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カテゴリー 会話のスタイル(発言側)
配信日 09年11月25日 (11年1月19日 分離独立 )
タイトル 覚悟のない表現
追記 09年11月25日配信の「ふんぎり」から分離独立いたしました。(11年1月19日)
 ダメダメ家庭出身の人間は、子供時代に親から認められてこなかった反動から、自己表現にこだわることになる・・・このことは頻繁に書いています。
ものの見方や体験してきていることが、マトモな人とは違っている。だから、その表現内容なり手法に新鮮さがあることもある。
だから芸能人だったり、芸術家などの表現に携わる人たちが輩出することになる。
このこと自体は、ダメダメ家庭の数少ないポジティヴな面と言えるでしょう。

しかし、ダメダメ家庭を作る親は被害者意識が強い。子育てを親である自分が被った被害と捉えている。「いったい、誰のためにこんな苦労をしていると思っているんだ?!」という言葉で自分の子供を責めるのがお約束状態となっている。
そんな環境なので、親に迷惑をかけないようにと、常に配慮してしまう。

自分の価値を表現したいという思いと、周囲に配慮しなければいけないという強迫的な感覚が同居しているのがダメダメ家庭出身者というもの。
しかし、その両立は本質的に無理ですよ。
どちらかを選び、どちらかを捨てないとね。
しかし、まさに減点法の精神なんだから、「自己表現」と「減点法」のうちのどちらかを選択するという発想もできない。
減点法の精神であるがゆえに、減点法の精神を失う減点にも眼が向かってしまい、結局は、減点法の精神に満ちた自己表現を目指すことになる。
まさに、「あ〜でもない、こ〜でもない。」とウダウダしているだけ。

わざわざ自分で文章を起こすような人にも、そんなスタイルの表現は多く見られますし、相談の場においてもそんなスタイルになっていることも多いもの。
そのようなことは、以前から、このメールマガジンで取り上げたりしています。
「どーでもいいことをウダウダと書いた自費出版の書籍」を制作したり、「で、結局は、アンタは何が言いたいの?」なんて思わされるような文章を書いたりすることになる。
そんな人は、他者への迷惑には配慮するわけですが、自己の尊厳に対する配慮は全然ないんですね。いわば「いい子ちゃん」志向の減点法。
そんな文章を読むと、「減点法もいいけど、それだったら、そんな文章なんて書かないのが一番減点が少ないんじゃないの?」って、言いたくなるほど。

親に迷惑を掛けてはいけないので、自分自身から逃避している状態。
だって、自分自身の問題となると、やっぱり自分の過去を見つめ直し、それに付随して親の問題を考えることから避けては通れないでしょ?しかし、それは親に迷惑をかけることになり却下。と言うことで、自分の過去を見つめ直すような視点はないままで、自己表現について試行錯誤する。しかし、自分自身から逃避していれば、そんな人の文章に説得力はありませんよ。まあ、書いている当人としては、芸術のつもりかもしれませんが、表現のうまいヘタの問題以前に、自分自身から逃避していたら、一時的な気晴らしとしては有効であっても、普遍性とは無縁になってしまい、芸術とはとても言えませんよ。
まずは、「どうしても伝えたいこと」「どうしても残したいこと」そんなことについて自問自答することが必要でしょ?

自己表現と、自己弁護は別のものでしょ?
自分自身の尊厳は何か?
自分としては、何を達成したいのか?
尊厳って、「悪くない」からあるものではないでしょ?
「ボクは悪くない!」という主張は、自らの尊厳にはつながりませんよね?

マトモな家庭の出身者は、そもそもそんな文章は書いたりはしませんよ。
その文章の出来の問題ではなく、文章を書くこと自体が、ダメダメの証明のようなもの。
せっかく文章作品を作るのなら、そのテーマや霊感に従って死ぬ覚悟を持って文章まとめるのなら結構なこと。書くことを、使命とするのか?単に仕事としての儲けを目的とするのか?書く前には、そんな判断がまず必要になってきますよ。
しかし、「このことについて、何としてもまとめ上げたい。」「どうしても残したい。」という強い思いがないダメダメ人間は、自己表現と、「他者へ配慮するいい子ちゃん」の両方とも得ようとして、結局は、どっちも得られない。

自分に問題点が多いからこそ見える世の中の問題点もあるわけでしょ?何も文章などにしてまとめる必要はないでしょうが、自分の問題点が自覚できていれば、人からの相談にも対応しやすいでしょ?ダメダメ家庭なんて、世の中に山ほどあるわけですからね。そんな人へのサポートができれば立派な尊厳であり社会における役割ですよ。
しかし、ダメダメ家庭出身の人間が、そんなダメダメなりの尊厳に到達できるのは、めったにないこと。マトモ家庭の人間は、特に努力もせずに、マトモなりの尊厳に到達できる。
だって、マトモ家庭を作った自分の親のスタイルをそのまま真似れば、いい結果がでるわけでしょ?特に自分なりに考える必要もありませんよ。

親に迷惑を掛けてはいけない・・・だけど、自己表現したい・・・ダメダメ家庭の出身者で、そんな「どっち付かず」の人が多くいる。
そんな人の「自己表現」って、結局は、本当に表現したい自己からの逃避と言えるわけです。以前に書いた言い方をすると「言葉によって、自分自身を流している」だけ。
そんな人の表現って、まさに「どっち付かず」の内容で、読んでも「で、結局は、何なのさ?」と思わされるだけ。表現だけならともかく、そんな人は、その行動自体も、「どっちつかず」で、フラフラするだけ。

ボランティアのようなことをしても、最後までやり通すことはしない。
取り組む際に中途半端だし、最後の終わり方も中途半端。
言い訳のための、自分から目を逸らすための努力になっているだけ。

そんな人に対して「アンタは、結局は、何が言いたいの?」「何がしたいの?」と直接に聞いたりすると、まさにコソコソと逃げ出す始末。
一旦やっている活動をやめて、沈黙して、自分の活動を見つめ直したり、自分自身を見つめなおせばいいけど、その沈黙すらいい加減で、中途半端。結局は、指摘した人に見られないところでコソコソをやり始める。

「ワタシはこんなに立派なことをやっているのよ!」
そんな主張だけは熱心に主張する。
人に対して主張するのは熱心だけど、それを自分自身なり、あるいは神に言えるのかな?

その手の人は、誰か特定の個人にメールすることすらできず、インターネットの掲示板とか、どこかのコメント欄に群れるようになってしまう。
しかし、そんなところで群れても、グチの共鳴で終わってしまうでしょ?
掲示板やコメント欄への書き込みも結構ですが、「これだけは得たい!」「これだけは表現したい!」というものがあれば、リスクをとって、自分なりに取り組みますよ。
それに、「これだけは得たい!」というものを持っていない人による傍観者然としたコメントなどは、どのみち、何の価値もありませんよ。
そんなコメントを出して喜んでいるよりも、まずは、自分なりの求める成果をイメージすることの方が先でしょ?

凡人だったら、堂々と凡人をやればいいだけ。それは尊厳のある生き方ですよ。
凡人になりきれないからと言って、中途半端に自己主張されても、見苦しいだけ。
自己主張するのなら、命をかけるくらいの真剣さが最初に必要になってくるでしょ?
しかし、現実のダメダメ人間は、中途半端に自己主張して、それに対して誰かから指摘をされたら、その「反論」の方に命がけになるもの。
熱く反論する人ほど、「自分が何をしたいのか?」その点について、的確に説明できないものでしょ?

自己表現であれば、それが理解されないことも織り込み済みといえます。
別の人間に理解されるされないの問題ではなく、自己の尊厳を掛けた表現なんですからね。
しかし、減点法的な表現は、所詮は自己弁護なんだから、それに対して反論されれば、自分の価値を守ろうとして、一生懸命になりますよ。
しかし、だからと言って、「自分が伝えたいこと」「残したいこと」が形になったわけではないでしょ?

減点法的な精神を捨てない限り、本当の意味で自己表現にはならない。
しかし、自分自身から逃避して、周囲の人に過剰に配慮するいい子ちゃんは、「あーでもない。こーでもない」という減点法に満ちた表現をいつまでも続けるものなんですね。