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カテゴリー このメールマガジンそれ自体について
配信日 10年2月17日
タイトル エピローグ
このメールマガジンも、もうそろそろ終了の予定です。
もうすぐ総発行回数が千回なんだから、いくらなんでもねぇ・・・

と言うことで、今回はエピローグ的な文章にいたします。
と言っても、本来はエピローグというものは、本編が終了した後になって出てくるのが本来の形でしょう。しかし、このメールマガジンはまだ配信中なんだから、本来はエピローグなんて不適。

まあ、そうなんですが、このメールマガジンは配信の順番にはこだわっていませんし、この時点で、ちょっとしたまとめというか、位置づけの説明の文章もほしいと思っているんですよ。
大団円?の前に、今までの流れをちょっと振り返るような趣の文章ですね。

このメールマガジンは、そのタイトルが「ダメダメ家庭の目次録」ということで、「ダメダメ家庭」・・・もっと正確な呼称を使うと「機能不全家庭」(英語でいうとdysfunctional family)の問題を扱っています。
この問題に対して、このメールマガジンほど大規模に、かつ網羅的で論理的かつ実感が伴ったスタイルで考えた文章は、人類の歴史上、いまだかつてなかったのでは?まあ、50年後にはそんな感じで言われているのでは?
そういう意味では、実に歴史的な意義がある・・・と思っているんですよ。

機能不全家庭の問題は、「考える」ことが非常に難しい。
まずはその点について、考えて見ましょう。

そもそも、考えるにあたっては、考える対象を整備しなくてはいけない。
機能不全家庭の問題を考える前に、そしてその対象について考慮する前に、
「じゃあ、ちゃんとした機能を果てしている家庭はどんなものなの?」
そんな問いかけをすると、回答のしようがないでしょ?
「ちゃんとした家庭って・・・えーとぉ・・・それって、ふつうの家庭のこと・・・」
そんな回答だったら、そんな人の家庭は、家庭の機能を果たしていませんよ。

たとえば科学の実験なり観測においては、標準となるサンプルを作り出すことができる。そして多くの人がそのサンプルの状態を適宜確認できるスタイルで観測していくことになる。そんな検討のスタイルによって客観性が担保されることになる。
しかし、標準的な家庭と言うものは、作りにくい。
そもそも、その観察対象の家庭だって、観察されることを前提に作るわけでもない。

多くの人が「標準的な家庭」という言葉を使っても、そのイメージするところは、その個人個人で大きく違ってしまうことになる。そんな様相のどこが「標準」なんだか?
しかし、そのようなことは、家庭を考えるにあたっては、しょうがないこと。
重要なことは、それぞれが持つ家庭のイメージは個々によって大きく違うということを、自覚しておくことしかないわけです。

標準的な家庭という言葉で表現しても、そのイメージが大きく違ってしまうのは不可避なんだから、そんな状況の中で「客観」とはどうなるの?現実的には、存在しないものでしょ?
だから、対象とする家庭に客観性を持たせたいのなら、リアルな家庭を議論するよりも、むしろ、フィクションの家庭を議論した方が客観性を持ちうることになる。
このメールマガジンでは芸術作品において描かれた家庭の姿に頻繁に言及しておりますが、そんな芸術家によって描かれた家庭の様相は、作者としては主観であっても、あるいは、ちょっと特殊な事例であっても、一旦、言語化され文章化されれば、それは客観としての位置を獲得することになる。だって誰でもその文章にアクセスできるわけですからね。現実の家庭だと、アクセスできる家庭の幅が制限されてしまうので、結局は、個々のイメージの違いを認識することすらできず、逆に、客観から遠くなってしまう。

対象とする家庭のイメージを揃えるためには、芸術作品で描かれた家庭なり、あるいは、事件が起こった際に紹介される実際の家庭を参照する以外にはないわけです。周囲に明らかにされることがない「ふつうの家庭」と称される家庭が、実質的には、一番主観的になっている。だから、それを土台として客観的な議論することはできない。
議論に当たっては、その議論の対象となる家庭のイメージをそろえないと、単に議論のための議論になってしまう。そんな例は、特に機能不全家庭の分野では、実にポピュラーでしょ?

人間は、家庭というものを体験している。だから、それなりに知っている。
しかし、自分の家庭以外の家庭は知らない。自分が知っている家庭って、自分の実家と、結婚した後で自分が作った家庭の2つくらいでしょ?
まあ、2つしか知らないのが、逆に言うと、標準的な人間と言うもの。
多くの家庭を知っている・・・その空気感のレヴェルまで・・・そっちの方がマイノリティですよ。
たとえば、たまに訪問する友人の家庭を知っていると言っても、単にお客としていくだけの家庭なんて、その雰囲気までは分からない。
しかし、自分が育った家庭は、当然のこととして空気感のレヴェルまで知っている。しかし、それ以外の家庭のスタイルがあることを、実感として分からない。人は自分の家庭は知っていても、一般化されたスタイルでの家庭というものを知らないわけですし、つまり、家庭という概念?を知らないということを、まず持って知ってはいない。

標準的な家庭の姿と言っても、人間それぞれにイメージするものが違う。機能不全家庭ではない、それ相応の機能を果たしている家庭でも、そのイメージは大きく違っていることになる。
そんな状況なので、機能不全家庭における、その不全の機能を認識することそれ自体が難しくなってしまう。

以前にとりあげた「アンナ・カレーニナ」において、作者のトルストイは、「幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はそれぞれである。」と冒頭に書いています。
実際にそうなの?
その家庭の様相が記述され表現された場合には、幸福な家庭を語る表現は一様で、不幸な家庭について語る表現はそれぞれと言えるでしょう。しかし、表現ではなく実体としてみると、幸福な家庭ほど、多様なんですね。
その構成員たる家族の多様性がそのまま反映しているのが、幸福な家庭というものでしょ?
その構成員の多様性が会話によって、結びついている・・・それが幸福な家庭というもの。
それゆえに、幸福な家庭は多様であり、外見としては、共通化された一様性があると言えるのでは?逆に、不幸な家庭ほど、自分たち自身がやりたいことについて考えることから逃避している。そしてうまく行かない犯人について議論している。その議論の結果として認定された犯人については、多様でも、そんな犯人認定に逃げ込む心理は、一様なんですね。

人は、ないものを認識することが難しい。
たとえ、ないことに気がついても、それがたまたまなかったのか、それとも常にないのかは、一回なかっただけではわからない。

それこそハンバーガーショップでハンバーガーを注文してハンバーガーを食べたら、一緒に食べた友人が「あれ?ここのハンバーガーにはピクルスが入っていないぞ!」と言い出した・・・そんな情景を考えて見ましょう。

ハンバーガーにハンバーグが入っていなかったら、スグに気がつくでしょう。しかし、ピクルスだったら微妙でしょ?なくても気がつかないケースもありますよね?あるいは、わざわざ抜く人もいる。
もしピクルスがないことに気がついても、それがそのお店のスタイルなのか?単に忘れただけなのか、わからない。
これが和風ハンバーガーと言うことで、ピクルスの代わりに「たくあん」が挟まっていたら、スグに気がつくでしょ?「おいおい!なんだい!たくあんが入っているぞ!」って、誰でもスグに気がつきますよ。「あるもの」は、スグに気がつきますが、「ないもの」は気がつきにくいわけです。

まだ、ハンバーガーだったら、標準的なハンバーガーというものがイメージしやすいので、そこからの逸脱もイメージしやすい。日本中なり世界中でもハンバーガーのイメージなんて、それほど変わりませんよ。
しかし、標準というものは存在しない家庭という分野だと、不在を認識することが難しい。

それこそ、ダメダメ家庭においては、写真を持っていないケースがあるという文章を、以前に配信しております。
しかし、そんなダメダメ家庭の内部の人間にしてみれば、「自分たちは写真を持っていない。」と認識することは難しい。「自分たちは写真をもっていない。」と認識することは、写真を持っている家庭とのやり取りによって、初めて認識される事項でしょ?しかし、ダメダメ家庭というものは、他の家庭との交流がほとんどなく、だからこそ写真を持っている家庭とも付き合わない。だから、写真を持っていないという不在を認識できなくなってしまう。ダメダメであるがゆえに、不在を認識することができず、盲目的なまでに「ワタシたちはふつうだ!」と思ってしまう。

たとえば、友人としてその家庭に遊びに行って、アルバムが出てきたら、当然のこととして写真はあることが確認できます。しかし、その訪問でアルバムが出てこなかったとしても、それすなわちその家庭に写真がないことの証明にはならないでしょ?「こんな状況だと、多くの家庭ではアルバムを出してくるものだけど、この家庭では出てこないなぁ・・・」と気がつくこと自体が、あまりないし、たとえそんな怪訝な思いをしても、たまたま出してこないのか、あっても、家族以外には見せないのか、もともとアルバムを持っていないのか?その点は、1回の訪問ではわからない。

「あの人の家では、どんなアルバムを見せてもらえるのかな?楽しみだよ!」「あの家庭だったら、アルバムを持っていないんじゃないかな?行く時には、その点をチェックしてみよう!」そんな問題意識を持っていれば、アルバムの問題なり、写真の問題に気がつき、そこから多くのことを見出すことができるわけですが、そんな問題意識をもって、訪問したりはしないでしょ?
多くの対象を比較検討することができず、標準というものについて共通認識を持ちにくい家庭の分野では、不在というものは、認識することが特に難しいわけです。

それにダメダメ家庭・・・つまり機能不全家庭における不全の機能の代表として「表現力」があります。
ダメダメ家庭の人間は、自分たちの家庭について、表現したり、説明したりする能力がない。
まずもってその機能が不全なんですね。

表現されていないものを、観察したり考えようがないでしょ?
つまりダメダメ家庭というものは、考える対象として実に「あやふや」なものなんですね。科学的なり客観的な検討方法だけでは、うまく行かない。
家庭そのものが客観化しにくいと言うだけでなく、その中においても特にダメダメ家庭は客観化できにくい。

その困難さを自覚した上で、ダメダメ家庭の問題を考えればまだしも、そんな困難さを何も考えないまま、議論の遡上に乗せてしまう。
前にも書きましたが人は曲がりなりにも自分の家庭を知っている。だから気軽に家庭の問題について自分の見解を言うことができる。これが現代物理学や現代哲学の分野だったら、意見なんてお気軽には言えませんよ。だから、何かを言いたいとか、人とやり取りをしたいと思っている人は、家庭問題の分野に惹かれてしまい、結果として百花繚乱の議論になってしまう。このような事態は、いわゆるインターネットのようなお気軽なメディアだけでなく、書籍などの旧来からのメディアや、公的な機関においても、そんな感じになってしまっている。
だって、「自分たちの家庭はこうだった・・・」という主張は、言いやすい。それに反論されない。
しかし、だからと言って、そんなお気軽に主張される見解が、今現在問題としている家庭の問題を解決するための有効な視点になっているのかというと別問題なんですね。
それに、そんな感じで、何も考えないまま気軽に言える状況だと、自分自身の家庭の問題には直接向き合うのが心理的に怖い、しかし、自分の家庭については何となく不満があった・・・そんな人間が、自己逃避の手段として、そんな状況に参加して、あらぬ方向に議論をもっていってしまう。そんな人間に引っ張られて、議論が空転するばかり。

そんな人は家庭に対する自分の不満を語ることが目的なので、事態を改善するつもりはない。事態が改善されてしまったら、自分の不満を語れないじゃないの?
だからこそ、不満を語り続け、議論のための議論に堕している状況が心地いい。
そんな「議論」ばかりなので、ますますダメダメ家庭の問題に対する現実的な視点が消失してしまう。

機能不全家庭に関する既存の文章は、そんな類の文章が多かったでしょ?
そして、そんな文章が多数派を占めてしまうので、それ以外の発想が排除されてしまう。
結局は「当たり前のことを、当たり前に書いた文章」だけになってしまう。
そんな文章を読むと、皆様も「何だかなぁ・・・」と思ったりしたでしょ?

科学的なり客観的な視点を重視しすぎると、ダメダメ家庭を考えるもっとも重要な視点が消失してしまう。何回も書きますが、自己逃避で抑圧的なダメダメ人間のことを考えるに当たって「何を言っているのか?」「何をしようとしているのか?」から考えるよりも、「何を言おうとしないのか?」「もっといい方法があるのに、どうしてそれをしないのか?」そんな視点が重要になってくるわけです。

しかし、「何を言おうとしないのか?」という点は、科学的にも客観的にも証明できない。
だから芸術的な視点なり洞察力が必要になるわけです。
一つの対象をしっかり見つめることから、普遍を見出していく・・・そんな手法の方が有効なんですね。一つの家庭の中の心理なり論理から、その空気感まで理解できれば、逆に言うと、その他の家庭の空気感も認識できるようになるわけです。

逆に言うと、一つ家庭から空気感まで見出すことができるレヴェルの芸術的な洞察力がない人が、家庭問題を取り上げても、議論のための議論に堕してしまい「あーでもない、こーでもない。」で終わってしまうだけ。

そして、目先の変化を取り上げて「時代が悪い!」とか「経済状況が悪い!」とモンキリの犯人認定で、考えるのをやめてしまう。そんな思考停止状態が、まさにダメダメ家庭を「作る」人間にとっては好都合。
だからこそ、そんなモンキリの結論をもてはやす。

しかし、それは家庭の空気感まで見据えたものではなく、通りのいい言葉を並べただけのものなので、事態は何も解決せず、そのツケは家庭内で最も弱い立場である子供に集約してしまう。

何回も書いていますが、私としてはミシェル・フーコーが言う「見えているものを、見えるようにする。」スタイルで、このメールマガジンの文章を書いています。
多くの人は、家庭の問題を、自分の心の目では見ていない。
だからこそ、まずは「心の目で見ていない」こと、それ自体を認識することが必要になってくるわけです。

このメールマガジンの1000回近くに渡る壮大なオデッセイも、自分の家庭へのまなざしを持ち続けた旅路であり、皆様が、自分の家庭を、真摯なまなざしで見つめ到達することにつながればそれでいいと考えています。自分の原点を忘れず、その原点に回帰しようとするものこそ、智の人と言えるのでは?

(終了)
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発信後記

最終回の前にエピローグとは掟破りそのものですが、今回の文章は、ちょっとしたまとめの意味もあります。
ちなみに、次回配信の金曜日の文章は、購読者さんからお便りをいただいた際の、私からのお返事のメールのテンプレートが入った文章です。前半部分がそのテンプレートです。
ですから、この私にお便りを出されたことがある方は、前半部分は読み飛ばしていただいて結構です。

あと、購読者さんから投稿がありましたので、今のところの予定では、今週の土曜日か、それとも追加的に日曜日に、その投稿の文章を題材とした文章にする予定となっております。
では、もうしばらく、よろしくお願いいたします。
プロローグ的な文章としては「08年8月22日配信 一般的な序章」という文章があります。
R.11/1/1