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カテゴリー ダメダメ家庭はいつも否定形
配信日 10年3月5日
タイトル ねたみの心 (ルサンチマン)
ダメダメ家庭の人間は、発想が常に否定形。
「○○に反対する!」「ワタシは、あの●●が大嫌い!」
そんな感じで、何かを否定してばかり。

そんな否定形の物言いをする人に対して、「アンタがその○○を嫌いなのはいいとして・・・で、結局は、アンタはどうしたいの?」なんて聞こうものなら、「どうして、そんなことを言うのよ?!」と、その質問まで否定してしまう。

否定と言っても、色々な用語があるもの。
それこそ「嫌い」「憎い」「悪い」「反対する」「軽蔑する」「あきれる」「恨む」「呪う」等々・・・

今回は、「ねたむ」と言う心情を取り上げましょう。
否定形の中で生きているダメダメ人間には、この「ねたみ」の心がよく出てくるもの。
「ねたみ」というと、豊かなものに対して持つ否定的な感情ですよね?
自分よりも貧しいものに対しては、「嫌う」と言う心情を持っても、ねたみの心を持つことはないでしょ?

逆に言うと、ねたみの心がある時点で、ある種の「上下の順番」が付いている状態と言えるでしょ?
しかし、ダメダメ家庭の人間は、「勝ち負けにこだわる」。そもそも序列意識が強いので、「自分はアイツよりも上だ!」と思いたい。アイツよりも上だと思いたいけど・・・実質的には、アイツの方が豊かだ・・・そうなってしまうと、まさに「ねたみの心」が起こることになる。

まあ、「あの○○は豊かでうらやましいなぁ・・・」それくらいに自然に思えるのならまだしも、うらやましいと思ってしまったら、それは自分が負けたとなってしまう。
だから、その「うらやましい」という自分の感情を見たくはない。
だからこそ、ねたみの心になってしまう。
「うらやましい」となると対象を肯定的に見ていますよね?しかし、「ねたましい」となると、対象を否定しているわけでしょ?

別の言い方をすると、ある種の「犯人認定」が起こっている状態と言えます。
「自分たちがうまく行かないのは、あの○○のせいだ!」
そんな心情ともつながっている。

自分自身から逃避しているんだから、「うらやましがっている」自分自身を認識することもない。だからこそ、その対象のあら探しをするようになってしまう。
「アイツにはこんな欠点がある!」「あの○○の△△のせいで、自分たちはうまく行かない。」そのように論理付けて自分を納得させる。

以前にエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」を取り上げましたが、まさに対象をねたみ、その欠点を注視することによって、「○○からの自由」の問題にしてしまって、「○○をする自由」の問題から逃避する心理について述べられておりました。
倫理的な視点を持ち出してくることによって、自分のネガティヴな感情を倫理的に正当化するわけです。

以前にも言及いたしましたが、それこそルターの時代の中産階級は「富と力にあかし、生活を楽しむ人間に対して、実際には羨望をもっていたが、この憤りと羨望を、道徳的な公憤の言葉や、これらの上層の人間たちは永遠の苦悩を受けて罰せられるだろうという信念によって合理化していた。」とあります。あるいはヒトラーが台頭する時代のドイツの中産階級について、「かれらの人生観は狭く、未知の人間を猜疑嫌悪し、知人に対しては詮索好きで嫉妬深く、しかもその嫉妬を道徳的公憤として合理化していた。」と書いています。
まあ、21世紀の日本だったら、インターネットの掲示板にたむろしているような人間は、典型的にそのパターンでしょ?

ねたみの心と倫理的な視点は結びつきやすい。過剰に登場する倫理的な言説は、自分のネガティヴな心理を正当化するために使われたりするもの。倫理の言葉が、自分の尊厳の欠如に対する言い訳や、他者のあら探しをする理由に堕しているケースが多いわけです。尊厳がないがゆえに、倫理を語るわけです。
それこそ魯迅が「狂人日記」で書くように「年号がなくて、仁義道徳の文字がくねくねと躍っている」歴史が登場することになってしまう。

豊かな存在への、うらやましさを自覚することからの逃避・・・そんな「ねたみ」の心情を向けられるのは、それなりに豊かな存在となる。

たとえば、国としてのアメリカが、その代表でしょう。
ダメダメ家庭出身者は、「アメリカ嫌い」の人が、実に多いもの。
陰謀史観を持ち出して、アメリカの倫理的な問題を主張したりする。
「アメリカは世界を占領しようとしている。」
「ヤツラの軍事政策は、抑圧的だ!」
「とにかくヤツラは気に入らない!」

まあ、国の好みなんて人それぞれ。
別に、アメリカを嫌いでも問題ないわけです。

しかし、ダメダメ家庭出身者とやり取りをすると、実にアメリカ嫌いの人が多い。何も日本の中だけではありませんよね?「アメリカ反対!」とデモ行進している国って、ダメダメな国であることが多いでしょ?
イスラム諸国とか、韓国とか、ヨーロッパだとフランスとか。
まあ、ブラジルなんかはそんなデモはなさそう・・・

そもそもアメリカと言っても、民間人が実際に会うのは国家としてのアメリカではなく、人間としてのアメリカ人であるわけですから、実際問題は、特定のアメリカ人を好きか?嫌いかでしょ?しかし、アメリカ人と言っても2億人以上いるわけですからね。
一くくりして、アメリカ人といっても無理があるわけです。
まあ、アメリカ人だって当たりの人もいれば、外れの人もいるでしょ?沢山人間がいるんだから・・・

しかし、ダメダメ家庭の人間は往々にして、人間をカテゴリー分類で判断しがちであることは何回も書いています。実際の人間とフランクな会話ができないので、どうしてもカテゴリー分類に頼ってしまう。物事を具体的に考えることから逃避してしまっている。

その豊かさについては、個別で具体的に考えた上で、適宜取り入れれば済む話ですよ。しかし、貧乏な国や人は、豊かさの問題から目を背け「経済的な価値など、意味はない!」と自分に言い聞かせたがるんですね。しかし、本音では豊かさをうらやましがっている。こうなると強迫的に「アメリカはダメ!アメリカはダメ!」と自分に言い聞かせる必要がでてくる。過激なアメリカ嫌いにならざるを得ない。

こうなると、往々にして貧乏な側は自分を正当化するために「我々は立派な文化がある。」と言い出したりするものです。これは今日のアメリカ嫌いには限りません。19世紀のドイツはフランスに比べて後進国でした。だからこそゲーテやベートーヴェンは「経済ではフランスに負けているけど、我々には立派な文化がある。」と強く言い出したわけです。
それはそれでいいわけ。
しかし、ゲーテやベートーヴェンも、貧乏人しか楽しめない文化ではありませんよね?何も貧乏の美学に拘る必要もないわけです。しかし、「豊かさに憧れつつ、それを認めたくない」貧乏人は、豊かさを過剰に意識して否定してしまう。経済的な貧しさを、名目としての文化でごまかすなんてことは、東アジア諸国のオハコ。
かと言って、ただの対抗心としての文化なんて、所詮は二流ですよ。そもそも文化なり芸術は、自分自身の内面へのまなざしが根源になっているのが基本でしょ?経済的な問題などは、些細なこと。
本当の文化は、経済的な豊かさを「超越」したものであって、経済的な豊かさに「対抗」したものではないでしょ?

「贅沢はいいなぁ・・・」と素直に認めれば問題ないわけですが、ダメダメな人は妙に意識し、対抗してしまう。
しかし、豊かさはいいなぁ・・・と思えば、その豊かな生活を目指して努力することもできるでしょ?あるいは、経済的な問題を「度外視」した精神的な分野に集中してもいい。しかし、「贅沢は敵だ!」と思っていたら、経済的な向上を図る努力すらしませんよね?結局は、心が貧しいと、経済的にも貧しいままになってしまうんですね。まさに「贅沢は敵だ!」と言うくらいだから、犯人認定の心理に落ち着いてしまう。
いったん犯人認定したら、「悪いのは全部○○のせいだ!」と言えばいいだけだから、当人は何もしない。と言うか、当人が改善のためのアクションをしてしまったら、犯人認定の設定が崩れてしまう。

それこそ、以前にトルーマン・カポーティの「冷血」と言う作品をとりあげましたが、その中に「残骸となった人間は侮蔑と憎悪を蓄積することには成功するかもしれませんが、成功を蓄積することはありません。なぜなら、侮蔑と憎悪に生きる自分自身にとっては、勝ち取った成功こそが敵であり、自分が達成したものを心から楽しむわけにはいかないからです。」なる言葉があります。自分が成功してしまったら、今までの犯人認定が崩壊してしまう。これではうまく行くわけもありませんし、何を持ってうまく行くとするのか、意味不明となってしまう。

アメリカ嫌いを例示しましたが、別にアメリカのすべてがすばらしいなんて、カテゴリーで逆に肯定してもしょうがない。あのアメリカ人が好きだけど、アイツはどうも・・・とか、ハンバーガーは好きだけどフライドチキンはイヤとか、アメリカの音楽バンドで好きなバンドはこれこれ・・・と個別的に議論すればいいわけです。しかし、自己逃避で抑圧的なダメダメ人間は、そんな個別の具体論ができない。実際に「ねたみの心」を持っている人は、やたらカテゴリー分類が好きでしょ?

前にも書きましたが、ダメダメ家庭出身者は概念的なアメリカ嫌いが多い。
逆に言うと、「私はアメリカがどうも嫌い。」という人は、ダメダメ家庭出身者の可能性が大なんですね。
田中真紀子元外相もそんな感じだったでしょ?
アメリカが持っている豊かさや寛容の精神はダメダメ家庭には異質のものです。だから受け入れたくないんでしょうね。

このようなねたみの心情は、何もアメリカを対象とする以外にもあったりしますよね?以前に日本の京都に君臨した共産党政権は、まさに東京に対するねたみの心に充満していたようです。あるいは、東アジアの日本嫌いも似たようなものでしょう。逆に台湾なんて「豊かなのはいいなぁ・・」と素直に認めることができたので、経済的にも豊かになれたわけです。
あるいは、東南アジアではタイを嫌う人がいるようです。東南アジアではタイは周辺の国に比べてかなり豊かな国なんだそう。まあ、そういうことで、「なんだい!あんなヤツ!」「アイツのせいで・・・」と思われちゃうんでしょうね。

あるいは、アフガニスタンのイスラム過激派は、以前に「アフガニスタンの復興に協力する国は、全部我々の敵だ!」と発言していました。
つまり自分たちが豊かになっては困ると思っているわけです。自分たちや周囲の人たちは「ねたみの心」を持ち続けていきたいと思っている。
そんな状態では尊厳はないとは言え、「アイツのせいで・・・うまく行かない・・・」そう思っていればいいので、精神的にはラクなんですね。

おいしいものを食べて、きれいな服を着たい・・・そう思うことが悪いことなの?そのプライオリティの問題はあるでしょう。経済的な豊かさやある種の享楽のようなものを、それほど重要視しないパターンも現実に存在する。
しかし、そのような豊かさとは無縁の境遇にいると、妙に反発しちゃうわけです。しかし、そんな心の貧しい状態では、最後までそのような豊かな境遇にはなれないし、精神的な分野でも成果を得ることができなくなってしまう。そのような人たちが成果を得られない理由として「悪いのは全部○○のせいだ!」として、アメリカや日本が指弾されてしまう。

ねたみの心は、自己逃避や犯人認定の心理を表しているもの。
そんな「弱い」人たちの元には、「一緒になってアイツをやっつけましょう!」と同類が寄ってくるもの。そうしてねたみの心がますます増殖してしまう。
そうしてねたみの対象をつるし上げ。
市民運動なんて、その典型でしょ?
逆に言うと、つるし上げをすることで、自己逃避ができてしまう。だって「悪いのは全部○○のせいだ!」と自分自身に納得させているわけですからね。

そんな人は、ねたみの対象がトラブルに遭遇すると「ザマーミロ!」と喝采を叫んだりするもの。それこそ2001年のアメリカの同時多発テロに対して喝采を叫んだ人もいたでしょ?
そんな喝采は、華々しい外見であっても、所詮はグチの一種。
「自分たちはかわいそうな被害者なんだ!」
そんな確信から抜け出せない状態。

自分よりも、相手を見ている段階で、自分の希望が達成されることはないのは、当然のことでしょ?しかし、そんな当然のことを認識することから逃避するためにも、過剰に倫理的な視点を持ち出し、自分のねたみの心を正当化するわけです。

ダメダメ家庭の周囲においては、倫理というのは、現実的には、自己逃避の方法論になってしまっている。
だから倫理的な言葉を語る人は「汝自身を知れ!」という一番の倫理から遠い・・・現実ではそうなっているでしょ?
倫理の言葉を語る人が、倫理的な存在とは言えないわけです。

(終了)
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発信後記

ダメダメ家庭の人間は、達成したいものがないがゆえに、倫理的な物言いが多くなることは、頻繁に言及しております。
倫理によって、何かを達成するものではないでしょ?
倫理というものは、本来は、行動における注意点のようなもの。
倫理と言う注意点が目的化されている状態は、個々の希望が抑圧されている状態を示していたりするわけ。

倫理を掲げても、何も達成しないし、
「ふつう」を掲げても、何も達成しない。
逆に言うと、達成したいものがないがゆえに、倫理的であり、「ふつう」を掲げるわけ。
 R.11/1/2