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カテゴリー ダメダメ家庭をめぐる環境
配信日 10年1月6日
タイトル 陰でコソコソ
『オイ!陰でコソコソ言っているんじゃないよ!言いたいことがあったら、はっきり言いなよ!』
そんな言葉って、よくあったりしますよね?

しかし、ちょっとした内輪での相談を、「陰でコソコソ」と見られてしまうことも、やっぱり、あったりするもの。
だから、マトモな人たちだったら、「ああ!ごめんなさい。実は、この件で相談していたんですよ。アナタが先日言っていた、あの問題なんだけど・・・もう少し説明してくれない?」
そうやって会話になっていくもの。

しかし、ダメダメな人は、そのように会話に発展していかない。
「ウウン・・・何でもないの・・」
で、その場をオシマイになってしまう。そうして、相変わらず、陰でコソコソすることに。

そもそもダメダメ家庭の人間は、当事者意識がない。
当事者意識がないので、自分でやり遂げたいものもないし、誰かに伝えたいこともない。
もちろんのこと、信念もない。「何が何でもこのことをやり遂げる!」そんな覚悟を持っていない。
そして、ダメダメ家庭の人間は、被害者意識が強い。自分はかわいそうな被害者であると信じて疑わない。だから、それに同調してくれる人間だけが集まることになる。

そんな人間たちは、表立って、何かを言ったりすることはない。まさに「陰でコソコソ」と集まって、「あの○○さんて、イヤよねぇ・・・」と盛り上がるしかない。
マトモな人は、そんな状況からさっさと逃げてしまうので、陰でコソコソがますます進行することになる。
そんな態度の問題点を人から指摘されたら、その指摘に対して対応するなり、あるいは的確な説明によって反論すればいいだけ。しかし、この手の人間は、ますます陰の方に逃げていく。
指摘する人に対して何もアクションをしない。独りでは何もできない人間が、寄り集まって、陰でコソコソしているだけ。

そんな状況は、それこそ、ダメダメな地域の井戸端連中が古典的ですが、まあ、最近ではインターネットの掲示板が、その代表でしょ?
グチで共鳴しているだけで、「じゃあ、自分たちはどう考えるのか?」あるいは、「その問題点は、どんな背景があり、別の面においては、どんな点に発現されるのか?」そんな発想には至らない。自分たちなりの考えがあるのなら、そこでの議論をしっかりした文章に纏め上げ、誰でも読めるようにすればいいだけ。
まさに絵に描いたように「陰でコソコソ」状態。

しかし、その「陰でコソコソ」が、自分たちにとってはキモチがいい。被害者意識も共有できる同類同士なんだし、表だって何も言えない日陰者人間であるという点も同類。
同類同士だから、ますます正常な感覚が麻痺してしまう。
そんな陰の世界の常識を元に、表の世界で誰かに意見を言ったら、見事に反論を食らってしまう。見事に反論を食らってしまったので、スゴスゴと逃げ帰り、ますます陰の住人に安住することに。

その手の人たちは、閉じた仲間意識というか、閉鎖的で閉鎖的な仲間意識を持っているもの。「来るものは拒まず、去る者は追わず。」の開いた仲間意識ではない。目的意識を共有しているのではなく、敵を共有している。独自の用語、独自の名前を使用し、同類同士でダメダメが濃くなってしまう。あるいは関西弁などの方言が多かったりする。
仲間以外が分からない言葉使いが心地いい。しかし、「自分たち以外の人間が分かり難い」・・・って、まさにダメダメにお約束の二重否定状態そのもの。

しかし、実際にそうなんだから、まさに陰謀史観とかが大好き。
実は、以前にある人から、教えてもらったのでちょっと調べたのですが、いわゆるライトノヴェルと称されるものがありますよね?
その手の作品には、割と傾向があるようです。
それこそ陰謀史観なり、オカルト的だったり、閉鎖的な序列関係だったり・・・
それをツボとする人には、たまらないんでしょうが、そうでない人にしてみれば、「敷居」が高すぎますよ。ヘンな話になりますがノーベル文学賞を受賞した現代文学の方が、ずっと「敷居」が低い。それだけ客観性を持っているわけ。しかし、ライトノヴェルは客観性ではなく、主観性しかない。だから、外部の人間には「敷居」が高い。しかし、その手の「敷居」の高さが、閉鎖的な仲間意識の醸成には有効なんでしょうね。

あるいは、独自の用語、独自の名前や序列の使用となると、まさにカルト宗教団体がその典型でしょ?やっぱり、陰謀史観なり、オカルト的だったり、閉鎖的な序列関係だったり・・・
自分たちだけで通用するような閉鎖性が心地いい・・・そんな状態。こんな「陰でコソコソ」の姿は、何もダメダメな井戸端連中や、カルト宗教やインターネットの掲示板の住人だけではありません。
このメールマガジンで頻繁に触れておりますボランティアの連中も、そうでしょ?
困っている人を「善意あるいい顔」をして、上の立場から助けていても、陰では「アイツら・・・何もしないで・・・グータラしていやがって・・・まったくダメなヤツだよな?!」なんて仲間同士で言っているものでしょ?

そう思うのなら、その相手に直接的に説明すればいい話。
「どうやったら、自分の考えをわかってもらえるのか?」
そんな問題意識が必要でしょ?
しかし、自分自身から逃避しているダメダメ人間は、顔を直接合わせている時には、「いい顔」をして、陰でコソコソを繰り返すばかり。
そうなってくると、ますますその人の尊厳が無くなるばかり。
尊厳が無くなってきていることを、他者から指摘されると、「だってぇ・・・だってぇ・・・みんな○○が悪いんだ!ワタシは悪くないわ!」と、お約束の弁明となる。
そうして、そんな弁明が通用する陰の世界に逃げ込む。

「陰でコソコソ」と言っても、インフォーマルな相談のケースも実際にありますよ。
そのインフォーマルな相談を纏め上げ、ちゃんと客観的な形で意見を言えればいいわけでしょ?
逆に言うと、そのような意見集約に至らない、何も目的意識がないコソコソなんて、結局はグチが集約されるばかり。
ということで、その人の人間としての尊厳が、まったく無くなってしまう。
当人は、自分たちの仲間同士で楽しくやっていると思っているんでしょうが・・・
陰でコソコソやっているだけの連中って、日影でカサコソやっている連中と大差はないものなんですね。

陰でコソコソなりカサコソと活動している分には、それほど大きな危険はない。
まあ、気持ち悪いけど・・・そのように自分の被害を語り、対抗心を表明していると、同類が寄ってくる。コミュニケーション能力が不足しているダメダメ人間にも、曲がりなりにもお仲間ができて、盛り上がることができる。
同類が寄ってきて、盛り上がるので、集団の体をなすようになる。そんな日陰者集団が、何を思ったのか、表に出ようとすることもある。集団化してしまうので、「我々こそが主流なんだ!」と誤解してしまうわけです。
しかし、被害者意識と対抗心で結びついているので、外の人間から見ると、まさにカルト的に見えるんですね。

ダメダメ家庭の人間は被害者意識が強く、被害者としてしか自分を説明できない。
そうして「自分に被害を与えた加害者は誰なんだ?」と犯人探しをしている。
そして犯人と認定した対象に対抗心を燃やすことによって、自分の価値を見出すことになる。
カルトは、教条的で権威主義であり、だから「学ぶ」という言葉が多く登場する。
自分の内面から目をそらし、外のものを敵認定する。だから「勝つ」という言葉も多く登場する。被害者意識が強いので、「他の人間には迷惑を掛けてもいいんだ!」と確信している。説明能力の低いので、どうしても問答無用の強圧的になる。
そんな人たちからは、離れるしかないわけです。説明能力が低い人に対して、何を言ってもムダで、危険なだけ。どうせやり取りをして楽しい人間ではないし、有意義な知見が得られるわけもない。ただ、『オレたちの「正しい」教えを、オマエも「学べ!」』と命令されるだけ。そして、「我々と一緒に戦おう!」と対抗心を煽られるだけ。
それって、まさにカルトの典型と言えるでしょ?

カルトというと、よく使われるのは宗教の業界?でしょう。
ここでは、「どの宗教団体がカルトなのか?」という個別論には立ち入りません。しかし、被害者意識が強く、対抗心が強い宗教は、外から見ていると、「な〜んとなく、カルトの雰囲気だよなぁ・・・」と思うものでしょ?
そもそも被害者意識が強いと、「自分が一番かわいそうな人間なんだ!」と思っているので、他者に迷惑をかけることに躊躇しない。だから周囲の人間にしてみれば迷惑な存在となる。

それにその手の人間は、会話の精神がない。自分たちの考えを他者にわかりやすく伝える発想も能力もない。そもそも独自の言葉や名前を使っているくらいなんだから、一般の人に分かりにくいという閉鎖性に価値を持っている状態。だから周囲の人間が、「それって、アンタたちにとっては、どういう意味なの?」なんて素朴な質問をしても、明確な説明もない。そもそもダメダメ人間は「説明することを被害と考える」ことは以前に配信しております。だから、そんな素朴な質問を嫌がらせと捉え、対抗心を燃やす始末。

その対抗心から報復を始めることになる。もうこうなると単に迷惑というより危険な存在となる。
このようにカルトというのは、原理とか教義の問題ではなく、被害者意識や対抗心という心理的な問題なんですね。
往々にして、その手の集団は、主流の存在に対して対抗心を燃やすもの。
「本来はオレたちが正しいハズなのに、そうでないのは、あの○○のせいだ!」となっている。
何も主流の考えに賛同しなくてもいいわけですが、無理に対抗心を燃やす必要はないでしょ?「人は人、自分は自分。」ですよ。祈りたければ一人で勝手に祈っていればいい話。
しかし、自己逃避しているダメダメ人間は、「自分は自分」と言えない。だから「ワタシたちは、○○による被害者なんだから、○○と戦う!」という形でしか自分自身を認識できない。

だから宗教の業界だけではなく、多くの業界でカルト的な集団が見出されるもの。
それこそ以前に話題になった会社としてのライブドアですが、上記のカルトの特色を見事に持っているでしょ?主流への被害者意識と対抗心によって結びついた集団であり、それに族長的な存在に対する信仰心もある。
あるいは、以前に取り上げたパソコンのOSのLINUXですが、LINUXという技術的な問題はともかく、LINUXを使っている人間は、被害者意識が強く対抗心が強い人たちでしょ?彼らはWINDOWSに対抗心を持って集っていますよね?
それこそ市民団体系のカルトとなると女性運動がその典型ですよね?
女性運動は、被害者意識と対抗心のお約束コンボ。
かと言って、「当人たち自身は何を達成したいのか?」そのことを考えることから逃避している。

その手の人間は、自分自身を「○○による被害者」としてしか説明できないので、説明能力が低い。そして周囲が分かってくれないことを、説明能力の問題ではなく、周囲の理解力の問題にしてしまう。
そうして「どうして、周囲の連中は、オレたちのことをわかってくれないんだ?!」とグチるようになるわけ。
そんなシーンは実にポピュラーでしょ?
しかし、そんな人たちだからこそ、ますます被害者意識で結びつき、集団で周囲に迷惑をかけることになる。そして周囲に迷惑をかける行為によって、「自分たちは被害者なんだ!」と確認する儀式としてしまう。

マトモな集団は、肯定を基本としている。
「一緒の考えを持っているものと、一緒に行動する。」そんな行動パターンでしょ?
しかし、カルトは、「自分たちとは違った考えを持っている人を、攻撃する。」そんな二重否定的なパターンになっている。そんなカルト集団は、脱退しようとする構成員に対して「止めたら、不幸になる。」とやっぱり二重否定。

「やめたら、不幸になる。」
って、まさに教科書どおりの二重否定表現でしょ?

そんな言い回しより、「我々はこんなことを達成したい!あなたも時間がある間は、もうちょっと協力してくれないか?」くらいの言い方の方がマトモでしょ?
しかし、対抗することだけが、その活動なので、明確な目標がないし、語れない。
ちなみに、その「やめたら、不幸になる。」という物言いは、PTAにもそんなところがあるでしょ?以前にPTAとカルトとの親近性について言及いたしましたが、やっぱり似ているんですね。

当事者意識がないと、個人としての明確な目標もない。だから何事も被害と捉え、そして何事も達成できない。そんな自分から逃避するようになり、ますます自分自身では考えない。そして自分が考えなくても済むような状況を自分で求めていく。

自分に命令してくれる族長を求め、
自分を被害者として認定してくれる考え方を求め、
そんなぬるま湯に安住させてくれる仲間を求める。

しかし、何も考えないことで得られる「ぬるま湯的」な安住なんだから、「で、アンタはどう考えるの?」などと質問されると、とたんにパニックになってしまう。
結局は、自分がパニックになったことを被害と捉え、その相手に対抗心を燃やすだけ。
そうして、その復讐を本当に実行してしまう。

そう考えると、いわゆるカルトの連中も、ダメダメ家庭の常識から簡単に理解できるものでしょ?
まあ、カルト集団は、実際に、ダメダメ家庭のOB,OGの巣窟ですよね?
その手のカルト的な集団は、分野が違っても、重なっている面が多いもの。
それこそ国家としてのカルトとなると北朝鮮でしょうが、北朝鮮支持者と、別のカルトとは構成員的に重なっているでしょ?
そんな人たちに対して丁寧に説明しても、それを「相手から判断を迫られた」という被害という形で認識し、逆上するだけ。「ワタシは見たくない!」「ワタシに見せないで!」と現実から逃げ回っている人に対して、丁寧に説明したら、説明したことを被害と受け取ることは、論理的にも、ダメダメの心理的にも、当然のこと。

ダメダメ家庭の人間からは離れるしかない・・・と、このメールマガジンでよく書いていますが、シャレではなく、本当にそうなんですよ。
今現在はカルトに属していなくても、何かきっかけがあると、カルトの一員になってしまう。そうなると、集団で復讐しようと考える。
ダメダメな人とのやり取りをすると、そんなカルトの「匂い」がすることが多いものなんですよ。カルト集団は巨大化したダメダメ家庭と言えるわけですし、逆に言うと、ダメダメ家庭というものは、小規模のカルトともいえる。

被害者意識と対抗心という基本的な心理は同じなんですから、あとは規模の問題だけ。
規模の問題を抜きに考えると、やっていることはほとんど同じなんですよ。

陰でコソコソしているんだったら、もうそのままずっとコソコソしていればいいのでしょうし、そんな日陰な世界から脱却したいと思っているのなら、個人として出るのがスジ。
しかし、閉鎖的で排他的な仲間意識を持ったまま、集団で表に出てしまい、周囲とトラブルになってしまう。

ホント、「陰でカサコソ」の連中が集団で襲ってきたら、とんでもない恐怖でしょ?
それも、被害者意識を集団で持ったままで・・・
そうなると、カルトというか、テロリスト集団となってしまう。
いわば、テロをするという儀式を通じて、「自分たちこそが、かわいそうな被害者なんだ!」と主張するわけです。個人で行う報復行為を、集団でやるんだから、タチが悪い。
そのようなテロ行為は、あくまで被害者としての行動なので、何かを達成するためのものではない。ただ自分を納得させようとしているだけ。

その手の集団は、定量的な発想を持っていない。「善vs悪」の単純な二元論があるだけなんですね。たとえば、政治的な主張においても、自分たちの理想を実現させるためには、ある種の定量的な発想が必要でしょ?だって、組織を運営するには、お金や人的資源などの様々なリソースの問題が発生してきますよ。
定量的な発想を持って、組織を運営し、具体的にはどんなことを達成しようとしているのか?
そんな発想のあるなしが、テロリストと、革命家の違いと言えるでしょう。

実は、以前に、あの有名なチェ・ゲバラ(Tシャツでおなじみの人?)についての本を読んだことがあります。その本には、定量的な記述がほとんどないんですね。確かに何かに反抗するには、定性的な発想だけで事足りる。しかし、反抗の次元を超えて、何かを実現するためには、やっぱり定量的な発想も必要でしょ?
まあ、そのあたりがチェ・ゲバラの限界だったんでしょうね。本人もそれをわかっていたからこそ、死に場所を求めたのでは?

テロリストは破壊活動が最初にある。そんな人は、深層心理的に一番破壊したいと思っている対象は、自分自身だったりするもの。反抗したいものはあっても、達成したいものがない。達成したいものがないがゆえに、純粋でいられる。
もっとも完全な人間とは、もっとも純粋な人間。それは別の言い方をすると汚れから逃避する人間。

それを自覚していた、チェ・ゲバラは、その意味ではたいしたヤツ。
同じように定性的な発想ばかりとなると、韓国人がその典型です。
韓国の歴史教科書には、いわゆる定性的な記述がほとんどありません。そもそも歴史における数字の代表といえる年号がないんだから、人口とか生産力云々どころではありませんよ。

何かに反抗し、グチを言う・・・それだけだったら、定性的な発想で十分。
逆に言うと、定性的な発想にとどまっているということは、達成したい具体的なものがないということ。つまり肯定的な発想をしないということ。
そんな人たちは、「陰でコソコソ」とやっている内は、「気持ち悪い!」で済むわけですが、そんな集団が巨大化したり、ヘタに表に出たりすると、シャレにならない事態になってしまうわけです。「陰でコソコソ」やっているうちに、さっさと避難しないとマズイんですね。

(終了)
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発信後記

本文中にも書いていますが、たとえばインターネットの掲示板での議論においても、その結論を纏め上げ、その議論の参加者以外の人間にもアクセスしやすくしておく・・・そんな意識があればいいわけです。いわば、外の世界への視点を持った上での議論であればいいわけ。

私個人はその手のインターネットの掲示板は、チラっと見たりするだけですが、そんな場所での議論は「結論をえて、それを誰もが見ることができるようにする」意識で議論していないでしょ?

そんな場所での議論は、所詮は議論のための議論に堕してしまうだけ。
そんな議論に参加していると、参加者自身が安っぽくなるだけ。
しかし、そんな場所に入り浸ってしまうと、その場所の常識が、世界の常識だと思ってしまう。まさに「井の中の蛙」が、井戸の外に世界があることがわからないようなもの。
そんな議論をしているうちに、その井戸の温度が上がって、見事に「茹で蛙」が誕生するわけです。

そんな光景は、悲劇的と言えるのか、喜劇的と言えるのかは別として、実際にそんな光景が展開されているのが、ダメダメというものなんですね。
R.10/12/31