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カテゴリー 当事者意識の欠如
配信日 10年2月24日 (10年6月21日 記述を追加)
タイトル 代価と見返りの違い (ゼロサム感覚)
ダメダメ家庭の問題を考えるにあたって「似て非なるもの」に注目すると、理解しやすい・・・このことについては、このメールマガジンで頻繁に触れております。
ダメダメ家庭の分野に限らず、「なんだか釈然としないけど、自分ではどうやって説明していいのか、ちょっとわからない・・・」なんて思うこともあったりするでしょ?

そんな時には、同じような意味で使われている別の言葉を色々と取り上げ、吟味し、言葉をちゃんと分別して使えば、それまで釈然としなかったことも、よりクリアーになってきたりするものです。
チョット前に配信した文章においては、その例として「いのち」と「生きること」の違いを考えました。
「いのち」はあっても、「生きてはいない」状態・・・そんな視点を取り入れるとダメダメ家庭の問題もよく見えたりするもの。

と言うことで、今回もその「似て非なるもの」を取り上げましょう。
「代価」と「見返り」の違いです。
よく「ギヴ・アンド・テイク」とかで、「何かを得るためには、何かを支払う必要がある。」・・・そんなことが言われたりするでしょ?
そんな物言いに接すると、言葉の上ではそうなんだし、現実としてもそんな面はあるんだろうけど、それって、何か計算高い雰囲気があるんじゃないかなぁ・・・もっと心を豊かに持ちなさいよ!そんな感想を持つ人もいらっしゃるようです。

さて、このメールマガジンでは以前に「見返り義務感」という言葉を取り上げました。
ダメダメ家庭の親は、子育てに被害者意識がある。「親である自分は、この子供の養育という面倒なことを背負わされた被害者なんだ!」そのように確信しているもの。
だからこそ、子供に対し、その被害の認定を求め、そして、その被害に対する補償を求めることになる。
そんな家庭環境で育っているので、ダメダメ家庭の子供は、何か親切にされると、それに対する見返りを考えてしまって、気分的に落ち込んでしまうことになる。
人からの親切を、素直に受け入れることができないわけです。だって、自分の育った家庭では、そんな無償の愛なんてものはなかったわけですからね。
人から親切をされると、心理的に「身構えて」しまう。

このような見返りは、被害に対する補償という位置づけです。

それに対して代価というか対価は、何かを獲得するために、自分が率先して、何かを犠牲にすることでしょ?
一番やり遂げたいことを達成するために、2番目や3番目以下のことを犠牲にすることを厭わない・・・それが代価であり対価というもの。

それこそサッカーに打ち込んでいる少年だったら、テレビゲームをほとんどしないという犠牲を払うことも厭わない・・・そんな覚悟が必要でしょ?
逆に言うと、そんな覚悟も起きないようなら、サッカーをそれほど好きではないということも分かります。一番好きなもののために、2番目以降のものを犠牲にするのは、当人にとっては、何も被害ではなく、当人の主体的な選択であり判断ですよ。

別の言い方をすると、対価と言うものは、選択の前の時点で顕在化され、判っているもの。だから、その対価を踏まえた上で判断することになる。
それに対し、「見返り」というのは、やってしまった後になって顕在化したりするもの。
時系列的な観点から見て、大きな違いがあるといえます。
だからこそ、何も考えないで日々を生きているダメダメ人間にしてみれば、選択や判断とは無縁な形で存在する「見返り」ばかりを意識することになってくる。

見返りというものは、被害者意識に基づいていて、発生した被害を埋め合わせるために、要求するもの。
それに対し、代価とか対価は、自分の目標という当事者意識があって、その目標の達成のための方法論という位置づけなんですね。つまり、見返りは過去の被害を対象としていて、代価は将来の成果を対象としている・・・その違いを理解する必要があるわけです。

前に取り上げた「ギヴ・アンド・テイク」という言葉だと、「ギヴ」と「テイク」の間の位置づけが不明確ですが、より明確にすると、
「Give for Taking」が、代価となり、
「Take for Giving」が、見返りとなる。
そのように認識できるでしょう。

代価とか対価は、当事者意識に根ざしているわけだから、ダメダメ家庭とは縁が遠かったりする。そもそもダメダメ家庭は達成したいものがなく、「ただ、ふつうであれば、それでいい・・・」なんて公言しているくらいなんだから、その目標達成のための犠牲なんて、そんな発想自体がありませんよ。だって、「ふつうの家庭」なんてどうやって達成するの?とりあえず、何を達成するの?何に取り組み、どうやって行動するの?実際には、ただ周囲に合わせているだけでしょ?そんな発想なんだから、何も得るものがなく、何かを失ったりすると、それすなわち被害と認識し、その被害に対する「見返り」を求めることになる。

「代価」とか「対価」と言うものは、「一番好きなことのために、2番目以降を犠牲にすることである。」と書きましたが、その言葉はともかく、当事者意識がないダメダメ家庭では、その「一番好きなこと」「一番やりたいこと」が存在しない。
逆に言うと、自分の目標達成のために代価とか対価を支払う用意がある人は、当事者意識があるということ。何かを達成しようとしたら、色々と失うものもありますよ。別の言い方をすると、献身が要求されるもの。

それこそ、このメールマガジンの文章だって、文章をまとめるためには、膨大な時間を消費している。私としては少なくとも、時間という代価を支払っている。まあ、体力だって落ちるし、視力も体重も落ちる。
私としては命を削って、この文章を書いている。ペリカンのように自分の血で書いているようなもの。
しかし、それは被害とは思っていません。私が自分で判断してやっていること。

そんな文章作成に取り組む段階での判断だけではなく、たとえば、文章を作成する最中でも、「どっちにしようか?」と迷うことも多い。たとえば、多くの人に受け入れられやすい穏当な記述にした方がいいのか?それとも、一部の人にドンピシャに該当する「とんがった」記述にしようか?
そんな選択は、いつも発生していますよ。そして、どっちの選択が間違いとか正しいとかの問題ではないでしょ?

文章表現だって、テンポや流れを重視するのか?記述の正確性を重視するのか?また、引用表現を使う際には、どの程度の浮かばせ方にするのか?
そんな選択は、いつも発生していて、どの選択も、それぞれ意味がある。
しかし、そのすべてを採用するわけにはいかない。正確性を厳密に追求すれば、文書の流れは当然のこととして悪くなる。あるいは、やっぱり「オマエの文章は長すぎるぞ!」とのお叱りの声もある。

何も文章作成の時の選択ばかりではありません。それこそ、画家が肖像画を書く状況を考えて見ましょう。対象の人物を美化して描いて、注文者を喜ばせ、また注文を取るのか?それとも、対象の人の内面の真実を描くのか?いわば、商品性を志向するのか?作品性というか芸術性を志向するのか?そんな選択はよく出てくるでしょ?
どっちの選択が間違いというわけではありませんが、両方とも得ようとしても無理がありますよ。両方とも得ていると称している画家は、その画家が対象の人物の真実まで見えていないというだけ。あるいは、注文者や鑑賞者が誤解しているだけ。

得るものがあれば、失うものもある。
どれが正解で、どれが間違いなんてものではない。
文章などの表現をする側としては、メリット,デメリットをわかった上で、適宜選択してくしかない。逆に言うと、そんな選択の場の連続は、いい訓練になるわけです。

文章全体で、伝えたいものは何か?
あるいは、どんな人に分かってほしいのか?

選択の場で考えるのは、文章を作り始めた原点での思いです。
そんな原点に立ち戻り、それぞれの選択をしていくことになる。

代価とか対価には正解はない。ただ、当人の判断があるだけ。
逆に言うと、「正しい」とか「間違っている」とかの言葉は、達成のための選択の場にはフィットしない言葉といえます。選択の場において、「正しい」という言葉が出てきた段階で、目標達成のための選択ではなく、被害を埋め合わせるための「見返り」に近い感覚を持っていることが想定されてくるんですね。

「ワタシはこんなにもアナタに支払ったんだから、その分の見返りはしなさいよ!」
そんなパターンの「ギヴ・アンド・テイク」だったら、「正しい」分の見返りが要求されるわけでしょ?
そうなると、どうしても「正しい」なる言葉が多くなりますよ。

当事者意識がなく、被害者意識だけがあるダメダメ人間は、何かと言うと自分がこうむった被害を強調し、見返りを要求することになる。
しかし、要求した見返りを得たとしても、何かを達成するわけではないことは、誰でも分かること。

見返りというものは、正しい分だけの見返りという発想があり、その正しさは、よくいう言い方をすると「プラス・マイナス・ゼロ」状態と言えるでしょ?
失った分だけ、見返りがあれば、まさに「プラス・マイナス・ゼロ」ですよ。
代価とか対価となると、そこまでは厳密なものではないでしょ?
代価とか対価であれば、「プラス・マイナス・ゼロ」になるような相当分の見返りがあることが重要なのではなく、求める成果を得ることがまずは重要になるもの。

逆に言うと、被害者意識が強く、見返りという発想になじんでいるダメダメ家庭では、「プラス・マイナス・ゼロ」の「ゼロサム感覚」を持っているものなんですね。
誰かが益があれば、誰かが損をする・・・そんな感覚。
そんな関係ももちろん現実としてあるわけですが、よく言う「WinWinの関係」も現実としてあるでしょ?双方が得になるようなやり取りの場合も実際にありますよ。

たとえば、会話によって、相互理解が達成できた。そんなやり取りはWinWinのやり取りでしょ?まあ、時間は失ったかもしれませんが、お互いの知見が広がったんだから、お互いにメリットですよ。
そんな相互理解を志向した会話だとWinWinになるわけですが、たとえばディベートだと、WinWinではなく、片一方が勝者であり、片一方が敗者となるでしょ?
この場合はWinLoseというか、ゼロサムの関係ですよね?

あるいは、それこそ顔を合わせての罵詈雑言の応酬のシーンを考えて見ましょう。
そんな罵詈雑言の応酬に勝者はあるの?あるいは、どちらかにメリットがあるの?
そんな応酬を周囲の人は嘲笑して見ているだけなんですから、双方失うばかりでしょ?
だから、そんな状況だと、LoseLoseの関係となる。

じゃあ、そんなLoseLoseのやり取りをどうして始めてしまったの?お互いが意識して、狙って、LoseLoseのやり取りを始める・・・そんなことはないでしょ?
最初は「アイツに勝ちたい!」と思ってやり取りを始め、そして段々と熱くなってしまって、当人同士も何がなんだか分からなくなって、罵詈雑言の応酬となるわけでしょ?
逆に言うと、どうして、そんなにまで「アイツに勝ちたい!」と思ったの?
それは、「ゼロサム感覚」があるからでしょ?
つまり、「アイツをやっつければ、その分だけ、自分が上に行く・・・」そんな発想があるからでしょ?

しかし、罵詈雑言の応酬をしている当人たち自身が、自分たちをどう思っているかは別として、結果としては、仲良く、双方が「オバカ認定」を周囲から食らっただけ。
これが相互理解を目的とした会話として始めたのなら、相互理解が達成できなくても、特に熱くなるものではないでしょ?「ああ!あまりおもしろい人じゃなかったな・・・」「有意義なやり取りではなさそうだな・・・」でオシマイですよ。そんなやり取りは、多少は時間を失ったとは言え、そのLoseとしては微々たるものでしょ?

つまり、そんなやり取りは、WinWinではなかったかもしれないけど、LoseLoseでもなく、まあZeroZeroのようなものですよ。失うものがあったわけではないので、次につながることになる。それが罵倒の応酬だったら、そんなシーンを見ていた周囲の人は、そんな人とやり取りをしようとは思わないでしょ?
マトモな人から相手にされず、結果的に、しょうーもない人とやり取りを始め、またもや、「アイツに勝ちたい!」と熱くなり、またもや罵詈雑言の応酬となり、やっぱり周囲から嘲笑されたりする。

ゼロサム感覚が強いがゆえに、結果としてはLoseLoseのやり取りにしかならなってしまう。
そして、そのゼロサム感覚は、見返り感覚と同じ。
成果への反応の弱さと、被害への過剰な反応を基本としているといえます。

結果としてのゼロサムなら、よくある話ですが、やり取りの前提としてのゼロサムだと、結果的にはLoseLoseになるだけ。
罵詈雑言の応酬のケースだけでなく、それこそドメスティック・ヴァイオレンスでも、そのパターンでしょ?そんなバトルは、夫婦そろって、何も得るものがないバトルでしょ?
相手を殴り倒しても、拳が痛いだけですよ。

しかし、被害者意識が強いダメダメ人間は、どうしても自分の被害分に目が行ってしまい、その分の補償を求めようとする。
そして被害を埋め合わせるという名目があるので、ある意味において「正義感を持って」主張してくることになる。
だからこそ、相手を攻撃して、相手をへこませ、その「へこんだ分」を自分で取ろうとすることになる。
しかし、そんなゼロサム的な発想だからこそ、現実として、トラブルになるわけでしょ?

ドメスティック・ヴァイオレンスに陥っている夫婦も、お互いの目標を確認して、WinWinのやり取りをするようにすればいいだけ。
必要に応じ、協力できるところは協力し合えばいいだけだし、何も無理に協力する必要もない。
しかし、自分の目標自体が存在しないんだから、WinWinのやり取りができず、相手をへこました分だけ自分が得をするというゼロサム感覚のままで突っ走る。

そんなゼロサム感覚は、それこそドメスティック・ヴァイオレンスの現場に介入してくるボランティアの連中もまったく同じ。「加害者」の暴力オトコをつるし上げて大喜びするだけ。確かに加害者は凹んだかもしれませんが、だからと言って、暴力を振るわれた側が、得をしたわけではないでしょ?
チンピラ同士の抗争事件で、用心棒が出てきて、一時的に形勢が逆転しただけ。
本質的な解決は、そんなチンピラ稼業から足を洗うことですよ。

見返りというのは、被害者意識につながっていて、何かを達成することにはつながらない。
しかし、被害者意識が強いダメダメ家庭においては、それしかないわけです。
そんな環境で育ってしまっているので、子供もゼロサム的な見返り感覚を持ってしまう。

本来は、子育てだって、親としての成長と子供の成長のWinWinになるのが理想でしょ?
現実は理想通りとは行かないとは言え、まずもって、そんなWinWinの関係を目指す必要はあるでしょ?
しかし、被害者意識が強く、ゼロサム感覚が基本のダメダメな親は、子供に対してLoseさせることによって、自分がWinとなるようにしてしまう。
子育てを被害と考え、親としてやらなければならないことを、全部子供に押し付ける。
しかし、そんな日々だったら、子供だって当然のこととして、トラブルを起こしてしまうことは誰でも分かること
トラブルが起こると、親は子供の心配をするよりも、そのトラブルによって親である自分が被るlose分というか被害を真っ先に考える。失うお金とか、発生する人とのやり取りとかに目線が向かう。
だから、子供も気を使って、子供だけで解決しようと、結局は、またトラブルになる。

まさにゼロサムを基本としているがゆえに、結果的にLoseLoseとなってしまう。
LoseLoseって、まさに言葉通りのダメダメ。
しかし、実際にそんなものなんですね。

その人が代価とか対価という感覚を持っているのか?それとも、見返りの感覚を持っているのか?それは当事者意識と被害者意識の違いに対応しているもの。
そんな点からダメダメはスグにわかったりするものなんですよ。

それこそ昨今から話題になっている外国人の参政権問題ですが・・・
「お金を払っているんだから、選挙権を寄越せ!」という発想だったら、見返り感覚でしょ?「自分たちが、政治に参加したいから、代価を払う。」あるいは、「自治体に、こんなことをしてほしい!」という発想ではないでしょ?自分の持ち出しを被害と認識する感覚が基本としてあるといえます。その分だけ被害者意識が強いわけです。
当人たちに具体的な要望があれば、近くの日本人に頼めばいいだけ。逆に言うと、周囲の日本人と、そんな良好な関係ではないことになる。だからこそ、ますます被害者意識が燃え上がってしまう。

だからこそ、主張や行動がエキセントリックになってしまうし、相手をヘコませることによって、自分がその分だけ上に行くという、ゼロサム感覚のまま。
しかし、ゼロサム感覚であるがゆえに、成果としてWinWinにはならない・・・それが現実なんですね。

(終了)
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発信後記

ダメダメ家庭の人間は抑圧的であり、自分で選択することから逃避する。
「代価」とか「対価」は、自分の選択の結果でしょ?
それに対し、「見返り」とは、他者の選択の結果に起因している・・・と、当人としては思っているから発生する。
まさに「あの○○のせいで・・・こんなに『持ち出し』が発生してしまった!その分は○○に埋め合わせをさせよう!」と考えるわけ。

そして、ダメダメ家庭の人間は、親になって、自分の子供に対してそれをやるわけ。育児によって発生した『持ち出し』に対する補償を自分の子供に要求するわけ。
本来は、そんな人は親になってはダメなんですが、選択から逃避するがゆえに、できてしまうのが子供というもの。

児童虐待が疑われる現場で、実際にどうなっているのかと言うことは、そんな「見返り」や「被害」へのセンシビリティを見るだけで、スグにわかるもの。
逆に言うと、「この人は、こんなシチュエーションで見返りを要求してくる。ちょっとヘンだ!」というような怪訝な思いを抱かないようなら、そのメンタル的には同類なんですね。
R.11/1/12