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カテゴリー ダメダメ家庭が持っていない発想
配信日 09年11月16日
タイトル 相手の状態への配慮
「ダメダメ家庭は会話不全の家庭。」って、これもお約束の書き出しとなっています。
ダメダメ家庭においては、言葉は飛び交っていても、「相手の話を真摯に聞き」、「自分の意向を相手にわかりやすく伝える。」そんな発想がない。

だからその物言いも強圧的になっていて、相手からの反論を許そうとはしない。これでは会話にならないでしょ?
そもそも、今現在やり取りしている相手がどんな言い方をすると納得しやすいのか?
それを考えて言わないと、それこそ誤解して受け取ってしまうだけでしょ?
ダメダメ家庭の人間にとっては、相手が理解しやすい言い方ができるできないという能力の問題以前に、そんなことを全く考えていないケースも多いわけです。

それこそ、こんな事例を考えてみましょう。
街を歩いていたりすると、こんな看板があったりします。
「犬くんへ!ここはウンコをするところではありません!」
掲げている人が、オリジナルで作ったものではなく、既存の看板が売っているようです。それっぽい絵もついていますしね。まあ、看板を掲げている人の気持ちはわかりますよ。迷惑しているんでしょうね。
しかし・・・それを読んだ「犬くん」が納得し、反省するの?
もし、そんな犬がいたら、是非とも譲ってほしいもの。お金は出しますよ、だってスグにモトは取れますからね。

『それは犬に宛てたものではなくて、犬の飼い主に宛てたものだ。』
『オマエは、そんなことも分からないのか?』
勿論のこと、皆様は、そうおっしゃりたいでしょ?

この私がそんなこと分からないわけがありませんよ。しかし、じゃあ、その看板の言葉で、そんな「犬の飼い主」は納得し、反省するの?
そもそもそんな殊勝な飼い主だったら、最初からそんな場所にウンコをさせないでしょ?
それこそ世の中を見ればわかるように、禁煙の表示の前でタバコを吸っている人も多いでしょ?犬が看板の文字を読めないように、ダメダメな人間は、何が書いてあっても無意味なんですね。

まあ、この件は直接的にはダメダメ家庭の問題とは言えない。
実は、家庭問題の改善も同じことが起こるわけです。
家庭で大きなトラブルが起こるような家庭・・・つまりダメダメ家庭の改善を図る際には、周囲の人は、当事者たるダメダメ家庭の即した物言いなり対処をする必要があります。

「あなたのお子さんは、学校でこんな状態です。家でも注意して見ていて下さい。」なんて親に対して言ってもムダなんですね。ダメダメ家庭は被害者意識だけがあり、当事者意識がない。自分の子供をマトモな人間に育てようとは思っていない。ただ親である自分に迷惑を掛けなければそれでいいと思っている。そんな発想を持っている人間が、周囲から「子供をもっとしっかり見てよ!」なんて注意されたらどうなるの?ダメダメな親は、そんな指摘を、自分がこうむった被害として認識し、「全く・・・いつになったら手が掛からないようになるんだ!」と、子供に説教するだけでしょ?

子供はますますプレッシャーを感じますよ。当然のこととして事件も起こしますよ。
「子供をもっとしっかり見てくれ。」と親に依頼するのは、形式上はいいことなんでしょうが、その親が原因そのものなんですね。マトモな人間にはフィットする物言いも、ダメダメな人間には逆効果になってしまう。

このメールマガジンで度々書きますが、児童虐待の問題では、一般社会では「殴られる児童が被害者で、殴る親が加害者」という認定ですが、虐待を行っている家庭内では逆になっています。「殴られる児童が加害者で、殴る親が被害者」そうなっている。それをいいとか悪いとか言ってもしょうがない。だって事件は会議室ではなく現場で起きているんですからね。
そんな現場に中途半端に介入すると、親の被害者意識がますます高まるだけ。
やるのなら、完全にやらないとダメ。
犬に対して、言葉で説得してもムダなのと全く同じ。

あるいは、よく家庭の問題を解決するためのセミナーみたいなものが開催されているようですが、あれも不思議ですよ。
そもそもそんなものに関心をもって、勉強しようとする人間は、それなりにマトモ。そんな家庭はむしろ放っておいてもいい。自分の家庭は「普通の家庭だ!」と盲目的に信じているようなダメダメ家庭こそが本来の対象でしょ?あるいは、それこそ、アンナ・カレーニナのように「ワタシは見たくない!」なんて、現実逃避している人間こそがトラブルの元になっている。しかし、そんな人たちは、そんなセミナーを受けには来ませんよ。セミナーを受けに来る人に対しては、セミナーをする必要はないわけです。

それこそ、こんなことって、実際あったりしますよね?
「あのぉ〜、後ろの方ぁ?ワタシの声はちゃんと聞こえますかぁ?聞こえない人は手を上げてくださ〜い!」
誰も手を上げなかったと言っても、その人たちが全員、声が聞こえたわけではないでしょ?

問題を起こすような家庭は、自分たちの家庭の問題を認識していない。だから自分の家庭を良くしようとは思っていない。そんな人に通じる言い方を模索するより、そんな人たちからさっさと離れた方が現実的。
また、そんな家庭の子供を救出しようと思ったら、強制力しかない。
だって音声的にはともかく、心理的には言葉が聞こえないし、聞きたくない人たちなんですからね。
犬のウンコの問題を改善しようと思ったら、犬に対して直接呼びかけるのではなく、飼い主教育が必要だし、現実的には、それは不可能。

相手の理解力の低さへの配慮も必要ですが、相手が自分よりもはるかに高いレヴェルの場合も配慮が必要なことも多くあります。相手に知的レヴェルについて、何も考えずに発言すると、
「いったい・・・誰に対してモノを言っていると思っているんだ?」「分かり切ったことをわざわざ言うなよ!」となるだけ。
そんなことは、何も熟慮する問題ではなく、普段やっている会話をモディファイすればいいだけ。逆に言うと、相手のレヴェルへの反応の鈍さは、普段から、人の話を聞いていなかったり、問答無用のやり取りをやっていることを証明しているようなもの。

当人が最大限のレヴェルを使っていて、それが結果的に相手にとって分かり切ったことになってしまったのなら、どうということはありませんが、ダメダメ家庭の人間の中には、自分よりもはるかに知的レヴェルの高い人に対して、「上からの物言い」をしたりする人もいるんですね。

かなり以前に、ある人と、とあるパソコン雑誌のダイレクトメールについてやり取りしたことがあります。
そのダイレクトメールでは、「この雑誌で勉強して60歳のワタシでも、エクセルが使いこなせるようになりました。」とか「この雑誌を購読して、電子メールも使えるようになりました。」とかの感謝の言葉が書いた「手書きのはがき」が載っていました。
まあ、電子メールが使いこなせれば、それを「はがき」ではなく、電子メールで送るのがスジなのでは?あるいはせめてハガキもプリントアウトした方がいいんじゃないの?それに60歳過ぎてエクセルを何に使うの?・・・まあ、おもしろいダイレクトメールだねぇ・・・

そんな話を私からしたわけです。そうすると、「いや、あれはサクラの人がいて・・・その『はがき』は、そのサクラが書いていて・・・」とある人から説明を受けたわけです。
私としてはその説明にビックリですよ。

よりにもよって、この私がそのレヴェルのことをわからないわけがないじゃないの?
そんな説明をわざわざするということは、それだけ相手の反応に対する鈍さがあるわけです。以前に集中的に配信いたしましたが、「会話の心理的ベース」がないんですね。
そんな人は、相手の意向を聞く発想がそもそもない。そして、抑圧的であるがゆえに、スグに逆上したりするもの。
・・・まあ、その人も、実際に逆上しましたが・・・

相手にわかってもらいたいという発想がなく、むしろ自分が相手から安く見られたくないと思っているので、そんな人は不必要に難しい言葉を使ったりするもの。
教養というものは、「ないならないで何とかなるけど、あればあったでジャマになるものではない。」ものの代表例でしょ?教養なんて、まあ、ちょっとした文章をまとめるには必要でしょうが、一般的なやり取りにおいては教養なんてなくても構いませんよ。
教養があることのメリットは、自分が話をする時よりも、むしろ人の話を聞く際なり文章を読む際なんですね。やっぱりある程度の教養がないと、相手の言っている言葉だって分からないことになってしまいますよ。

もちろん、わからない言葉が出てきたら、「その言葉って、どういう意味?」って聞けばいいだけ。映画などに、そんな言葉がよく出てきたりするでしょ?
『分からない言葉が出てきたら、このノートに書いておきなさい。あとでワタシが教えてあげるから。』

文章を書く際なり、話をする際には、ちょっとした「難しい」言葉も使うこともあるでしょう。一本調子だとダレてしまうので、テンポを変えるのに有効なんですね。それだけではなく、「このような言い方が、決して、個人的な見解というわけではなく、昔の人も同じようなことを言っていたんですよ!」という使い方も出来たりする。特殊な用語は引用表現の一種だったりするもの。

しかし、話をする際の基本は、相手に分かるように話こと。
相手が分からないような小難しい言葉を並べても、何も伝わりませんよ。
難しい言葉は、あくまで「従」の役割であって、「主」は一般的な言葉を使った方が、相手も分かりやすいでしょ?

しかし、ダメダメ家庭の人間は相手にわかりやすくしようなんて、思っていない。むしろ、自分の能力の低さがバレてしまうことを防止したい。
結局は、自分自身に自信がないし、そもそも自分自身について分かっていないのだから、相手に分かってほしいことだって、何もないんですね。

ちなみに、今の社民党の前身は、社会党という政党でした。全盛時には、かなりの議席を持っていたようです。その社会党の議員たちのコメントが、実に「難しい言葉で話す」典型でした。しかし、そのコメントは聞いていても中身の意味が不明。今でも社民党のコメントのパターンはそんな感じでしょ?逆に言うと、中身がないからこそ、難しい言葉で話しているんでしょうね。

社会党は、労働組合からたたき上げてきた人もいたようです。あまり教養もない人もいるのでしょう。だからコンプレックスがあるんでしょうね。国会議員という権威者になったのはいいとして、周囲は自分より教養のある雰囲気の人が多そう。ということで自分をより大きく見せようと、「難しい言葉で話す」ことになる。

しかし、教養なんて「あればあったで越したことがない」けど「ないならないで何とかなってしまう」ものですよ。前にも書きましたが、人に話をする際よりも、むしろ人の話を聞き取る際に有効なもの。自分の本当に言いたいことがあるのなら、それをわかりやすい言葉で伝えることが、本当の叡智ですよ。額に汗して働いた経験が本当にあるのなら、そんな実体験を交えて、話を作ればいいじゃないの?

聞いている方だって、ソッチの方が楽しいですよ。だって話をしている本人が実感がある言葉の方が、相手に伝わるなんて言うまでもないことでしょ?
言葉の意味の難しさ以前に、自分でもわかっていない言葉を使ったら、相手に何も伝わらないのは当然のこと。

ダメダメ家庭の人間は、子供時代に親から何も認められてきていない。だから「自分を認めさせたい!」と切望している。
だから作品を作ったりする芸術家が輩出したりすることになる。
それはそれでメリットと言えるわけですが、「自分の考えを分かってもらう」際に、「どうやって(=HOW)」の問題を軽視すると、やたら難しい言葉を使ったり、やたら感情的になるばかり。

自分のことをわかってもらうためには、「自分の考えを正確に語る」ことの積み重ねでしょ?一朝一夕ではできませんよ。しかし、性急にことを運ぼうとすること発想は、やっぱりダメダメ家庭の特色。

自分の言いたいことをまず自覚して、
相手にわかるように、アタマの中でまとめなおして、
語り口にも注意しながら、語る。

そうすればいいわけでしょ?
マトモ家庭の出身なら、自分の実家での会話の積み重ねによって、そのようなことも自然にできるようになるわけ。

しかし、ダメダメ家庭ではそうは行かない。
だから、それを意識してやっていくしかないんですね。
やたら難しい言葉で自分を大きく見せようとしている人って、教養のなさのコンプレックスが見えてしまうだけ。そんな姿は、本当の教養のある人にしてみれば「出来の悪いピエロ」にしか見えないもの。知識人と教養人は違うんですよ。
ダメダメ家庭出身者であっても、何も好き好んでそんな笑いものになる義務なんてありませんよ。

結果的に相手に十分に伝わらなかったとしても、「伝えようとする意欲」が伝わるか?それが重要でしょ?
相手のレヴェルへの配慮なんて言い回しをしていますが、要は「分かりやすく」ということ。しかし、当事者意識がなかったり、コンプレックスが強いダメダメ人間は、「相手に分かりやすく」という発想よりも、「相手から安く見られたくない」という恐怖心が先に立ってしまう。だから結局は、安く見られることに。

人とのやり取りに際しても、人の話を聞くことへの心理的な恐怖だったり、思考への恐怖だったり、あるいは、相手から見透かされることへの恐怖だったり、あるいは、会話というシチュエーションそのものへの恐怖心が出てきてしまう。
だからこそ、そんな人とのやり取りに際して、会話というシチュエーションをヘタに設定しても相手を身構えさせるだけ。
それこそ北朝鮮なんて、会議というシチュエーションを極端に嫌がっているでしょ?
彼らは、会議という場が心理的に怖いわけです。そんな場に無理に連れ出しても、事態は改善しませんよ。

物事を改善しようと思ったら、当人や周囲の人間の自己満足ではダメなんですね。
相手の心理や現状を踏まえることが大前提になるわけです。

(終了)
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発信後記

今回の文章は、先週配信した「合意を取る」という文章と関係が強い文章です。
ちなみに、「合意」ということだと、沖縄にあるアメリカ軍の基地の移設問題で、以前の「合意」をどう扱うのか?そんな点でモメていますよね?
某国の首相さんは、「その合意はオレがしたわけではないんだから・・・オレは知らないよ!」
と言いたいのかもしれませんが、サスガにねぇ・・・

そんな理屈が通ってしまうのなら、新たな合意を得ても、また政権交代したら、また最初から・・・となってしまう。だから、そんなことを言う人は相手にされなくなってしまう。
逆に言うと、「自分が一旦決めたことでも、後の人は、いくらでも変更してもいいよ!」
そう思っているのかもしれませんが、ちょっと軽すぎますよ。
しかし、例の、温室効果ガスの削減の話も、そんなノリで言い出したんでしょうね。

前にも書きましたが、「共感」と「合意」は別のもの。
彼は、その違いが心理的にわかっていないのでは?
合意を重んじる発想がないがゆえに、合意の価値そのものもわからない。
自分自身の見解がなく、「そう!そう!ボクもそう思うよ!」なんて人に合わせて、その場その場で通りのいいことを言っているだけ・・・って、このメールマガジンでよく出てくる「いい子」の姿ですが・・・
「いい子」というものは、周囲の人間にとって、いかにタチが悪い存在なのか?
購読者の皆さんだったら、実際の例をご存知なのでは?
R.10/12/29