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カテゴリー ダメダメ家庭が好きな単語
配信日 10年2月8日
タイトル 「いのち」という言葉
先日の鳩山首相の所信表明演説では「いのち」という言葉が頻繁に使われました。
そもそも冒頭に「いのちを守りたい。」と宣言している。
しかし、じゃあ、その「いのち」って、何?いったい、どういう意味なの?

私は、こんなメールマガジンを発行していて、日本語という道具に対して、実に慣れているといえます。頻繁に書いていますが、言語というものは、会話の道具であるとともに、思考の道具と言えるでしょう。使われた言語をみれば、その人の中身なんて簡単に想定できたりするもの。もちろん、上手に言葉が使えるから、その人に中身があるというものではありません。いわば、その人の方向性が見えてくるわけです。どんな問題意識を持ち、どんな考え方をしているのか?あるいは、どんな点から逃避しようとしているのか?そんな点が見えてきたりするわけです。

言葉に慣れたこの私ですし、たぶん、鳩山首相よりも習熟していると言えるでしょうが、その「いのち」という言葉の指し示すところが私にはわからない。私はそんな曖昧な言葉は使いませんからね。
言語というのは、ある種の切断を作るものです。別の言い方をすると、区別に対応しているもの。「その状況」と「あの状況」の違いを明確にするために、「この言葉」を使う・・・そんなもの。

これは、私が適当に勝手に言っていることではなく、言語学の本に書いてあったんですよ。
言葉と言うのは、違いに対応したものなんですよ。
たとえば、「青」という、色を表した言葉を考えて見ましょう。

信号機の青と、空の青は、違った色でしょ?「青」という言葉によって、特定の色彩を直接的に指し示しているわけではないわけです。むしろ、その分野なり領域の選択肢の中から、不適切なものを除外した・・・そんな違いや区別に対応したものなんですね。
相対的な区分を示しているのであって、絶対的なものではない。
信号機の青だったら、赤でもなく、黄色でもない・・・そんな区別に対応することになる。
空の青だったら、曇りの灰色でもない・・・そんなニュアンスが出てくる。

空の青色となると、「曇りではない」・・・そんな灰色との区別くらいになるわけですが、たとえばスカイブルーという言葉を考えて見ましょう。
その場合は、水色でもないし、紺色でもない・・・そんな、より細かなニュアンスになります。スカイブルーと言うちょっと凝った言葉を持ち出した以上、その近辺の、つまり除外された言葉も、それに相応して、より凝った細かな違いを意識していることが想定されてきます。スカイブルーという言葉は、赤や黄色との違いを意味した言葉ではなく、水色や紺色や藍色との違いを意図した言葉と言えるでしょう。

青色という言葉だと、スカイブルーや水色も含まれる可能性もあるわけですが、スカイブルーという言葉を持ち出した以上は、水色は含まれない。
前にも書きましたが、その言葉で指し示す対象を直接的に示しているのではなく、その近傍の状態を除外している、その区別を示している・・・言葉というのは、そんな性格を持っています。

さて、言語学について、門外漢の私が一般論的に書きましたが、似た言葉があるのに、どうしてこっちの言葉を持ち出したのか?そんな点から、その言葉を使った人の心理や意図が見えてくるものなんですね。

それこそ、このメールマガジンでは、以前にトルーマン・カポーティの「冷血(In Cold Blood)」という小説を取り上げましたが、そのタイトルの「冷血」という言葉は、「冷酷」とか「残酷」とか「残虐」や「残忍」などの言葉との「対比」を意図しているわけです。
その言葉によって、その作品で描かれた事件の犯人ペリー・スミスの「単純な意味での『残虐』ではない」「単純な意味での『冷酷』ではない」というキャラクターを強調することになる。「冷血」という言葉を「くさび」として使っているわけです。「どの言葉や状態との対比を意図して、その言葉を使うのか?」その点まで理解できないと、言葉なり表現というものを理解したことにはならない。

さて、最初に書きました鳩山首相の「いのち」という言葉ですが、似た言葉を色々と考えて見ましょう。

まず誰でも思い浮かぶのは、「いのち」という平仮名を漢字に直した「命」という言葉です。
「いのち」と「命」では、意味的に大きな違いがないとは言え、ニュアンス的にはちょっと違う。
その「命」という言葉に「生」という字を加えた「生命」という言葉も、「いのち」という言葉の近傍にある言葉といえるでしょ?
その「生命」という言葉から、今度は「命」という字を取り除いた「生」という言葉もある。「生」という言葉と、「いのち」という言葉も、領域的には近いところにあるでしょ?
そして、その「生」という言葉に、ちょっと加えて「生活」という言葉も出て来る。
あるいは、より口語的にして「生きること」「生きていること」そんな表記もあるでしょ?
「いのち」という言葉と、「生きていること」という言葉は、意味的には大きな違いがないし、少なくとも論理的に矛盾したものではない。

このようなことは、何も政治的な考察ではなく、純然たる日本語の考察です。
「いのち」「命」「生命」「生」「生活」「生きること」・・・そのように、同じ領域に属し、比較的意味が近い言葉の中から、鳩山首相はどんな心理で「いのち」という言葉を選択したのか?逆に言うと、「いのち」以外の言葉では、どんな点が、彼にとって、不適切だったのか?

上記の言葉のうちで、一番「重い」言葉は、「生」という言葉です。
この「生」という言葉は、一般社会ではあまり使われない。まあ、口に出しての音声的なやり取りだと、別の言葉と間違われてしまって、メンドウなことになる・・・そんなプラグマティックな問題もありますが、この「生」という言葉の持つ「重さ」が、気楽なやり取りには向かない・・・その点は確かでしょう。
この「生」という言葉は、それこそ哲学における実存主義とかの、そんな精神的な領域で使われる言葉です。キルケゴールの哲学を説明する時に出てきたりするでしょ?
それこそ「生の喜び」となると、精神的な喜びであり、もっと深いところになると、いわば「生きる『苦悩』を含めての喜び」・・・そんな意味になってくる。
だから、別の言葉を付け加えて「生の充実」となると、精神的な活動を重視した形の充実になります。

「生」という言葉が、精神的な観点を向いているのに対し、「生活」という言葉が、より日常性を向いているのは誰でも分かること。実はこの私は、以前に「生」と「生活」という言葉の違いで困ったことがあるんですよ。以前に、このメールマガジンにおいて、ドイツの詩人のライオネル・マリア・リルケの「若き詩人への手紙」という作品を紹介いたしましたが、その際には新潮文庫での翻訳を基本としました。その翻訳文の中に「生活」という言葉があって、その「生活」という言葉に、読んでいた私は引っかかったんですね。文章の内容的な流れからすると、そこは「生活」という言葉ではなく「生」という言葉になるのが、意味的にはつながりやすいし、文章の重みの流れもいい。

とは言っても、もともとのドイツ語なんて容易に手に入らないし、どのみち、私はドイツ語なんて分からない。と言うことで、別の方の翻訳の文章を参考に調べたのですが、その部分を「生活」ではなく「生」と訳しておられる方もいらっしゃいました。まあ、私と同じようなことを考えたんでしょうね。ただ、リルケがあえて日常性を強調した可能性はあります。ドイツ語に詳しい方がいらっしゃったら教えてくださいな。まあ、今回のメールマガジンの文章では、「生」という言葉が精神性を、「生活」という言葉が日常性を志向していることだけご理解いただければ結構です。

「生」という言葉と「生活」という言葉の違いは、それこそ「〜の充実」という言葉を後ろに付けてみれば分かりやすい。「生の充実」がより精神的な観点を向いているのに対し、「生活の充実」となると、金銭的な面とか、あるいは電化製品とかを使ってコンビニエントな日々を送るイメージになってくるでしょ?

あるいは、「生きていること」「生きること」そんな言葉となると、また違ったニュアンスになる。「生きていること」「生きること」となると、精神性や日常性ではなく、感覚的な実感性を帯びてくる。それこそ「生きている喜び」とかの、実感が伴った用法になるでしょ?「生きている喜び」となると、それこそ、おいしいものを食べるとか、レジャーをするとかの、そんな楽しみを想起させるでしょ?

「生」なり「生活」あるいは「生きること」「生きていること」の間でも、その言葉の方向性は違っている。
では、鳩山首相が持ち出した「いのち」という言葉に、文字的にはより近くにある、「生命」という言葉となると、どうなってくるでしょうか?

「生」なり「生活」なり、あるいは「生きること」「生きていること」という言葉は、文章などにおいて比較的使いやすい。しかし、「生命」となると、ちょっと使いにくい。
「生命」という言葉には発展性がないんですね。別の言葉を加えていくことが難しい。
それこそ「生命」という言葉に、あえて別の言葉を付け加えると、「生命の誕生」とか「生命の神秘」という形になります。しかし、それは生物的なニュアンスが強くなり、人間としての実感が伴った形ではない。

別の言い方をすると、「生」という文字は、ある種の「持続性」を有している。
それこそ、「生」でも「生活」でも「生きること」でも、時間軸が長い、ロングスパンを向いた言葉でしょ?

それに対し「命」となると、持続ではなく、変化に対応しているといえるでしょう。それこそ「命の誕生」とか「命の終息」とかの、その個体の状態の変化を表す際には「生」という文字ではなく「命」という文字になってくるでしょ?「生の終息」という言葉と「命の終息」という言葉では、まさに終息しようとする、生きていた時間の長さが違っている雰囲気がするでしょ?「生の終息」となると、長い時間を生きてきて、今ここに死を迎えようとしている・・・そんなニュアンスでしょ?「命の終息」となると、むしろ、その周辺に多くの死がありそうでしょ?時間の長さよりも、死を迎える個体の多さが印象付けられることになる。

「生」という文字が、時間軸が長く、そして、より人間的であるのに対し、「命」となると、時間軸が短く、そしてより生物的になってくる・・・これは、皆さんも同意されるでしょ?
別の言い方をすると、「生」でも「生活」でも「生きていること」でも、人間的であり、感情や思考を背景にしている。それに対し「命」となると、思考とか感情とは無縁となる。
感情なり思考を向いている場合には、「命」という言葉ではなく、「生」なり「生きていること」という言葉を使う・・・これは日本語的に自然な流れと言えます。

「命」という言葉を持ち出した以上は、逆に言うと、感情とか思考は軽視されているわけです。
たとえば、前に書いた「生の充実」となると、読書でもして、自分で考えるという雰囲気になる。「生活の充実」となると、電化製品を購入して、快適な日常を送るというニュアンスになる。「生きることの充実」となると、レジャーをするとかの気分が出てくる。
しかし、「命の充実」となると、「じゃあ、どうするの?」という話になるでしょ?
あるいは、「生の根源」とかのおどろおどろしい表現を使うと、実に思索的な雰囲気になるでしょ?しかし、「命の根源」となると、遺伝子がどうこうという生物的なイメージが出てくる。

前にも書きましたが「命」という文字は、変化に対応している。
だからそれを充実させようがない。命の誕生ということで、無から有への変化だったり、命の終焉ということで、有から無への変化はあっても、命そのものは、つかみどころがない。なぜって、「命」には実感性も、精神性も、日常性もないわけですからね。人間としての実感性や精神性や日常性を強調したいのなら、「命」という言葉は使わない。

以前にこのメールマガジンで「命の大切さを教える学校」という文章を配信したことがあります。まあ、事件があったりすると、お約束のように登場してくる言葉でしょ?
逆に言うと、何かあるとスグにそんな言葉が出て来る学校で事件が起こっている・・・そうとも言えますよね?

上記の「命の大切さ」という言葉はいいとして、それは「生きる大切さ」ではないし、「生の大切さ」でもないし、「生活の大切さ」でもない。あくまで「命の大切さ」。
「命」という言葉は、変化に対応していると書いています。つまり「命の大切さ」という言葉は、あくまで「生物的な観点から見て、命の終焉という変化を起こさない」ことが優先されるわけです。「命の大切さ」という言葉は、別の言い方をすると「死なないようにしましょう!」という意味になる。

人間として、考え、悩んだり、喜んだり、感じたりする・・・そのように、人間の活動を肯定的に見ている視点ではない。「まっ、とりあえず、死なないでよ!」そんな二重否定的な発想を表現した言葉が「命の大切さ」と言う言葉。
これは、純然たる日本語の観点から見出されること。
「命」という言葉を使った以上、「生」は、実質上は排除しているわけです。

もし、人間の思考を重視していたら、「命の大切さ」ではなく、せめて「生きる大切さ」と表記しますよ。「命の大切さ」を教えるところだからこそ、「生きる実感」が薄くなってしまう。それは言語的に、当然の流れとなる。何回も書きますが、「命の大切さ」という言葉は「生きる大切さ」という言葉を除外し、区別している面があるんですからね。前にも書きましたが、スカイブルーと言った以上は水色は除外されている、あるいは、水色との違いを意識してスカイブルーと言っている・・・色の表現に喩えるのなら、そんな感じになります。

「命」であるがゆえに、思考し、感情を持つ人間としては実感性がない。
「われ思う、ゆえに、我あり。」とのデカルトの言葉がありますが、何も感じない、何も考えない人間は、「我あり」という存在としての実感性がないのは、皆様にも分かることでしょ?
「命」という言葉は、人間としての実感性が乏しい。むしろ、生物としての客観性を向いた言葉なんですね。

と言うか、たとえ人間以外の生物であっても、「生きる」という言葉を使えば、その「生きている」存在の『感情面』がイメージされることになる。
有名な歌で例示してしましょう。
「ミミズだって、オケラだって、アメンボだって、ミンナ、ミンナ、生きているんだ、友達なんだ・・・♪」皆さんもご存知の有名な歌です。その歌詞において、「生きている」から、ある種の「共感」がイメージされることになる。いわば「分かり合える」という感覚を表現することになる。だから「友達なんだ・・・」と続けることができる。

ところが、上記の「生きている」を「命がある」という言葉に変更してしましょう。
すると、「命があるんだ、友達なんだ・・・♪」となる。
これは論理的には通っていても、ニュアンス的にはしっくりこない。
「命があるから」という言葉からは、「共感」なり「分かり合える」という感覚は発生してこない。だから「友達」という言葉には、フィーリング的につながらない。

上記のように「命があるから」→「友達なんだ」となってしまうと、「命があるもの同士は、友達になるべきなんだ!」という理念的な「べき論」の様相が出てきてしまう。上からの説教に近くなってしまう。

あるいは、その歌の別の部分だと、「生きているから歌うんだ」「生きているから悲しいんだ」なるフレーズがありますが、これを「命があるから歌うんだ」「命があるから悲しいんだ」と言い換えるとしっくりこない。「生きる」という言葉を「命」という言葉に変更すると、感情面が排除されてしまう。
「命」という言葉により、感情などの実体面がなくなり、生物としての抽象的な一般性が前面に出てくることになる。

さて、鳩山首相は、まさに「いのちを守りたい。」とおっしゃっていますが、そこでは「命」と言う漢字ではなく、「いのち」という平仮名になっています。
平仮名表記だと、その分だけ、「軽く」なり、「流れやすい」のは、皆様もお分かりでしょう。

もともと「命」という漢字表記のスタイルであっても、いわば「人間としての重み」とは無縁であることは、今までに書いてきたとおり。
それが平仮名になってしまっているので、もっと軽くなっている。
軽くなって、更に実感性が乏しくなっている。
前にも書きましたが、命というものは、実感しにくい。実感するとなると「生きること」と表記しますよ。
命を実感するとしたら、それこそ出産の時とか、誰かが死ぬ時くらいでしょ?
かと言って、そんなことは、一生のうちで何回もできるわけでもない。
それに、出産とか死別とかは、人間でなくても実感できること。人間固有のものに対応してはいない。
人間ができるのは、「生きること」を充実させることくらいですよ。

命という言葉には、人間としての思考も感情も意識されていない。
そして、その「命」という言葉を平仮名にした「いのち」は、もっと軽くなる。
しかし、固有の思考や感情を背景として持っていないがゆえに、そして、その軽さゆえに、周囲からの反発を受けない。
まさに「空気のように軽く」周囲に対して通りがいいことになる。
かと言って、「そんな言葉で何が伝わるのか?」「何を分かってもらいたいのか?」その点は別問題。通りがよすぎて、相手の心の中に何も引っかからない。というか、人間の思考を軽んじているからこその「いのち」という言葉なんだから、相手に対して分かってほしいことなんて、最初からありませんよ。

鳩山さんの演説の「いのち」という言葉を、たとえば「生きる尊厳」「生きる実感」とかの言葉に置き換えれば、その演説もそれなりの意味を持つでしょう。「いのちを守りたい」という言葉ではなく「生きる実感を分かち合いたい」くらいの言葉なら、内容に共感するかどうかは別として、言いたいことは理解できる。
今回の演説で、平仮名の「いのち」を使っているということは、そんな「生きる尊厳」「生の意味」「生きる楽しさ」などの、人間が実感できるようなものを無意識的にも排除し、そして「流して」いるわけです。「いのち」を守るという言葉を掲げることによって、逆に言うと、「生きることの充実」という人間の尊厳の問題を考えることから逃避しているわけです。
荒っぽい言葉を使うと「いのちを守ってやっているんだから、オレ様に文句を言うな!」そんな無意識的な心情が見えてくるわけです。

以上は、純然たる日本語の問題であって、ダメダメの問題ではありません。
まあ、政治の分野で置き換えると、「政治家の命」となると、まさに選挙で当選しての議席となるでしょうし、「政治家として生きること」となると、国会で政治活動をして、自分の政策を実現させること・・・そんな違いになるでしょ?
民主党の若手議員の方々は、まさに「命」には配慮していても、「生きること」は、実質上無視している。
そんな様相は、まずもって彼ら自身がつまらないのでは?
だって、政治家として生きている実感がないわけですからね。
「命」にこだわるからこそ、「生きること」を喪失してしまうことになる。

しかし、ダメダメ家庭の周辺では、まさにこの「いのち」という言葉のように、「通りのいい」「何となく分かったような」言葉が頻発しているもの。
とおりのいい言葉だからこそ、まさに素通りしてしまうものですが、その点に引っかかると、色々と見えてくるものなんですよ。

とおりのいい言葉を使う人は、反論されないことが優先され、分かってほしいことが軽視されている。現実的には、相手に分かってほしいこと、それ自体が存在しないことが多い。
相手からの反論を何も受けないから、自分が何も分かっていないこと、それ自体が自分でも分かっていない。
それゆえ、抑圧的な人間は、とおりのいい言葉をよく使うもの。それこそ、ダメダメにお約束の「ふつう」という言葉は、とおりがよく、中身のない言葉の代表でしょう。そんな言葉で何が表現できるの?そんな言葉は、ソクラテスが提起した「分かっていないことを、分かろうよ!」という知の原点からは遠く、創造的な知性にはつながらない。

あるいは、芸術表現の分野では、今回の「命」なんて言葉は使わないもの。それこそ、以前の宮崎駿さんのアニメ映画「もののけ姫」のキャッチコピーは、確か「生きろ!」でしたよね?そんな決然として、かつ実感的な表現であるがゆえに、「どんな困難があっても立ち向かう。」というイメージがわいてくる。しかし、これが「命の大切さ」とか「いのちを守りたい!」なんてキャッチコピーだったら、それこそ、あの大きな猪も鼻をブヒブヒ鳴らして大笑いするだけですよ。「な〜に、お軽いことを言っているんだ?このタコっ!」
あるいは、大昔の日本映画で黒澤明監督の「生きる」というタイトルの映画がありました。
その作品は、「命」が尽きかけていることがわかった段階で、初めて「生きる」ことを始めた主人公を描いた作品でした。
逆に言うと、その主人公は、それまで、「命」はあったけど、「生きて」はいなかったわけです。

決然とした覚悟や強い感情よりも、何となくの通りのよさや軽さが、抑圧的な人間には心地いい。
そんな、な〜んとなくの微温的な安らぎがいつまでも続くわけもない・・・それが、人類の歴史を見たら誰でもわかる知見なんですが、そんな「苦い思考」からの逃避であるがゆえに、「いのち」という言葉を使ってしまうわけです。

(終了)
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発信後記

何回も書きますが、私はこのメールマガジンで政治的な問題を議論するつもりはありません。政治家の心理に関心があるだけです。
とおりのいい言葉は、とおりのいい分だけ、それを意識しないものですが、そこに着目すると、実に多くの知見が得られるわけです。それこそ「ふつう」という言葉に着目すると、ダメダメが見えてくるように。

あと、ダメダメ家庭は、会話の不全や思考の抑圧を特徴としており、このメールマガジンにおいて、会話や思考の道具といえる言語そのものを考察することもあります。ただ、言語を言語によって考察することは、本質的にやっかいなこと。その分だけわかりにくい表現になってしまっております。
まあ、映画を映画によって考察するようなジャン・リュック・ゴダールの映画作品が「全然わからな〜い!」なんて一般人から言われてしまうのと似ているかも?

今回の文章は、その分だけ、厳密な論理展開になっておりますが、内容的にはむしろお気楽な様相もあるでしょ?
「ミミズだって、オケラだって、アメンボだって、ミンナ、ミンナ、生きているんだ、友達なんだ・・・♪」の「生きている」を「命がある」と変えると、どんな感じでニュアンスが違ってくるのか?
そんな話は小学生でも楽しめるネタですよ。
というか、このような話は、小学生が「あれ?ちょっとヘンだな?」と思うような違和感を、大人の論理で構築しただけと言えます。
まあ、このメールマガジン全体が、そんな調子なんでしょうね。
R.10/12/31