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カテゴリー ダメダメ家庭をめぐる環境
配信日 10年2月1日 (10年11月4日 記述を追加)
タイトル 似たもの同士
ペットは飼い主に似る・・・なんて言われたりしますよね?
まあ、落ち着きのない飼い主と、落ち着きのないペットの組み合わせなんてよくあったりします。
小心者の飼い主に、小心者のペットの組み合わせのケースもポピュラーです。だって、飼い主が小心者だったら、ペットもおおらかとは行きませんよ。トラブった時には、飼い主が守ってくれる雰囲気ではないですからね。犬だって、どうしても周囲をうかがってビクビクするようになっちゃうでしょ?

私が個人的に面白いなぁ・・・と思っているのは、ノーブランド犬の飼い主。
ノーブランド犬というか、いわゆる雑種の犬っていたりしますよね?夕暮れになると、そんなノーブランド犬を散歩させているオジサンやオバサンがいたりするもの。そのようなオジサンやオバサンは、まあ、服装もノーブランド。
ノーブランドの組み合わせで、犬と飼い主がノタノタと歩いている。

しかし、そのような組み合わせって、実にハマっているわけ。阿吽の呼吸があるというか・・・そのような組み合わせの場合には、犬はグズったりはしていない。順調にノタノタ歩いているんですね。犬が立ち止まって動かなくなってしまい、飼い主が手綱を強引に引っ張るような光景にはならないわけ。よくあったりするでしょ?「コラ!もうっ、動いてよ!」なんて苦労している飼い主。そんなグズっている犬は、意外にもブランド犬だったりするもの。

ノーブランド犬と、ノーブランド飼い主は、阿吽の呼吸の状態。お互い「言わなくてもわかる」そんな雰囲気。だから「いい味を出しているなぁ・・・」と思ってしまうわけ。別にノーブランドの服を着ているからといって、飼い主が貧乏というわけではないでしょ?本当に貧乏だったら、たとえノーブランドであっても、犬なんて飼いませんよ。それなりに心に余裕があるから、犬だって飼えるわけでしょ?というか、ノーブランド犬なんて、商品価値が何もないわけですから、逆に、それなりに余裕がないと飼えませんよ。

それにノーブランド犬は、意外に、手に入れるのが難しい。だってペットショップには売っていませんよ。あのようなノーブランド犬は、誰かにもらわないと手に入れることができないわけ。大昔の日本だったら、野犬がウロウロと歩いていましたが、今の日本は野犬など見ることはないでしょ?だから、雑種の犬も生まれなくなってしまっているわけ。

あと30年ほどしたら、雑種の犬は入手困難になるのでは?だって純粋な血統の犬は簡単に繁殖させられますが、雑種は何代もかかりますよ。いざ雑種の血統?が途絶えてしまうと、混ぜ合わせて繁殖させるのも大変なわけ。ギャグのようですが、実際にそうなるでしょうね。

誰かに犬をもらったということは、それなりの人間同士の付き合いがあるということでしょ?会話不全のダメダメ人間には、そんな人間同士の付き合いなんてありませんよ。犬をもらったということは、犬をくれた人からそれなりに信用されていたわけでしょ?「アイツは犬を虐待するような人間だ!」と思われていたら、犬ももらえませんよ。
ノーブランドの犬は、飼い主の人付き合いを示しているもの。もらったり、頼まれたり・・・そんな人間関係の結果でしょ?

ということで、「それなりに」信用があるオジサンやオバサンが、誰から子犬をもらって、なんとなく育てた姿が、ノーブランド犬の飼い主・・・そんな感じなんでしょうね。そんな人間と犬だからこそ阿吽の呼吸が達成できるんでしょうね。

このメールマガジンはペット問題についてのメールマガジンではありませんので、このノーブランド犬についての話題はこれくらいにします。
しかし、考えてみると面白いでしょ?

ペットと飼い主が似るのだから、当然のこととして、夫婦は似ていますよね?
夫婦のうち、片一方が子供が好きで、片一方が子供がキライなんてことは絶対にありません。
より正確な表現をすると、片一方が、単なる一方的な好意としての「子供好き」のケースはあっても、その場合の「子供好き」は、子供の人格なり感情を踏まえたレヴェルの子供好き・・・あるいは、子供を一人前にするという覚悟を持った上での「子育て好き」ではないわけ。子供の姿形やしぐさは肯定的に捉えていても、子供からの反応を肯定的に捉えているわけではない。
チョコレートが好きとか、色では青色が好き・・・そんな一方的な好意どまりのレヴェルなんですね。
その折々に、通りのいい言葉は出てきても、断片のレヴェルでとどまっていて、心理的に統合されてはいない。子供の人格を統合的に見てはいないわけ。
だから、一貫したものがない。

「ウチの亭主は子育てに非協力的だ!」などとグチったりする妻もいますが、そんな亭主とわざわざ結婚し、子供が生まれる前の時点において家事に非協力的な姿を見ながら、子供を作った妻もどうかしているでしょ?そんな妻も深層心理的に子供がキライなんですね。子供といるのが不快だからこそ、「その被害を応分に負担してよ!」という心理が「ウチの亭主は子育てに非協力的だ!」というグチになるわけ。

料理などの好みにおいて、片一方が中華料理が好きで、片一方が和食が好き・・・そんな違いがあったりするかもしれません。しかし、そのような違いだって、双方とも食べることが好きという面では共通しているわけでしょ?
片一方が食べることが好きで、片一方が食事には関心がないなんてことはないわけ。

そもそも犬の性格まで知った上で、飼ったりするわけでもないのに、それなりに似るわけですから、お互いをわかった上で結婚した夫婦が、基本的に同じキャラクターであることは当然でしょ?お互いのことをよくわからない状態で結婚したのなら、そんな「なげやり」な態度が共通しているわけ。やっぱり似ているわけです。

ドメスティック・ヴァイオレンスの問題だってそうでしょ?
妻は被害者で、夫は加害者とか言われたりしますが、そもそもコミュニケーションなんてわざわざ体を使わなくても、言葉で言えば、お互いがラクでしょ?結局は、双方とも会話不全の人間という面では、共通しているわけ。そして被害者意識という面でも共通している。「オレのことを、どうしてわかってくれないんだ?!」と被害者意識に浸って暴力を振るい、被害者の側は、『ああ!ワタシって、何てかわいそう!』と被害者意識に浸る。どっちもどっちでしょ?

自分の被害は必死で語っても、「で、アンタは結局はどうしたいの?」なんて聞かれても答えられない。この点もまったく同じ。
夫婦なんて、似たもの同士であることを前提に考えた方が実態に合っているんですね。
「あんな出来の悪い人間と結婚したワタシって、なんてかわいそうなの?!」と、お互いが言っているという点では、まったく似たもの同士。

夫婦のお互いが、「相手とは大きな違いがある。」と思っていても、子供から見ると、双方とも似たもの同士そのものだったりするわけ。
それこそ、そんな家庭の子供は、父方の祖父母の名前も知らないし、母方の祖父母の名前も知らない。
というか、父親が何人兄弟なのかも知らないし、母親が何人兄弟なのかも知らない。
お墓参りも、父方,母方の双方ともやっていない。
子供としては、似たもの同士の夫婦と見ているわけですが、夫婦のお互いは、「アイツと結婚したせいで、オレの人生はメチャクチャだ!」と嘆いている・・・そういう意味では、違いがあると思っているわけですが、見方を変えると、まったく同じなんですね。

夫婦はお互いが鏡のようなものですよ。
そして、育てたペットが似るように、育てた子供は親の鏡でしょ?

問題を起こす子供は、その家庭自体の問題を示しているわけ。
まさに、炭鉱のカナリアのようなもの。
しかし、ダメダメな親は「あんな出来の悪い子供を持ったワタシって、なんてかわいそうなの?!」と嘆くだけ。しかし、そんな当事者意識の欠如した親こそ、まさにそのトラブルの原因そのものでしょ?
子供も親と似たもの同士なんですね。あるいは、子供の兄弟仲は夫婦仲の鏡。
子供の行動から親の姿が見えてくるわけ。それは子供の年齢とは関係がない。むしろ長じた後ほど、その親の姿が正確に反映されているもの。だって、なじみの行動を積み重ねて歳を取っていくわけですからね。自分で何も考えないで生きていたら、どんどんと親のダメダメが、当人にも発現するだけですよ。

かなり以前のことですが、社民党から国会議員になったある女性が、「党の北朝鮮への対応はおかしい。ワタシは知らなかった!」とか言って、離党したことがありました。
ダメダメ家庭では「結婚した後に、結婚前のことについてグチる。」という点について配信したことがあります。
「お父さんは、結婚前は全然貯金がなくて・・・」
「結婚前から、おじいさんはイジワルで・・・」
って、そんな感じで、後になってグチるわけ。事前に問題が分かっていたのなら結婚しなきゃいいじゃないの?と思うのは当然ですが、当事者意識がなく被害者意識だけがあるダメダメな人間は、「て・き・と・う」に結婚し、結婚後になって結婚前のことについてグチることに何の抵抗感もないわけ。
ただ「自分はかわいそうな被害者なのよ!」と言っているだけ。

そんな家庭で育ってしまうと、政党に入党する前のことについて、入党後に文句を言うような「おバカ」なことを平気でやるような人間になってしまう。その女性の母親も、そんな重症なダメダメ人間なんでしょうね。

見る人が見ると、子供の行動から母親や父親の姿までちゃんと見えるものです。もちろん、あの女性の対抗心なり会話の能力不足など、あの女性には、やたらダメダメ家庭出身者の特質が凝縮されていたでしょ?
その女性だって、本来なら、自分に票を入れてくれた有権者に詫びるのが先でしょ?しかし、ダメダメ人間は真っ先に自分の被害に発想が行くわけ。その女性の親もそんな人なんでしょうね。

家族でも、友人関係でも・・・似たもの同士。
周囲の人間だって、自分と似ているもの。
前向きに行動していれば、同じような前向きの人と話が合うわけですし、グチばかり言っていれば、同じようなグチ人間と話が合うのは当然のこと。
私には出会いがない・・・とグチを言っている人は、そんなグチによって、同類のグチ人間を呼び込んでしまい、マトモな出会いとはますます無縁になるばかり。

似たもの同士でグチで共鳴したり、あるいはバトルになったりする。
それこそ、よく女性によるオトコの取り合いがあったりしますが、その際の対象であるオトコはダメオトコでしょ?
「ワタシだけが、この人を分かってあげられる。」女性がそんな心理に陥ったら、オトコを取り合うことになる。魅力のあるオトコの場合は深刻な取り合いにはなりませんよ。取り合いをするくらいのバトルは、往々にしてダメオトコをダメオンナ同士で取り合っていたりするもの。

まあ、イイオトコは別のところにもいますよ。しかし、「ワタシだけが、この人を分かってあげられる。」と思えるオトコはそのオトコ一人。つまり恋愛関係というよりも、依存関係に近い。だから取り合ってしまう。
しかし、そんなバトルに勝っても、試合に勝って勝負に負ける典型ですよ。
そうして、似たもの夫婦が出来てしまう。
そして、子供ができたら、その子供はどうなるの?

そして残念ながら、子は親の鏡であり、親の欠点は子供に引き継がれているもの。
だから、そんな家庭で育った子供は、自分が親と似ていることを自覚しながら生きていくしかないわけ。
実際に、「私は自分の親を反面教師にしている!」などと口では言っても、行動はまったく親と同じでグチばかり・・・そんな人も、実に、多いでしょ?

そんな人は親の出来の悪さを必死で言っていたりするもの。
逆に言うと、そんな子供の姿から、「子供の出来の悪さ」を常に語っていた親の姿が想定できるわけ。

マトモな親だったら、子供の長所を伸ばすことを考えるものですが、子育てを自分が被った被害と考えているダメダメな親は、子供の可能性を伸ばそうなんて考えない。むしろ、子供の出来が悪い方が、子育てによる被害を周囲に説明できて都合がいい。「周囲の親がうらやむような、非の打ち所のない出来のいい子供によって、親である自分が被害を被った・・・」とは中々言えないもの。だから、ダメダメな親は、自分の子供が周囲の人からほめられても「フンっ!この子は、そんなたいしたモンじゃないわよ!」と否定するわけ。そして、自分の子供の出来の悪さを語ることとなる。
「こんなに出来の悪い子供を育てることになって、なんてワタシはかわいそうなの?!」
結局は、言いたいことはそういうことなんですね。

自分がかわいそうな被害者であることを主張しているだけなので、子供の問題を解決しようとは思っていない。それどころか、子供の出来が悪く問題を抱えている方が、親として都合がいいわけ。以前に取り上げた「代理ミュンヒハウゼン症候群」に近い心理。しかし、だからこそ、子供も問題行動を起こすわけでしょ?

そんな子供の問題行動がゆえに、親の側はますます自分の被害を主張する。
実際に、自分の子供の出来の悪さを語りたがる親って、結構ポピュラーでしょ?
それにダメダメ家庭では、常に自分から逃避している。自分のことについてわかっていないし、考えようとしない。そんな人間は、子供を犯人認定して、後は子供を恨んでいるだけ。逆に言うと、それによって、もう自分で考えることから逃避できる。
まさに「悪いのは全部○○のせいだ!」というわけ。

そんな家庭で育った子供はどうなっちゃうの?
親がそうであったように、あらゆることを自分が被った被害と捉えてしまう。
被害という形で受動的に認識するので、色々な意味で自覚が起きにくい。
「まあ、ワタシって、なんてかわいそうなの?!」
そうやって、まさに親譲りのスタイルでグチっているだけ。
明確な自覚がないから、自分自身の実家の問題だって、真剣に考えることなく、目をそらすわけ。そうして、何か別のものを犯人認定して、「ワタシはあの○○による被害者なんだ!」と主張することになる。
「政治が悪い!」「時代が悪い!」「ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」
まあ、見事なまでに「親譲り」。

あるいは、かつて自分が傷ついた親からの言動を、今度は自分が無意識的に繰り返す、フロイトが言う反復強迫状態になってしまう。
自覚がないと、結局は親と同じことをするもの。

もちろん、実家の問題を考えるダメダメ家庭出身者もいます。しかし、その際にも、親譲りの被害者意識を自覚できないままだと、親の問題も、単に被害としてしか見ることができないわけ。親の欠点というよりも、親からの被害という形で認識してしまう。
親から受け継いだ問題を、ハンディキャップとして認識していればいいわけですが、被害と認識してしまうわけ。

そんな状態だと、「親の出来の悪さ」を語る人間になるわけです。
ダメダメ家庭というものは、まさにダメダメな人間が親となって、子育てしたわけですから、親の問題なんて、山ほどある。
それを語ることは、ちょっと記憶をたどればできること。

しかし、どうしても被害者意識があるので、「あの親のせいで・・・」なんて自分の被害者感情が刺激されてしまう。
被害者感情が刺激されるのは当然でしょう。重要なことは親による被害だけでなく、自分自身が持つ被害者感情を自覚することでしょ?自覚した上で、上手に距離を取ればいいだけ。

自分の子供の出来の悪さを語る親によって育てられた子供が、長じて、自分の親の出来の悪さを語る人間になる。
実に、似たもの親子状態。

何も自分の親の出来の悪さを語ってはダメということではありませんよ。語る前に、自覚して理解することが先なのでは?
そう申し上げているだけです。
具体的で客観的なスタイルの説明ができればいいわけ。

結局は、親と子なんて似ていたりするもの。
親の出来の悪さを語る、その説明を聞いて、「それって、今のアンタとまったく同じじゃん?!」なんて思ってしまう。そんなことも多いんですね。

親が子供の出来の悪さを語り、その子供が親の出来の悪さを語る。
そんな親子は、双方とも、やたらグチっぽく、結局は、「自分で何をしたいのか?」そんな問いかけには答えられないもの。
だから、周囲の人のレヴェルも落ちてしまって、それこそ親子そろって離婚したりする。

お互いがそんなに「出来が悪い」と思っている親子なのに、結局は、「つかず離れず」の距離を保って、「アイツのせいで・・・」と、お互いが犯人認定。
そういう意味では、お互いが便利に使い合っているわけ。

自分の親がいかに出来が悪いのか・・・滔々と語る人。
そんな人自身が、今度は親になり、そんなグチばかりの親の姿を見ている、その人の子供が思うことって、だいたいがこんなこと。
「ダメだ!こりゃ!」

まあ、その親自身も、「私の反面教師は私の親だ!」なんて、言っていたりしたのでは?
そんなことを、その人に言ったりすると、「キー!何よ、何よ!みんな○○が悪いのよ!」と逆上。
ああ!まったく子は親の鏡だねぇ・・・

(終了)
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発信後記

今週は、ダメダメのその土壌の面に関する文章を中心的に配信いたします。
何も差別的に見ているわけではなく、早めに認識し、対処する必要性を申し上げているだけです。
「そんな偏見はよくない!」という正論は結構ですが、そんな発想は「現実を直視し、具体的に考えるのがイヤ」という抑圧的な心理の反映なんですね。
そもそも「偏見はよくない」って、ダメダメにお約束の二重否定表現。
そんな表現がスグに登場するようなら、言った人のダメダメも、もうかなり進行しているわけです。

まったく話は変わりますが、先週にアメリカの著名な作家である、J.D.サリンジャーさんがお亡くなりになったとのこと。なんと90歳だったとのこと。まだ生きていたことにビックリ。
このメールマガジンでも、彼の言葉は引用したりしております。
「みだしなみ」というお題の文章で、「太っちょのオバサンのために靴を磨いておけ!」という言葉を引用いたしました。

そのセリフは、彼の「ゾーイー」という作品の最後の方にあるセリフです。
現実世界や大人の汚さに直面し、どうしようもなくなって、引きこもってしまった妹フラニーを、兄であるゾーイーが訪れ、色々とやり取りする作品です。
現実的には、その後で、作者であるサリンジャーが引きこもってしまい、作品を発表することもなくなってしまう。

アメリカの作家では、比較的若くして認められ、そして、作品を作らなくなってしまって隠遁生活となる・・・そんな作家さんが結構います。
このメールマガジンで以前に取り上げたトルーマン・カポーティがまさにその代表選手でしょうし、以前に言及した、「ソフィーの選択」の作者ウィリアム・スタイロンも、その「ソフィーの選択」の後は、作品を発表しているのかな?

ある種の客観性を持った文章を制作するとなると、商品性と作品性のトレードオフが発生いたします。まあ、売れる文章を作るのか?それとも自分の使命に忠実な作品を作るのか?
どっちでもその人の判断でしょう。

ただ、初期の頃は、そんな判断をする前に、溜め込んだ思いを、文章にまとめ、それが人々に受け入れられることになる。いわば商品性と作品性が共存した状態。
しかし、作り手の洞察力がより上がってしまい、そして文章を制作する技量も高まってしまうと、商品性と、作品性の間の乖離が発生してしまう。
あまりに若くして認められてしまうと、その乖離の問題との向き合い方がわからないのでは?いまさら「売れない」文章は作れないでしょうし、売ることを狙いすぎると自分を偽る必要も出てくる。そんなシチュエーションは、ヨーロッパだったら、いつでも起こっていることですが、アメリカではそんな積み重ねがまだ充分ではないんでしょうね。

もちろん、ヨーロッパでも、絵描きだと、ユトリロとかベルナール・ビュッフェとか、実質上は創作活動が初期だけの人もいます。魂の不安の表現していた人は、リッチになってしまうと、表現したいことがなくなってしまうんでしょうね。

そんなことを考えた文章を、そのうち配信しようかなとも思っていますが・・・
皆さんも、サリンジャーさんの「フラニー/ゾーイー」でも読んでみては?図書館にもあるでしょうしね。
何も「引きこもり」を描いた古典ということではなく、繊細な若い人が感じる現実社会へのどうしようもないほどの不快感・・・そんなものを見事に表現している作品です。
インターネットや携帯電話がある前も、人々の発想なんて、今と変わらないわけ。
R.10/11/4