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カテゴリー | ダメダメ人間の自己逃避 |
配信日 | 10年1月13日 (10年6月25日 記述を追加) |
タイトル | ムダな装飾 |
ダメダメ家庭は会話不全の家庭である・・・このことはこのメールマガジンで頻繁に書いています。同じように、頻繁に書いているのが、ダメダメ家庭は当事者意識が欠如した家庭であるということ。自分がやらなければならないことなど、自分でも分かっていないし、そもそも考えない。だから、そのことを伝える必要もないし、伝えようもない。 ダメダメ人間が、人とやり取りをしている際には、言葉は飛び交っていても、「相手の意向を聞き、自分の意向を伝える。」という会話のスタイルになっていない。 自分の感情なり、ある事件を踏まえての断片的な感想が飛び交っているだけなんですね。 感情ということについては、「好き」とか「嫌い」とかの言葉が使われたりします。 あるいは、何かに対する感想だと、「スゴイ」とか「つまらない」とか「かわいそう」とか・・・ そんな言葉を使いますよね? しかし、そんな感情の表現なり感想の表現は、なくてもいいものでしょ? 実際に、いったい、何を伝えたいの? 感情的な装飾が多くなると、「ワタシは、○○をする。」というシンプルなスタイルで伝えるのではなく、「立派なワタシが、意を決して、愛国心を持って、○○する。」そんな言い回しになってしまう。こんな表現で何が伝わるの? つまりダメダメが進行していくと、その物言いに、修飾語なり、その手の修飾的な表現が多くなってくる。 それこそ、「ワタシは富士山に登る予定だ!」と表現すればいい話なのに、「普段から登山のことについて、色々と考えて、周囲から高く評価されているワタシが、意を決して、万難を排して、愛国心を持って、高揚感を抱いて、どんな困難があろうと、念願だった富士山登山をするんだ!」と表現するようになる。 そんな言葉を聞かされても、「で、結局は、アンタはどうするの?」とお約束の疑問が出てくるばかり。そんな大仰な言い回しをしなくても、決意があるのなら、「ワタシは、明日、富士山に登る予定だ!」と言った方が決意を感じますよ。 でしょ? グダグダ言っていないで、サッサと実行すればいいじゃないの? そう思いますよね? そもそも、「万難を排して」とか「愛国心を持って」とか「高揚感を抱いて」とかの感情次元の表現を聞かされても、聞かされた方はどうすればいいの? そっちの感情次元の方が重要なの? それとも、富士山登山をすることを伝えたいの? 感情的な表現があまりに多くなってくると、「で、結局は、どうするのか?」が伝わらないでしょ?逆に言うと、そのような客観的なマターは本人自身にも、実は分かっていない。 自分が伝えたいことが自分でも分かっていないので、折々の断片的な感情を表現した言葉を次々と突っ込んでいってしまう。 感情表現が多くなるので、ますますその気になって盛り上がってしまい、ますます感情表現ばかりになって、客観性が消失することになってしまう。 このようなことは、以前から頻繁に言及しております韓国の歴史教科書が、見事な実例と言えます。あるいは、韓国のご親戚と言えるピョンヤン放送もそんな感じでしょ? 韓国の歴史教科書では、「愛国心」とか「悪辣な」とか「非道な」とか、「熱情的に」とか・・・そんな表現ばかりが出てきますが、事件の年号は出てこない。 事件を記述した熱気あふれる文章を読んでいても、「この事件は、いつ起こったんだろう?」と疑問に思うだけ。 まあ、すばらしい歴史「教科書」ですよ。 ホント・・・こんな教科書から、どうやって試験問題を作るんだろう? 「この人物は愛国心があったのか?なかったのか?」答えよ?・・・なんて問題になるのかな? イヤ、まあ!シュールな世界だよ!シュールだけど、彼らだったら実際にやってそうだなぁ・・・ ピョンヤン放送も、事件の報道においても、いつ、どこで・・・とかの具体的な5W1Hを的確に伝えることよりも、熱情とか悲嘆とか・・・そんな面を中心に語っているでしょ? 報道というよりも、グチの巨大版と言った方がわかりやすい。 確かに、感情表現も、全然ないと、うるおいが欠けた文章になってしまう。 しかし、いわゆる公的な文章だと、装飾的な感情表現も困りものでしょ? 学校から、「家にある、ステキな本を持ってきてください。」なんて言われても・・・『ステキな本と言われても・・・どうすればいいの?』となりますよね? 本を持ってきてほしいのなら、たとえば「総ページが100ページ以上ある本を持ってきてください。」と数字が入った通知の言葉であれば、対応も簡単となる。 知人同士のちょっとしたやり取りでは主観的な感情表現もいいわけですが、公的文章ではそんな曖昧な表現は極力回避し、客観に徹するのが、マトモな態度。 しかし、ダメダメというものは、主観と客観の区別が喪失している。というか、客観というものが心理的に理解できない。このことについては、09年の7月に配信しております。 そもそも当事者意識がないので、自分というものが確立できない。 自分が確立できないから、相手との距離の問題も解決できない。そんなダメダメ人間は、相手と自分との間の信頼関係ということは理解できない。ただ、自分の感情だけが重要になってしまう。 だから、人とのやり取りでも、感情だけが問題になってしまう。 感情だけが問題になるので、自分の感情を表現する修飾的な表現ばかりになってしまう。逆に言うと、過剰な修飾的な表現は、その人の、主観と客観の未分化を示しているものなんですね。 まあ、こんなことをわざわざ私が書かなくても、修飾語ばかりの表現に接しても、「だから何なのさ?」「実際のところはどうなっているの?」って、思うものでしょ? それを教科書でやってしまっては・・・サスガに韓国は、どうしようもない。 しかし、日本のダメダメ人間も、その表現を見てみると、過剰な修飾表現があるものです。 あるいは、ダメダメが進行するにしたがって、その表現に修飾表現が増えてくる。 ムダに感情的な表現を入れてしまうケースばかりではなく、不必要なまでにオプショナルな表現を使ったりするケースもあります。それこそ以前にこのメールマガジンで取り上げた(笑)という表記や、インターネットの掲示板で出てくるwwwなる表記が登場したりする。 あるいは、絵文字を使ったりするケースもありますよね? それらのオプショナルな表記だって、使う当人が、意図をちゃんとわかっていればいいでしょう。 まあ、絵文字とか(笑)なる表記くらいだったら、マトモな人でも、チャンジオヴペースくらいのニュアンスで使うこともあるでしょう。装飾的な感情表現のように適正な水準で使えばいい。しかし、wwwになると、まあ、ダメダメご用達でしょ? 相手に対して伝えたい中心線が自覚できていれば、それを伝える際に、相手に合わせて、枝葉的な表現をつけるのは、文章技術の一つといえるでしょう。 しかし、何度も書きますが、自分が相手に伝えたいこと、それ自体を自覚していない人も多いわけです。そしてそれを自覚することから逃避するために、wwwなんて表記でごまかしてしまう。そもそもそのwwwなる表記を読んだ側は、何を理解すればいいの?そんな話になるでしょ?そんなことをやって喜んでいる姿こそが、まさにお笑いでしょ? オプショナルな表記を使うのもいいわけですが、基本的な表現ができていることが先。そしてそれは、伝えたいことが自覚できていて、分かってほしい相手についても自覚している・・・それが必要になるわけです。しかし、ダメダメ人間は、その自覚から逃避するがゆえに、ムダな装飾が必要になってしまう。 「○○という事項を、△△さんに伝えたい。」・・・そのように明確に意識していれば、客観的な事項をシンプルに記述することになる。 逆に言うと、抑圧的になって、そんな明確な意識がないがゆえに、回りくどくなってしまうことになる。 このようなことは「○○という事項を」の内容の面だけでなく、「△△さんに」という対象の面でも発現したりするもの。 分かってほしい相手が分かっているのなら、その人に対して直接に言うのが一番にシンプルで、間違いが少ないものでしょ?間に別の人が入ったら、それだけ誤解が発生しやすいなんてことは、幼稚園児でもわかること。 しかし、相手に分かってほしいことが自覚できない抑圧的な人間で、コミュニケーション不全のダメダメな人ほど、間に人を入れたやり取りをする。 間に入ったそんな人は、まさにやり取りにおける装飾のようなもの。 普段は対面で直接にやり取りをやっていて、ある種の技術的な事情がたまたま発生したから、その時に、別の人に入ってもらった・・・そんなパターンならまだわかりますよ。 しかし、抑圧的な人は、対面で直接やり取りできる状況なのに、間に別の人を入れてしまう。だからこそ、内容的に誤解が発生してしまうし、そんな間接的なコミュニケーションしか取れない逃げ腰な人として、侮蔑の視線を相手から受けてしまうことになる。 必要もないのに入れる際には、逆に言うと、最大限に注意する必要があるわけです。表記においても人においても、オプショナルなものは、そのような配慮が必要になるのは当然のことでしょ? しかし、ダメダメな人は、とにもかくにも間に人を入れたりするもの。 それって、顔を合わせて直接的に言いたいことが、自分でもわかっていないわけです。それこそ、相手から質問を受けると対応ができない。間に人が入っていると、時間は稼げるし、ごまかしも効く。 まあ、そのパターンだと、日本のやんごとないご家庭がまさにそのパターンですが・・・ あるいは、以前に日本の芸能人の方がお亡くなりになって、その元妻と娘がお葬式に出席拒否とかの事例がありましたが、その際にお亡くなりになった芸能人の弟さんが、「どうして来てくれないんだ?」とグチっていました。しかし、逆に言うと、弟さんがそんな形でグチる姿から、元妻や娘の出席拒否の事情もより深く分かるというもの。 言葉が軽い人間を間に入れている時点で、間に人を入れたがる人間が持っている無意識的な本心なり、心の弱さが見えてくるものなんですよ。 ダメダメ人間は、信頼と言うものが理解できず、だからこそ、好意という感情次元にすがってしまう。 周囲に対して「ワタシは悪くないわ!」と主張し、それに同意してくれる人だけを、周囲にはべらすようになってしまう。しかし、そんな姿ゆえに、信頼をますます失ってしまうことになる。 それこそ、2010年に南アフリカで開催されたサッカーのワールドカップですが、チームの内輪の話をメディアに話した選手なり役員がいた・・・とかで問題になったチームもあったようです。 内部においては喧々諤々の議論をすればいいわけですが、それを外部に漏らしても、事態はよくならないでしょ? しかし、信頼よりも好意を志向している状態になると、自分のグチに共鳴してくれる人間を、「味方認定」してしまい、被害者としての自分の立場を語るようになってしまう。 そして、被害者として自分を語ることにより、周囲から好意を得ようとすることになる。 しかし、そんなことをすると、好意は得られるかもしれませんが、信頼は失うでしょ? 当事者ではない人間に語っている段階で、ちょっとマズイ状態といえるわけです。 明確な意識を持った相談ということなら、逆に言うと、その相談相手は、ある種の当事者としての役割を担うことを覚悟してくれる人を選定する必要があるでしょ? 今まで関わりのなかった人に、自分たちの問題を語った人は、そんな判断を元に語ったの? サッカーチームの内部の問題を聞かされたメディアの人は、そのチームの当事者としての覚悟や意識を持って、その問題を聞いたの? 違うでしょ? だったら、そんな傍観者に対して、内部の問題をしゃべってはダメなんですね。 信頼というものは、相互理解が基本として必要であり、そのためには、コミュニケーションが円滑にできていることが必要でしょ? 間に人を入れている時点で、コミュニケーションが崩壊しているということ。 そんな時点で、信頼も何もありませんよ。まずは、コミュニケーションをシンプルなスタイルにして、お互いについて、理解できるようになることが必要でしょ? 装飾も結構ですが、それは基本ができてから。 しかし、コミュニケーションが下手な人ほど、無駄な装飾が多い。そして、そんな人ほど、「どうして、ミンナはわかってくれないんだ?」「ボクたちは、いつも誤解されているんだ!」とグチっていたりする。そんな姿は身分を問わず、お約束でしょ? 自分のコミュニケーションのスタイルを、一番ベーシックなものに戻してみる。 そうすると、見えてくるものがあるわけです。自分自身について、よく見えてくるものなんですよ。しかし、抑圧的で自己逃避の人は、そのベーシックな形に戻すことができないわけです。 前にも書いておりますが、ダメダメ人間は信頼と好意の区別が付かないことは頻繁に書いています。ムダな装飾を入れる時点で、好意を志向していることが見当できるでしょ?シンプルな伝達スタイルこそが信頼につながりますよ。そしてそれが積み重なり、信頼関係が確立していったら、装飾的な表現を使ってフランクにやり取りすればいい話。 しかし、自己逃避の人は、まさに自分のベーシックな面を認識することから逃避し、衣で何重にも覆ってしまう。そんな人に何かを質問すると、肝心の点については全然回答しないのに、どうでもいい部分だけは熱心に語ってくる。それこそ、後1年の命と宣告されたとか、苦心の果てにとか、何とか・・・悲劇を語る。それはお気の毒かもしれませんが、まずは私からの質問にちゃんと答えてほしいもの。 結局は、自己逃避であり、自分が伝えたいこともなく、信頼よりも好意を求めている。 だからこそ、同情につながるようなことばかりを主張し、その人自身の考え方や現状については、何も分からない。 あるいは、そんな自己逃避の人は、やっていることも、実に装飾的でしょ? それこそ、ボランティアなどをして他人の問題には喜んで手を出すけど、自分自身の問題を直視しようとはしない。トルストイ描くアンナ・カレーニナのように自分の子供はネグレクトしているのに、他人の子供は預かってかわいがる始末。 あるいは、そのアンナ・カレーニナは、自分の離婚問題を放っておいて、絵画とか建築とかに関心を示したりする。 しかし、もっとも基本となる自分の問題からは目を背けてしまう。 そんな人が語る苦悩は、実に軽いもの。 だって、自分自身から目を背けているんだから、お気軽で装飾的な苦悩ですよ。 ボランティア活動によってわざわざ仕入れた、取り扱い簡単な苦悩を弄ぶことになる。何となく目立つ苦悩だけど、その当人の本筋ではない。いわばトカゲの尻尾的な苦悩。 そしてその扱いが習熟してくるので、まさに同類のボランティアが寄ってきて、グチ大会。 グチを聞きつけ寄ってくるボランティアなんて、人間にとって装飾そのものですよ。 しかし、嘆くことで、結果的に、周囲から構ってもらえたので、また同じことを繰り返す。 結局は、周囲のマトモな人から、呆れられてしまう。 そうなってくると、「どうして、このワタシの苦しみを分かってくれないの?」と、やっぱり嘆くことに。しかし、そんな嘆きを語る人は、やっていることは本筋から外れていることばかりで、周囲の人間もお飾りばかり。そして「分かってもらうための努力」なんて何もしないまま。 そんな人は、その人の存在自体が装飾になっているわけです。 (終了) *************************************************** 発信後記 今回の文章は「自己逃避」のカテゴリーに収録しますが、カテゴリー自体には深い意味はありません。あくまで便宜上のものです。 ちなみに、最近は、文章のタイトルなどをYahooの検索にかけて遊んだりしているんですが、「自己逃避」となると、13万件くらいのヒット数になる。ちょっと違った言葉で「自己否定」となると、一桁多い140万くらいがヒットする。 このメールマガジンは、自己否定という言葉よりも、自己逃避という言葉を多く使っています。自己否定の心理となると、このメールマガジンでは、マゾヒズムの心理として説明しています。ちなみに「どうして自己否定は、自己逃避よりも一桁多く文章があるのかな?」とも思ったのですが、自己逃避に関する文章は、書きにくいんでしょうね。 前から頻繁に書いていますが、自己逃避状態だったら、その逃避している自分自身を認識することから逃避するんだから、自分が自己逃避であることがわからない。 それに自己逃避の人は、ただ「人に合わせているだけ」に徹しているので、逆に言うと周囲からは目立たない。そんな書きにくい状態といえる自己逃避の文章が少ないのは、当然といえば当然。 それに対し、自己否定だったら、否定する対象の自己を見つめることになる。「もっと、もっと自分を否定するんだ!」と自分を縛り付ける。だから文章も書きやすいんでしょう。 自己否定という言葉は、宗教の業界とか左翼運動の業界で、結構使われる言葉のようです。 自己逃避となると、どっちかというと、文芸の業界のようです。 自己逃避を認識し表現するには、それだけ、自分の内面を見つめる必要があるわけ。 自己否定という言葉を使いたがる業界が「正しい教えを学ぶ」というスタイルが頻発し、それこそが自分の認識や思考を「縛る」マゾヒズムそのもの。 挙句の果てには「自己否定の考えから脱却するための、正しい考えを学ぶ。」なんて言っている人もいる雰囲気。ギャグでやっているのならともかく、どうやらマジっぽい。 自分自身を知らないと、覆いが重なって行くだけなんですね。 |
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R.10/6/25 |