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カテゴリー 信頼と好意の諸相
配信日 09年12月18日 (10年6月13日,10年8月29日 記述を追加)
タイトル 信頼のない結びつき
ダメダメ家庭の人間は、信頼と好意の区別が付かない。
信頼と好意の区別が付かないというよりも、信頼というものが心理的に理解できないわけ。

今年の09年の7月において、様々な心理的ベースについての文章を集中的に配信いたしましたが、その一連の文章において、ダメダメ家庭出身者が、信頼というものを認識するための心理的なベースを持っていないことについて考えております。
その7月の一連の文章でも書きましたが、信頼というのは、ある種の「反応」から判断されるもの。

何かのアクションに際し、相手方の反応(リ・アクション)が、想定した範囲に収まっていたら、それが一種の成功体験となり、信頼というものの原初的な感情を持つわけでしょ?
ある人からの反応が、想定の範囲内にいつも収まるようだったら、そして、そんな成功体験が積み重なっていったら、その他者に対して信頼感を持つといえるのでは?
別の言い方をすると、「あの人に、依頼すると、いつも、これくらいはやってくれる。」「あの人とやり取りすると、少なくともこの程度は回答してくれる。」そのような認識が信頼感というもの。
しかし、ダメダメ家庭の人間にしてみれば、そんな判断は難しい。

それこそ他者というものを、心理的に認識することが難しいわけ。
幼少時において、養育者とのやり取りが不全であったので、「やり取りが可能」であり、かつ「自分とは異なった行動をする」という『他者』とのやり取りの経験がないわけ。いわば、マネキンによって育てられているような状態。
だから、別の「物体」と認識することはあっても、やり取り可能な別の「人間」・・・つまり「他者」とは認識できないわけ。
それに、ダメダメ家庭の人間は、抑圧的であり、判断から逃避してしまう。
相手の反応が自分の想定の範囲内だった・・・そんな判断もできない。

それにダメダメ家庭の人間は、当事者意識がなく、目標を達成するために、小さなことをコツコツと積み重ねるという発想が心理的に理解できない。
他者を認識することができず、判断から逃避し、積み重ねを理解することができない人間が、信頼というものを理解できるわけがありませんよ。

そんな人は、やり取りの相手を肯定的に見る場合でも、好意という一時的な感情どまりになって、状況判断をふまえ、それを積み重ねた信頼という次元には至らないわけ。
このようなことは、幼少時における養育者とのやり取りによって形成されるものなので、大人になって努力して獲得しようとしても、無理なんですね。
それこそ、日本育ちの日本人がフランス語の16の母音を聞き分けることができないようなもの。
認識する枠組み自体を持っていないわけ。信頼が理解できないので、好意しかなく、逆に言うと、好意が暴走してしまうことになる。
これではストーカー事件も起きますよ。おまけに、当事者意識がないので、自分自身の目標があるわけではない。誰かに好意を持ったのはいいとして、じゃあ、どうやって、その人と結びつくの?だって、当人自身が、目標がないんだから、共通の目標で結びつくことなんて不可能でしょ?おまけに当事者意識がないダメダメ人間は、話のネタもない。じゃあ、相手に対して何を話し、どんな主張をするの?

結局は、自分の被害話を持ち出し、自分に被害を与えた敵の話題を提供し、「共通の敵」で結びつこうとする。
上記の言葉を言い替えると、「敵の敵という関係でしか結びつくことはできない。」わけ。

「敵の敵」はいわば「自分を否定するものを、更に否定する存在」という二重否定的な用法ですし、「関係でしか結びつかざるを得ない」という言葉は、意味的には「それ以外の関係は存在しない」ことなんだから、ほとんど二重否定でしょ?つまり実質上は四重否定の用法。
そんな関係がマトモであるわけがありませんよ。「共通の敵」という二重否定的な関係と、共通の目標のために一緒にやるという肯定的な関係とは、一時的な状態は似ていても、心理的な実体は大きく違っているわけ。
共通の目標のために一緒にやるとなると、信頼感が基本になります。目標が一緒で、そして行動パターンなり考え方も共通しているんだから、そんな間柄だったら、信頼感も生まれてきますよ。
しかし、「共通の敵」でしか結びつきようがないというパターンだったら、その中身に信頼感はないわけ。だって、その「共通の敵」を攻撃するだけが共通なんだから、そこには行動の予測も生まれませんし、それが想定の範囲内ということにもならないわけ。ただ、曲りなりにも同じ敵を攻撃しているんだから、一時的な好意を持つことはできる。おまけに敵を攻撃するという心理の背景には、被害者意識があり、お互いの被害者意識が共鳴することで、好意を持ったりすることもある。

逆に言うと、そんな集団の好意を維持するためには、絶えず敵を攻撃する必要があるわけ。信頼感を持っていない人間同士が一緒にやるんだから、共通の敵がなくなってしまったら、ヘタをすれば、自分自身が敵認定されて攻撃されてしまう可能性もあるでしょ?
というか、大昔にあった、学生運動なんて、そんなことをやっていたようです。「資本主義打倒!」「アメリカ帝国主義打倒!」もいいけど、本当の意味で達成したい目標があるわけではないので、ちょっとでも融和的なことをすれば、「オマエは資本主義にかぶれている!」なんて、「仲間」から敵認定を受けて粛清されてしまうわけ。
何も、大昔の学生運動だけでなく、21世紀の現在でも、中国や韓国などで、ちょっとでも日本のことを褒めたりすると、周囲からつるし上げを食らってしまうでしょ?
あるいは、学校内でのイジメもそんな様相があるでしょ?イジメている対象に対し、ちょっとでも同情的な姿勢を見せたら、今度は、その人自体が、イジメの対象となってしまう。
共通の敵による結びつきは、そんな危険が付きもの。

だからこそ、内部の人間は、常に警戒する必要がある。しかし、常に警戒しているということは、安心感がなく、お互いを信頼していないということ。
しかし、信頼感というものを理解できないダメダメ家庭の人間は、人との結びつきにおいてはそんなパターンしかないわけ。
まあ、そんな人が学生運動に入れ込んで、構成員同士をリンチするくらいなら、勝手にやればいいだけ。
しかし、そんな人が家庭を持ったらどうなるの?

どうなるのも何も、実際のダメダメ家庭というのは、まさにそんなもの。
家族が、信頼感のないまま、一緒に暮らしているわけ。そして、その中にいる子供は、その攻撃性が自分に向かってこないようにビクビクしている。

一般的に見ても、安心感とか信頼感というのは、意識しづらい感覚ですよね?
だって、何も考えなくてもいいとか、特に警戒しなくてもいい状態が許されるのが、いわば安心感とか信頼感でしょ?
「安心感を持てるかどうか?」そんなことについて常に考えている状態だったら、もうその時点で、安心とは無縁であること。このようなことは、誰でも同意されることでしょ?

しかし、ダメダメ家庭の子供は、信頼とは無縁のままの結びつきが、原風景となっているので、共通の敵による結びつき以外の結びつきができないわけ。
だから常に敵の話題を提供して、共通の敵による結びつきを維持しようとしたり、何かプレゼントのようなものを持参して、へりくだって、媚を売るパターンで、人と結びつこうとする。
そんな結びつきのパターンとなると、このメールマガジンで頻繁に言及しておりますボランティアの連中がまさにそのパターンでしょ?
援助を持参して行ったり、あるいは、敵の話題を持って行ったり・・・そんなことばかりをしていますよね?
エサや敵の話題を持参しても、それが好意にはつながることはあっても、信頼には結びつかないでしょう。
しかし、その信頼というものが理解できないんだから、そんな方法しかないわけ。

前にも書きましたが、安心感というのは、意識しづらい。だから、そんな安心感の正体を、当人自身がわかっていないもの。それに、無理に意識化したり、わかる必要もありませんよ。
しかし、明確な形で言語化されていないがゆえに、お互いが気を許せる雰囲気というのは、ある種の排他性を持ってしまう。だって、見知らぬ人が来たら、やっぱり警戒するでしょ?安心感は一時的には崩れますよ。
しかし、その新参者も信頼を得ていけば、集団も安心感を回復することができる・・・そんなものですよね?
まあ、信頼で結ばれているマトモな集団に、信頼というものを理解できるマトモな人が新たに入ろうとする場合には、そんな一時的な動揺が起ったりするもの。
もちろん、フィーリングが合う合わないの問題はあります。信頼というよりも、好意の面で不適合のケース。
しかし、その場合でも、その集団の間に信頼感があったのなら、その集団と個人との間では大きなトラブルになるわけではないでしょ?

マトモな集団へ、信頼とは無縁のダメダメ人間が入ろうとすると、ちょっとしたトラブルになってしまうもの。
ダメダメ人間が取っておきの「敵」の話題を持参しても、集団の側が無反応なので、ダメダメ人間が被害者意識を燃やしたりするわけ。

「どうして、この話題に乗ってこないんだ?」
「どうして、アイツらはわかってくれないんだ?!」
「どうして、オレを仲間に入れてくれないんだ?!」
そんな被害者意識に浸ってしまう。そして、その被害を声高に主張し、結局は排除されてしまう。
その集団に入りたいのなら、その集団の下働きのようなものをして、信頼をつかんでいけばいいだけなんですが、信頼というものが理解できないダメダメ人間にしてみれば、信頼を得るための行動といわれてもピンと来ない。
敵についての話題・・・すなわち「自分がかわいそうな被害者」であるという論理に相手方が乗ってこないと、何も主張できるものがないわけ。
だからこそ、執拗に敵の話題を語ることになる。

それこそ、以前に韓国で大統領をなさっておられたノ・ムヒョンさんが、ヨーロッパで日本の悪口を展開いたしましたが、マトモな集団だったら、いきなりの悪口にドン引きするだけ。
集団の安心感を維持するためには、あまりに異質な人間は排除する必要がある。そんな敵の話題しかない人間など来てもらっては困りますよ。
しかし、共通の敵でしか結び付けないダメダメ集団では、敵の話題は名刺がわりのようなもので必須アイテムなんですね。

しかし、いきなりの敵の話題という「ご挨拶」が、マトモな集団に受け入れられるわけもなく、ダメダメ人間が受け入れられるのは、結局はダメダメな雰囲気を持った集団だけになってしまう。
ダメダメな集団としては、新たなるメンバーがもたらした敵の話題で盛り上がったりすることになる。
しかし、前にも書きましたが、敵の話題で盛り上がっても、そこには安心感はないわけ。攻撃がたまたま自分には向かっていないというだけ。
しかし、ダメダメ集団にしてみれば、新しくもたらされた敵の情報は、それだけ、攻撃の対象が現れたことになり、従来からの構成員としては、ラッキーと言えるくらい。
しかし、新たにダメダメ集団の構成員になった人は、敵認定と、報復を繰り返しているだけのダメダメ集団に入っても、信頼とは無縁であることは相変わらず。
むしろ、敵認定の心理が増大していくだけ。

このメールマガジンで、かなり以前の05年において、「アンディ・ウォーホルを撃った女」という映画を取り上げております。
アメリカのポップアートの旗手アンディ・ウォーホルを銃撃したソラナスという女性を描いた映画です。
そのソラナスさんは、アンディ・ウォーホル主催するファクトリーという集団の一員になりたくても、なれなかったわけ。
結局は、その鬱憤からウォーホルを銃撃することになる。

ウォーホル主催するファクトリーは、ダメダメなりの連帯感なり安心感を持った集団。
皆さんは、一応はアーティストだったりするので、共通のテーマのようなものがあるわけ。しかし、ソラナスさんは、創作のテーマはない。
ソラナスさんの主張は、「ワタシは男性社会の被害者なのよ!」というもの。被害を主張することで、相手から同情や好意を得ようとするわけ。
しかし、そんな被害者意識の強い人間は、何かを敵認定して、その敵に報復することしか能がない。
だから一緒にやっていても、つまらないだけでなく、方向性が違いすぎるわけ。
ファクトリーの掃除の手伝いとか、ヘタはヘタなりに自分も創作をやってみるとか・・・そんなことをすればファクトリーの一員になれる可能性もあるわけですが、被害を主張することで、相手から同情を得ようとして、結局は嫌われてしまうわけ。
被害ばかりを語る人は、信頼とは無縁の人でしょ?そんな人は、ヘタに仲間に入れると危険なんですね。
そんなことで、結局は、ファクトリーからは相手にされなくなってしまう。
しかし、ソラナスさんとしては、敵を共通する以外に、一緒にやっていく方法論がないわけ。だからこそ敵にこだわってしまう。

子供時代に、自分としては考えなくても済むという安心感を原体験として持っていないと、緊張なり警戒がデフォルトになっているので、「どうやって 気を緩めていいのか?」「どれくらい気を緩めていいのか?」そのようなことがわからないわけ。
現実的には、そのようなリラックスの問題に直接向き合うよりも、まずは、その大元になっている信頼というものについて、自分なりに考えていく必要があるわけです。
何回も書きますが、安心感というものは認識しづらい、だって考えなくてもいい状況・・・それが安心感というものなんですからね。
だから、考えるためには、より、認識し、考えやすい信頼というものを対象とした方が思考が進むことになるわけ。
ソラナスさんのように、信頼のない状態で、好意アピールをする人が一番危険な存在。
自分を被害者として認定できる敵の存在こそがアイデンティティなので、そんな人たちがたまたま集まって、最初はうまく行っていても、やがては、お互いが敵認定し合って、活動が四分五裂となってしまうもの。
たまにそんな集団も現実にあるでしょ?
あるいは、インターネットの掲示板なんて、そんな感じなのでは?
信頼感がないままの結びつきは、警戒感が溜まっていき、その心理的な遠心性が常に働いている。
内部の敵を探して、内輪でモメていれば、そんな連中は、勝手にやっていればいいわけですが、外部の敵を認定して、勝手な理屈で報復してくることもあるわけ。
信頼不在のまま結びついている集団の近くにいては危険ですし、そんな集団のスタイルは政治結社や宗教団体だけでなく、ダメダメ家庭も結局はそんなものなんですね。

ダメダメ集団の外部にいるマトモな人にしてみれば、その人たちが集団としてまとまっているのは、お互いの間にそれなりに信頼感があるから・・・と、当然のように思ってしまっているものですが、実際には信頼感がない場合も多いわけ。
そして、その内部に溜まった遠心性が暴発して大きなトラブルになってしまう。
一般的には、好意というものの背景に信頼があることが、あまりに常識になっているので、その点について注意を向けたりはしないもの。しかし、ちょっとそんな観点から注意してみると、「あれれ?」と思うようなこともあったりするもの。

こんなメールマガジンを発行しているので、当然のようにスパムメールも来ます。相互紹介の依頼などのメールも多くきます。
以前にいただいた、そんな相互紹介の依頼のメールの文中で面白い表現があったんですね。
それは「友達になりましょう!」という文言。
いやぁ・・・ドン引きですよ。子供同士ならまだしも、大人同士のやり取りで、いきなり「友達になりましょう!」かぁ・・・
子供同士だって、友人というものは、やり取りの積み重ねを経て、「アイツと一緒だと楽しい。」、「気が合う。」、「信頼できる。」・・・そんな判断の後で、「アイツは友人だ!」となるものでしょ?
いきなり、「友達になりましょう!」ではウソくささ満開ですよ。
まあ、子供だったら、表現力が低いので、「これからフランクにやり取りをしていきましょう!」「色々と相談に乗ってね!」という言葉の代わりに、「友達になりましょう!」という言葉を使った・・・そんな場合はあるでしょう。しかし、大人だったらヘンでしょ?

しかし、ダメダメ家庭の親は子供に対し、「友人を作りなさい!」と厳命したりするもの。いわば、形にこだわるわけ。そんな背景があると、大人同士でいきなり「友達になりましょう!」という言葉になるんでしょうね。

安心感というのは、意識化されないものであると前に書いていますが、その言葉を掲げた時点でウソくさいものってありますよね?
ダメダメ家庭にお約束の「ふつうの生活を作りたい!」という言葉なんてその典型でしょう。
「ふつうの生活」というものは、掲げるものではなく、地道にやることをやった後で、振り返って述懐するものでしょ?
あるいは、昨今話題の「友愛」なんて言葉もその典型。たとえ、友情なり愛情であっても、感情を強制されると鬱陶しいもの。
感情の結びつきから人付き合いを開始する発想は、信頼よりも好意を向いた発想があるわけ。
そもそも、いきなり好意を求められると、キモチ悪いもの。感情が目的化されると、結局は、周囲の人間は、「ふり」をするようになってしまう。
結局は、その集団から本音が隠され、崩壊が進行していくことになる。
仲がいいことが目的なんだから、構成員がおのおの自主的に配慮する必要がある。
トラブルが起こったら、外部のものを犯人認定したり、内部で犯人探しをしたり、あるいは、その中間としての新参者を犯人認定することになる。
だから、ますますトラブルの土壌が進行してしまう。

仲良し集団は、トラブル発生後のリカバリーが難しいわけ。まずはお互いの立場を確認し、目標なり、当人のキャラクターの把握が先。
自分のことを知ってもらう努力も必要。
共同作業をするのなら、目標なり手法や役割について、お互いに確認するのが先。
そうやって信頼が出来ていくんでしょ?
何かうまくいかない状態になったら、好意ではなく信頼に立ち返ることが必要ですよ。つまり相互理解が必要になるわけ。
しかし、信頼というものが理解できない人は、仲良くなることから始めたり、感情面からやり直そうとするもの。無理に相手の感情を強制しようとして、ますますイヤがられ、ますます崩壊が進むことになる。

信頼というものを理解できず、好意という感情しか理解できない人は、やり取りにおける距離感も、うまく行かない。
本来なら、最初は、ちょっと遠目の距離感でやり取りをして、そして実績を積み重ね、相互に信頼感を持って、そして好意につながっていき、そして距離感を縮めていく・・・そんなものでしょ?
しかし、好意しか理解できないので、いきなり「近い距離」から始めてしまう。しかし、相互理解も何もできていない状態なので、お互いがお互いの主張をぶつけるだけになってしまう。
そして「ああ!あの人は、ワタシのことを好きになってくれないっ!」「ワタシのことを分かってくれないっ!」と被害者意識に浸ってしまう。
そうして結局は、お互いがお互いを軽蔑したり、敵認定したりして、トラブルになってしまう。
その時点で、その人たちが信頼というものを理解できていないことを自覚すればいいわけですが、そんなことはレアケース。
結局は、外部の敵への攻撃なり、内部の敵への攻撃なり、構成員への感情の強制なりが、どんどんと進行して、まさにドッカーンとなるわけ。

別のところで書いておりますが、信頼関係と支配関係は別のもの。
信頼関係は、お互いのことがわかっていて、そして、相手方を肯定している状態ですが、支配関係は、いわば「逆らうことができない」という二重否定状態でしょ?

信頼関係が基本的にできていれば、ちょっとした齟齬があっても、お互いがより議論し、より理解を深めることで対応できる。
しかし、その集団の基本的な状況が「支配・被支配の関係」であれば、齟齬が起こった場合には、より強い力を行使することで「逆らうことができない」ようにすることになる。

たまに話題になったりする、子供への体罰の問題ですが、その子供との間に信頼関係ができていれば、いささか過激な指導方法も効果があるといえるでしょう。
しかし、信頼関係がない状態で、強い力を使っても、それによって、ますます信頼から遠くなることは、本来は誰でもわかることでしょ?

しかし、逆に言うと、信頼というものを心理的に理解していないダメダメ人間は、相手が逆らうことができない状況の強化を持って、信頼関係の強化と言い換えてしまう。

言葉だけは信頼という言葉を使っても、そこには信頼がないわけ。
むしろ、二重否定的な状況が進行し、肯定の精神からますます遠くなってしまう。

しかし、ダメダメな集団は、自分たちのダメダメを許容してくれる、ダメダメな環境を求めるものなので、そんな環境においては、その「逆らうことができない」という状況に、もともと信頼がないということがわからない。
だから、体罰のようなものにおいても、子供のためを思った厳しい指導ということで、勝手に納得してしまう。
しかし、信頼がない状況で体罰を使うとどうなるの?
体罰によって、信頼が「生まれる」ものではないでしょ?
学校においても、家庭においても、信頼がない状態で、結びついている状態が、一番、コケるもの。

とはいえ、ダメダメ家庭なり、ダメダメ学校やダメダメな地域というのは、そんな状況なんですね。

(終了)
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発信後記

好意という感情面から、集団を統率しようとしても、コケることが多いもの。
この代表例として、08年の北京オリンピックで野球チームを率いた星野さんがそのパターンでしょうね。
メンバーの感情面を合わせようとするのはいいとして、それが相互理解に基づかないものだったので、結局は外部のものを敵認定するしかなかった・・・わけでしょ?

期間的に長期に渡る集団だったら、まず感情面から入るのもアリでしょうが、短期の集団だったら、役割分担とかを明確にするのが先でしょ?
役割が分からないと、メンバーが混乱するだけですよ。その混乱を感情面から修正しようとして、ますますドツボにはまるわけ。

結果が出ないと信頼が生まれない。信頼のないまま感情を強制しても、ますます疑心暗鬼に陥り、ますます、犯人認定の心理が加速し、結局は崩壊してしまう。あの野球チームはそんな感じでした。

好きという感情を強制されると、なんとか好きになろうとしたり、あるいは「自分はあの人を好きなんだ。」自分を騙したりしても、ふと、「自分はあの人が大嫌い。」と気づいてしまう。そうなると、もう修復不可能。それより役割を明確にして、ビジネスライクにやった方が好意につながったりするわけ。この点は、日本のやんごとない家庭もそのパターンなのでは?
R.10/8/29