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カテゴリー | 会話のスタイル(発言側) |
配信日 | 10年1月8日 (10年8月6日 記述を追加) |
タイトル | 独り言系の物言い |
以前に、とある人が言っていました。 「シングルマザー環境で育った子供は独り言が多い。」 そんなことを書くと、「それは偏見だ!」というお約束の反論があったりするもの。 ちなみに、その独り言云々の発言をなさっておられた方は、長年に渡ってアパートの管理人をなさっておられた方です。どうも、そんな境遇の入居者さんだと、隣部屋の住人さんから、その手の苦情が多いようなんですね。 あるいは、よく言われるのが「オタクの連中は独り言が多い。」とのご説。 漫画やアニメを好きな、いわゆるオタクの人は、どうも、独り言が多い・・・そんな話はよく言われたりしますが、実際のところはどうなのかな?何と言っても独り言はあまり聞く機会がない。それが独り言というもの。それは論理的に見て、当然のことでしょ? ちなみに、論理と意味の不整合ということで、以前にルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」を取り上げましたが、その登場人物のアリスは「独り言が多い」というキャラクター設定。 言葉というものは、会話の道具であり、「わかってほしいこと」を「わかってほしい人」に対して、使うもの。 じゃあ、その独り言で表現された考えなり主張は、どんな人に対してわかってほしいの? 独り言と言う限りは、その「分かってほしい」人は、不特定となっているわけでしょ? あるいは、対象が自分自身だったり・・・ しかし、自分自身と対話しているという明確な意識があるのなら、わざわざ声には出す必要はないでしょ?だから論理的にみて一番スッキリする考えは、誰でもいいからというか、顔の見えない不特定を相手にというか、そもそも相手も何もなしに・・・そんな発想ですね? さて、話は変わりますが、このメールマガジンで文芸作品を取り上げたりしますが、どっちかというとヨーロッパ中心の選択です。 このメールマガジンを購読されておられる方は、どんな本をお読みになるのかはわかりませんが、購読者さんからのお便りで多かったりするのが太宰治さんの作品を読んでいる方。 まあ、これは簡単に予想できること。 実際に、この私が様々な文芸作品を取り上げながら、ダメダメ芸術?の大本命と言える太宰治を取り上げないのに、怪訝な思いを抱かれている方もいらっしゃるのでは? 私が太宰治を取り上げないのは、「太宰治の作品からダメダメ家庭の問題を導き出すのは、誰でもできるだろう・・・この私がわざわざやらなくても・・・」そんな思いがあるからですし、また別の理由として、この私は私小説風の文章はキライという理由があるからです。 太宰さんの作品が私小説かどうかは、色々な見解があるでしょうが、私としては、私小説の匂いがする作品は苦手なんですよ。今まで日本の文芸作品で取り上げたのは、三島由紀夫の「金閣寺」だけです。あと、清少納言の「枕草子」にも言及もしております。太宰治ではなく、三島由紀夫を取り上げるところに、この私の志向が明確に出ているんでしょうね。三島由紀夫も清少納言も、王朝風であり、ある意味においてエキセントリックで鋭いキャラクター。 ちなみに、太宰さんの読者がダメダメと申し上げているわけではないんですよ。私が持っている明晰さへの志向と、私小説の匂いとは相性が悪いと申し上げているだけです。まあ、このメールマガジンの文体を見れば、私小説的感覚とは距離があることが、何となく推測できるでしょ? 最初に、独り言について書きましたが、私小説というものは、猛烈にくだいて言えば、作者の独り言でしょ? 私小説でもそうですが、「どんな人に対して、どんなことをわかってほしいのか?」 その点が明確になっていれば、そんな独り言を言ったり、独り言系の物言いはしないのでは? 独り言系の物言いとなると、その論理的必然性ゆえに、実際に聞くことは少ないわけですが、いわゆるインターネットの掲示板での書き込みだったり、あるいは、ブログの文章などに見られたりするでしょ? ブログの文章も、その文章を読む人のキャラクターについてイメージができている上で、タイムリーな文章としてブログの文章となっている・・・そんなケースもありますし、その時点での独り言をそのまま文章化しただけ・・・そんなブログの文章もあったりするでしょ? このようなことは、新聞記事においても、あったりすること。 文章の読者についてイメージができていないので、記者の独り言がそのまま記事になっている・・・そんな新聞記事も実際にありますよね? 文章を作成する際には、対象を明確化した上で、文章のレヴェルやスタイルをその対象のキャラクターや理解力に合わせる。その対象とする領域から外れる人たちについても、それなりに配慮する・・・それが本来の形なのでは?誰でもいいというスタイルは、開放的なように見えても、実際には「わかってほしいこと」や「わかってほしい人」について明確なイメージができないというだけ。だから、「対象とする人物としては日本語が読めれば誰でもいい。」なんて人が書いた文章を読んだ後では「で、結局は、何が言いたいの?何を伝えたいの?」と怪訝に思うことになる。 対象は誰でもいいという言葉は、実質的には、独り言と近いわけ。 それだけ、対象のイメージを具体的にできないわけ。 そもそも独り言を声に出しても、あるいは、文章にしても、何か事態がよくなるわけもない。 じゃあ、どうして独り言のクセがついてしまったの? 最初にシングルマザー環境の話を書きました。シングルマザーの倫理的な問題はともかく、そんな環境だったら、子供としては、親に話しかけようがない。だって、親は働きにでて目の前にいないわけですからね。 まさに自分ひとりでやり取りするしかない。 この点は現実的にしょうがない。 じゃあ、忙しくて子供と会話の時間がなかなか取れない親は、子供の前にいる時は、そんなに子供と会話しているの? そういう問題になるでしょ? そもそもシングルマザーになってしまった理由を考えれば、夫との死別のケースならともかく、離婚なり、あるいは、そもそも結婚ということを想定もしていないのに妊娠してしまったケースの場合には、往々にしてそんな母親は会話の能力がなかったりする。それに被害者意識が強いので、子供と会話するのも、自分の被害を考えてしまうわけ。そんな雰囲気が出てくるから、子供だって、親に話しかけられない。 あるいは、以前にも書きましたが、抑圧的な養育者の場合には、反応が欠落してしまう。子供が何を言っても、ノーリアクションになってしまうわけ。もはや、マネキンやぬいぐるみと変わらなくなってしまうわけです。そんな親に対して、子供が何かを言っても、たとえ物理的に存在する対象者に向かって言っていても、実質的には独り言と同じ。そんな習慣が積み重なってくる。 結局は、対象者不在の独り言になってしまう。 対象者不在で、自分独りで遊ぶという習慣があるからこそ、まさにオタクになったりするのでは?そうなると、オタクには独り言が多いという理論が証明?される。 ぬいぐるみに話しかけたり、マンガやゲームの登場人物やパソコンに話しかけたりする習慣の延長として、独り言がある・・・そうとも言えるでしょ?しかし、身近に自分の話を聞いてくれる人がいないんだから、子供がぬいぐるみに話しかけるのもしょうがないでしょう。 何もシングルマザー環境というだけでなく、たとえ、親の双方がそろっていたとしても、被害者意識が強いダメダメな親は、自分の子供と会話することも、親である自分の被害と思っている。 子供と会話することで、自分の時間が失われるという被害感情を持ってしまうし、 子供の話から、スグに自分に及ぶ被害の面を汲み取ってしまう。 だから子供がちょっとでもヘンなことでも言うと、「またヘンなことを言い出して!いつになったらオマエはワタシに迷惑をかけないようにできるんだか!」と怒り出す。 そんな危険があるのに、親に対して話はできませんよ。 どうせ、親と話をしても、親から肯定的な反応が返ってくるわけもないし、事態がよくなるわけでもない。 結局は、子供としては、自分の言葉に対して、一番、肯定的な反応するのが自分自身という状況になってしまう。そんな環境だったら、独り言ばかりとなってしまうのは、現実的にしょうがない。だからこそ、それを、環境の問題を含めて自覚するしかないわけ。 何となくの独り言ではなく、しっかり自覚を持った上で、自分自身と対話した方がいいのでは?しかし、親の問題はアンタッチャブルになってしまっているので、無自覚のまま、つまり自分自身と真摯に対話することなしに、独り言街道を突っ走ってしまう。 そして、いざ特定の人とのやり取りをしようと思っていても、「相手を踏まえたやり取り」ができないわけ。相手の理解力なり、知識ベースなり、関心の分野なり・・・ そんな相手への配慮がまったくできないまま。 おまけに自分自身との対話もやっていないんだから、相手に対してどうしても伝えたいことが自分でもわかっていないし、自分をベースにして、相手の事情を配慮するということもできないわけ。自分自身の気持ちを抑圧しているんだから、人の気持ちもわからない。だから配慮のしようもない。 だから、そんな人は、それこそ、特定の個人宛のメールの文章も、まるで独り言のようになってしまう。そんな文章を読んだりすると「で、この人は、私に何を言いたいの?」「いったい、この私は何をわかればいいの?」と怪訝に思うだけ。というか、「普段からこんな物言いだったら、かなりマズイよなぁ・・・」と心配になったりもします。 まだ、そんな独り言事情に対して、理解がある人だったらいいわけですが、世の中はそんなに甘いものではない。 「アンタ!さっきから何を言っているのか、さっぱりわからないよ!」と怒り出す人も出てくる。 その時点で自分を見つめなおせばまだしも、多くの人は、自分の独り言が成立する世界・・・たとえば、インターネットの掲示板とかブログに帰ってきてしまうわけ。 いわば、抑圧的な家庭環境によって、独り言が生まれ、自分の独り言を許容する環境を求めてしまい、そんな場所に心理的に適応することになり、独り言がスパイラル進行してしまう。 それこそ、インターネットのニュースサイトのなかのニュースに対して、コメントがのっていることがありますよね?YAHOOとかLIVEDOORのニュースだったら、ニュースを読まれた方のコメントが載っています。そこでのコメントが絵に描いたような独り言系の物言い。 その手のコメントは、誰かから合意を取るわけではなく、単にその人の感想を書いているだけの文章でしょ?ニュースに対して感想を持つのは勝手ですが、自分の感想なり意見に合意してほしいのなら、もうちょっと、その自分が書いたコメントの読み手について考慮しては?それらのコメントの言葉って、まさにぬいぐるみに語りかけている類の物言いでしょ? だから、物言いだけでなく、その用語としても独りよがりになってしまう。それこそ民主党の小沢さんを「汚沢」とかの表記をされていた方もいらっしゃいました。そんな表記で何を伝えたいの?本当に小沢さんの問題点を多くの人に対してわかってほしいのなら、逆にいうと、もっと一般的で客観的な表現スタイルでないと、多くの人に伝わらないでしょ? 以前書きましたが、そんな表現からは「わかるからいいじゃないか?」そんなスボラな雰囲気が立ち上ってくる。全体的にズボラだから、その手の表記は、誤字なのか意図的な凝った表記なのかはわからないもの。 しっかし、そんな文章を書く人間はもちろんのこと、喜んで読んでいる人間は、どんな人なの?そんな人とやりとりしても、ドツボにはまるだけですよ。 その手の場所も、特定の個人とのやり取りができる上で、TPOを考えた上で、そんな場所で情報発信しているのなら結構なこと。しかし、独り言系の物言いのダメダメ人間は、その場所どまりになってしまうわけ。そこから先はコミュニケーション?ができないわけです。 たとえ、形の上では一方通行であっても、明確な意図を持つ「紹介」とか「解説」とか「説明」だったらいいわけです。それは客観性を志向したものでしょ?つまり当人以外の他者という存在を十分に意識した上での表現と言えるでしょ? しかし、主観的な感想を、いきなり語られても、聞かされた方は対処不能ですよ。 そんな違和感を持たずに、主観的な感想をそのまま語り、コメントとして書き記す行為自体から、その人が、独り言になじんでしまっていて、他者という存在が心理的に認識できていないことが見えてくるわけ。 この文章の最初に、シングルマザー環境の子供と、独り言系の物言いの親和性について書きましたが、メールの文章が独り言系のスタイルの人は離婚が多いもの。 これって、ある意味において、当然のこと。それだけ、自分が相手にわかってほしいことを自覚した上で、わかりやすく伝えるという会話の精神がないわけですからね。そんな人と一緒になるのも同類ですよ。そして、結果的にトラブルになるというお約束の流れとなってしまう。 シングルマザーによって育てられた人間が、独り言系の文章を書き、そんな独り言系の文章同士で結婚して、結局は離婚、もし子供がいれば、堂々たるシングルマザー連鎖となってしまう・・・そんな事例も、現実に存在するわけ。 ・・・というか、購読者ご自身がそのパターンの方もいらっしゃるかも? メールの文章だと、逆上メールの文章も、ある意味において独り言でしょ? 粗雑な言葉を投げつけてくるのはいいとして、だからと言って、メールの対象のこの私がどうなるわけではないでしょ?そんな文章を読んでも「だから何なのさ?」となるだけ。この私に反論したいなり、精神的なダメージを与えたいのなら、的確な論旨の客観的な文章を送りつければいいだけですよ。 逆上メールを送りつけるような、言いっ放しの物言いをする人間が集まってもトラブルになるだけでしょ?あるいは、そんな逆上メールを送ってくる人によって、育てられた子供はどうなっちゃうの?そんなことは、小学生でも予想できることですよ。 逆に言うと、自覚すれば、つまり、独り言ではなく、まずもって自分との対話をすれば、そんな事態は防げるわけ。 独り言は対象不詳であり、そして目的も不詳。あらゆる面でスパム化されてしまっているわけ。 「自分はこう思う。」「このように感じた。」言葉としては、そのように伝えるのはいいとして、相手に伝える場合には、「相手をこのように思わせる。」ように書かないと意味がないでしょ?「ボクはこう思った。」「ワタシはこう感じた。」そんな言葉の羅列なんて、はっきり言うと不気味ですよ。しかし、自分の感想が中心となっている目的不明の文章って、実際に多いでしょ?文章の対象が明確で、「わかってほしい」目的が明確だったら、その自分から発したメッセージによって相手からの合意が取れたか?あるいは取れなかったのか?そんな問題が出て来るし、それを踏まえて、別の表現手段を使うことも必要になってくる。 しかし、そもそも言いっ放しなんだから、自分の表現手段を見直すこともしないわけ。 独り言系の物言いばかりなので、もはやその匂いが付いてしまっていて、ちょっとしたやり取りでも、相手を心理的に認識していない状態。 そうして「どうしてミンナは、ボクたちのことをわかってくれないんだ?」とグチることになる。グチって、まさに独り言の王道でしょ? そんなグチっぽい姿は、結局は親譲りだったりするわけ。 実際に、「子供が独り言ばかりで、親として恥ずかしい!困った!困った!」というグチもあったりするもの。まあ、そんなグチを言う前に、子供とちゃんと会話していれば、そんな事態にならないわけですが、子供を横において、独りでグチで盛り上がる・・・それがダメダメな親の姿であり、結局は、その子供の姿というわけ。 グチなどの独り言って、何よりも自分を納得させるための言葉であって、「時代が悪い」とか「政治が悪い」とかで自分に納得させ、「ああ!ワタシって、何てかわいそうなの?!」と嘆くだけ。 そうやって、自分で考えることから逃避するわけ。 つまり、自分独りでの内面での対話から逃避するために、独り言が使われたりするわけ。 ちゃんと自分自身と対話して、伝えたいことを自覚して、 そして、その伝えたい内容から、伝えたい相手についても選択する。 その結果として、ちゃんとしたコミュニケーションができる。 その積み重ねがあれば、独り言は減っていくでしょうし、少なくとも、ちょっとしたやり取りの段階から、そんな匂いが漂ってきてしまうことからは回避できるのでは? (終了) *************************************************** 発信後記 明日も、この独り言系の物言いに関連した文章を配信したします。 あと、本文とは全然関係ありませんが、島根県の女子大生の殺害事件が、もう2ヶ月経ったとのこと。以前もちょっと書きましたが、そもそも香川県の人が島根県の大学に行く不自然さに注意する必要があるのでは? 犯罪となると、倫理の問題ばかりがクローズアップされるわけですが、事件はその当事者なりに心理の必然性があったりするもの。ただ、その心理の枠組みが違っているのと、その必然性がわからない。マトモな人の枠組みではなく、ダメダメ家庭の枠組みから考えると、見えてくるものもあるはずです。 まあ、そんなことができる人が、島根県の警察にはいないんでしょうが。 |
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R.10/8/6 |