいわけですが、それは親としての自分の至らなさを説明するようなものなので、そんなことはしない。 ダメダメな親は、子育てによる被害を子供に語っているだけ。あるいは、「時代が悪い!」「政治が悪い!」とグチっているだけ。いわば、自分と同じような自堕落な日々を子供が送ればいいと思っている。そんなライフスタイルを、親は、「ふ・つ・う」と言って肯定する。 結局は、相手を見ていないし、見たくもないし、そして相手に託したいものがないわけ。 託す気持がないので、結果として、相手が分かってくれたかもどうでもいいわけ。 やり取りの際には、「やりっ放し」なり「言いっ放し」のスタイルばかり。 言いたいことはあっても、分かってほしいことはない状態。 「相手が納得したか、合意したか?」は問題ではなくなってしまう。 本来なら、自分が気持を込めて、物事をやったら、相手が合意したかは重要なことでしょ? もちろん、全員が合意する必要はないでしょう。しかし、合意してくれた人とそうでない人との区別の問題が発生するでしょ? 結果として、「相手がどの程度まで理解してくれたか?合意してくれたか?」 ちゃんと確認しておかないとね。 それこそ、男女の間柄でも、「ワタシはアナタが好き。」という気持を伝えたいなんてことはあるでしょう。男女の間柄だったら、「合意」というのは、極めて重要でしょ? 前回配信の文章にも書きましたが、抑圧的な人間は、合意には関心がない。言ったという事実しか認識できないわけ。 これではストーカーになるのは当然でしょ? 抑圧的な人間は、そもそも好きという気持がない。だから託しようがないわけ。そして、そのことを自覚することから逃避している。 だから、「好きと言った」という「事実」しか心理に残っていないわけ。 託す気持がない人間は、「相手に何が伝わったのか?」そんな判断はしないし、伝えたいものそのものがない。託す気持がないので、わかってほしいという気持もない。だから合意という状態を求めない。むしろ、合意したかどうかを判断するのが心理的に怖い。だって自分が伝えたいことについて考えることから逃避し、目の前の現実から逃避しているんだから、当然のこととして、合意したかどうかの状況判断なんて心理的に恐怖ですよ。 そんな人が考えるのは、自分の考えを否定されたわけではない・・・そんな二重否定に持っていくこと。だから、結局は相手から反論をされないように持っていく 相手から反論されてしまったら、誤解されたり、合意されていないことが明白になる。反論されない状態となると、結局は、相手が黙ればそれでいいわけ。だって黙ってしまえば、否定されたことにはならないでしょ? だから、つるし上げのようなことが大好き。 つるし上げによって、合意を得ることはできないでしょうが、相手を黙らせることはできるでしょ?相手を黙らせることで、やり取りを終わりにするわけ。 ダメダメ人間は、自分の前から自分とは相反する意見が見えなくなればそれでOK。 だから、合意のための説明能力がない。黙らせる能力しかない。 文章を書く際にも、自分が納得できればそれでいい。 相手がわかるわからないは、受け手の理解能力にも依存しますが、託すものが何で、その気持が、どれだけ入っていて、どのように表現されているのかは、まずは自分で確認する必要があるのでは?そして相手の状態も確認する必要があるでしょ? 託す気持がないからこそ、合意について拘泥しないがゆえに、相手は誰でもいいとなってしまう。託す気持があるのなら、相手を選びますよ。その気持ちを受け止めてくれる可能性のない人に対して、何をやってもムダでしょ? ダメダメ家庭においては「この気持を託したい!」「これを伝えたい!」という気持がなく「これをやっておけばいいじゃん!」「これを言っておけば、文句を言われないだろう・・・」そんなズボラな気持が充満しているものなんですよ。 そして、いざトラブルになると「ワタシは悪くない!」と逆ギレしてしまう。 皆さんも、そんな光景を実際にご覧になったことがあるのでは? あるいは、託す気持がないが故に、本当の意味での喪失感も失望感もない。 自分の思いが届かなかったという失望感も持ちようがない。 しかし、自分の期待に応えなかった・・・子供に要求したが拒否された・・・そんな不満はある。そして、その不満が被害者意識に変貌することになる。 喪失感なり失望感なりを言葉としては語れても、実感がない。 失われたものは、あくまでモノや機能であって、思いなり記憶ではない。 前にも書きましたが、託す気持がないから、文章などを書いても「て・き・と・う」。 文章だけでなく、対面でのやり取りもダメダメ。 ヘンな話になりますが、託す気持がない人ほど、「アナタに会いたい!」と言ったりするもの。わかってほしいこと、解決したいことが、存在しないがゆえに、会いたがるわけ。「会ったという形」がほしいわけ。相手に伝えたい気持がないがゆえに、会いたがる。それこそ、マスコミの突撃インタビューなんて、その典型でしょ? 相手から聞きたいことがあるのなら、もっとちゃんとした場を設定すればいいだけですし、相手が答えやすい雰囲気を作る必要があるでしょ? 託す気持への感応性は、たとえば政治家の選挙の時に見えたりしますよね? 投票する際に、当人が色々と考えて、一票を投じたり、あるいは、色々と考えて棄権するのも、その人の考え。しかし、託す気持のない人は、「てきとう。」・・・とか、「人から頼まれたから。」・・・くらいの雰囲気で投票したりするもの。 そしてそんな姿を子供に見せることなる。 立候補した人の気持ちにも、投票する人間の気持ちにも、何も配慮しない。 そんな親の姿を見続けたら子供はどうなっちゃうの? 託す気持を持っていない人ばかりを見ていたので、託された気持との付き合い方がわからない。 それこそ、写真とか、プレゼントとかを見せられても、どう対応していいのか困ってしまうことになる。モノから、込められた「気持を」還元できないわけ。 一般的に、子供の写真なり笑顔を見ても、自分の子供でないかぎり、強い印象は残らないもの。自分の子供の写真が印象に残るのは、写真に写っている顔から、それまでのやり取りの積み重ねの回想を無意識的に行っているからでしょ?「ウチの子が一番かわいい!」なんて物言いがありますが、それは自分の子供だと思い出が多いことに由来しているわけでしょ?顔の作りなんて、他人の子供とそんなに変わりませんよ。しかし、逆に言うと、楽しいやり取りが何もないダメダメ家庭においては、マイナスの積み重ねがあるばかり。だから、自分の子供の顔を見ても、楽しい気分にならないし、当然のこととして写真もない。 写真を大事にしている人は、思い出やその時の気持を大事にしているわけでしょ?紙としての写真そのものに意味があるわけではないでしょ? しかし、そもそもそんなものがないんだから、結局はモノも大事にしませんよ。 子供と一緒にいるのが楽しいから、子供を作ったのではなく、子供に、自分の老後の面倒をみさせるために、子供を作っただけ。 そんな子供は、そんな話ばかりを聞かされるので、結局は逃げ出すのは当然のこと。 以前に書きましたが、「ずっと独身だと、老後はさびしい・・・だから結婚しなくてはいけない。」「自分の老後の面倒を子供に見させよう!」そんな発想で子供を作る。そんな発想の人間と結婚するような人も、同類。 そんな人間同士でどんなやり取りをするの?そんな家族はどんな会話をするの? 家族の楽しい思い出もないのに、老後の話ばかりをしたり、来週の日曜日の予定の話はしないのに、老後の介護の話ばかりをするようになるわけ。 来週の日曜日の話をすれば、楽しい思い出を作っておけば、子供も老後の面倒も見てくれたりもするでしょうが、老後の面倒の話ばかり聞かされた子供は、そのうちに逃げ出してしまうのは、誰だってわかることでしょ? そんな事態になっても、「ああ!どうして、オレの子供はオレたちの面倒を見ないんだ?!」と嘆くだけ。 子供が幸福かどうかは最後まで興味がないわけ。 だって、子供に対し「幸福になってほしい!」という気持ちを、もともと持っていないわけですからね。 心血を注いで何かをやって、それが形になれば、まさに「心」や「血」が残っていくことになるでしょ? それが文章を制作することでも、あるいは、自分の子供を育てることでもいいでしょう。 あるいは、他者の子供をサポートするボランティアのようなものでも同じでしょ? 心血を注いで何かをし、それが形になることで、対象だけでなく、その人自身が救われることもあるわけ。 だって、まさに、自分の「心」や「血」が、自分が死んだ後も、残っていくことですからね。精神的にラクになりますよ。 逆に言うと、子育てだって心血を注いでやらなければ、「心」も「血」も受け継がれて行きませんよ。しかし、ダメダメ家庭では、「ふつう」という名目を掲げ、託す気持ちが何も無い状態で、子育てをしている。 普段から「てきとう」であるがゆえに、つまり、自分では何も考えていないがゆえに、「うまく行かないのは全部他者のせいである。」となり、「自分たちは悪くない。」とみなしているのがダメダメ人間。 文章を制作するにせよ、子供を育てるにせよ、ズボラな人は、何をやらせてもズボラ。 そのようなことは、託す気持ちがないという点に注目すると、簡単に理解できるでしょ? (終了) *************************************************** 発信後記 政府がやろうとしている子供手当ての問題で色々と意見があるようですが・・・ 国の施策だって、ちゃんと託す気持ちを持たないと、それこそ単なるバラ撒きで終わってしまう。 ダメダメ家庭というものは、そもそも子供を作ること自体が、いわばバラ撒き感覚なんだから、そんなところにバラ撒いても、「子育ては、親であるオレたちが背負わされた被害」という親の被害者意識を国が認定するようなもの。補償を受けることで、ダメダメな親は、自分の被害を認定されたと心理的にみなしてしまうわけ。 それこそ、韓国に対して、お金を出すことによって、韓国人の被害者感情を認定してしまって、それ以降は、ますますひどくなったでしょ? 被害者感情を持っているものに対して、お金を出すのは危険なんですよ。 そんな施策は、何より子供にとって、逆効果にしかならないわけ。 とは言っても・・・結局は、やっちゃうんだろなぁ・・・ そして、そのツケは、結局は、子供が背負わされるわけ。 |
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R.10/6/8 |