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カテゴリー 信頼と好意の諸相
配信日 09年12月14日 (10年8月4日 記述を追加)
タイトル 敬意のない好意
このメールマガジンでは以前に、「ダメダメ家庭の人間には敬意がない」という文章を発信しております。そもそも敬意というものは、当事者意識と繋がっているもの。
「自分ではこれくらいしかできないけど・・・この人は、こんなレヴェルまで、やっちゃうのか!スゴイなぁ!」そんな感情が敬意でしょ?

あらゆる人や物事に対して敬意を持つ必要はないでしょう。
自分と直接に関係があったり、関心がある分野においては、そんな敬意を持つこともあるのでは?逆に言うと、敬意を持つ対象によって、その人の関心がある分野が判るでしょ?

たとえば、ホットドッグの早食いコンテストの優勝者に対して敬意を持つ人もいるでしょうし、「世の中にはそんな人もいるんだねぇ・・・」と、ビックリするだけの人もいるでしょう。あるいは、文章を読むような場合でも、「この文章はすごい!」と敬意の念を持つ場合もあるでしょうし、「ふーん・・・」と思うだけの場合もあるでしょう。関心のない分野の文章だったら、その文章やその書き手に対して敬意なんて持たないのが一般的ですよ。

何もすべてのものに敬意を持つ必要はありませんし、そんなものはウソくさいものですよ。ただ、当事者意識がないと、敬意の対象の問題ではなく、敬意そのものと無縁になってしまう。
ただ、敬意に似たものは持ったりする。
たとえば、韓国のように序列意識の強い環境だと、「自分より上の序列と認める。」という序列確定をもって敬意と見なしているのでは?
しかし、それは、当事者意識に基づいた敬意ではなく、単に「ワタシはアタナに従います!」という従属宣言と言ってもいいでしょう。

あと、ダメダメ家庭の人間は、信頼というものを理解できないことも頻繁に書いております。ダメダメ家庭の人間は、「好意」という感情は何とか理解できても、「信頼」という判断はできない。だから、信頼とは無縁なのに、単なる一時的な好意で、誰かに近づいて行ってトラブルになってしまう。

つまり、ダメダメ家庭の人間は、好意という感情があっても、そこには信頼のファクターはないわけですし、敬意というファクターもない。
本来なら、人と人のやり取りにおいては、好意という感情の背景には、信頼や敬意が付随しているものでしょ?信頼や敬意を持ちえない相手と継続してやり取りをしたいとは思いませんよね?

しかし、信頼も敬意も持っていないのがダメダメ人間。マトモな人だったら好意と言った以上は、その背景として、それなりに信頼も敬意も付随しているわけですが、ダメダメ家庭の人間にあるのは好意という断片的な感情だけ。

このようなことは、人と人のやり取りばかりではありません。
それこそ、最近では「○○動画」とかの動画サイトで、アニメ作品などの不法のアップロードする事件があったりしますが、アレも不思議でしょ?
もし、その作品を好きなら好きでいいわけですが、じゃあ、もうちょっと丁寧にその作品を扱わないとね。その作品を好きなのはいいとして、その作品に対して敬意はないの?あるいは、その作品の作り手に対して敬意はないの?敬意があったらそんなことはできないでしょ?
ただ、お金にもならないのに、そんなことをするんだから、それなりに、その作品を「好き」なんでしょうね。好きなのに、敬意は持っていない。その作品に対して敬意を持っていないというよりも、敬意そのものが理解できない・・・そんなことをする人は、そのようにみなせるのでは?

一般的には、好きという感情には、敬意や信頼が無意識的に付随しているわけですが、そうでない人もいるわけです。
そのように、敬意や信頼が付随していないスタイルの好意を持っている人は、信頼とか敬意が無縁なままで、一時的な好意だけで結びつくことになる。
そんな男女が夫婦になったりすると、将来はモメることになるのは当然のこと。
そして、そんなトラブル状況になった人が、周囲の人から好意を得る手段というかロジックは、「ワタシはかわいそうな被害者なんだ!」ということだけ。「ワタシはこんなにかわいそうなのよ!だからワタシを好いてよ!」というロジックになる。だから、結局は「どっちがより被害が大きいのか?」で被害者競争をすることになる。
しかし、被害者だからと言って、敬意や信頼に繋がるというものではないでしょ?

あるいは、やり取りの際に、敬意とか信頼とかをまったく考えていない・・・となると、インターネットの掲示板なんて、その典型でしょ?やり取りをする際に、信頼とか敬意を念頭に置く人だったら、たまに見たりはしても、あんな場所には入り浸ったりはしませんよ。読むことはあっても、書き込みはしないでしょう。

やり取りをする際に、敬意はどうでもいい・・・そんな観点から見てみるとボランティアの連中もその典型のパターンでしょ?
たとえば「この子供には、こんなすばらしい可能性がある。しかし、今の状況ではその可能性が生かせない。だから、その点をサポートするんだ。」・・・そんな考えでサポートしているんだったら、それなりには敬意はあると言えるでしょう。サポート対象の子供の可能性に対しては敬意を持っていると言えるでしょ?
しかし、現実のボランティアは違うでしょ?サポート対象の何に対して敬意を持っているの?ボランティアをしている人は、逆に言うと、敬意というものを理解出来ない人・・・そんなものでしょ?敬意がないというよりも、むしろ、「あの○○のせいで、こんなお気の毒な事態に!あの○○をやっつけろ!」と「敵意」を持っているケースが多いといえる。

敬意というものが理解できないので、その手の人はその人自身が尊敬している人について、何も語れない。語れるとしたら「反面教師」という言葉で、自分に被害を与えた加害者について語るだけ。被害者意識があるから被害は語れても、当事者意識がないから敬意を語ることができない。

そんな人が、芸術作品などに接しても、「金を払ったんだから、その分は楽しませろよ!」とふんぞり返るだけ。当事者意識がないので、作品を生み出す人間の心理や努力まで考えない。ただ消費者の立場から、上からの物言いをして喜んでいるだけ。
その作品に対して敬意を持つ持たないは、それぞれの人なり、それぞれの作品によっての個々の判断でしょう。しかし、スグに上からの立場の物言いをするような人は、敬意そのものが理解できず、それだけ当事者意識を持っていないと言える。そして、敬意を理解できないもの同士が集まってしまう。そんな敬意を理解出来ないもの同士だから、作品の扱いがぞんざいなのは、当然といえば当然のこと。

何も作品を作るとかのマターだけでなく、たとえば料理でも植物栽培でも同じですが、何かを生みだそうとしている人にしてみれば、「満足できない!」と、消費者の立場から、論評しているだけの人とやり取りをしてもつまらないだけ。たとえ、自分とは関係のない分野においても、そんな上からの論評に対しては「この人たちは、ちょっとヘン。」と思うモノですよ。
それこそ、ホットドッグの早食い競争でも、「スゴイ人だ!」と敬意を持ってもいいでしょうし、「その分野はよく分からない。」と距離を取ってもいいでしょう。しかし、「ふんっ!くだらないっ!」と上からの評価をする人は、結局は当事者意識がない人なんですね。
だって、早食いは早食いなりの努力はあるものですよ。その努力自体は、当事者意識があれば、想定できるものでしょ?

当事者意識がないもの同士が集まっても、何かできるわけがありませんよ。一緒になってグチっているだけ。当事者意識のある人は、そんなグチっているだけの人に対し、厳しい目を向けたりするものですが、グチの同類同士だと、当然のこととして厳しいことは言われない。
だから、一緒になって、そんなぬるま湯状況に浸りきってしまう。
単にぬるま湯に浸っているだけならまだしも、被害者として自分たちを認識しているから、何か不都合なことがあると、報復を考えることになる。
敬意のない人ほど、報復行為をしたりするものでしょ?
そもそも当事者意識があれば、気に入らない人間に対して報復などをするよりも、自分のやりたいことをサクサクやって行った方がマシなのは誰でもわかること。

敬意とか信頼が認識の範疇外の人は、周囲へのアピールにおいても、まさに「好意を求めるアピール」のスタイルになるものなんですね。
それこそ以前にも書きましたが、やたら、かわい子ぶって「だってぇ・・・なんだもん。」「・・・ですぅ。」とか甘えた口ぶりになったりする。あるいは、メールの文章においても「ハート」とか、かわいい系の絵文字を入れたりする。
そんな人は、子供につける名前も、あるいは本人の名前自体も、好意志向。いわば信頼とか敬意に対するセンシビリティを持っていない。

あるいは、最初の自己紹介においても、「ボクは△△が好きです。」などと紹介する。
どうせなら、今その人がやっていることを語った方がいいのでは?
「今、アマチュアで野球をやっています。」とか「創作料理に取り組んでいます。」でもいいでしょ?あるいは、「メールマガジンの文章を配信しています。」というパターンもあるでしょう。しかし、単に「ボクは△△が好きです。」では、できたものを消費しているだけでしょ?
自分でやっていることがあるからこそ、達成したものもあるわけで、単に消費しているだけだったら、何も達成できませんよ。

まあ、特定の作品を好きなのはその人の勝手でしょう。
それを自己紹介とするということは、「ボクはこの△△が大好きなんだよ!だから、同じ趣味を持っている人同士で、仲良くやろうよ!」ということなんでしょうね。
いわば自分に対して親近感を持ってほしいんでしょう。
しかし、その手の親近感は、その段階では信頼も敬意もないでしょ?
だって、その人は、その作品を生み出したのではなく、単に消費しただけなんですからね。
ただ、親近感を持ってもらえれば、フランクなやり取りを積み重ねた後になって、信頼を持つに至る・・・そのようなことはあるでしょう。

しかし、やっぱり親近感どまりになってしまっている人もいるでしょ?
信頼に至るための出発点としての親近感なのか?それとも、終着点としての親近感なのか?
親近感どまりの人は、信頼とか敬意が理解できないので、ちょっとでも不都合な事態になると、「どうして、そんなことを言うんだ?!」「オレをバカにするのか?!」と逆上したりするもの。
フランクにやり取りをしていたはずなのに、突然の逆上の姿にはビックリさせられるわけですが、最初の段階で、ムダに親近感アピールをしてくる人は、信頼とか敬意とかとは無縁の人が多いものなんですよ。

あるいは、「いい人」アピールのために、ボランティア活動自慢をしたりするもの。
それこそ、以前にあった神奈川県の綾瀬市の60歳過ぎの女性が、知的障害者の施設を放火した事件ですが、そんないい歳をして、どうして、そこまで「いい子アピール」をするの?
年齢を経たら、人から好かれることよりも、敬意とか信頼を得るようにした方がいいのでは?

たとえば、インターネットを使った店舗であるネットショップにはオーナーの写真を載せたりする例が多いわけですが、たとえば「ネコを抱いてポーズをとっている写真」と、「作業服を着て働いている写真」のうちで、どっちが信頼とか敬意に繋がると思いますか?
ネコを抱いている姿がかわいいから、そのネットショップは信頼できる・・・そのように考えるの?そんなわけないでしょ?好意と信頼は別ものでしょ?特に、お金が絡むようなマターについては、好意よりも、信頼とか敬意を持たれるような「つくり」にしないとマズイでしょ?しかし、そんな「かわいい」アピールをしているようなネットショップって、現実にあったりするでしょ?

あるいは、それこそ、福祉施設に放火した上記の女性ですが、ホームページに「かわいい系」の写真が載せてあって、ビックリいたしました。60歳のオバサンの顔が気持ち悪いとかの問題ではなく、「人としてまず最初にアピールするのは信頼じゃないのかな?」と怪訝に思ったわけです。

最初に「かわいいアピール」をしている時点で、ちょっとあぶないことが見えてくるんですね。
前にも書きましたが、信頼とか敬意のなさは、当事者意識の欠如に繋がり、それはあらゆることを被害ととらえる意識、そして、結果としての報復行為につながってしまう。
それこそ、結婚詐欺事件などがあると、かわいいアピールの写真がでてきたりしまよね?
名前を見ても、写真を見ても、その人が、好意を求めているのか?信頼を求めているのか?は判るもの。

ボランティアだって、そもそもの目的として、人に自慢することではないでしょ?
その人の尊厳として、自分の判断でやればいいだけですよ。
人に対してアピールするのなら、「このような境遇の子供を助けるために、この点において、皆さんの助力をお願いしたい。」そんなスタイルになるのでは?
しかし、「ワタシはこんな立派な活動をしているのよ!ああ!ワタシって、なんていい人なの?!」なんてスタイルのアピールをしている時点でいかがわしいといえるでしょ?
そんなアピールは、その人が、信頼や敬意と無縁な類の好意しか理解できないことを示しているわけです。

あるいは、昨今では韓国に親近感がある人が多い・・・とか・・・報道があったりしますよね?どんな類の調査なのかはともかく、韓国に対して親近感とか好意を持つのはいいとして、その好意や親近感の背後に信頼とか敬意はあるの?
あるとしたら、どんな点なの?
韓国料理を好きでも、韓国ドラマが好きでも、それは当人の趣味でしょうが、それによって、信頼とか敬意が生まれるものではないでしょ?
韓国に対して親近感を持つのもいいわけですが、敬意とか信頼がない好意なので、かなり「いびつ」なものなんですね。本来は、そんな好意は胡散臭いもの。それを受け入れてしまっている状態から見えてくるものがあるといえるでしょう。
たとえば、アメリカへの親近感は、韓国への親近感とは逆のパターンでしょ?
アメリカに対しては「色々と気に入らないところもあるけど、ヤツラはやる時はやるヤツだ!」・・・そんな信頼ベースのものでしょ?

信頼や敬意というものは、相手についての理解に基づくものでしょ?
しかし、好意というものは、相手についてよくわかっていなくても成立する。
会話の能力の不全で、自己逃避のダメダメ人間は、相互理解に基づく信頼や敬意とは無縁になってしまう。
信頼を重んじる人は、相手や対象のことを理解しようとするし、自分自身も信頼に値する人間になろうとするし、人とのやり取りにおいても、その点を説明できるもの。
つまり相互理解が必要になる。当事者意識があるから敬意がうまれ、認識や判断があるから信頼が生まれるものでしょ?

好意しか眼中にないダメダメ人間は、逆に言うと、相互理解とは無縁でいられる。
そもそも、お互いのことをよく分かったら、好意がなくなるのがダメダメ人間が送ってきた日々における常識というもの。実際にそんな体験を積み重ねてきている。だからダメダメ家庭の人間にしてみれば、相互理解なんて、百害あって一利なしという感覚になっている。

相互理解を必要としている人は、それにフィットした物言いをする。
好意を求めている人は、やたら感情表現ばかりで、自分の被害を語る。
で、結局は、何が伝わるの?何を分かってほしいの?
結局は、「ワタシがかわいそうな人であることを分かってほしい。」・・・それくらい。そして「かわいそうなんだから・・・ワタシを好いてよ!」というロジックとなる。
あるいは、「ワタシって、こんなにいい人なのよ!だからワタシを好いてよ!」となる。

本来なら、見知らぬ人からの好意を求めるよりも、身近な人からの信頼を得た方がいいのでは?しかし、上記のボランティアおばあさんの身近な人ってどんな人?
そんな人が行うボランティアって、いったい何?
しかし、だからこそ必死で好意を求めることになってしまう。
何か不都合な事態になったら「あの○○のせいだから・・・ワタシは悪くないわ!」「ワタシこそが被害者なのよ!」と言うだけ。

被害者を受けたと言っても・・・本来なら、たとえ本当にその人の瑕疵ではないとは言え、だからと言って信頼や敬意につながるというものではないでしょ?しかし、信頼や敬意が理解できないんだから、そんな言い訳になってしまう。

「ワタシは悪くない!」も、
「ワタシって、いい人でしょ?」も、
いわば好意を求めるアピール。
しかし、その好意には敬意も信頼も入っていない。

誰かから、敬意のない好意を持たれることは、嫌悪感を持たれるよりも危険といえます。
なまじっか、好意という装いをもっているので、当人や周囲の人にもその危険性がわからない。
そんな人とやり取りをしても、いつのまにか敵認定を受けて、報復の対象になってしまうだけ・・・というか、実際に対象になってしまって、困り果てた人もいらっしゃるのでは?

(終了)
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発信後記

今週は、信頼とか、敬意とか、好意に関わる文章を集中的に配信いたします。
以前より頻繁に書いていますが、ダメダメ人間は、信頼というものが、心理的に理解できないわけ。

その代表となると、先週の土曜日にも取り上げましたが、現在の日本の首相の鳩山さんが、その典型でしょうね。
最初の会談で、「バラク」「ユキオ」とファーストネームで呼び合うことにした・・・とかありましたが、それは「これからフランクにやり取りを進めましょう。」という合意であって、信頼関係が出来上がったわけではないでしょ?フランクなやり取りの積み重ねによって、信頼が出来上がるわけでしょ?
そんなことは、本来は小学生でもわかること。

しかし、抑圧的で「人に合わせる」だけで、それゆえ「人の気持ちが分からない」人間は、信頼というものがわからない。
以前にも書きましたが、信頼というものは、相手の心に合わせ、配慮することであって、相手の言葉に、つまり聴覚レヴェルで合わせることではないでしょ?
今、鳩山さんは、本当にパニック状態でしょうね。
まあ、あんなシーンは、ダメダメ家庭の周囲には、結構ポピュラーなシーンなんですよ。
R.11/1/18