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カテゴリー ダメダメ家庭が持っていない発想
配信日 10年2月10日
タイトル ペンギン作戦
かなり以前に「夫が子育てに非協力的だ。」なる嘆きの言葉についての文章を配信しております。なんと、まあ、03年の配信です。
「子育てに非協力的」という言葉で、インターネットの検索を掛けたら私の文章がヒットしたんですね。

その言葉でヒットする他の文章は、その嘆きに同調し、対策案を提示するものが多そうですが、私の文章はそんな甘いものじゃあない。
そもそも、夫が子育てに非協力的なのはいいとして、「じゃあ、子育て以外の何に協力的なの?」そんな視点を中心に書いた文章です。家事全般に非協力的だったら、それを「子育てに非協力的」と言い換えるのは、まさに自分を騙す行為の典型でしょう。結局は嘆きやグチで終息してしまって、当人自身では何も対処しないままで終わってしまう。
そして、そんな母親の姿を、子供は呆れて見ているものなんですね。
当人自身なりボンクラな周囲の人は騙せても、身近で見ている子供は騙せませんよ。

本来なら、子育てに非協力的な夫を非難するよりも、「じゃあ、どうすればいいのか?」という現実的な対応が必要になってくるでしょ?
しかし、ダメダメな人は倫理的な視点を持ち出し、正論を主張するばかり。「子育ては夫婦一緒になって行うべきものだ!」そんな「べき論」を高らかに宣言する。
それはいいとして、本気でそう思っているのなら、そもそも家事に協力的なオトコを選んで結婚すればいいだけですし、家事に非協力的な夫との間に子供を作ってはダメでしょ?
そんなに不満なら、早めに離婚すればいいじゃないの?しかし、思考や判断から逃避する抑圧的な女性は一人目の子供で夫が非協力的なのに、2人目の子供を作ってしまって、更に嘆くことになる。
そうして「一人目の子供で非協力的だったので、2人目の子供を作れば、協力してくれるかと思っていたけどダメだった!ああ!なんてヒドイ夫なんだろう?!」「どうして、こんなことに?!ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」「こうなったら、3人目の子供を作るしかないかも?」
そんなバカな嘆きの言葉が現実にあるわけがないじゃないの・・・と思われる方もいらっしゃるでしょうが、ダメダメ家庭の周辺では実際にあったりするもの。まあ、絵に描いたような、ドッチもドッチというヤツ。

倫理というと、まさに「人の道」と言えるわけですが、夫が子育てに協力するのは、確かに人として「いいこと」「正しいこと」あるいは、「あるべきこと」と言えるでしょう。
しかし、ここで人間の問題から離れて、動物全般からみてみましょう。

「夫が子育てに非協力的だ。」との嘆きもあるわけですが、夫が子育てに献身的に関わる動物もありますよね?たとえば南極にいるペンギンなんかがそうでしょ?
夫婦交代で常に卵を暖め、交互にエサを取りに行き、あの大変な環境の中で、夫婦一体となって子育てをしている。つまり、「子育てに協力する」云々は、人の道ではなく、単なるスタイルなんですね。「人として、かくあるべき!」とか「道徳的に見て、どっちが上か?」という問題ではないわけです。

南極にいるペンギンだったら、それこそ夫婦が力を合わせないと、子育てなんて無理でしょう。
動物というものは、本能的に、自分の遺伝子を残すための行動をしているものです。
ペンギンだって、あの夫婦一体の子育ては、単に自分の遺伝子を残すための最善の策というだけ。
たとえば、容姿端麗のイケメンのオスのペンギンがいて、それこそ十羽のメスペンギンとの間で関係をもったとしましょうか?いわば一夫多妻のスタイル。そうなると、その卵はどうなるの?
オスにとっては、自分の遺伝子を受け継いだ10個の卵があるんだから、その分だけ、遺伝子が残りやすい・・・と言うものではないでしょ?メスのペンギンだけでは、卵を温め続けることなんてできませんよ。メスがエサを取りに行く時にはどうするの?まさに卵はネグレクトされて、結局は卵も雪の中で死んじゃうでしょ?
10個の卵があるから、その分だけ遺伝子が残りやすいというものではなく、厳しい環境だったら、少ない卵を慎重に育て上げることが、オスにとっても遺伝子を残す最良の策ですし、軽薄なオスと関係をもったら、メスだって、自分の遺伝子を残せないことになる。

厳しい環境となると、北極にいるシロクマも、やっぱり厳しい環境で子育てをする。
ただシロクマの場合は、父親は子育てにタッチしない。
シロクマは、個体として力がある。その点は、ペンギンとは違っている。
シロクマは他の動物に食べられることはない。しかし、ペンギンは他の動物に食べられることもある。卵だって、他の動物に狙われる。
ペンギンは個体として弱い。
だから、助け合わざるを得ない。

それこそアフリカにいる動物だと、一夫多妻の動物も多い。
それこそチンパンジーとか、ゴリラやライオンもそう。
「一夫多妻なんて人の道に反している!」
とおっしゃる方もいらっしゃるでしょうが、まあ、チンパンジーとかライオンは人じゃありませんからね。
一夫多妻が有効なのは、オス同士の競争によって、「より強い遺伝子」が選択されるという点があります。ゴリラでもそう。そしてメスを得られなかったオスゴリラは、オス同士が集まってボーイズ・ラヴなどの背徳の愛に溺れていってしまうゴリラもいるんだそう。やっぱり人の道に反してしまう。
一夫多妻だと、当然のこととして。夫は子育てに深くコミットしない。しかし、アフリカのような環境だったら、そこまで父親がコミットしなくても、子供が育つことになる。だから、結果的に遺伝子が残ることになる。

アフリカのような暖かい気候だったら、遺伝子戦略として一夫多妻も有効なんですが、南極だったら、厳しい環境の分だけ子育てが大変であり、それに適応した種族なり個体が遺伝子を残すことになる。そもそもペンギンなんて、頭が悪い動物。鳥類だったらカラスの方がずっと頭がいい。
ペンギンだって、夫婦の愛情なり相互理解の結果として共同で育児をしているわけではない。これは愛情とかの問題ではなく、純然たる動物の本能の問題なんですね。

恵まれた環境だったら、より強い遺伝子が残るわけですが、厳しい環境だったら、むしろダメな遺伝子が落伍したり、あるいは種としての多様性が残るスタイルになる。
厳しい環境だったら、あまりに種が同質だったら全滅の危険が出てきてしまう。どうしても多様性を担保する必要がある。だからこそ、一夫多妻によって発生する遺伝子の同質化を避けているわけです。ペンギンはまさにそんな厳しい環境に適応しているわけです。

人間だって、厳しい環境と弱い個体だったら、一夫一妻で、力を合わせて子育てする必要がある。そうでないと遺伝子も残りませんよ。しかし、それこそアラブの王様や、南アフリカの大統領だったら、恵まれた状況で、強い個体と言えるわけだから、ポコポコと子供を作っても、その分だけ遺伝子が広がっていく。
まあ、アラブの王様が、ポコポコと子供を作るのは、その人たちの勝手でしょう。
しかし、今の日本だったら、そうはいかないでしょ?
やっぱりペンギン作戦となってしまうもの。

政府が色々とやっている少子化問題への対策云々もいいわけですが、環境が南極状態で、いつ別のどーぶつに食べられるかもしれないような、いわば弱肉強食に近い不安定な個体の状態なんだから、あまり数を増やすと、結局は全滅の可能性も出てくる。あるいは、無理に増やしても、そのとりあえず成長した子供が、その次の世代を産んで、遺伝子を伝えていけるのか?というと、難しい。
ひばりとペンギンで卵の数が違うのは、結局は環境の要因があるわけです。
逆に言うと、それを無視して議論しても、ラチがあかない。ペンギンに対し、「オマエたちもひばりを見習ってもっと多くの卵を産め!」と命令しても、それに従ってペンギンが多くの卵を産めば、ヘタをすれば全滅するだけ。

厳しい状況だからこそ、「絞る」必要があるわけです。
そして、産みっぱなしではなく、後々のフォローも必要になってくる。
メスペンギンだって、卵を出産した後でもサポートしてくれそうなオスを選択するわけでしょ?
逆に言うと、そんな選択なり判断は、ペンギンでもできること。
しかし、ダメダメ家庭の人間は、ペンギン以下なんですね。

ダメダメ家庭の人間は、絞ることができない。
このことは、頻繁に書いています。抑圧的で、自分自身の希望がないので、物事のプライオリティを付けられず、「あれも、これも」と欲しがり、そして発想が減点法なので、失うものばかりに目が行ってしまって、重要度の低いものを捨てることができない。
まあ、こんなことだから、ゴミ屋敷にもなったりするわけです。

そして、ダメダメ家庭の人間は、最後を締めるという発想もない。
当事者意識を持ってことにあたり、自分のやったことを、最後に総括する発想がない。
「てきとう」に取り掛かり、そして「な〜んとなく」でオシマイになっているもの。
何かの結果なり成果を得るというよりも、不都合な事態が見えなくなればそれでいい・・・そんな二重否定的な発想となっている。
そんな人間が結婚して、子育てをしたらどうなるの?
「てきとう」に結婚して、「な〜んとなく」で妊娠して、そのまま「な〜んとなく」で子育てしているだけ。子供を一人前にするという成果を得るための行動はしない。

まだアフリカのような温暖な環境だったらいいでしょう。子供を放っておいてもスグに死ぬわけでもないし、エサもふんだんにある。
しかし、今の日本のように氷河期?のような環境だったら、子供も死んでしまいますよ。少なくとも「市民として」一人前にはなりませんよ。
そんなことは、それこそ頭が悪いペンギンでも分かること。

しかし、ペンギンは心理がない分だけ、抑圧していない。
当たり前のことを、当たり前にやっているだけですが、逆に言うと、当たり前のことができる。
人間は心理がある分だけ、当たり前のことができないこともある。
それこそ、都合のいい倫理的な正論を持ち出し、倫理の問題にしてしまう。
「子育ては夫婦が一緒になって行うべきものだ!」。あるいは、子育て以外でも「ドメスティック・ヴァイオレンスは根絶すべきだ!」そんな一般論的な正論を掲げ、自分自身ではどうするのかという問題から逃避してしまう。
人間だからこそ、逃避のための理屈が持ち出せるのであって、ペンギンだったら、そんなご高説は持ち出せない。しかし、マトモなメスペンギンだったら、子育てに協力してくれそうなオスを選び、自分に優しいオスを選ぶことができる。
高邁で倫理的な主張を連呼するだけで、自分では何も対処しない人間と、ちゃんとしたオスを選ぶメスペンギンとどっちがマトモなのか?ちょっと考えればわかるでしょ?

ヘンな話になりますが、人間だって、自分の遺伝子を残したいと切望しているのなら、それ相応の行動をすればいいだけですよ。
しかし、抑圧的な人間は、「何をしたいのか?」を明確にすることから逃避する。
判断することも、行動も、いわば投げっ放し状態。

そんな抑圧的な人間は、感覚的には一夫多妻の発想に近い。
いわば、手当たりしだいで、「あれも、これも」のスパム感覚。
それは、最終的な結論をまとめたり、取り掛かった後になってフォローする発想がないことにつながっている。
後になってフォローする意識があるのなら、「あれも、これも」というわけにはいきませんよ。

何も遺伝子を残すと言うことだけでなく、文章などで何かのメッセージを伝える際にも同じことです。まさにスパム感覚で撒き散らすパターンもあるわけですが、「対象を絞って、その対象にフィットさせて、最後まで面倒を見る。」そんなペンギン系の発想もある。
対象を絞った場合には、自分が発したメッセージに対する質問があれば、真摯に答えることになる。それを前提として、絞っているわけですからね。
しかし、撒き散らしパターンだったら、質問は受け付けなくなる。そんな質問に答えているよりも、もっと別のところに撒き散らす・・・そんな発想になる。撒き散らしパターンだったら、逆に言うと、相手から質問されたら逆切れしたり、子育てへの協力を要求されたら逆切れしたりする。だって、後になってフォローすることは、もっと別のところに撒き散らすことへの障害なんですからね。

「どっちが倫理的にいいのか?」という問題ではなく、どっちのキャラクターの相手を選択するのかというプラグマティックな問題があるだけ。

文章についても、以前に「ダメダメ家庭の人間は、一つの案件を、一つの文章にまとめることができない」旨の文章を配信しております。ダメダメ家庭の人の文章は、一つの文章中に多くの案件が入っていて、かつ、一つの案件が多くの文章にまたがっている。
夫婦関係というか、オスメス関係でいうと、多夫多妻のような乱交パターンとなる。

それはその人たちの勝手ですが、そんなパターンだと、その文章における意図が伝わりにくいというだけでなく、後々のフォローは難しいでしょ?実際にその手の文章の人に対して質問すると、絶対に回答が返って来ないものなんですよ。
逆に言うと、後々のフォローまで考えている人は、対象を絞って、最後を締める発想を持っているもの。
上記の文の論理的な対偶を取ると、対象を絞ることができない人は、最後を締めることをしない人でしょ?
そんな人と一緒になっても、子育てに協力するわけがありませんよ。
そして、そんなことは、ちょっとやり取りをすれば、スグに分かることなんですね。

動物一般からみれば、子育てへの協力云々は、単に自分の遺伝子を残すための方法論であって、その問題を倫理の問題として考えるからややこしくなり、解決への道が遠くなってしまう。
後々までのフォローを考えていたら、関わる対象を絞る必要があることは、純然たるプラグマティックな問題でしょ?どんな分野においても、次から次へと関係を持っていたら、フォローなんて現実的にできませんよ。

しかし、抑圧的な人間は、そもそも相手との関わりにおいて、自分が何を求めているのかという点を明確にする前に、関わりを持ってしまう。後々のフォローをするしない以前に、そもそもの目的が不明確なんですね。そもそもの目的自体からして「1対1」の関係ではないわけです。
目的を明確にする前に、アクションを起こしてしまうことも多い。

実に典型的だなぁ・・・と私が思った事例があります。たまに輸血拒否で話題になるキリスト教系の宗教団体があるでしょ?休みで家にいると、その宗教の人が布教のための訪問をしてくることがあります。それはその人たちの「お仕事」なんだから、それはそれでいいでしょう。
しかし、何回も来るのはいいとして、そのたびに、訪問する人が違っているんですね。
そして、同じようなことを言ってくる。
だからコチラも同じことを言う。
そして、それでオシマイ。
それを、その宗派では布教活動を呼ぶ・・・のかな?

布教活動そのものはいいとして、コチラが質問したら、その質問を踏まえて、次の訪問をするのがスジなのでは?毎回同じことを言わなくてはならない団体とは、入信どころかやり取りをしたくもありませんよ。
その団体としては、まさに教科書で決められた言葉を、撒き散らしているだけ。フォローなんて何も考えていない。
その団体の教義そのものよりも、そんな姿勢がいかがわしいでしょ?
布教活動をしたいのなら、地域の担当でも決めて、後々までフォローしていくのがスジなのでは?あるいは、特A級の相手とやり取りするためには、それこそエースを投入するくらいの意気込みが必要なのでは?しかし、後々までのフォローとなると、会話の能力が要求される。それは、その手の人にしてみれば、困難なことなんでしょうね。言葉を撒き散らしているだけだったら、相手の話を聞く必要がない。だから自分で考える必要もない。そんな状況は、抑圧的な人にしてみれば、ラクチンなこと。
しかし、フォローをする発想がそもそもないんだから、成果は得られないでしょ?

しかし、フォローする発想がない集団であるがゆえに、その集団に対して安心感を持つ人もいるんでしょう。「ああ!この団体だったら、自分で考えなくてもいいし、言いっ放しで、難しいやり取りをしなくてもいい・・・ワタシにとってもラクそうだ!」そう思う人もいますよ。まあ、最後までフォローするという発想がないんだから、輸血だって拒否しますよ。
まさに、言いっ放しで、産みっ放しのスタイルという点では、その団体の人の行動は、実に一貫性があると言えるでしょ?

宗教団体だけでなく、一般の訪問販売でもそんなところがあるでしょ?
地域の担当を決めて、後々のフォローまで考えて営業活動するところと、言いっ放しのところがあるでしょ?同じ会社なのに、訪問する人が次々と変わる会社って、信頼できないでしょ?
だって、明確な担当の人がいないということは、顧客からの要望が反映されにくいということが想定できるでしょ?

後々までのフォローを考えているのなら、やっぱり対象を絞ったり、手がけるものを絞る必要が、現実としてあるもの。逆に言うと、「絞らない」場合には、後々のフォローなど考えていないわけです。訪問販売だったら、そもそも顧客管理をする発想がないことが想定できるでしょ?
そんな撒き散らしパターンの人と結婚したら、子育てというフォローをするわけがありませんよ。そして、そんな人と結婚する人も、心理的には同類なんですね。
来る人がいつも違っている・・・そんなところと契約する人も、結局は後々のフォローを考えていないわけです。言われてみれば当然でしょ?

子育てに協力してほしいのなら、フォローの重要性を意識しているような、それ相応の人を選ぶ必要があるでしょ?
何も考えずに、てきとうに結婚して、「ああ!夫が子育てに非協力的だ!」と嘆くなんてギャグですよ。フォローの重要性について何も考えないままで行動を起こしてしまうそんな妻の姿からは、「夫は妻の鏡」という言葉が出てくるばかり。
結婚式では、新郎が、タキシードを着ていますよね?あの服は燕尾服と言われるわけですが、見方を変えると、ペンギンのコスチュームのようなもの。そう考えると、あの場には、いい衣装と言えるかもね?

(終了)
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発信後記

次回配信の文章は、今回の文章の続きのような文章です。
今回は、ペンギンのような一夫一妻?形式にスポットを当てたわけですが、次回は一夫多妻形式にスポットを当てた文章です。
もちろん、オスメス関係は、その個体の自由ですが、一つのことを成果を得るまでやっていくスタイルと、フォローをしない撒き散らしスタイルの区分は、オスメス分野以外にも、共通性が見られたりするもの。

撒き散らしスタイルは、何をやらせても、ばら撒きばかりで、適宜のフォローもしないで、最後の総括もなかったりするもの。
そんな点は、実に共通性があるものなんですよ。
 R.10/12/31