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カテゴリー ダメダメ家庭をめぐる環境
配信日 10年2月5日 (11年1月23日 記述を追加9
タイトル 見殺しの周囲
ちょっと前の今年(10年)の1月に、東京の江戸川区で、児童虐待事件がありました。
7歳の海渡(かいと)君が、31歳の継父と、22歳の実母に虐待され、お亡くなりになった事件です。最近のことですから、皆様もまだご記憶のことでしょう。
残念なことに、この事件は、虐待事件としては、実に「ありがち」なもの。
それこそ、その現場から、「ごめんなさい。」という子供の声がよく聞こえてきた、あるいは、子供の側が暴力を振るう親をかばっていた・・・そんな状況も含めて、典型的な事例と言えます。
逆に言うと、誰でも分かるくらいの基本的な事例なので、事態が発覚した初期の段階で、お茶を濁すようなぞんざいな対応ではなく、本気で取り組みさえすれば、ここまでのカタストロフになることは、防ぐことができたわけです。

以前より、頻繁に書いていますが、児童虐待の『現場』においては、「暴力を振るう親の側が『被害者』という認識であり、暴力を振るわれる子供の側が『加害者』という位置づけになっている。」わけです。そんな心理状況を無視して、周囲が中途半端に介入すると、被害者意識が強い親としては、「また、この子供によって、面倒をかけられてしまった。」と自分が受けた被害という形で認識し、子供への「しつけ」に熱が入るのも当然の流れと言えます。

そもそも、「親である自分は、子育てという被害を背負わされた、かわいそうな被害者」という被害認識なんだから、子供が「生まれてしまっていること」「生きていること」「子供を育てなければならないこと」それ自体が、親に対する「加害」であり「罪」となっている。
だからその状態を修正するには、結局は命を奪うことになってしまいますよ。

本来なら、そんな人間は親とならなければいいわけですが、逆に言うと、そんな人間ができるのは子作りだけ。そして、自分の被害者意識を満足させるためには、加害者たる子供がいることが好都合。
子供を虐待することで、「コイツのせいで、オレたちは、うまく行かない。」という関係性を確定させる儀式としてしまう。だからこそ、子供が「ごめんなさい。」という謝罪の言葉を言わせようとすることになる。謝罪の言葉によって、子供の側が加害者だと自分で認めたわけですしね。そうして親こそが被害者の側だと、双方が確認できることになる。その儀式を行うためにも、子供が必要となり、子供が言葉通りのスケープゴートになってしまう。

それにその手の人間は、抑圧的であり、判断から逃避している。
そんなに子育てがイヤなら、施設に入れればいいだけなんですが、その「判断」が怖い。そもそも避妊するという判断ができない結果の子供なんだから、子供を施設に入れるという判断もできるわけがありませんよ。それは知的な能力というよりも、心理的にできないわけです。

それに、22歳の女性の7歳の子供という面から考えて、周囲もメチャクチャな状態であることが誰でもわかるでしょ?だから実家からのサポートもまったくない。
本来なら、その手の人には、実家の問題を含めて、現状の問題点を自覚してもらうのが必要になるわけですが、それこそ、ボランティアとか市民団体とかがやってきて、「まあ!!悪いオトコに騙されて子供を押し付けられてしまったのね?!」「アナタは何も悪くないわ!」「まあ!アナタはなんてお気の毒なの?!」と同情の言葉を掛けるだけ。そんな言葉を受けて「子供を『押し付けられた』かわいそうなワタシ。」という自己認識が強化されてしまうことになる。だからこそ、害をなす存在である自分の子供に報復することになる。
心理的には報復という位置づけなので、それが倫理的に正しいことだと思っている。
倫理的に正しく、やましさを感じていないがゆえに、まさに、行くところまで行ってしまう。

現実に多く存在するダメダメ家庭も、程度問題は別として、心理的な構造は、この虐待家庭と共通しています。前にも書きましたが、この事件は、そんなダメダメ家庭の心理を理解していると、簡単に理解できてしまう。

ですから、今回のメールマガジンの文章では、その事件そのものよりも、その周囲の問題に目を向けてみましょう。

この手の事件が発生すると、それこそ、児童保護施設とか、学校が槍玉に挙げられるものですよね?「学校は何をやっていたんだ?」「強制的にでも、その家庭に介入すべきじゃないか!」そんな非難の言葉も、いわばお約束状態と言えます。
しかし、学校やその手の施設などを簡単に犯人認定して、つるし上げをして自己満足している発想は、子供を虐待している側の親と心理的にはほとんど同じなんですね。

周囲の「自称」善意ある大人が、関係者を糾弾するのはいいとして、この事件の周囲の子供もいるわけでしょ?その子供はどうなるの?
それこそお亡くなりになった海渡君は地上との糸が切れて、もう天国にいるんだから、もうラクになっている。しかし、そんな海渡君と面識があった子供としては、糸が切れず、ずっと引きずることになってしまう。

この手の事件があると、それこそPTSDとかの言葉がでてきて、カウンセラーが派遣された・・・とかの報道になったりするものですよね?
私個人は、その手のカウンセラーの方とはやり取りをしたことがありません。
その手のカウンセラーって、いったい何をするの?
形の上では、子供たちの心の傷を和らげるということなんでしょね。
それは言葉としてはともかく、じゃあ、その子供たちの心の傷って、いったいどんなものなの?

たとえば、一緒に住んでいた仲がいいお祖母さんが病気でお亡くなりになった・・・そんな喪失感だったら、対応もできるでしょう。あるいは、かわいがっていたペットの犬が病気で死んでしまったとかの場合も同じ。
あるいは、事故のようなものでも、飛び出して車に轢かれてしまったとか、あるいは地震でお亡くなりになったとか・・・そんなケースにおける喪失感も対応が可能でしょう。
その手の喪失感は、自然の因果というか摂理に近いもの。あるいは、まったくの偶然のケースも同じ。ある意味において「どうしようもない」わけですからね。あきらめるしかないでしょう。だから、周囲としては、「あきらめる」ように持っていけばいいだけですし、それしかない。子供の心の傷に対して、直接的にアプローチすることで対応できるでしょう。

しかし、今回のような児童虐待のケースだと、そうは行かないでしょ?
この問題の最大の重要点は、その海渡君が「見殺し」にされたということ。
1年以上前から兆候があっても、周囲の大人たちは、マトモには対応しない。
結局は、事態が何も改善せずに、行くところまで行ってしまうことになる。

そして、そんな大人たちの対応振りを、周囲の子供たちも見ているわけです。
まさに1年以上に渡って見続けていたことになる。
地震などの天災でお亡くなりになったとか、お年寄りが病気でお亡くなりになったとかの問題ではなく、ある種の無力感を持った「まなざし」で大人たちを見ることになる。対応すれば防ぐことが可能だったのに、それをしなかった・・・子供が直面したその無力感に対処しない限り、子供たちの心の傷なんて、癒されませんよ。
子供たちとしては、「大人たちはどうして、あの子を見殺しにしたのか?」そんな思いを抱き続けることになる。このような問題は、単なるその子供の心の問題と言うよりも、周辺の大人たちの問題でもあるでしょ?

しかし、そのような、周囲に対する不信は、周囲に対しては語らない。
「アナタを信じていない。」ということを、信じていない相手には言いませんよ。
別の言い方をすると、「アンタたちには何を言ってもムダ。」と思ってしまう。
それが不信というもの。クレームを付けることができる信頼感すらない状態。だから、問題が潜在化してしまい、類似の事件が起こることになる

大人の側は、自分に言い訳をしてしまう。
そして、「あれは仕方がないこと。」と勝手に納得してしまう。
そうして、「それらしい」犯人を設定し、その犯人にすべての罪を押し付けることで、自分たちは安全圏に避難してしまう。それこそ、以前に取り上げたアルベール・カミュの「異邦人」において、ムルソーにすべての罪を押し付けるという「世界の無関心」の姿そのまま。
そうやって、いつの間にか忘れてしまう。
しかし、そんな大人たちの姿を見ることで、子供の側は、ますます不信感を持つことになる。

「言ってもムダ」と思っているので、そのような不信感は語られることがない。それに子供の要望を聞き、そんな子供を助ける社会システムの問題は、子供が解決できるものではない。
カウンセラーが来ても、周囲への不信感は言わない。その手のカウンセラーって、所詮は、上手に誘導尋問をして、それらしい結論に導いているだけじゃないの?子供を都合よく騙そうとしているだけなのでは?いわば一番、クリティカルな案件を子供から言わせないようにしているのでは?子供に言わせないようにしているからこそ、大人は対処もしなくてもいい。大人の側が必死で誘導尋問して、「ワタシたち大人は悪くない!」と言い訳しているだけ。子供としては、その言い訳に付き合わされるだけ
つまり、もっとも重要な案件であるがゆえに、対処されない。

しかし、現状は何も変わらず、心理的に解決できていないわけだから、子供の側が「ああ!ボクが気がついていたら、こんなことにならなかったのに・・・」、あるいは「自分があんな状況だったらどうなるんだろう?」と考えてしまう。
大人が、勝手な理屈で、スグに忘れてしまうその横で、子供は忘れない。

単に距離的に近かったくらいの近所だったらまだしも、学校などで実際にやり取りがあった子供もいますよね?そんなやり取りがあった子供としては、ちょっとしたことで、「いなくなった人」のかつての表情を思い出し、「ああ!あの時のちょっと悲しげな表情って、もしかするとそんな意味だったのかも・・・」と思ったりする。
そして、記憶に残るその人の表情や自分の思いは、何十年経ってもなくならない。

周囲の大人としては、PTSDのカウンセラーを手配して、あと、適当にお茶を濁して、「はい!これでオシマイ!」となってしまう。お互いがお互いを言い訳し合い、許し合い、一件落着となり、忘れてしまう。欺瞞の予定調和が見事に達成されることになる。

しかし、そんな言い訳や欺瞞は、子供には通用しない。
大人は面倒なことを忘れたがっている。そして目をそむける。
そして、忘れるための、そして目を背けるための、それなりのノウハウがある。
子供が求めているのは、単に一時的なストレスを和らげることではない。安心感なり信頼感の問題なんですね。「自分がそんな立場になったら、今度はしっかり対処くれるのか?」そんな問題に対する答えを求めている。
どうやってこの事件を忘れるようか・・・そんな発想を持っている大人とは視点が違っている。

このようなことは、今回のような親による虐待事件ばかりではありません。
それこそ子供の自殺の問題でもまったく同じ。
大人たちは、「どうしてこんなことに?!」と嘆き、「インターネットによる影響じゃないか?!」と勝手に犯人認定して、自分たちだけで納得してしまう。
しかし、そんな自殺事件の周囲にいる子供たちは、自分たちの身近にいた子供の自殺の要因が心情的に分かっているものなんですね。ただ、分かっているがゆえに、つまり周囲に対する不信感を共有するがゆえに、周囲に対して語らないことになる。

あるいは、虐待と言っても、性的な虐待のケースもある。
後で、そのような事件が発覚すると、その手の関係者とやり取りのあった子供は、猛烈なインパクトを受けることになる。そのインパクトは、たぶん、死ぬまで続きますよ。
何かあると、その関係者の顔が浮かんだりするんですね。自分と遊んでいた、その陰で、その子が苦悩していた・・・その苦悩と向き合えなかったことに苦悩することになる。
自殺でも性的虐待事件でも、遊んでもらった親戚のお兄さんなり近所のお姉さんが、そんなことになったら、その人の苗字は忘れるくらいに時間が経っても、顔の表情は覚えていたりしますよ。

見殺しとなると、有名な事例として、1999年に発覚した栃木リンチ殺人事件があります。
栃木県警が、まさに見殺しにしたわけですが、その対応の是非が裁判になり、一審では「栃木県警は悪くはない。」とされました。法律的に悪くないと認められても、だからと言って、見殺しにした栃木県警を信頼した人はいないでしょう。
そんなことは、本来は誰でも分かること。だって、悪くはないと主張すること自体が、そのままでいい、また同じ対応をするということでしょ?
そんなところにいる子供としては戦々恐々ですよ。自分を騙しながら生きるしかなくなってしまうでしょ?そのストレスはいずれかは爆発してしまいますよ。だからこそ、事件になってしまう。

そのような事件の際には助けることができなくても、その無力感を踏まえて、今後は子供の困りごとが簡単に言える体制を取っていこう、そして迅速に対処するようなシステムを作っていこう・・・そんな発想を大人の側が持ち、子供に示しているのなら、子供もまだ安心できるもの。
しかし、「まっ、決められたとおりに、コレをやっておけばいいじゃん?」「オレたちは、色々と事情があるんだし・・・」と言うようなマニュアル志向だったり、事件を忘れることを優先している対応だったら、子供も信頼感などは持ちようがないでしょ?一時的な強烈なストレスは和らげることができても、不信感は残ったままだし、そんな不信感が積み重なっていくことになる。

事件の周囲の大人は「この学校は前からおかしかった。」「あの家庭はやっぱりヘンだった!」と言いながら、大人同士で納得してしまう。
そして、「学校が悪いんだ!だからワタシたちは悪くないんだ!」と、言い訳をし合う。
しかし、そんな言葉を聞いていた子供は、『前から判っていたのなら、その時点で対処しなよ!』と思うのは当然のこと。
そして、そんな当然の判断が受け入れない状況の中で抑圧的になってしまう。自分の意向や考えが、周囲にまったく受け入れてもらえないがゆえに、思考や判断そのものを抑圧するようになる。だからこそ、ますますトラブルが発生する。

周囲に対する不信感を持ったままなんだから、精神的に不安定なまま。
だから、同じような事件があったりすると、かつての衝撃を思い出し、それこそPTSD状態になってしまう。
周囲の有象無象の「大人たち」に問題があっても、せめて自分の直近の大人・・・つまり自分の親がマトモなら何とかなるでしょう。逆に言うと、そんな事件の周囲の大人は自分の子供に対して、その点を示す必要があるわけです。血眼になって対応する姿を見せる必要があるわけです。ダメダメな親が、このような事件を他人事で見ている姿を、その子供はちゃんと見ている。そして、そんな親の姿に不信感を持つことになる。

そんな状況を安住してしまうと、生きるのを諦めるようになってしまう。まさに「生きる意欲」がなくなってしまう。
だって、トラブルを生み出し放置する土壌はそのままなんだから、いつ自分の番が来るかは和からない。だから、対応力のない子供としては、あきらめるしか対処がしようがなくなってしまう。

たびたび言及いたしますウィーンの文豪であるフーゴ・フォン・ホフマンスタールは手紙の中で「生きるためには、忘れなければならない。しかし、忘れないことにその人の尊厳がかかっている。」と書いています。
何回も書いていますが、大人は、いとも簡単に忘れてしまう。
忘れる必要もあるし、忘れる技術もある。

しかし、そんな技術は子供にはありませんよ。それに、いわゆる芸術家もそんな技術はない。まあ、良くも悪くも芸術家というものは、心が子供のままの人間と言える。だからいつまでも忘れずに、昔のトラウマが反映された作品を作り上げることになる。
芸術家だったら、作品という形で結実することもあるわけですから、まだ救いようがある。
しかし、一般の子供となると、そんな周囲に対する不信感を持った状態では、色々とタイヘンですよ。

抑圧的な状況になると、真っ先に封じられてしまうのが、子供の声。
まさに「王様はハダカだ!」という真実の声が、自分を騙しながら生きている大人にしてみれば、一番の危険になってしまう。
その王様が実際にハダカだからこそ、子供に言わせないようにしてしまう。
その問題への対処が欺瞞であることを、大人よりも子供の方が正確に認識している。
だからこそ、真実を語ることができない子供にしてみれば、不信感が増大していくだけ。
今回の事件に関しては、お亡くなりになった海渡君の問題は、誰でも認識できる。
しかし、その周囲の子供たちが抱いている、大人への不信は、多くの人が理解していないものなんですよ。

そんな事件に関係した大人たちは、「ワタシたちは、できることはやった!」「ワタシたちは悪くない!」「ワタシたちは、見殺しにしたんじゃないんだ!」そんな主張を繰り返すもの。
そして、そんな主張が最終的には通ってしまう。
しかし、大人たちが見殺しの罪を背負わない分だけ、残された子供の側が背負うことになる。
せめて見殺しの罪くらいは、周囲の大人は背負わないとね。どんな対応をするかと言う点においては、その人なりの能力の限界もあるでしょうが、その罪を背負う姿くらいは見せることはできるでしょ?

子供を見殺しにする姿を見せているのに、「お金を出すから子供を作れよ!」と言われて、その言葉を受けて子供を作ってしまう人間が、もうその時点で、ダメダメでしょ?
少子化対策もお金の問題ではありませんよ。もっとその前にある信義の問題の方が重要なんですね。信義が不在となっている状況に放り出される子供としてはどうすればいいの?
その周囲の子供にしてみれば、殺された子供の顔や表情をいつまでも覚えているように、子供を見殺しにした大人たちの表情も覚えているもの、いつまでもずっとね。

(終了)
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発信後記

先週予告いたしましたが、1月にあった児童虐待事件に関した文章です。
事件そのものは、典型的なので、購読者の皆さんでしたら、その心理は簡単に理解できるでしょう。

何回も書きますが、ダメダメ家庭の問題を考えるにあたって、「言っていること」「していること」から考えるよりも「言おうとしないこと」「しようとしなこと」から考える必要があるわけ。この手の事件の周囲の子供の心理は、ほとんど語られることはありませんが、実に重要なことですし、そしてその子供たち自身も、自分の思いを語らないもの。

そんな子供の心理を考えるには、「言おうとしないこと」「しようとしないこと」を見通す芸術的な洞察力が必要になってくるわけです。
学術的なり法律的な対処では、限界があるわけ。「言おうとしないこと」には客観は存在しない。しかし、そこまで踏み込んでいかない限り、そんな心理の理解はありえないわけです。
 R.11/1/23