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カテゴリー 判断と選択
配信日 10年3月10日
タイトル 判断を投げる
ダメダメ家庭の人間は当事者意識が「ない」。
だから、人とのやり取りにおいても、「どうしても相手に伝えたいこと」「相手にどうしても分かってほしいこと」なんてものが「ない」わけです。
「どうしても伝えたいこと」が「ない」・・・と言うだけでなく、「どうしても伝えたいこと」が「ない」こと自体を自分で分かって「いない」。
まあ、こんな多重否定を使った表現は、好ましい表現ではありませんが、実際にダメダメ家庭の人間は、常に否定形なんだから、その生態を描写すると多重否定が多くなってしまう。それこそ、以前に取り上げたカミュの「異邦人」のような文章になってしまう。

「どうしても分かってほしいこと」がないのなら、どこかで一人ですっこんでいて、静かにしていればいいわけですが、それもでき「ない」のがダメダメ家庭の人間。
自分ひとりで静かにしていると、逆に、「自分はどうしたいのか?」そんなことを考えることになってしまうでしょ?だって、自分ひとりでいるのなら、「自分はどんな人間なのか?」それくらいしか考えることはないじゃないの?

だから、自己逃避のダメダメ人間は、一人ですっこんでいることもできない。
適度で、そして、スグに逃げられる距離を保ちながら、人との関わりを持とうとする。そんな距離を保ちながら、逃げ道を残しながら、人とのやり取りを行う。
しかし、やっぱり「どうしても分かってほしい」ことがあるわけでもない。人との関わりを持つと言っても、「一人でいるのがイヤ!」「自分自身との対話が怖い!」という否定形の発想から来ているだけ。
そんな人は、誰かに言葉を語っても、その言葉に自分の認識なり判断がない。

まさに「あーでもない!こーでもない!」という議論のための議論に終始する。
以前に書きましたが、その手の人の言葉は主語も目的語も不明確で、聞いている側はサッパリわからない。

起こった事件や、人の考えにコメントするのはいいとして、「そのアナタの言葉は、単なる感想なの?意見なの?その言葉を受けて私はどうすればいいの?どうしてほしいの?」そうやって確認しようとすると、このような回答。
『別にぃ・・・』。

表現方法がヘタでも、伝えようとする気持ちがあれば、受け手の側も「何とかして、この人の考えを分かってあげよう!」と思いますよね?
しかし、そもそも「これだけは分かってほしい!」という気持ちがないんだから、何ともしようがないでしょ?

そんな人の物言いは、判断を受け手に投げるような物言いが多いんですね。
『ワタシの考えをどのように受け取っていただいても結構です。』
『単なる思い付きの文章ですから・・・』
『まあ、ヒマつぶしとでも思ってください。』

それはそれでその人の勝手ですが、単なる思い付きを聞かされるコッチはどうなるのさ?
あるいは、「どのように受け取っても結構。」と堂々と言う人の意見など、最初から考慮するに値しませんよ。結果としての誤解ならともかく、最初から、「どーでもいい」なんて、そんな話を聞かされるコッチが迷惑ですよ。ただ、その手の人にしてみれば、そんな物言いは、一種の謙譲表現だったりすることもある。まさにプレゼントを「つまらないものですが・・・」と言いながら渡すようなもの。
そんな慣用表現ならともかく、言葉によるやり取りは、過剰な謙譲表現だと相手にされなくなってしまう。それに、中身があるのなら謙譲表現とも言えますが、実際にツマラナイんだから、謙譲ではないでしょ?そんな枕詞が付いていると、まるでバカにされているように感じたりするもの。まさに「つまらないものをわざわざ持ってくる鬱陶しいヤツ。」と認定されてしまうだけ。

と言うことで、マトモな人は、そんな人の相手をしなくなる。
そうやって、コミュニケーションで失敗してしまうので、ますます自信を失くす。となると、ますます自己逃避的になり、「自分がどうしても伝えたいこと」がなくなってしまい、逃げ場を意識するようになり、その物言いの「曖昧さ」も進行してしまう。
あるいは、伝えたいことが自分でも分かっていない人は、必要以上に過激な表現を使ったりするもの。相手から合意を取るという発想ではなく、相手に反論を言わせないというスタイルの物言いになってしまう。

人から構ってもらいたくて、やり取りをしようとしても、相手に伝えたいことがない・・・
そんな人の言葉は、言葉の数は多くても、そこに当人の判断がない。
当人の判断がないから、「ボクは悪くない!」と言えてしまう。

当人の判断が何もないそんな文章などに接すると、思うのはこんなこと。
『これって、要はグチでしょ?』
『これって、単なる自己弁護じゃないの?』

そんなことを言おうとするものなら、今度は曖昧ではなく、決然とした反応が返ってくる。
「キーっ!どうしてアナタは、ボクのことを分かってくれないんだ?!」

つーか・・・じゃあ、何を分かればいいのさ?
そうなるでしょ?

しかし、そのようなやり取りをする人の言葉が、所詮は自己弁護としてみると、実に理解しやすいもの。ただ、自己逃避であるがゆえに、自己弁護をしている自分も、認識できていないだけ。

弁解するにも、現状認識ができないし、それを伝える能力もない。
しかし、「ワタシは悪くないっ!」ということを、周囲に伝えたいと思う。
だから、弁解がましい文章を書いて、自己弁護に励むことになる。
弁解というものは、形の上では相手に対して発しているわけですが、意味的には自分自身に発しているわけでしょ?だからこそ、そんな弁解は聞いていても分からない。

文章などの表現においては、発し手の想定どおりに受け手に理解されるなんてことは、滅多にない。かと言って、ある程度の想定は必要でしょ?
「このような知性を持った読者は、これくらい理解するだろう。」
「このようなバックボーンを持った人は、この点も理解できるだろう。」
「あのような人は、誤解するだけだろうな・・・」

受け手がどのくらいまで理解できるのか?書き手として想定できる段階まで作りこんだ上で、文章だって相手に出す必要があるでしょ?

この私だって、「どのように理解されても、それは購読者さんのご自由です。」なんて書くこともありますが、それは「このレヴェルの購読者さんだったら、この部分は誤解しないはず。」というレヴェルまで到達していることを納得するまで作りこんでいる上で言っていますよ。まあ、対象外の人には、分からなくても結構ですし、現実的に見て、すべての人に納得されるような文章などは、示唆的でも啓示的でもありませんよ。ノーベル賞作家のエルフリーデ・イェリネクさんが書くように、前から分かっていることを再確認しただけ。
まあ、この私が「アナタがどのように理解されても、それはアナタのご自由です。」と書く際には、「アンタは対象外。」という意味になる・・・のは予想できるでしょう。本当に分かってほしいのなら、そんな感じで書かずに、もうちょっと追加説明をしますよ。追加説明が無意味だと思っているので、「ご自由に・・・」という言葉になっているだけ。

思いついたまま「てきとう」に書いた上で、「どのように受け取っても、それは読み手の自由です。」って、それはたとえ個人宛のメールの文章であっても、書き手としては無責任ですよ。ちゃんと納得するまで書き込まないとね。
まあ、このメールマガジンの文章が、そんな感じで「書き込んでいる」ことは、分かっていただいているでしょ?というか、「書き込みすぎ」と言った方が適切でしょうが。
一般の人はメールマガジンの文章なんて、書く必要もないでしょう。しかし、相談の文章のケースも似たことになります。

以前にも書きましたが、抑圧的な人間は、「一つの案件を、一つの文章にまとめる。」ことができない。だから多くの事案や文章を並列で提示してくる。
「どのように対処するのかは、読んだアンタが判断してよ!」
と、清清しいほどに、堂々と丸投げしてくるわけ。

そう言われても・・・
『アナタ自身の問題でしょ?』
「アナタ自身はどうしたいの?』
『何を伝えたいの?』
伝えたいことが明確に意識できていて、それを上手に伝えられないからサポートしてくれということならサポートも簡単。
しかし、何をしたいのか?何を伝えたいのか?それ自体が分かっていない場合には対処のしようがないじゃないの?HOWの面ならサポートもできますが、WHATの面だったら、まずは本人自身の問題ですよ。

な〜んとなく、言葉が並んでいて、そんな文章を読んだ側が、「で、結局は、どんな事態になっているの?」なんて聞こうものなら、「どのように受け取っても結構です。」なんて言われてしまう。
しかし、困っているから相談しているのではないの?
解決したい問題って、じゃあ、何なのさ?

そんなやり取りをしても、結局うまく行くわけもなく、やがて『どうして、ワタシだけが上手く行かないの?!』とお約束のグチ。
「じゃあ、アンタの言う『うまく行っている状態』って、具体的にどんな状態なの?」と聞くと、『どうして、そんなことを聞くのよ?!』とやっぱり逆上。

あるいは、相談の場だったら、相談を受けた私も「結局、アナタ自身は、どうしたいの?」なんて聞く必要があります。
そうなると、「ソッチで決めてください!」と来たりするもの。
他力本願も、ここまで来ると親鸞級ですよ。悟りの境地だねぇ・・・
当然のこととして、そんな「アナタ任せ」の人は、子供をポコポコ作ることになる。
だって、避妊するのも「アナタ任せ」なんですからね。
そうして、子育てだって「アナタ任せ」・・・まあ、現実的には「学校任せ」になってしまう。

そんな家庭で育った子供がトラブルを起こし、そんな親が言うのは、「どうして、ワタシだけこんなことに?!」
ギャグを書いているわけではありませんよ。
まあ、ギャグだったら、笑えますが、目の前でそれをされると、とてもじゃないけど笑えない。

そんな人のやり取りは、まさに「あーでもない!こーでもない!」と議論のための議論をウダウダ・・・と言うことになってしまう。
そんな言葉に接していると、「言いたいことがあるのなら、ハッキリ言わんかいっ!」と切れそうになるほど。皆さんもそんな時があったりするでしょ?
まあ、そんな形でブチ切れるまでは行かなくても、ある種、途方に暮れてしまうだけ。
「で・・・結局・・・ワタシはどうすればいいのさっ??」

以前に関西在住のオタクと自称される方からいただいたメールも途方に暮れるものでした。その方からのメールには東京の案内が書いてある。新宿がどうのこうの・・・秋葉原がどうのこうの・・・渋谷がどうのこうの・・・と、関西のオタクさんが、東京在住のこの私に対して東京のことを解説してくれている。その内容の正否はともかく。そんなこと、私に言われてもねぇ・・・「じゃあ、どうすればいいのさ?」あるいは、「いったい何を分かればいいの?」そうなるでしょ?

あるいは、本とか映画の感想をだらだらと書いてある文書ってあったりするでしょ?まあ、個人宛の私信ならともかく、不特定多数を相手に、たとえばメールマガジンで発行したりする人もいますよね?それはそれでいいのですが、感想をだらだら書いていても読んでいる方はどうすればいいの?それこそ、「この映画を見てもよく分かりませんでした。」なんて、顔も知らない不特定の相手宛に、わざわざ書く内容じゃないでしょ?
そのことをどうしても伝えたいの?
その文章から、読み手は一体何を分かればいいの?

結局は、自分がどうしても伝えたいことがないわけです。
自分自身を見つめることから逃避しているから、まさに「あーでもない!こーでもない!」になってしまう。そんな人は、何もしない状態が怖いので、何かをしているというだけ。

ダメダメ家庭の人間の書く文章って、その記述のヘタさ以上に途方に暮れるのは、「で、じゃあ、この文章を読んだ私はどうすればいいの?何を分かればいいの?」ということなんですね。そんな感じで判断を投げられてしまうので途方に暮れてしまう。
文章自体がヘタであっても、「これだけは分かってほしい!」という「気持ち」が入っていたら、ちゃんと伝わりますよ。

文章の読み手のキャラクターに配慮して、自分が「これだけは伝えたい!」ということを意識して、まあ、ちゃんとした文法で書く。基本的にはそれでいいんじゃないの?
文章の書き手が、「読んだ人が何を分かってほしいのか?」そのことを十分に自覚していないんだから、そんな文章を受け取っても「じゃあ、読んだ私はどうすればいいのか?」について分からないのは当然でしょ?

しかし、自己逃避で抑圧的な人間は、「相手にどうしてほしいのか?」「相手にどうしても分かってほしいことは何か?」そんな判断から逃避する。
だからこそ、自分に関係のないようなものばかりを語るようになってしまう。
自分に関係のないものだから、その文章に対して突っ込みがあっても、「いや・・・別に・・・特に・・・重要なことではないんだし・・・」とオシマイとすることができるでしょ?そうやってあっさりトンズラしてしまう。

しかし、そんなやり取りの積み重ねがどんな結果になるの?
いつまで経っても、そんな調子のままでしょ?
判断を投げて、結果的にトラブルになっても、当人が判断したわけではないので、「ワタシは悪くない!」と言えてしまう。しかし、当人の問題への対処を丸投げされてしまった側は、腹が立つのは当然のこと。まさに『そんなことはアンタ自身の問題じゃないの?』となるでしょ?逆に言うと、周囲の人間は、そんな丸投げのスタイルに腹が立たない人間ばかりになってしまう。それこそボランティアのような連中が寄って来て「そうよ!そうよ!アナタは何も悪くないわ!」と同情する。そんな同情を受けて、「ワタシはかわいそうな被害者なんだから・・・ワタシは何もする必要はない・・・」と、丸投げ能力がアップしてしまう。だからやっぱりトラブルになる。

マトモな人間は、当事者意識があるので、自分の決意や目標を語ることができる。だから、そのうち実績も語ることができるようになる。あるいは、その決意を達成するための方法論も語ることができる。
しかし、自己逃避人間は、決意を語れない。語れるものとすると、自分の善意を語るだけ。「ボクって、いい子でしょ?」と周囲に主張する。あるいは、被害者意識が強いダメダメ人間は、常に被害を語る。「ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?」そんなことばかり。逆に言うと、やたら善意を語ったり、被害を語るような人間は、自分の決意が語れないし、目標も語れない。

そんな人は結婚する段になってもそんな調子。
結婚する相手なり結婚する時期について自分で考えたくないがゆえに、さっさと結婚してしまう。
考えることができる状況が怖いわけです。そんな女性は、子供もさっさと作ってしまう。
当人は、何も考えていないがゆえに、「ワタシは悪くない!」が口癖。
考えないがゆえに、自分の親の問題はアンタッチャブル。
結局は、当人も親と同じような抑圧的な子育て。
そんな人間に育てられた子供がやっぱりトラブルを起こすことに。

あるいは、そんな環境で育った子供も、判断の場から逃避するために、さっさと結婚してしまう。
思考からの逃避が習慣になっているので、逆上もしやすい。
「しなければならない」「それがふつうだから」という義務感から結婚するだけで、自分では判断はしない。いわば徴兵される感覚。楽しい家庭生活なんて何も想像もしていない。
悪くなければそれでいいという減点法であり、相手の選択に当たっても減点法。

そんなことだから、トラブルになり、特に考えもせずに、即離婚となってしまう。
若い男女当人が、結婚後即離婚はともかく、じゃあその夫婦の親は何をやっていたの?その問題を考えないと、そんな事態を繰り返すだけ。しかし、ダメダメ人間は親の問題はアンタッチャブル。だから相手を恨むばかり。そんな恨むばかりの人間に喜んで寄ってくる人間と意気投合。
その結果はどうなるの?
また、スグに結婚したり、ボランティア人間とグチの共鳴で大喜びするようになる。そうやって恨みの心ばかりが増長する。
結局は、ますます心が貧しい人間になってしまう。

自己逃避の人間は、自分では考えたくないので、異常な早婚の人がいたりするもの。
とりあえず、結婚してしまって、結婚について考えることから逃避したいわけです。
そんな人間と一緒になる人間も大同小異。
スグに離婚する人は、スグに逆上する人と現実的には重なっている。考えない状態がほしいんですね。

以前に話題になった無戸籍児童の問題ですが・・・ドメスティック・ヴァイオレンスになってしまって、その暴力オトコとの離婚前に、別の相手との子を妊娠して、結果的に無国籍が連鎖とか・・・
色々と事情あるでしょうし、子供には罪はないとして、妊娠する前に、ちょっとは冷静になって考えてもいいのでは?逆に言うと、妊娠する前にじっくりと考えることができない人間なんだから、結婚前に何も考えずに、ヘンな男と結婚して、ドメスティック・ヴァイオレンスになるわけでしょ?
しかし、自己逃避の人間は、考えることができるシチュエーションそのものが嫌い。
当然のこととして、避妊するという判断もキライなんですね。
とにもかくにも、判断したくない。

かなり以前にも言及いたしましたが、ソ連の映画監督のアンドレイ・タルコフスキーの作品で「ストーカー」という作品があります。
ここでストーカーというのは、もともとの領域侵犯者という意味で、女性をつけ回すという意味ではありません。

ある場所に到達すると、その人の望みがすべて叶う・・・
そんな場所に到達しようとしている人たちを描いた作品です。
じゃあ、その望みが全部かなう場所に実際に到達したら、じゃあ、そこで何を望むのか?

しかし、映画では登場人物は、望むことが何もない。
必死で、「望みが叶う場所」にたどり着いたのに、何もしないというかできない。
そして、そんな自分を見つめることからも逃避し、そんな「望みが叶う」場所をくさす。
願いがかなわないことよりも、願いがないことが最大の絶望・・・
アンドレイ・タルコフスキーはそんな精神状況を描いているわけです。

何もタルコフスキーのように精神的な危機のレヴェルまで見つめる必要はありませんが、やたら判断を投げる人は、判断を投げている自分自身を認識することも投げているもの。
よっぽど強い意志を持って自分自身を見つめないと、改善は難しいものなんですよ。

(終了)
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発信後記

何回も書いておりますが、判断をしない人間は、減点法的に言うと「悪くはない」ことになってしまう。そして、ダメダメな環境においては、その基本的発想は減点法。
つまり判断からの逃避は、本人の資質の面もありますが、ダメダメな環境に適応した結果とも言えるわけ。

判断する発想そのものがないがゆえに、現状認識も「てきとう」で、何も考えずに結婚して、結局は修羅場になってしまう。
そして、「アンタが結婚してくれと言ったら、結婚してやったんだから、アンタが全部悪いんだ!」と主張することになる。

先週配信の文章に書きましたが、倫理的な視点と心理的な視点には違いがあります。
「アンタが結婚してくれといったら、結婚してやったんだから、アンタが全部悪いんだ!」という主張は、倫理的にいうと一理ある。
しかし、心理的にみると、当人が何も考えない人だから、結果的に修羅場になったとみなすことになる。

しかし、ダメダメな環境では、倫理的な主張が通りやすい。
そうして、相手のオトコをつるし上げ、「ああ!ワタシたちって、なんてかわいそうなの?!」で盛り上がってしまう。
心理的には何も改善していないわけだから、結果的に同じトラブルになる。
そうして、今度は別のものをつるし上げ。
ギャグではなく、ダメダメの領域では、頻繁に見られる光景でしょ?
 R.11/1/2