トップページに戻る 配信日分類の総目次に戻る
カテゴリー分類の総目次に戻る タイトル50音分類の総目次へ
カテゴリー 判断と選択
配信日 10年3月8日
タイトル 第3の選択&ベストの選択
ダメダメ家庭の人間は、発想なり行動が否定形。
何かを否定してばかりいる。
当事者意識がないから、「これをやるんだ!」なんて、自分の目標を掲げることはしない。むしろ、周囲のあら探しをして、「アイツはダメだ!」「コイツもダメ!」と次々と否定していくだけ。

そんな否定形のスタイルばかりしている人は、一見は「いい子ちゃん」に見えたりするものです。
だって、減点となるものに注目し、必死で除去しようとしているわけですからね。
しかし、その「いい子ちゃん」というのは、「欠点がない」「減点がない」という二重否定であって、「このようないい点がある」という肯定的なものではない。

逆に言うと、「いい子ちゃん」に見える人は、それだけ発想が減点法であり、その視点の基本として否定形であることは推測することができる。
そんな人が掲げたり、取ったりするのが、「第3の選択」。

それこそ、このメールマガジンで「いい子ちゃん」の典型として例示したりしております現在(10年)の首相である鳩山さんですが、経済の理念として、市場原理主義でも、社会主義でもない、「第3の選択」なる用語を使ったりしております。
何もこの手の「第3の選択」は、民主党に特有のものではありません。それこそ自民党は、前の国会での首班指名選挙で、「選挙の戦犯である麻生さんの名前を書くのはイヤだ!」と言い出し、かと言って、「白票は格好が悪い!」とかゴネて、結局は、「可もなし、不可もなし。」の人物の名前を書きましたよね?まさに、色々と議論した挙句の、第3の選択の典型と言えるでしょう。

皆様も、色々と迷う時もあるでしょ?
それこそ、「今夜の夕食は何にしようか?」とかの、ポピュラーなものから、
「8時からのテレビは何を見ようか?」なんて比較的お気楽なもの、
あるいは、「進学はどこの学校にしようか?」とか、「就職はどこの会社にしようか?」とか、もっと重要な選択だと、「結婚相手はどんなキャラクターの人にしようか?」なんて迷った人もいるかも?

一人で迷ったり、家族でモメたりすることもあるでしょう。
家族でモメるくらいなら、ともかく、一人であまり迷っても、いい結論はでないもの。
そもそも迷いだしたら、段々と減点面に目が行ってしまう。
「これをすると、あんな不都合が起こる。」
「あれをすると、こんな不都合が起こる。」
「ああ!どうすればいいのか?」

しかし、そのような状態で迷っても、ダメなんですね。
だって、不都合な面ばかりが考慮されているでしょ?
「自分としては、これをやりとげたい!」という強い意志なり決意とは無縁ですよ。
あるいは、「解決したい状況は何なのか?」そんな原点に対する視点が喪失している状態となっている。

それこそ、鳩山さんが言う「第3の道」でも、資本主義的な市場原理主義のデメリットと、社会主義のデメリットが考慮されていて、「どっちのデメリットをより重視するのか?」そんな話でしょ?メリットの方に視点が行っているわけではないでしょ?もし、自分が作り上げたい経済システムのヴィジョンが明確になっているのなら、「第3の道」なんて言わずに、「新しい道」とでも言いますよ。
「第3」と言っている以上は、「第1」を否定し、「第2」を否定しているということ。
まさに「あーでもない、こーでもない」という状態。

あるいは、自民党の首班指名の記名でも、「麻生さんだったら、こんな面がイヤ!」「白票だったら、この点が不都合!」そんなデメリットの議論ばかりだったでしょ?
そんな議論ばかりだから、一番デメリットの少ない選択となってしまう。
一番デメリットが少ないと言っても、それが成果につながるかと言うと、全然別問題。
毒にもならないものは、薬にもならないわけ。

自分が達成したい成果が明確だったら、既存のものの問題点を主張するよりも、達成しようとする成果そのものを、自分の言葉で語ればいいだけ。自分のヴィジョンを、自分の言葉で語った方が説得力があることなんて、小学生でもわかりますよ。しかし、自己逃避の人間には、それができない。だって、本当の意味で、自分でやりたいものが自分でもわかっていないわけですからね。
その手の人間は、散々と迷うことはしますが、じっくりと考えることはしないもの。
対象となる選択肢のあら探しはしても、自分自身の心の声を聞くことはない・・・実際に、そんなものでしょ?

夕食の料理にせよ、迷った挙句の第3の選択をした時は、うまく行かないのでは?
何か買い物をする際にも、あまりに迷いすぎて、第3の選択をしてしまうと、後々で「あれ?どうしてこんなものを買っちゃったんだろう?」と自分でも不思議な思いをすることもあったりするのでは?

あるいは、この手の、減点法的な「第3の選択」に陥ってしまう典型的な状況だと、芸術分野において「○○賞」とかの選定において、頻繁に発現したりするようです。
それぞれの候補作について議論している内に、結局は減点部分の評価に陥ってしまう。結局は、もっとも減点が少ない作品が、受賞作となってしまう。
そして、その受賞作は、ちょっと後になって見てみると、「あの作品のどこがいいの?」「あれって、どこにでもある、ありきたりな作品でしょ?」「ホント、毒にも薬にもならない作品だよね。」「そう言えば・・・そんな作品もあったような・・・へぇ、賞を取ったの?けど、もう忘れちゃったよ!」と言われてしまう・・・
そんなことは、頻繁に起こっていること。
そんな選択は、減点面への過剰な反応が起こっていることを示しているわけです。
だって、やっていることは、それぞれの選択肢の「あら探し」なんですからね。

散々に迷った挙句、結果的に「可もなし、不可もなし」に安住してしまう状態は、それだけ肯定とは無縁の怠惰な精神が充満しているということ。「可もなし、不可もなし」という言葉はともかく、実際問題としては、そんな人は、不可をなくそうと必死だけど、実際には可もないものでしょ?

そんな「選択」ばかりだと、リスクをとって、何かをしようとする発想もなくなってしまう。まさに、「周囲に合わせておけばいいや!」の「ふつう」の境地になってしまう。
「ふつう」こそ、「特に変わったことはない」という二重否定であり、まさに「あーでもない、こーでもない。」の第3の選択そのものでしょ?
そしてその選択も、確たる判断ではなく、「な〜んとなく」のボンヤリとした選択。
それだけ、自分の意思が弱くなっているわけ。
そんなことばかりしている集団は、ダメダメが加速してしまう。

第3の選択という発想も、元々としては、哲学者のヘーゲルが言うアウフヘーベン(=止揚)のような意味があったのでは?テーゼがあって、それに対するジンテーゼがあって、それを止揚することで、双方のメリットを併せ持つものが得られる・・・ヘーゲルの弁証法はそんな考えですよね?
しかし、それは、テーゼなりジンテーゼの「メリット」の側に目を向けたもの。
しかし、迷った挙句の第3の選択は、「デメリット」に目が行っている。

このように、それぞれの選択肢を考える際に、減点に目が行っている状態だと、上記の「第3の選択」という物言いだけでなく、「ベストの選択」という「物言い」もあります。
これも、チョット前に鳩山首相が言っていました。「沖縄の米軍基地の移設問題は、ベターな選択ではなく、あくまでベストを志向するんだ!」そんなことをおっしゃっていましたよね?

「ベターで安住することなく、あるいは、安易に妥協することなく、あくまでベストを目的にするのは、志が高くて、結構なことでは?」
「それこそが日本国の首相としてのあるべき姿だろう?」

ベストという言葉を受けて、そんな感想をお持ちの方もいらっしゃるかも?

しかし、アメリカ軍も、沖縄の人も、あるいは移籍先の自治体も、あるいは、日本国の防衛に対しても、すべてに満足する結論があるのなら、もうとっくにそうなっていますよ。
あくまでベストを狙うという言葉はいいとして、その心理的な意味は違っているわけです。
ベターな選択というのは、別の言い方をすると、他の選択肢と比較してマイナス面が「相対的に少ない」という意味でしょ?それに対して、ベストの選択となると、マイナス面が「全くない」「一番少ない」いうことになりますよね?

「マイナス面がない」という物言いは、このメールマガジンで頻繁に触れております二重否定表現そのもの。つまり、否定的な発想が積み重なってしまい、肯定からは更に遠くなっている。
ベストの選択という言葉自体は格好がいいものですが、心理的には「一番いいもの」をという肯定的な意味ではなく、「欠点が一番少ない」と言う二重否定的な意味になっている。それだけ、欠点なりマイナス面に対して過剰な反応があるわけです。そして、そのマイナス面に対して心理的に対処できない。

だから結局は、そのマイナス面を見ないという対処を取ることになる。
まさに先送りになってしまう。
マイナス面が一つでもあったら、もうそれが分かった時点で、その選択を先送り・・・そんな行動する人となると、頻繁に例示しております、トルストイが描く「アンナ・カレーニナ」がその典型です。
不倫の結果で妊娠、出産・・・じゃあ、どうしようか?
そんな段になっても、
「離婚すると、こんなイヤなことが起こる、だけど、復縁すると、こんなイヤなことが起こる・・・だから、今のところはどちらとも決めないでおこう!」
と、ドンドンと先送り。そして、事態が悪化してしまい、時間が経つにつれ、以前には取りえた選択肢も消失してしまい、結局は選択肢がなくなってしまい、列車にダイビングとなってしまう。

何もアンナ・カレーニナのようなフィクションでのドラマティックな事例ばかりではなく、私に離婚相談をされる方なんて、そのパターンが多いもの。
以前にも書きましたが、
子供は養育したい、
夫からは子供の養育費を多くもらいたい、
慰謝料もたくさんほしい、
自分の趣味は続けたい、
そして、周囲のみんなに祝福されて離婚したい。
そんな離婚をするにはどうすればいいでしょうか?

そんな相談をされてもねぇ・・・
答えられる人はいないでしょ?
皆様は答えられますか?
確かに、そんな状況を獲得できれば、ベストとは言えるでしょう。
逆に言うと、そんなベスト以外は認めないと言い出すと、結局は現状維持になってしまう。
つまり、ベスト以外は認めないというのは、体のいい言い訳ですし、ベターな選択を取ろうとすると当然のように発生する、プライオリティの問題を考えることからの逃避なんですね。以前に「背伸び」というお題の文章でも書いておりますが、現実離れした「高い目標」を掲げることで、自分の身近な現実から逃避してしまっている。
まあ、そんなベストを狙う人だから、現実的な認識や判断ができず、だからこそ、考えもなしに結婚してしまい、結果的にトラブルになり、そのトラブルも早い段階で対処することもできないで先送りするだけ。

結婚相手の選択も、現実的には、ベストよりもベターの面が強かったりするもの。
ベストとなると、まさに「この人しかいない!」と言うわけだから、むしろ、入れ込みとかに近い状況と言えます。恋とはそんなもの・・・とは言えるわけですが、単なる恋愛状態ではなく、いざ結婚するとなると、結婚生活という長期展望を踏まえて、選択をもう一度見直す必要もあるでしょ?経済力を取るのか?容姿を重視するのか?それぞれのプライオリティの問題でしょ?そんな選択は、ベストではなくベターを向いた選択ですよ。
ベストであっても、ベターにはなりえていないという状況なら、それは恋という肯定形の感情というよりも、現実逃避にフィットしているという否定形の心情が大きいんですね。それこそ鳩山さんの連れ合いなんて、現実逃避としてはベストの女性ですよ。

第3の選択も、ベストの選択も、言葉の上では違いはあっても、選択肢のマイナス面に注視しているのは同じ。結局は、自分自身の希望そのものがなかったり、視野から消えてしまっている状態。

自分自身の希望がなくなってくるので、そんな人たちは、「どちらの側と組むのがいいのか?」「自分たちを高く売るためにはどうすればいいのか?」という、依存の方向への議論が横行してしまい、「自分は次に何をしようか?」という主体的な議論が消失してしまう。
やがては、「我々は何の被害者なんだ?」「加害者は誰なんだ?」そんな犯人探しの議論になってしまう。

マイナス面ばかりに注視しているので、被害への反応もシャープだし、マイナス面を探してばかりだから、加害者設定もお手のもの。
「アイツは・・・こんな欠点があるから、ワタシのトラブルもアイツのせいだ!」
そんな論理がスグに出てきてしまう。

散々迷って、微妙な第3の選択をしてしまう人って、自分の被害を語る段になったり、相手を責め立てる際には、実に決然としているでしょ?
それだけ自分自身の問題から逃避して、周囲の減点面ばかりに目が行っているんですね。

ホント、散々迷って、微妙な第3の選択をしている人が近くにいたら、できるだけ距離をとるのが、ベターなんですよ。
もちろん、そんな人を観察すると、ダメダメについての多くの知見が得られるもの。
そのプライオリティは、それぞれの人の判断でしょう。
まさに、ベストはなくて、それぞれの人にとってのベターがあるだけなんですよ。

(終了)
***************************************************
発信後記

新たに「判断と選択」というカテゴリーを設定いたしました。
今週は、それに関連した文章を多く配信する予定です。

何回も書きますが、このメールマガジンで政治家を取り上げたりもいたしますが、政治的な理念に関心があるわけではありません。政治家の心理に関心があるだけです。
本文中にも書いていますが、「じっくり考える」と「散々と迷う」は、別のもの。
じっくり考えることは、自分の心の声を聞くことであって、それは自己逃避の人間にはできないこと。

そして、周囲のあら探しばかりをして、「あら」を見つけて、「ああ!あの○○のせいで、こんなことに!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と嘆く。
そんな姿は、何も21世紀の日本だけでなく、それこそトルストイの小説にも描かれているくらいのお約束なんですね。
 R.11/1/2