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カテゴリー 判断と選択
配信日 10年2月12日
タイトル 撒き散らし戦略
前回配信の文章でペンギンについて触れました。
今回の文章はその続きのようなものです。

何もペンギンに限らず、自分のやりたいことが明確になっていれば、対象を絞って、そして後々までのフォローを踏まえた上で、取り組むことになる。
状況が厳しければ厳しいほど、一点突破しかない。
しかし、認識や判断から逃避する抑圧的な人間は、現状の厳しさを認識しないし、突破する自分の最重要な一点が存在しない。自分自身から逃避しているがゆえに、求める結果それ自体が自分で分かっていないので、「あれも、これも」と、目の前にぶら下がっているものに手をつけるようになってしまう。

しかし、フォローを考えていないんだから、最終的な成果に到達できないことは言うまでもないこと。
このようなことが、学生時代の試行錯誤や、遊びの領域でするのなら笑って済む話ですが、それこそ結婚のようなマターでもそれをやるのがダメダメ人間。

前回のペンギンの話に戻りますが、ペンギンとしては、厳しい環境の中、弱い個体が、自分の遺伝子を残すための方法論として、夫婦一体の子育てをしているだけ。
動物としては、一夫多妻のスタイルもポピュラーでしょ?
そもそも、生物的に見て、オスが精子を作るエネルギーよりも、メスが卵子を作るエネルギーの方がはるかに高いのだから、メスの側が多くのオスを相手にすることはできないわけです。オスが多くのメスを相手にすることは、精子と卵子の製造エネルギーの違いの観点から生物的に当然のこと。これは動物学の本に書いてあったことで、私個人の見解ではないんですよ。
ただ、子育てと言うファクターを考えれば、精子や卵子を製造するエネルギーよりも、子育てのエネルギーがはるかに必要になるわけで、その場合は、より一夫一妻の様相に近くなる。人間社会だって、「育てやすい」「育てることを重視しない」状況だと、一夫多妻的になって、「育てにくい」「育てることを重視する」状況だと、一夫一妻になってくる・・・そんな傾向があるでしょ?

前にも書きましたが、一夫多妻だと、オスの競争が起き、その分だけ、競争に勝ち残った強いオスが遺伝子を残すことになる。それは種としての遺伝子戦略としては、効果的となる。
逆に言うと、一夫多妻的、あるいは、撒き散らしパターンとなると、後々のフォローがないと言うだけでなく、ある種の競争性や攻撃性が強くなってくる。
オスは競争に勝ち抜かないといけないわけですからね。
ペンギンのオスだったら、子育てに協力的な姿勢をアピールすることで、メスをゲットするという戦略も取れる。つまり、穏健で守備的な発想も有効になってくる。しかし、一夫多妻スタイルのオスだったら、他のオスを蹴落とさないといけない。
撒き散らしスタイルと、ある種の攻撃性は、動物レヴェルの遺伝子戦略的に見て、共通性が高いわけです。
対象を絞らないがゆえに、攻撃性を持つことになる。そんな例は、何も子作りの分野以外にも色々と見られるもの。

その典型的な例が新聞と言えるでしょう。
新聞というのは、まさに撒き散らしの集大成のようなもの。別の言い方をすると不特定多数の集積と言える。これは、一つの案件について集中的に纏め上げた書籍との対比で考えれば誰でも分かることでしょ?

新聞記者は、特定の案件を取材対象とはしない。
新聞の紙面は、一つの案件をまとめたものではなく、多数の案件を雑然と集めたもの。
新聞の読者も、その読解力も含めて不特定多数。
そして、新聞の勧誘員も、不特定多数を訪問しっぱなしで、フォローをしない。だから同じ新聞社なのに、別の勧誘の人が来たりする。
そして、新聞の勧誘員は、今度は別の新聞社を勧誘したりする。

新聞と言うものは、ペンギンのように「1対1」のパターンではなく、「多対多」の乱交パターンの典型なんですね。
別の言い方をすると、後々のフォローは何も考えていないわけです。

記者による取材だって、質問の言葉を撒き散らすことはあっても、回答を取るという発想ではないでしょ?本当に知りたいことがあるのなら、ちゃんとした状況を築いて、相手が回答しやすい形で質問しますよ。あんなつるし上げのような質問のスタイルにはしませんよ。しかし、撒き散らし行為と攻撃的行為との心理的親和性に着目すると、あんな質問スタイルも理解できるようになってくる。記者に限らず新聞の関係者と、その攻撃的な心理との相似性は、顕著に見られるでしょ?

また、新聞に限らず、撒き散らしパターンの人は、質問も撒き散らすことになる。一つの質問にも回答していない時点で、次の質問がやってきたりする。そんな数多くの質問を受けても、「この人・・・いったい何が知りたいの?本当に知りたいの?」と怪訝に思うだけ。そんな質問をした人に対して、その質問の内容について質問しても、何も返事が返ってこない。ばら撒きパターンの人は、質問もばら撒いているだけ。しかし、それではマトモな回答は返ってきませんよ。
そんな発想は、まさに「仕込んでしまえば、それでオシマイ。」という一夫多妻スタイルのオスが持つ発想なんですね。

あるいは、不特定多数の集大成となると、それこそインターネットの掲示板もそうですが、あそこでも、後々のフォローもなく、言い放しの世界でしょ?
だからこそ、攻撃性も顕著となる。だって、合意を取るという発想をしていたら、そもそも撒き散らしなんてできませんよ。合意とは無縁であるがゆえに、攻撃性も生じやすくなる。

いったん取り掛かったら、後々までフォローして、最後を締めるという発想を持っていない人は、逆に言うと、「な〜んとなく」で気軽に取り掛かってしまう。だって、フォローする負荷とか、やり遂げる覚悟がないわけですからね。

だからこそ、男女関係で、次々と相手を変えたり、あるいは、仕事において職を転々としたり、取り組んでいるテーマを次々と変えることになる。
どんな状況においても、最後までフォローすることなく、ばら撒きパターンとなっている。
逆に言うと、「自分が達成したいもの」を自分でもわかっていないままで、取り掛かってしまっている状態と言える。
だから「最後を締める」という発想とは無縁となる。

自分の遺伝子を残すために、一夫多妻の行動をとる場合には、オスにしてみれば、最後まで関わると、その分だけ時間や手間をとられ、別のところに遺伝子を撒き散らすことができなくなる・・・それは、自分の遺伝子の流れの終了につながり、むしろ心理的な恐怖をもたらすことになる。だから、撒き散らしの行動を取る領域では、逆切れがよく見られるものでしょ?怖いんだから逆上しますよ。後々までのフォローを要求されることが、恐怖心につながってしまう。

成果を得るまで最後までフォローするという行為は、「仕込んでしまえばそれでオシマイ」という発想とは相容れない。
どちらがいいか悪いかは、ともかく、それぞれの発想のスタイルがあるわけです。

最後までフォローするとなると、相手からのリアクションに対して対応する必要がある。
それがまさにフォローということ。
しかし、撒き散らし戦略となると、とにもかくにも撒き散らかすことになる。
それは余裕を持って撒き散らかすというよりも、心理的な恐怖感が伴ったスタイルが多い。

だから、ところ構わずアチコチに撒き散らかそうとするもの。
今、そんな様相を示しているのは、日本の民主党政権でしょうか?
何をするにせよ、ターゲットを絞ったりはしていない。
たとえば、官僚組織とモメて、そして、アメリカともモメている。
もし、日本の官僚組織の大改革をやろうと本気で思っているのなら、逆に言うと、今の時点ではアメリカとは無難に対応しておくのが大人と言うもの。そして、日本の官僚組織を改革することができた後で、アメリカとの問題に取り組めばいいだけ。
官僚組織とアメリカの両方とモメたら、絶対に両方コケますよ。そんなことは、二正面作戦の大失敗として名高いナチスドイツの例を見るまでもなく、誰でもわかること。

撒き散らかすということは、思考から解放されるわけですから、当人にしてみれば安心感がある。アチコチと手を付けることで、「じゃあ、自分はどうしたのか?」「何を達成したいのか?」という問題から逃避してしまえる。次々と発生する直近のトラブルに視点を合わせることによって、自分自身から逃避するわけです。

やたらアチコチとトラブルを起こして、結局は何も得られないとなると、あるいは、以前に騒ぎになったライブドアがそのパターンでした。
結局は、対象を絞ることができないわけです。

しかし、絞らなくてもいい領域だと、まさに考えることから解放されるし、フォロー作業に必然的に付随する会話からも解放されるので、当人としてみれば安心できる。その安心感を守りたいがために、と言うか安心感が失われるという恐怖心があるがゆえに、ますます攻撃的になってしまう。
ばら撒けない状況だと、心理的に恐怖心を持ってしまうので、ばら撒きそのものが目的化されてしまうことになる。

それこそボランティアなどでは、善意という名目で、撒き散らしが横行していますよね?
「自分だけが幸せになっていいのか?」「ミンナで幸せになろうよ!」という名目で、善意なり幸福をばら撒こうとする。しかし、その横で、ばら撒きの対象外となってしまった自分の子供が困っていたりするもの。

ダメダメ人間は、相手からの反応に対して、ぎこちない対応しか取れない。
そもそも反応が欠如した養育者によって養育されてきたので、反応の往復運動という会話のスタイルが取れないわけです。
だから相手からの反応がない一方通行なスタイルに安心感を持つことになる。

たとえば、いわゆるインターネット上の世界に限っても、ホームページとかブログの一方通行の発信だとやたら多弁であっても、個別のメールに対しては、対応が実にぎこちない人っているでしょ?
相手からの個別の反応に対してリアクションが取れない人も現実にいるわけです。

同じように、ボランティアだったら、「恵んでやる!」という一方通行なので、言いっ放しと言うか、自分の善意をまき散らすだけでいいでしょ?相手から反応があったら、「あとはアンタたちでやってよ!」と、さっさとトンズラすればいい。

反応がない相手に対して、自分の善意を主張し、撒き散らかす。
それこそ、先日地震があったハイチのような遠方に対して、自分の善意を撒き散らかすことになる。これが近場の人だったら、相手からリアクションが返ってくる可能性がある。抑圧的な人間は、そんなリアクションが心理的に怖い。

心理的な恐怖心とつながっているがゆえに、逆切れが起こりやすい。
そしてフォローすることから逃避しようとする心情があるので、状況判断もなく、どんどんと暴走することになる。いわば自己逃避の方法論としての善意主張となっている。
そして、自分の撒き散らかしへの妨害に対して、敵認定、犯人認定を繰り返す。だからますます攻撃的になってしまう。まさに一夫多妻のオスの姿そのもの。
自分がやろうとしているばら撒き行為を妨害された際の逆切れって、縄払い争いをしているオスの姿を想起させるでしょ?

縄張り争いとばら撒きというのは、遺伝子戦略的に近似性が高い。
よく地方自治体が文化ホールのようなものを建造したりしますが、その手のホールは、目的を絞ったホールではなく、往々にして多目的ホールですよね?つまり、建造の目的自体がばら撒きとなっている。本来なら、周辺の地域と協議して、それぞれのホールのキャラクターを割り振ればいいのでしょうが、結局は、同じようなホールがいくつも立ち並んでいるでしょ?あの手のホールも、オスの縄張り主張と見ると、実に理解しやすい。まさに、どーぶつの本能に満ち満ちた文化ホールと言えるのでは?

縄張り争いとの近似性があるように、ばら撒きというのは、基本的には、他とは相容れない。
しかし、自分のばら撒きが許容される状態だったら、受け入れられることになる。
一夫多妻の共存はできなくても、多夫多妻状態だったら、共存できる。そんな集団は、まさに投げっ放しで、いつの間にかいなくなっている。やっていることと言えば、一緒に誰かを犯人認定し、グチで共鳴しているだけ。
インターネットの掲示板などは、まさに多夫多妻状態とみることができるでしょ?
あるいは、ボランティアや市民団体なんて、いつもそんな感じでしょ?

自己逃避であるがゆえに、必死で善意を語っても、その人の尊厳とは無縁。
尊厳を考慮する人なら、善意なんて、無理には主張しませんよ。成果を得るためには、やっぱり最後までフォローし、最後を締める必要があるでしょ?その人自身の尊厳として、いったん関わった相手に対しては最後まで協力するわけですから、あまり手を広げることはできませんよ。
自分の対する尊厳が基本なので、途中では投げ出さない。だから自分の善意を周囲に対して押し付けないし、無理に主張もしない。
本来は、その手の人間の方が頼りになりますよ。
善意が目立つ人は、つまり善意をばら撒いている人であって、途中で投げ出すことが多いものでしょ?そんな人などは信頼できませんよ。
最後までやり遂げるという覚悟がない人の尊厳なんてありえないでしょ?

しかし、頻繁に書いていますが、ダメダメ人間は信頼と好意の区別がつかない。と言うか、人と人との間の信頼というものが心理的に認識できない。
それこそ、子育てに協力的な夫を選ぶ問題でも、好意志向だったら、「ボクは子供を好きだよ!」というアピールになり、信頼志向だったら、「ボクは物事を最後までやり遂げる。」というアピールになる。片や感情の問題であり、片や覚悟の問題でしょ?
そして、そんな2種類のアピールを受けて、ダメダメなメスペンギンなら、「単なる子供好き」のオスペンギンを選び、マトモなメスペンギンなら「物事を最後までやり遂げる。」オスペンギンを選ぶことになる。好意志向で選んだ側は「彼はあんなに子供好きだったのに、どうして子育てに非協力的なの?ああ!彼は変わってしまった!」と嘆くことになる。
しかし、前から、子供への好意をばら撒いていただけだったんだから、そんな人は何も変わっていませんよ。子供の形をしたぬいぐるみは好きでも、実際にやり取りをする自分の子供を好きになるかは別問題。子供からのリアクションを受け入れることのない、単なるばら撒きのスタイルの子供好きのケースも多いわけです。

善意は尊厳とは違うもの。善意なんてものは信頼にはつながらない。
最後によりどころになるものが、他者への善意なんてことは、逆に言うと、個として自立していない証拠でしょ?
状況が認識できる人、つまりモノが見えている人は、善意などと言うあいまいなものを基準には考えない。善意をアピールする人は、そんな曖昧なものにすがる人。つまり、目の前にあるものが見えていない人と言える。だから、困っている人のサポートにはならない。まさにキリストがいう「盲人が盲人を道案内する。」状態になってしまうだけ。別の言い方をすると、尊厳なきものが、尊厳なきものを、道案内する状態。
モノが見えない人間同士だからこそ、一緒に集まって、誰かを犯人認定するだけ。それにモノが見えないんだから、その犯人認定を疑うこともしない。
そして「悪いのは全部○○のせいだ!」の大合唱。

そして、認定した犯人を攻撃することで、自分の攻撃性を満足させる。
思考からの逃避や会話の不全を守るために撒き散らかしにこだわり、そして、その裏面としての攻撃性・・・動物の遺伝子戦略を考えると、それらはつながっているわけです。

競争相手を攻撃することで、ネタやタネを「仕込む」ことはできても、育て上げることはできないでしょ?
バラマキの人は、どんな分野でも、育て上げたり、合意を取ったりすることをしないもの。アチコチに手を出す人が、実は攻撃的・・・そんな例は、それこそトルストイ描く「アンナ・カレーニナ」もそのパターンです。
何も男性に限らず、女性においても、ばら撒きの人は、思考停止であり、だからこそ攻撃的なもの。インターネットの掲示板においても、そんな女性も結構いたりするでしょ?
しかし、相手を攻撃したところで、フォローする発想を持っていないんだから、結局は相手からの合意を得ることもできないし、何も達成できないんですね。

善意を撒き散らしている人は、グチを撒き散らし、結局は、迷惑を撒き散らす・・・そんなものでしょ?そんな行動も、撒き散らす点からみると、実につながっているんですね。

(終了)
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発信後記

前回の文章も、今回の文章も、当然のことですが、一夫一妻と一夫多妻の倫理的な比較を考えた文章ではありません。
求める成果を自覚した上で、適切な方法を取ればいいだけ。
現実的には、成果を出すためには、フォローも考慮しないといけないので、それを踏まえて取り組む必要があると言うだけです。
遊びのような領域だったら、やっていることそれすなわち成果なんだから、ばら撒きでも有効でしょう。シリアスなマターだったらそうはいかないでしょ?

しかし、抑圧的な人は、「絞る」ことができない。
まさに「あれも、これも」で、ばら撒いてしまう。
それこそ本文中にも書いておりますが、質問すらばら撒いてしまう。
色々な人に、差し障りのない程度の説明を投げつけ、「これでワタシの問題を解決してよ!」と言い出す。そんな質問に対し「もっと詳細な説明がないと、何も回答なんてできませんよ。この点とあの点について追加説明してくださいな。」などと返答すると、それでやり取りがオシマイになってしまう。

そして質問した側は、「ワタシは色々な人に相談している!せっかく色々と相談しているのに、誰も親切に答えてくれない!ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と悲嘆に暮れる。
しかし、そんな人は質問をばら撒いているだけで、フォローなんて何もしないわけ。

質問をしたら、そのフォローもする発想を持っている人は、最初からそんな文章になっているもの。いわば、相談による成功体験をしてきているので、雛形もできている。
質問を投げっ放しの人も、逆に言うと、投げっ放しの雰囲気が最初から充満しているもの。

ちなみに、質問を次から次への投げっ放して、結局はトンズラ・・・そんな人がこの世にいるのか?と思われる方もいらっしゃるでしょうが・・・
こんなメールマガジンを発行している私は、結構なコレクションがありますよ、イヤ、ホント。
 R.11/1/1