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カテゴリー このメールマガジンそれ自体について
配信日 10年2月15日
タイトル ダメダメの構造 (構造論的な観点でみたダメダメ家庭)
以前のことですが、昨今の左翼運動の衰退についての文章を、サイト上で読んだことがあります。
以前は、人間の様々な問題を社会制度に起因すると考えていたので、その原因となる社会制度を改革することで、人々を幸福にして行こう・・・そのように考える人が多かった。そんな社会制度に注目する考え方なり、運動が、いわゆる左翼ですよね?

ところが、最近では、目の前の社会制度に目を向けるというよりも、社会の中の様々な根本の要素に目を向け、それらの要素が組み合わさって行くプロセスを説明し、現状の問題を認識するようにしていく・・・現在ではそんな考え方が主流になっているんだそう。いわば事態への認識がより動的なものになったと言えるでしょう。別の言い方をするとミクロを積み上げるという実体論的になって、マクロから判断する現象論的ではなくなってきたわけです。だから社会制度という現象に焦点を向けた左翼の考え方は、時代に合わなくなってしまった・・・そんな文章でした。もちろん、左翼の総本山といえるマルクスは、動的に物事を見たわけですが、その見方が、マクロ的な視点であり、ミクロの積み上げではなかったわけです。
左翼運動の衰退を語った、その人の言葉の仔細については、ちょっとうろ覚えになってしまい申し訳ありません。

しかし、全体としての社会制度や、個々のトラブルの現象面に目を向けるよりも、それらを生み出すに至った土壌に目を向け、その土壌からのプロセスを説明していくスタイルは、まさにこのメールマガジンのスタイルだと言うことは、購読者さんはスグにお分かりでしょう。

私としては何も意識的にやっているわけではないんですが、この私だって、21世紀の人間ですからね。やっぱり今日的な考え方をしますよ。おまけに、その私の文章自体も、引用が多く、スタイルとしても、諧謔的だったり、シリアスだったり、あるいは文芸的だったり・・・と多くのスタイルが混在しています。これはいわゆるポストモダンなスタイル。
このメールマガジンは、文章スタイルも、その内容もビックリするほど現代的なんですよ。

左翼運動と右翼運動のどっちがいいのか?・・・なんて、古臭い知識人なりボンクラな人が、モンキリの議論をしている内に、現代の知的な人?は、右翼についても左翼についても、もっと根本のところから説明してしまっているわけ。右翼も左翼も、所詮は人間の表層しか見ていない・・・イヤ!見たくないのでは?
そもそも社会制度の改革はいいとして、あるいは、「時代が悪い!」という、ボンクラのお約束の嘆きの言葉はいいとして、その同じ時代で、同じ社会制度で、幸福になっている人もいれば、いつもグチっている人もいるわけでしょ?
そんな現実を見据えれば、時代とか社会制度とかで一くくりにするには無理がありますよ。あるいは、右翼運動の人が語る民族だって同じ。その民族で幸福になっている個人もいれば、グチばかり言っている個人もいる。民族で一くくりするには無理がありますよ。

さて、今回の文章の最初に書いた、根本的な要素に目を向け、そこからのプロセスを説明していく考え方は、哲学業界の用語では「構造主義」というんだそう。
まあ、例のウィキペディアには、その項目がありますから、ご興味がある方は、お調べになってくださいな。
そのウィキペディアによると、その構造主義とやらは「あらゆる現象に対して、その現象に潜在する構造を抽出し、その構造によって現象を理解し、場合によっては制御するための方法論」とか、「数学、社会学、心理学、人類学など他の対象との構造の共通性、非共通性などを論じる」とか出てきます。
そんな発想をする人として、発達心理学のピアジェとか、人類学者のクロード・レヴィ=ストロースとか、ロラン・バルト、ジュリア・クリステヴァ、ジャック・ラカン、ミシェル・フーコー、ルイ・アルチュセールなどがあげられております。あるいは、「フロイトやユングの、無意識という構造を仮定するアプローチも一種の構造主義と言える。」んだそう。

色々な意味で、まあ、興味深い。
まあ、私だって、構造主義という言葉自体は聞いたことがあったのですが、自分なりにメールマガジンの文章をまとめていると、より実感として理解できるようになったわけです。
私の文章がこれらの人たちと同列に上る・・・なんて申し上げているわけではありませんが、家族関係の分野においては、かなり貢献をしているのでは?50年後には、そう言われているかも?50年後は、たぶん私も生きていないでしょうから、皆さんも注意していてね。

構造主義という呼称それ自体に意味があるわけではないでしょう。
基本的な考え方としては、人間の言動は、意識されていない、まさに「潜在的な」論理に縛られる・・・そんな視点の重要性と言えるのでは?あるいは、個々の人間だけではなく、組織なり社会制度においても、意識されていない面から、集団としての人間の言動は縛られてしまう・・・そんな観点と言えるのでは?人は道路の上しか歩けない。その道路が目で見えていれば、意識と無意識が一致するわけですが、その道路が心理上の無意識的なものだったら、その道路の上だけを歩くと言っても、その束縛を意識することはない。

意識となると、言葉で表現されることになります。
言葉を聞き、読むことで、その言葉を発した人の考え方が分かることになる。
しかし、その言葉が指し示す論理が、そのまま、発した人の心理を直接的に表現しているわけではないんですね。別の言い方をすると、言葉として表現された意識が、そのまま、その人の心理であるとは言えない。意識的にウソを言うケースばかりではなく、意識外で逃避してしまって、心理を直接的に表現していない言葉を使ってしまう・・・そんなケースも多い。そもそも逃避というものは、その自覚からも逃避するんだから、当人自身もその自覚なんてありようがない。だから「言われている」言葉から考えているだけでは、理解はできない。

たとえば、ダメダメな親が子供に対してグチるセリフ「あ〜あ、生きていても、何もいいことはない!」そんな言葉を取り上げましょう。

もし、そのグチの言葉を発した人が、本気で「生きていても、何もいいことはない。」と信念を持っているの?そのことを自分の子供に伝えたいの?もし、そのように考えていたら、どうして、まだ生きているの?あるいは、そんな「生きていても、何もいいことはない。」と考えていたら、どうして子供を作ったのか、そんな問題が出てくるでしょ?あるいは、子供に対して語るとして、子供にどうしてほしいの?そんな疑問になるでしょ?

もし、「生きていても何もいいことはない。」と本気で考えていたら、それはそれでその人の考えと言えます。しかし、本気でそう考えているのなら、子供に対してグチるよりも、自殺すればいいだけですし、少なくとも子供は作らないのが、適切と言えるのでは?

しかし、ダメダメな親は、「生きていても、何もいいことはない。」という言葉で、「生きていても、何も『いいこと』はない。」という論理命題なり現状認識なり、その人の信念を主張しているわけではないんですね。
ダメダメな親が、子供に語るそのグチで、無意識的に言いたいことは、「生きていても、何も『いいこと』はないのに、オマエのために生きてやっているだから、親であるこのワタシに対して、『いいこと』を与えるべきなんだ!」そんな心理になっている。

別の言い方をすると、「ワタシに対して『いいこと』を与えるために、オマエを作ったんだ!」そんな心理になっている。
そして、もっと深いところになると、「自分にとっての『いいこと』とは何なのか?自分自身で考え、対処するのが怖い。」という心理がある。だからこそ、「自分の『いいこと』への対処を、子供に丸投げすることになる。」そう見ると、その言葉を発する心理としては筋道が通っているでしょ?

実際に、「生きていても何もいいことはない。」という言葉に対して、「じゃあ、アナタが考える『いいこと』って、具体的にどんなことなの?」と聞いて御覧なさいな。
まあ、回答なんてありませんよ。だって、その点について考えることから逃避するための言葉なんですからね。

言語が記述する「意識的な論理」とは別の「意識外的な論理」で、人の言動は規定されてしまう。だから言語だけを、というか、言語で記述される意識的な論理だけに着目しても、意味はない。
たとえば、「生きていても、何もいいことはない。」と考え、その人が自殺したのなら、それは、その人が、本気でそのように考えていたと言うことが分かることになる。この場合は意識レヴェルでも本音レヴェルでも一致していると言えるでしょう。
しかし、「生きていても何もいいことはない。」と言いながら、生き続けていたり、挙句の果てには子供を作っているのだったら、その言語で規定される論理そのものよりも、もっと深い無意識的なところに目を向ける必要が出てくる。
表現された言語だけに注目するのではなく、行動とか現状などを合わせた上で見ないと、その言葉の奥底にある心理は見えてこない。

そして、ダメダメ家庭を考える際には、心理の抑圧というものを考える必要がある。
もっとも主要な要因は、見ようとしないし、だから意識されないし、だから語ろうとしない。特にダメダメ家庭の領域の問題を考えるにあたっては、語っている時点で、その問題の主要因ではないんですね。その点は、人類学とか、政治などの構造を考えるよりも、はるかに難しい面を持っている。たまたま言っていないのではなく、あるいは、それを表現する表現手段を持たないから表現できないというのではなく、意識外的な抑圧によって、心理的に押さえ込んでしまうわけです。

だからダメダメの問題に対する対処にしても、発せられた言葉だけに注目したりするとトンチンカンなものになってしまう。
たとえば、このメールマガジンで頻繁に触れておりますドメスティック・ヴァイオレンスの問題ですが、「被害者」の女性がよく言うセリフに「親に迷惑をかけたくないから、親に相談できない。」という言葉があります。

確かに言葉としては、論理的には通っている。そして、実際に親に相談しないんだから、言動的には一致している。じゃあ、その女性は、今までどんな時に、親に相談したの?
ドメスティック・ヴァイオレンスに陥った段階で、迷惑がかかるからと、親に相談しないのはいいとして、
結婚前は親に相談したの?
あるいは、子供時代に親に相談したことがあるの?
就職や進学の際に親に相談したの?
その時には、親に迷惑がかかるの?

そう見ると、記述されている言語と、行動はかならずしも一致しないでしょ?
「夫からの暴力の問題について、親に対して相談をすると、親に迷惑がかかる。」
その論理自体は通っている。
しかし、迷惑をかけないマターについても、相談しないんだから、迷惑をかけるから相談しないという表現は、適切な表現とは言えないわけです。

そもそも、どんな時でも親に相談したことがないわけですからね。
だから、「親への相談の仕方がわからないから、親に相談しない。」「親に相談すると、親から文句を言われるから、親に相談しない。」「親とは顔を合わせたくない。」という言い方が、より適切ですよ。
しかし、「親に迷惑をかけたくないから、親に相談できない。」と言っておけば、周囲に通りがいいので、それ以上は突っ込まれないので、自分では考えなくてもいい。
つまり、その「親に迷惑をかけたくないから、親に相談できない。」という言葉の本音は、「親の問題について考えることが怖い。」「親と相談するのが不快。」となるわけです。

同じような不適切な表記として、このメールマガジンでは「夫は子育てに非協力的だ!」なる記述を例示することが多くあります。「夫は子育てに非協力的」はいいとして、「じゃあ、その夫は、食後の皿洗いをやってくれるの?」「風呂掃除をやってくれるの?」「庭の草むしりをやってくれるの?」「じゃあ、子育て以外には、何に協力的なの?」となると、違った面が見えてくるでしょ?
「夫は子育てに非協力的」という言葉においても、その他の家事全般に対しては協力的なら、その言葉も現実を適切に記述していると言えるでしょう。しかし、その他の家事にも非協力的なら、その言葉としては論理自体として通っていても、あるいは、間違いではないにせよ、不適切な記述と言えるでしょ?

そして、ダメダメを考えるに当たっては、その記述の不適切さを見出すことが重要になるわけです。
ダメダメとはもっとも本質的なものから逃避して、抑圧している状態と言えます。
だから、もっとも重要なものについて別の形で表現したり、一番切実なものとは別のものに関わろうとする。

それこそ「社会制度を改革するんだ!」という社会制度の問題にすり変えてしまって、自分自身の問題から逃避したり、あるいは、「我が民族の価値を認めさせる!」とかの民族の問題にしてしまって、自分自身という個人の問題から逃避する。
そういう意味では、右翼も左翼も、自己からの逃避という心理的な構造の観点から見れば同じ穴の狢なんですね。

政治の右左の問題だけでなく、このメールマガジンでたびたびに言及する「憲法9条の狂信者」と「輸血を拒否する宗教団体のメンバー」も、「ドキュメントに書いてあるとおりに行動する。」「何かあっても、自分では対処しない。」・・・つまり自分で認識し、判断し、対処することへの恐怖心という心理的構造の面を見てみると、実はまったく同じなんですね。

時代の問題に逃げ込んだり、宗教に逃げ込んだり、政治に逃避したりして、規範と掲げるものを盲目的に信奉することで、自分自身の問題を自分で考えることから逃避する。
そのような制度的なものへの逃避ばかりではなく、自分以外の個人の問題に関わることで逃避することもある。このメールマガジンで頻繁に言及しております共依存状態に逃げ込むことになる。「あの人は、ワタシがついてサポートしていないとダメになってしまう!」そういう名目を掲げ、自分以外の人物へ執着してしまう。そんな執着による結びつきだと、お互いが逃避し合っているという関係性があるので、結局はトラブルが発生してしまう。そんな関係は、お互いがお互いしか見ていないので「アンタが悪い!」『オマエが悪い!』の応酬になってしまって、最後には、ドメスティック・ヴァイオレンスのレヴェルまで進行してしまう。そうなると、「被害者」の女性を救済しようと、ボランティアが現れる。そうして「あの女性たちは、ワタシたちがついてサポートしないと大変なことになってしまう!」と、必死に関わる。

ドメスティック・ヴァイオレンスの被害者も加害者も、あるいはサポートのボランティアも、その心理的な構造はまったく同じなんですね。自分自身の問題に向き合うのが怖いので、他の問題に逃避しているだけ。そもそもドメスティック・ヴァイオレンスの加害者の男性だって、「このオンナを正しい方向に導かないと!」と思いつめているから、その女性を修正しようと、暴力行為を振るうわけです。しかし、そんな出来の悪い女性に無理に関わるよりも、自分のやりたいことを、一人でサクサクやっていった方がマシですよ。「殴る」という行為は、相手の「できの悪さ」を認識しているからでしょ?だから、もっとも適切な対処となると、「離れる」という行為になるでしょ?どうして、さっさと離れたり、別れたりしないの?
逆に言うと、当人自身のやりたいことが自身でもわからない状態となっている。だから自分とは別のものにとって役に立つ・・・という名目が必要になる。そして、周囲に対しては、その名目を表現した言葉が語られることになる。「ほんと、アイツには困ったものだ!オレが何とかしてやらないと!」そんな言葉は、よく聞くでしょ?

しかし、そんな事態を理解するために重要なのは、名目としての言葉ではなく、そんな名目に逃げ込む心理の方なんですね。そんな心理を理解すれば、ドメスティック・ヴァイオレンスの被害者も加害者も、そして介入するボランティアも、同じ心理構造を持っていることが理解できることになる。

あるいは、最近は何か目立つ事件があると、それこそお約束のように、インターネットの影響云々がでてきますが、そんな新参者を犯人認定する発想は、以前だと、ロックの影響と言っていただけ。トラブルの現れ方には時代によって変化はあっても、トラブルが発生する心理的理由、その構造そのものは、変化はない。
しかし、「時代のせい」と言っておけば、当人たちにしてみれば、考えなくてもいい。
「ああ!イヤな時代だなぁ・・・」とグチっていればそれでいい。
そんな思考停止の心理も、時代によって変わらないでしょ?

多くの人は、「どこに逃避するのか?」「その逃避先でどんなことをするのか?」そんな逃避の到達点については、色々と議論する。しかし、本当に重要なのは、事件の土壌というか構造をなす「どこから逃避しているのか?」という出発点に関する問題なんですよ。

自分自身から逃避しているんだから、トラブルが発生するのは当然のこと。
そうなってしまうと、自分自身からだけでなく、眼前にあるトラブルから逃避するために、派手なものに関わることで、自分を騙してしまう。目立つものを敵認定して、どんどんとのめりこみ、そして敵だけを見つめることにより、逃避することになる。
そんな状態は、以前にも書きましたが、大暴れしているトカゲの尻尾に必死に食らいついているようなもの。
そして、トカゲの尻尾についての議論でさらに熱くなり、逆に言うと、本体のトカゲさんについては、まったく無関心。

逃避先についての議論なんて所詮は表層のもの。
もちろん、表層を見据えれば、つまり表層の中に潜む深層まで目を向ければ、構造の問題も見えてくるわけです。移り変わるものは、永遠なものの比喩ではあるわけですからね。
しかし、そんな洞察力がある人間は、ほとんどいませんよ。

ダメダメ家庭の問題は、まさに色々と派手な表層があるわけですが、本質的には自己逃避の問題なんですね。
しかし、自己逃避であるがゆえに、逃避している自分自身の問題は語られない。
その点に着目しない限り、事態の理解も改善もありません。

家族の分野においては、客観的な対象が存在しない。
一番よく知っている対象と言える、自分の家族を見つめるまなざしは、まさに主観となってしまうわけだから、一番知っているものを客観化することは、本質的にできない。一番よく知っている対象を客観化できないゆえに、家族の問題を構造的に考えることは、困難を伴うことになる。

客観的な家庭って、何?
標準的な家庭って、何?
今現在考えているその家庭の人たちの心理の面はどうなっているの?
そのような質問があっても、答えようがないでしょ?その不安定さを自覚することが考察の出発点となるわけです。

現実的には、異常なまでに鋭敏な人間が、少ないサンプル数から、極限の洞察を行う以外にはない。客観を純化して一般化する学術的な手法よりも、主観を純化して一般化する芸術的な方法論がベター。自分がよく知っている対象に対する視点が、主観でしかないことを、まずは確認しながら、検討しないと、方向違いの議論になってしまうだけ。
家庭という分野においてこそ、それを考えるためには、芸術が必要になるわけです。
自分が一番よく知っている家庭について認識できれば、その延長から別の家庭の問題も見えてくる。自分自身から逃避している人は、客観化というお題目を使って、自分の家庭から目を背ける。

一番よく知っている自分の家庭から目を背けているがゆえに、客観と呼ばれ、ありがたがられてしまい、「あーでもない、こーでもない」の議論のための議論が繰り返される。
そんな危うさを自覚しない限り、家庭問題で認識を進めていくことはできないものなんですよ。

(終了)
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発信後記

先週も書きましたが、このメールマガジンももうすぐ終了の予定ですので、今週はこのメールマガジンそのものをテーマとする文章を集中的に配信いたします。
いわば作者による解説であり、「のし紙?」みたいなものですね。

水曜日に配信する文章も、本日の文章と近い内容ですが、もうちょっとくだけて書いております。金曜日に配信する文章は、ちょっとしたご挨拶です。
本日の文章は、哲学業界?の用語を使っておりますので、その分、小難しくなっておりますが、言っていることはいつもと同じです。
家庭問題は、考えることそれ自体が難しい・・・その点を留意しないかぎり、議論のための議論に堕してしまう。そのことは、意外にもほとんどの人はわかっていない。
そして、実際に議論のための議論をやって、勝手に盛り上がっている。
そんな光景は、いつも見ることができるでしょ?
 R.11/1/1