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カテゴリー ダメダメ家庭が持っていない発想
配信日 09年11月18日 (11年1月17日 記述を追加)
タイトル 論より行動
かなり以前に「韓国の高校の歴史教科書」を取り上げたことがあります。
まあ、とんでもない教科書なんですが、結構笑える記述も多くあります。その教科書を紹介したときにも言及いたしましたが、とある学者の研究に関する記述が面白い。

「昔から、朝鮮半島での学問研究は、議論のための議論ばかりだ!だからこそ、抽象的な朱子学ではなく、実践を重視した知行合一の陽明学の考えが重要なんだ!」と言うことで、その陽明学の壮大な学問体系を築き上げたという学者について記述されておりました。

議論のための議論の不毛さを自覚するのはいいでしょう。それを踏まえ知行合一の陽明学を参考にするのもいいでしょう。しかし、結果として、壮大な学問体系を作っても意味ないのでは?むしろ、実践への指針を提示するのが、知行合一の陽明学でしょ?
歴史教科書だからと言って、そんな歴史的なまでに見事な古典ギャグが書いてあるなんて・・・
韓国の教科書は、なんてウィットに富んでいるんだ?!

しかし、そんな学者の記述を、オバカの例として提示してあるのなら、韓国の歴史教科書も、それなりに見所がありますが、大真面目に「オレたち韓国はなんて立派な学者を輩出しているんだ!」と言ったスタイルで記述してあるんだから、スゴイ。
まあ、壮大な学問体系の樹立によって、壮大なるギャグを打ち立ててしまっている。
こんな教科書で勉強したら、オバカになるも当然ですよ。

物事をしっかり考えるためには、しっかりとした議論を進めることは重要なこと。それを体系として整えることも有効でしょう。議論は議論でいいわけですが、議論に勝つことで、その人の意見が肯定されるのかというと、それは別問題でしょ?

以前に「ふつうということについてのディヴェートで、いつも相手をやりこめる。」人についての文章を配信いたしましたが、「ふつうについてのディヴェートで、相手をやりこめる。」ことが、その人の「ふつうさ」なり、マトモさの証明には繋がらないでしょう。
「ふ・つ・う」の人は、そんなテーマの議論はしませんし、そんな議論になったら、さっさと「降りて」しまいますよ。だから、結果としては、議論に「勝った」ことになる。しかし、その勝利の意味は、自分の見解が肯定されたこととは違うでしょ?

あるいは、実家についての話題になって「ワタシは両親に愛されて育ったわ!」「ワタシの実家はうまく行っていた!」などと顔を真っ赤に主張したりする人もいますが、もし、そうなら、そんなに一生懸命で問答無用なスタイルで言わなくてもいいわけですし、困りごとがあったら、その両親に相談すればいいだけ。もちろん、相談内容によって専門的な人なり卓越した能力を持つ人に相談するケースはあるでしょうが、一般的な相談なら、両親と相談すればいいだけですよ。「アンタは、どうして分かってくれないんだ?」と自分で文句を言っているくらいの理解力のない人に対して、無理に説明する必要なんてありませんよ。つまり、そんなことで顔を真っ赤にしている人の親は、「どうして分かってくれないんだ?」という扱いを受けている人以上に「分かってくれない」人なんですね。
そのようなことは日本に在住する韓国系なり北朝鮮系の人も同じでしょ?
そんなに日本がイヤで、祖国がいいのなら、さっさと帰国すればいいだけ。
逆に言うと、その手の人は議論に勝つことはできても、行動では何も証明できないわけです。

あるいは、ダメダメ家庭出身者の中には「ワタシは、もうマトモな人間になった!過去の辛い体験は克服した!」「そのことを、どうしてアナタは分かってくれないんだ?!」と逆上しながら語る人も、結構いるでしょ?
しっかし、そんなにマトモになったのなら、逆上気味の話しぶりはしなくてもいいわけですし、自分のことを誤解するような人とはやり取りはしないで、マトモな人とやり取りをするのがマトモ。

あるいは、よくインターネットの掲示板で、「こんな議論をしても何になるんだ?」などとわざわざ揶揄するような人もいたりますよね?わざわざ揶揄する行為もダメダメですが、そんな揶揄に対して、「オレたちは、真剣で有意義な議論をしているんだ!」と反論するのはいいとして、有意義な議論をしているのなら、成果となる報告書でも示せばいいだけだし、そんな成果を示すことができないのなら、真剣な議論も何もありませんよ。

あるいは、家庭問題ではありませんが、芸術?の分野で面白い例があります。
「自分には霊能力がある!ショパンの霊にもあったし、モーツァルトの霊にもあった!」とかを語っている人がいたりしましたが、モーツァルトとのやり取りの言葉を得意気に語るよりも、未完となってしまったレクイエムでもモーツァルトの幽霊さんに完成させてもらった方がどれだけ信憑性につながるかなんて分かりきったこと。
だって、モーツァルトの音楽を作り出せるのはモーツァルトだけなんですからね。
それができないのなら、たとえ本当にモーツァルトの霊に会っても、意味はありませんよ。
もっとも有効な証明は、議論に勝つことではなく、成果の方ですよ。

ダメダメな人は、よく論破などとトンデモな言葉を持ち出したりするものですが、その手の人は、相手を論破することはできても、相手を説得することはできないものでしょ?
その手の人は、まさに議論に勝つために、あるいは、相手から反論をされないように必死で語ることにはなっても、もっともシンプルな証明はできないわけです。

その手の人は、そんなムダな議論が大好きなもの。
そして議論に勝つことを目的化してしまって、現状を認識することから逃避してしまう。逆に言うと、そんなスタイルが通用する関係の中でしか生きられない。だからこそ、そんな流儀が通用する間柄である自分の家族やダメダメ仲間に拘ったりする。

それこそ、そんな人に限って「いざとなったら、頼りになるのは、血が繋がった家族だけだ!」などと家族の前で言ったりするもの。その見解に対し、対象とされてしまった血の繋がった家族が反論することになる。
「家族なんて、現実はそんなにいいものではないんじゃないの?血の繋がった家族と言っても、晴れた日に傘を貸すだけの、しょうもない連中だよ!困った時には頼りになりませんよ。血のつながりの価値なんて、単なる妄想ですよ。」
「家族からの」そんな反論に対しては、必死で反論はしたりする。『ウルサイっ!家族は頼りになるものなんだ!オマエもそのうちに分かるぞ!』
「ウルサイ!」と怒られてしまったら、議論は打ち切られる。議論の結果としては、「いざというときには家族は頼りになる。」という結論となる。
しかし、その議論の結果には意味はないでしょ?「血が繋がった家族と言っても、信頼できない。」という疑念の声こそが、意味があるわけでしょ?そんなことは小学生でも分かること。

しかし、現実から逃避するダメダメ人間は、議論に勝ったことだけを認識して、何も対処しない。疑念の声があったことを踏まえ、家族との対応を見直していけばいいわけですが、それもしない。それどころか、子供が困っていても、「それはオマエが何とかしろ!」「親に迷惑を掛けるな!」「いつもオマエは面倒なことを親に持ち込んで・・・」と言い放つだけ。
だからこそ、そのダメダメな親が困った時には、子供から助けてもらえない。
そうして、ダメダメ人間は、「あれほど、家族は助け合うべきものだと言ってあったのに・・・みんなも分かっていたはずなのに・・・こんなことになってしまって・・・ああ!オレって何てかわいそうなんだ!」と嘆くだけ。

まったく韓国の学者に匹敵するくらいの、ギャグですよ。
しかし、そんな嘆きの言葉って、現実にあったりするでしょ?
以前に書きましたが「反論がない」という二重否定と、「合意する」という肯定形は、別のもの。しかし、抑圧的なダメダメ人間は、その違いが心理的にわからない。

あるいは、お葬式とかお墓参りなども、そんなパターンとなる。
『葬式とか墓参りなんて、する必要がないじゃないの?あんなものはお金のムダですよ。』そんな子供の意見に対しては、反論する。
「葬式をしないと、世間体が悪いぞ!墓参りをしないと、将来よくないことになるぞ!」
それくらいならまだしも、「オマエを育てるために、コッチは犠牲を払ったんだ!」「オレの人生はオマエを育てるためにメチャクチャになった。」「だから葬式をしろ!」とグチグチと言い出す。
そうやって、子供の考えを封殺し、その場の議論には勝利しても、じゃあ、その子供が親の葬式をするのかというと、そんなことは誰でも分かることでしょ?

本来なら、子供からの声を踏まえて、家族で、イヴェントとかレジャーでもして、楽しい思い出でも作っておけば、子供だって葬式くらいはするでしょうし、将来はお墓参りもするでしょう。
しかし、楽しい思い出が何もないどころか、不快な思い出しかない人の葬式はしないでしょう。世間体云々が問題になるのなら、そんなダメダメな地域から、完全に引っ越せばいいだけ。

それこそ子供が、『ボクは将来は結婚なんてしないよ!あんなものは、ストレスになるだけじゃないか!』なる意見があったりすると、ダメダメな親は言下に否定する。「いや!結婚しないと、将来、歳を取った時に面倒を見てくる人はいなくなるぞ!子供がいないと、老人となったオマエのオシメは誰が取り替えてくれるのか?だから結婚して子供を作らないとダメだ!」。そして「家庭の大切さについて、学校でしっかり教えるべきだ!」とグチが続くことになる。そんな親の主張には、子供は色々な意味で反論しない。だから議論としては、親が勝つことになってしまう。
しかし、その子供が親の老後の面倒を見たり、親のオシメを取り替えるのかというと、別なのも、小学生でもわかることでしょ?

相手からの反論を抑え、議論に勝ったと言っても、ただ相手方が「コイツに対しては何を言ってもムダだ!」「とにもかくにも、一瞬でも一緒にいたくない!同じ空気を吸いたくない!」という理由から降りてしまっただけ。あるいは、反論を許さないような強圧的な物言いをして、相手を黙らせて、「オレは議論に勝った!」と大喜びしているだけ。

ちょっとでもマトモな神経が残っていれば、「家族は頼りにならない。」という見解を表明した家族を頼りにはしないものでしょ?
しかし、現実逃避で、何も考えないダメダメ人間は、そんな「家族なんて頼りにならない。」と主張する家族に対しても頼りにしようとする。合意を取る形ではなく、力で屈服させる形を取るわけです。
しかし、そんな態度だからこそ、ますます呆れられる。
「コイツ・・・人の話を聞いているのか?」「このバカは、何も考えてないな!」と思われるだけ。
人の話を聞かない人間と一緒にいたい人間がいるわけがないでしょ?
本当に頼りにしたいのなら、トラブルになる前に、もっと地道にコンタクトをとって信頼関係を作っておく必要があるわけですが、そんなことはしない。
ただ、血が繋がっているから・・・という血縁信仰があるだけ。そして、それ以外の人からは相手にされないというだけ。
問答無用な人ほど、「ウチはいい家庭だ!」という主張は熱心なもの。
現実では、そんな問答無用な人間の相手になってくれるのは、その人の子供というだけ。

そんなことはダメダメ家庭だけでなく、ダメダメな学校でも同じ。議論には勝っても、行動が伴わない。たとえば、ダメダメな教員は「たとえ意見の違いがあっても、みんなで話し合いで解決すべきだ!」と問答無用で要求するけど、生徒との話し合いはしないもの。
問答無用の大義として、反論されにくい論理を掲げているというだけ。
だから、実際の行動の指針となっているわけではない。
逆に言うと、「何かあっても、みんなで話し合いで解決すべきだ!」という教義を守るために、暴力を使うことも肯定してしまう。

ギャグを書いているようですが、現実に、その手の人って、そんなものでしょ?
もう、そうなると地域全体がそんな調子になってしまう。
ある人が、「こんな封建的なところに住んでいるのは、問答無用のオヤジだけだ!」なんて意見を言ったら、そんな意見に対して、顔を真っ赤にして『何をとんでもないことを言っているんだ?!ここに住んでいるオレたちをバカにするのか?ケシカラン!』と否定するもの。そして皆は、黙り込んでしまう。まさに、議論の結果としては、否定され、実質的には肯定されている状態。

目の前の議論に勝とうとする人ほど、本来の目的が見えていないモノでしょ?
まさに絵に描いたように「試合に勝って、勝負に負ける。」をいつもやっているもの。
本来なら無理に議論にする必要はなく、おしゃべりはおしゃべりとして楽しめばいいだけ。
お互いが楽しい時間を過ごしたり、あるいは、相互理解が達成されればそれでいいじゃないの?しかし、話のネタがないダメダメ人間は、無理に議論にしてしまい、相手に勝とうとして、意味のない勝利を積み重ねている。あるいは、自分とは違った見解との接し方が分からないので、「自分がその見解を見ないで済む。」ように、他者の発言を封殺しようとする。

そんな姿を見たマトモな人がさっさと離れていってしまって、残ったのは同類のダメダメばかり。何かと言うと、議論に勝ちたがる人にとっては、同類同士だと、あら探しや揚げ足取りばかりしていればいいので、精神的にラク。だからそんな同類が集まって、ますます議論に勝つことばかりを考えてしまう。

しかし、あら探しをして、揚げ足取りをして議論に勝ったからと言って、自分の意向が合意されたわけではないでしょ?
議論に勝つことは、議論の上では勝者なのかもしれませんが、相手から合意を得るという目的を達成した勝者ではないでしょ?試合の勝者かもしれませんが、勝負の勝者ではないとも言えますよね?
そんな敗者は、相手のあら探しをして、議論に勝とうとすることで、「目的を達成していない。」という敗者の状態をますます確定してしまう。

言葉が受け入れられることばかり考え、もっとも的確な行動をとることをしない。
いつもそんなことをやっているから、ちょっとしたことで、そんな匂いがあったりするもの。たとえば、相談の場において「ワタシはこの問題から絶対に逃げません!」と威勢のいい宣言はあっても、現状についての細かな具体的な記述は何もない。ただ「困った、困った。」と言っているだけ。
そんな相談を受けると『アナタは、相談の場で都合が悪くなったら、スグに逃げちゃうでしょ?今までそうだったでしょ?』などとコチラが言うと、「今まではそうだったけど・・・今度は、絶対に逃げません!」との回答となる。スグに逃げる人は、『アナタはスグに逃げるのでは?最後までやり遂げる覚悟はあるの?』という意見に対しては言葉として反論しても、具体的な状況を詳細に記述することはないし、適宜、中間報告なり、自分の考えを提示するわけでもない。

だから、結局は、トンズラしてしまう。
まあ、逃げた当人としては、「逃げたんじゃないんだ!あの人は当てにならないから、相談相手を変えただけだ・・・」とイソップの狐もビックリのロジックなんでしょうが、そんな結末は、最初から匂うものなんですよ。
「スグに逃げるのでは?」という言葉に対しては、必死で反論しても、身をもっての証明はできないわけです。
言葉だけが威勢がよくて、議論には勝とうとするけど、中身が何もない・・・そんな雰囲気が、まさに匂うがごとく、身に付いてしまっている。

分かって欲しいこと、伝えたいことがあるのなら、議論に勝つことよりももっと的確な方法があるでしょ?
それこそ、子供との間で、「将来は結婚すべき。」と議論するのはいいとして、そしてその議論に勝つのはいいとして、親として自分たちが結婚して楽しいという姿を見せればいいだけだし、それを除外しての言葉だけの議論なんて意味ありませんよ。
「老人を敬うべき。」という議論は散々しても、そして、そのことについての議論に勝つのはいいとして、敬意に足る老人を見せればいいだけだし、それを無視しての議論には意味はない。
「学校の教員を敬え。」との説教の言葉はいいとして、まずは、尊敬に足る教員を見せることが先でしょ?
「女性を大切にすべき。」と主張し、反対者をつるし上げるのは勝手だけど、敬意に足る女性を見せることが最初に必要でしょ?つるし上げをしている姿を見せたからといって、それが敬意に繋がるわけがないじゃないの?しかし、逆に言うと、つるし上げを「している側」も、敬意に足る女性の具体例を知らないわけです。そんなことをしている女性たちの母親なんて、まさに自分では考えたくもないほどに、あるいは他の人に見せたくないほどにダメダメなんですね。

だからこそ、一番的確な証明を「見せる」ことができずに、ムダな議論に熱くなっていくばかり・・・
そんなダメダメ人間の姿は、多くのところで「見せて」もらえるでしょ?

(終了)
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発信後記

何回も書きますが、二重否定と単純な肯定は別のもの。
何でも民主党の小沢さんが「キリスト教には問題があって・・・それに対し、仏教では・・・」などと言ったらしいですね。まあ、その言葉がどうして外に漏れてしまったのか?
その点は、色々事情がありそう。

現在において、仏教は「ジャマにならない」という、まさに二重否定状態。
世界的にみて、ジャマにならないという点においては、キリスト教やイスラム教よりも、はるかに優れている。しかし、じゃあ、仏教がどのように役に立っているのか?というと、答えられる人っているのかな?
仏教はジャマになっていないとは言え、無くても困らない。
実質的に、何も役に立っていないし、何よりも、役に立とうとしていない。

だから実質的には、不道徳な存在。
それこそ、現在の日本の仏教だと、「生きているうちに、自分の子供を殴っても、蹴っ飛ばしても、食事を与えなくても、教育を受けさせなくても、自分が死ぬ間際に、100万くらいのお金で居士や信女の称号を買えば、あとは極楽!」なんてことになっているでしょ?

そんな物言いは極端ですが、それに近い発想を実践している人も結構いるでしょ?
お金があったら、そのお金で、子供の教育に使うのか?それとも、自分の極楽生活を買うのか?色々な考え方があるわけですが、現在の仏教では、子供の幸福を無視して、自分の極楽生活を求めることを推奨しているでしょ?

死後の極楽はお金で買うことはできても、現世における尊厳は、お金では買えないわけ。
現在の日本の仏教だと、来世の幸福はお金しだい。お金以外の価値を知らない人にとっては、仏教はすばらしい宗教というわけ。
だから小沢さんも仏教が大好きなんでしょうね。
R.11/1/17