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カテゴリー 相談という場におけるダメダメ家庭
配信日 09年12月7日 (10年10月22日 記述を追加)
タイトル アリバイとしての相談や謝罪
ダメダメ家庭の人間は「いい人」願望が強い。
このことは、このメールマガジンで頻繁に書いています。

当事者意識がないので、当人自身に達成したいものがない。だから加点法的に物事を見ることができずに減点法に物事を見ることになる。だからこそ、「誰にも迷惑をかけない」『いい人』でありたい・・・そう思っている。そんな人にとって、一番迷惑を掛けてはいけないと思いつめている対象が自分の親。
だからトラブルが起こっても、自分の親の問題は考えない。自分自身の問題についても、親に迷惑が掛かる可能性があるから考えない。
と言うことで、上手く行かない状態になると、当事者周辺の人については何も考慮せずに、「政治が悪い!」とか「時代が悪い!」とか言うだけ。かと言って『じゃあ、アンタはどうしたいの?』などと聞かれても、結局は、「うーん・・・」となるだけ。
そして繰り返す。「ワタシは悪くないっ!」

当然のこととして、そんな人が上手く行くわけもなく・・・やっぱり、トラブルが起こることになる。そんな不都合な事態の改善を図るために、誰かに相談することになる。

そんな「いい人」願望がある人は、どんな人に相談しようとするの?
そもそも、相談を持ちかける相手を選択する際には、「自分に対して厳しいことを言わないかどうか?」という点が重要になってくる。事態を解決してくれそうな人物かどうかは、判断の基準の外なんですね。そもそも「ワタシはかわいそうな被害者」ということが絶対の大前提となっているので、その点を認めない人は、「あの人は、ワタシのことを何も分かっていない。」と認定し、端から相手にしない。自分に同情してくれる人だけを相手にする。

だから相談するに当たっても、「あの人は、ワタシに厳しいことを言わないだろう・・・だから、あの人に相談しよう。」となる。厳しいことを言わない・・・つまり「や・さ・し・い」「いい人」に相談しようとする。やさしそうに見える人は、周囲の人から、やさしそうに見えることを重視する「外面重視」の人なので、実際に厳しいことを言わないもの。
それこそ、周囲から評判の高い人格者さんとか・・・あるいは、ちょっとオカルトが入って宗教関係者とかが狙われたりする。オカルト的な指摘は、それを受けたとしても、本人としては、どうしようもないでしょ?だからこそ、そんな類の回答をしてくれる人を選ぼうとする。

いわゆる「いい人」とか、周囲から評判の高い人に相談することがダメダメというわけではありませんヨ。まあ、誰だって考えること。
しかし、「いい人」願望が強く、「周囲に迷惑を掛けてはいけない!」なんて切羽詰っていることにより、事態が悪くなってしまった問題を解決するに当たって、周囲から評判の高い「いい人」が最適任なの?

自分自身の至らなさを指摘してくれる人でないと、解決には至らないのでは?それには、自分とは違ったキャラクターの人間なり、自分とは違った視点を持つ人の方がいいのでは?
相談内容を他にペラペラ漏らすような人間は論外ですが、重要なことは、相談を持ちかける側の問題点を指摘してくれることでしょ?的外れで間違った回答だと思うのなら、そんな回答を無視すればいいだけ。

しかし、「いい人」願望の強いダメダメ人間は、そんなリスクは犯さない。そもそも抑圧的なキャラクターなので「どうしても、自分の問題を解決する!」なんて気合も覚悟も持っていない。そんな「いい人」願望の強い人間は、常に減点法。周囲の世評が高くない人に相談して、自分が「いい人」でなくなるのが怖い。問題を解決できないことよりも、周囲からの自分への評価がダウンすることの方が怖い。
相談相手として認定された、権威ある「いい人」も、基本的に減点法でしょ?だから一般の人から、「あの人は、いい人だ!」って言われるわけでしょ?一般人と見ているものが一緒だからこそ周囲に理解されるわけでしょ?

そんな「人格者さん?」自身が悪いわけではありませんが、相談相手としては、むしろ不適なんですね。だって当たり前のことしか言えないわけでしょ?だから、周囲の人から「いい人」と言われるわけでしょ?しかし、それだったら、そんな人が語るアドヴァイスなんて、わざわざそんな人に相談しなくてもわかりますよ。まさに権威筋認定の教科書通りのことを言っているだけでしょ?結局は、「いい人」が「いい人」に相談して、「あーでもない!こーでもない!」とウダウダ。結局は、事態は何もよくならない。

しかし、相談を持ちかけた方は、「ボクはアチコチに相談している。事態の改善に努力しているんだ!」と周囲に語ることになる。
努力しているのはいいとして、結果はどうなったの?
結局は、相談を持ちかけているというアリバイができただけ。

「ボクは、ちゃんとやっているんだ!」
「色々な人に相談しているんだよ!」
「ボクは悪くない!」

そんな「いい人」願望が強い人は、そうやって「いい人」に相談を持ちかけて、後になって、また別の「いい人」に相談を持ちかけて、自分のアリバイを確実なものにする。

当事者意識がないし、そもそも現状認識から逃避しているんだから、本当のところは何が問題なのか?そして、何をどんな感じで相談していいのかわからない。
それに自分に自信がないので、ヘンな相談をして笑われたくない。自身が「いい人」という前提が壊れてしまうような相談はしない。

そもそも、事態を認識すること自体を抑圧しているわけだから、本当の意味では困っているわけではない。そんな人は、事態を解決するよりも、不都合な事態を見ないようにしたいだけ。そんな「相談体験」を積み重ねて来ているので、相談によって事態が解決した体験がない。
相談というものが、ある種の義務としてとらえられているわけです。
不都合な事態になったら、義務として、相談という過程を踏む必要がある・・・そんな認識となっている。義務感を基本としているわけだから、誰かから「何でも相談してね!」と言われると、「じゃあ、あの人に相談しなきゃ!」と強迫的に思ってしまう。

「相談してね。」と言ってくれた相手から嫌われたくないが故に相談を持ちかけている面もあるんですね。いわば人脈を保つための相談であって、問題解決のための相談ではない 。相談して自分が直面している事態を解決することが目的なのではなく、「いい人」が行う人付き合いの儀式の一種として相談があるだけ 。

「ボクは人と上手に付き合える『いい人』なんだ!」そう言いたいがための相談になってしまっている。そして、もっともっと「自分はいい人」というアリバイを確立するために、今度は自分自身が「立場あるいい人」として、誰かからの相談を受けようとする。 自分の問題を解決できないのに、人からの相談を受けるような立場になりたがる。
以前に書きましたが、「やたら説教しようとする」人間になってしまう。
そんな人は、上からの立場の問答無用的な説教であって、本質的な意味で相談ではない。
だって、相談を持ちかけてくる人間が、どうしてそんなトラブルになったのか?自分自身の問題だって解決できない人間が、どうやって他人の問題を解決できるの?

それに、相談相手に厳しいことを言うことは「いい人」のすることではないでしょ?
「キミはこの点が間違っていたから、こんな事態になってしまったんだ!」
「この時点で、このような選択肢があったのに、その選択肢を見ようともしない。」
そんな厳しい指摘は「いい人」はしませんよね?
しかし、事態の改善のためには、キレイ事だけでは行かないでしょ?

いい人願望の強い人は、自分が「いい人」として、いい人に相談し、今度は誰かから「いい人」として相談を受ける。下を見て喜ぶ人間としては、下に安住する人間から相談を受けると大喜び!結局は、解決案は何も出ないで、グチの共鳴で終わってしまう。

そんな相談会で、何か具体的な改善策が出たことがあるの?
往々にして、いくら相談してもいい結論がでないとグチっている人は、こんな「いい人」に相談しているものなんですね。それだけ、相談という場も言い訳のためのアリバイに堕してしまっている。

何回も書いていますが、「いい人」って、基本的に減点法。
何かをやり遂げる「いい人」って聞いたことがないでしょ?
そんな人に相談しても、何も改善しませんよ。

むしろ「いいオトコ」とか「いいオンナ」に相談した方がマシ。だって、「いいオトコ」も「いいオンナ」も、どっちかと言うと 加点法でしょ?
「あの人にはこんな面白いところがあるよ!」そんな人が「いいオトコ」であり「いいオンナ」というもの。

人から多くの相談を受けても、相談を受けた側の人間が、相変わらず「いい人」という評価だったら、それだけ、その相談において、「手を汚していない」ということでしょ?
そんな覚悟のない人間が、事態を改善できるわけがありませんよ。

「いい人」という評価を守るための相談なんだから、相談という場においても、以前に書いたように「遠くに甘え、近くにはいい子」のように振る舞ったりする。
近くの人間には本音を言うことはない。だから困りごとの相談相手も、遠くの人が選ばれたりする。

本来なら、困りごとの相談なんて家族にするのが、一般的といえる。まあ、思春期の「お悩み」のようなマターならともかく、本来なら子供にとって親というものは、相談相手としては申し分のないものでしょ?だって本人のことを「よく」知っているわけですし、まがりなりにも人生の先輩なんですからね。

逆に言うと、親に相談できなない・・・という状態だったら、そのことについて考えてみる必要があるわけです。
「どうして親に相談できないのか?」
それを早めに自覚しておかないと、現在の困りごとが、もっと深刻になるばかりではなく、別の困りごとまで発生して、身動きがとれなくなるわけ。

それこそドメスティック・ヴァイオレンスの現場などでは顕著に発生するものなんですね。
「実家の親に迷惑を掛けられないから相談できない。」
言葉としてはそれでいいんでしょうが、実家とそんな状態だからこそ、そんな暴力男と結婚するハメになっちゃったわけでしょ?なぜに実家に相談できないのか?その点について、通り一遍の理屈ではなく、自分自身の本当の声を聞く必要があるわけです。

当然のこととして、結婚した後では、最初の相談相手は配偶者ということになりますよね?
子供の問題とか、近所付き合いの問題とか、勤務先の問題とか・・・色々とあるでしょ?
結婚後は最初に相談する相手って、やっぱり配偶者となるが自然でしょ?一緒に暮らしているわけですし、そもそも、それなりに「頼りになる」と思ったから結婚したわけでしょ?
もし、配偶者に相談できないのなら、「なぜ、相談できないのか?」それを早めに自覚する必要があるでしょ?「迷惑を掛けられないから。」そんな理由もあるでしょう。
しかし、そんな遠慮をしている状態だったら、夫婦関係も長続きはしませんよ。

あるいは、「相手に弱みを見せたくないから。」という理由もあったりしますよね?
しかし、それだって、家庭内でそんなに「気が張って」いたら、持ちませんよ。そもそもそんな「飾らないといけない」相手と、どうして結婚したの?

「そのストレスを、インターネットの掲示板で発散!」って、そんな人もいたりしますよね?インターネットの掲示板に書き込むのはいいとして、順番が違うでしょ?
実家の親にも、配偶者にも相談せず、悶々とした思いを、そんなところで発散してもしょうがないでしょ?中途半端に発散しても同じことを繰り返すだけですよ。
だから、せめて、「実家の親にも、配偶者にも弱みを見せられない自分」ということを自覚する必要があるわけです。
「フランクに相談もできないようなそんな相手と、どうして結婚しちゃったんだろうか?」自分自身で考える必要があるわけです。だって自分自身の問題なんですからね。

その自覚がないままだと、どうなっちゃうでしょうか?
そんな家庭で育った子供が、親に困りごとを相談するの?
そんなわけないでしょ?

そして子供が事件を起こした後で、「こうなる前に、どうして親に相談してくれなかったのか?」などと大仰に騒ぐだけ。
早めに自覚していれば、そんな事態にはならないでしょ?
相談という場が「いい人」としてのアリバイとなっている人は、トラブルがあった際の謝罪においても、「いい人」志向。
やっぱり「遠くに甘え、近くにはいい人」だったりする。

以前にあった料亭の吉兆のトラブルですが、「父親に迷惑をかけた・・・」との謝罪の文句でしたが、そんな身内重視の発想だから、パートのおばちゃんに責任転嫁するようになるんでしょ?あるいは、企業における不祥事の際の謝罪だと真っ先に官庁に先に行く例がありますよね?そんな顧客無視で、権威主義だから事件が起こるわけでしょ?
どんな順番でどんな言葉で謝罪をするのか?その点を見るだけで、トラブルの原因も、その後がどうなるのかも分かることが多い。謝罪のプライオリティや謝罪先のプライオリティから見えてくるものも多い。子供時代から「親に迷惑をかけてはいけない」と切羽詰っていた心理が見えてくることも多く、そんな心理だからこそ、事件も起こってしまう。

謝罪においても、信頼を向いたものではなく、どっちかと言うと、好意を志向したもの。
相手からの好意を求めて、ウソを言ったりする。後になってそのウソがばれて、信頼を失う。あるいは、情報を小出しにし、後になって「実はこんな事情があって・・」と言い出し、信頼をなくす。
信頼をなくして、相手にされず、新たな地点から関係を築こうとして、同じ失敗をくりかえす。人から相手にされないことを自分が被った被害と考えて、人にその被害を語り、つまり他者の悪口を語り、それを聞いた人間から、やっぱり信頼されない。信頼と好意の区別が付かないので、好意を得るために、かわいさをアピールした捨てセリフ系の謝罪をしたりする。「もおぅ〜、ユ・ル・シ・テ・ヨ♪おねがい!」なんて言い出したり・・・
しかし、相手をしている側は、シリアスなシチュエーションでのそんな姿には、ドン引きするだけ。
結局は、信頼が必要のない関係だけに依存するようになり、話題と言えば、他者の悪口くらい。そんな人たちと一緒に行動して結局は泥沼になってしまう。

ダメダメ人間は、「あの人に相談した。」という相談の履歴は、いっぱい語れるのに、「この問題を解決した。」という解決の履歴はまったく語れない。

そんなアリバイ志向の人間は、別の分野でも同じようなことをしているもの。
こんな本を読んだ・・・とか色々と言ったりするのに、「その本を読んでどう思ったのか?」「どのように自分自身を認識したのか?」そんな結論が語れない。
あるいは、ボランティアなどでも、こんな人を助けた、あんな人をサポートしたとか言っても、そのサポートした人がどうなったかは全く語れないもの。
サポートの形式を整え、その仕事の実績は積み重なるわけですが、成果は何もないまま。

それこそ、自殺防止とかで「いのちの電話」とかがあるそうですが・・・
ボランティアの人が、電話でお悩みを聞いてくれるらしい・・・
しかし、あれも不思議でしょ?
あれによって、事態が解決したことがあったの?
電話一本で解決するのなら、自殺なんてしませんよ。

と言うか、相談の電話を受ける側も不思議でしょ?
自殺を考えているような人は、様々な事情がありますよ。
そんな事情を聞いたら、聞いている側も精神的に落ち込みますよ。
会社でのトラブルくらいならともかく、子供時代の虐待体験とかの話を聞いたら、聞く側も落ち込むでしょ?

ヘンな話になりますが、この私に対して相談のメールをお寄せになる方もいらっしゃいますが、まあ、相談の文章を読むと、この私も落ち込みますよ。
私としては、一種の使命感でやっているわけですし、幸か不幸か、そんな相談は一週間に1回くらいなので、自分なりに対処は可能ですが、それこそ「いのちの電話」のように、自殺を考えている人の事情を聞いて、回答を出して、コーヒーでも飲んで落ち着いて、次の相談電話を受ける・・・そんなことは、絶対にありえませんよ。

自殺を考えているような人の話を真剣に聞いたら、その一日は何もできませんし、その後でスグに別のものに取り組めるということは、実質的には相手の話を聞いていないということ。
そんな人とやり取りをしても、自殺を考えている人が、考えを変えるわけがないでしょ?
世の中に対して、ますます絶望するだけですよ。
しかし、電話相談を受ける側は、「すばらしいボランティア活動だ!」「あの人は、立派な人だ!」と周囲から高い評価を受けたりするもの。しかし、立派というよりも、立派に見えるだけ。別の言い方をすると、異常なまでに鈍感ということでしょ?

そんな「ボランティア」は、ただ、「自分はいい子ちゃん」という証明のためにやっているだけなんですね。そして、「ワタシは悪くない!」と言いたいだけ。
悪くはないということを必死で証明するために、当人自身も、やり取りの相手も何も得るものがないまま。
そんな人は、まあ、確かに減点法的に「悪くはない」人で、ある意味においては「いい人」なんですが、加点法的に、何もよくはないし、はっきり言うと中身が何もない人なんですね。

(終了)
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発信後記

今週は相談とか言い訳とか、そんなトラブル後のやり取りについての文章を集中的に配信いたします。

トラブルが起こってしまうのは、しょうがない面もありますが、その後の対応において、マトモとダメダメは大きく違うわけ。ダメダメはトラブルを解決することはしない。とりあえず見えなくなればそれでいい。だからこそ、同種のトラブルを繰り返す。
そして、繰り返した後で「どうして、ワタシだけこんなことに?!」と嘆く。

そんな相談を受けたことがある方は少ないでしょうが、そんな姿をまじかで見ていて、不思議な思いをされていた方は結構いらっしゃるのでは?
R.11/1/12