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配信日 10年3月12日
タイトル 規則との対応
かなり以前になりますが、テレビでサッカーの日本代表のゲームの放送を見ていたら、当時の監督のジーコさんが顔を真っ赤にして怒っていたことがありました。
ハンガリー(だったと思います)とのゲームや、ウクライナとのゲームで、終了直前に日本チームが反則を取られて、そのゲームで日本が負けちゃったんですね。

「そんな判定は、イカサマだ!」
「審判は腐っている!」
と言うことで、ジーコさんは顔を真っ赤に怒っていたんでしょうね。
まあ、そのゲームは所詮は練習試合でしたから、そこまで怒る話でもありませんが、真剣にゲームをしている人にとっては、イカサマは失礼でしょ?

そのような判定があった国は、ハンガリーにせよ、ウクライナにせよ、旧共産主義国。
旧ソビエト連邦のズルは言わずもがなですし、ハンガリーは、確かアテネオリンピックのハンマー投げで、ドーピングで引っかかっていましたよね?
どうも素行の悪い国のようです。ルールを守るという発想が欠けている。

ルールを守るということは、その場を維持していくための基本でしょ?そのルールが実態に合わなくなってきたら、ルールを変えればいいだけでしょ?
その場の参加者が、銘々の勝手に行動していたら、そんな場では何もできませんよ。
それってスポーツの世界でも、あるいは株式などの市場の世界でも同じですよね?
みんなが同じルールの下、競い合うから、失敗しても自己責任が取れるわけでしょ?
そもそも「アイツはルールを守らないヤツだ!」なんて人間と一緒に行動なり、競ったりしたいと思う人なんていませんよ。

19世紀のドイツの社会学者のマックス・ウェーバーという人がいます。
例の「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の著者です。近代の資本主義の確立に当たって、勤勉を宗とするプロテスタンティズムの果たした役割について考えた著作です。

カトリックにおいては、貯蓄ということが、ある種のタブーでした。
聖書においては、「現世に貯蓄しても意味ないぞ!」って、書いてありますしね。プロテスタントの教義は、貯蓄することの「後ろめたさ」を人々から解放したわけです。
それを受けて、人々は安心して貯蓄することができるようになったわけです。だから資本が集積し、資本主義が確立したんだ!
マックス・ウェーバーはそんな視点を提示いたしました。私はその面では素人ですので、大まかな紹介です。

しかし、21世紀の今になって考え直してみると、マックス・ウェーバーの視点は、19世紀のヨーロッパに限定されていると感じます。世界規模での交流が起こっている現在では、マックス・ウェーバーが持っていた常識とは違った発想の人が、実に、多いことに気がつくことになる。

ルールを守らない人も多いわけです。
そもそもルールを守らないのなら、市場は成立しませんよね?あるいは経済活動だって、実質的には成立しないでしょ?参加者が同じルールを尊重し、遵守する。そしてお互いが合意した約束は守る。そんな前提が成立する世界って、意外なほどに少ないわけです。

お互いが取り決めた約束を守るって、経済活動の基本ですよ。「あの物を、1万個を100万円で買うよ。OKかい?」『OKだよ!!』と合意した後になって、『50万円に負けろ!』と言い出したり、「やっぱり200万円でないと売らないぞ。」と言い出しては、経済活動どころではないでしょ?市場なんて成立しませんよ。バザールのようなその場その場の対面取引しかできませんよ。
お互いが信義を尊重するって、何ごとも基本でしょ?

しかし、自分自身が決めたことを信義を持って実行することが、当然の義務と考えている社会は、実に少ないわけです。それこそカトリックやプロテスタントの西ヨーロッパか、日本くらいでしょ?これって、プロテスタンティズム云々よりも、騎士道だったり、武士道があった世界ですよね?自らの尊厳について何も配慮しない人間は、約束も守らないものなんですね。

ダメダメ家庭は被害者意識が強い。「自分こそが一番の被害者だ!」そのように勝手に思っている。「自分が一番の被害者なんだから、被害者たる自分が、自分より恵まれている人たちに配慮する必要なんかない!」そう思っている。
それこそ以前に中国の高官が外交日程をドタキャンしたりしましたよね?
「自分こそが一番の被害者だ!」と思っているからこそ、あのようなことができることになる。
しかし、当然のこととして、約束を守らないような人と、一緒にはできないでしょ?
そんな人と会議をして、たとえ合意が得られたとしても、その合意に何の意味があるの?
もはや論理的に無意味ですよ。

ダメダメ家庭は会話が不全の家庭。意向を伝えるにあたっても、相手から合意を取るのではなく、「命令と服従」が基本となっている。ダメダメな親は、被支配者たる子供の側の要望なんて、てんで無視。だから家族内での決め事なんて、親からの一方的な押し付けなんですね。
そんな環境だったら、ルールを遵守するという発想ではなく、ルールによって支配されているという感覚になってしまう。

だから、自分たちの存在を立証するために、押し付けられた規則を破ろうとする。
そんな規則破りという儀式を挙行することで、被害者である自分というアイデンティティを自分に確認しているわけです。ルールなんて、参加者がその場で、「動きやすい」ものであればいいわけですから、そんなに不都合があるのなら、ルールを見直せばいいわけでしょ?何もコソコソを破らなくてもね。

しかし、問答無用のダメダメ家庭で育った人間は、ルールを破ることで自分の存在を立証したと感じ、快感を持つわけです。
そして、ルールを破ったことを周囲から指摘されると、「オレたちは被害者なんだ!このルールだってオマエたちの押し付けじゃないか?」と、逆上する。
本人たちはそれで納得するかもしれませんが、そんな人たちを相手にする人はいなくなるでしょ?

結局は、当人自身が損をしているんですね。
ルールをコソコソ破るような人は、やっぱりダメダメな環境で育ったことが推測できるもの。そんな人を無理に更生させようとしてもムダなんですね。そんな人とは距離を置いた方が安全。だって「自分こそが一番の被害者だ!」と思っている人は、何するか分かりませんよ。それにそんな人に対して、言葉で説得しても無意味であることは、その人の行動が示しているわけでしょ?

自分の意向が受け入れられるという信頼がないので、陰でコソコソするようになってしまう。自分の意向が受け入れられるという原体験がないわけです。だから、規則に対するレジスタンス活動に、自分のアイデンティティを求めてしまう。極端な言い方をすると、親がナチのようなもの。

規則に対してぎこちない対応をする人は、逆に言うと、相互の合意に重きを置いていない。規則が絶対だと思っているからこそ、過剰な対応を取る。
参加者の合意によって、規則が変更できるという発想がない。
ルールへの信頼というものは、ただ盲目的に従うということではなくて、必要に応じて見直すということと不即不離なんですね。ルールに対する信頼と、ルールの文言に無条件に従うこととは別問題。参加者の要望を聞いてもらえるから、参加者はそのルールに従っているわけでしょ?つまりその集団に会話があることが見えてくる。
本来は、ルールの成立の前提として、参加者の合意が元にあるもの。

しかし、抑圧的で自己逃避のダメダメ人間は、その合意なり判断なり、それを伝達する会話の能力がない。ただ支配・被支配の関係があるだけ。
支配・被支配の関係の延長線上でルールを認識することになる。しかし、ダメダメ家庭の人間は、主観と客観の区別がついていない。だからルールも、客観的な合意に基づいたものではなく、支配者の主観に基づいたものと認識している。

だからこそ、むやみに逆らったり、逆に、無条件で従ったりすることになる。自分の親への反抗心をルール破りという形で表現したり、あるいは、まさにダメダメ人間の持つマゾヒズム的キャラクターが発現し、「何も考えずに従っていれば、それでいい・・・」そんな拘束を提供してくれるものと認識することになる。

マゾヒズム的なルール信仰となると、それこそ、狂信的な憲法主義者のような例もありますし、あるいは、何が何でも制度にしてしまう・・・それくらいに制度なりルールに対して期待する人がいるでしょ?マゾヒズムとは、いわば思考からの解放への欲求であって、拘束されることによって、「何も考えず、対処もしない」状態を得ようとする心理です。だから判断や選択の場をなくすことを求めることになる。

それこそ経済的な理由から、進学できないような状況において、本来なら奨学金のシステムを整備すればいい話ですよ。しかし、奨学金だと個々の判断の問題が発生してしまう。その制度を使うのか?使わないのかは当人の判断でしょ?思考や判断から逃避するダメダメ人間には、それは恐怖となってしまう。
だから、制度として一律に適用というスタイルにしようとする。それこそ、「こんにゃくゼリー」の問題も「買わない」という判断を恐怖し、すべてを制度の問題にしてしまおうとするでしょ?
まさにエーリッヒ・フロムがいう「自由からの逃走」そのもの。

あるいは、昨今話題となることの多い児童ポルノの問題でも、制度の整備には熱心でも、そんな場に自分の子供を売り込む親の問題は無視。本来は、そんな親の親権を取り上げる必要があるでしょ?
そんな場に売り渡された子供本人にしてみれば、いったいどうすればいいの?
だって親の問題はそのままなんだから、被害者たる子供は、いきなり市民団体や政府組織に相談を持ちかけるの?そんな窓口はいったいどこにあるの?親との対応はそんな組織がやってくれるの?
しかし、そんな木目細やかな対応だったら、会話をしながら、合意を積み重ねながら進めていく必要がある。会話不全のダメダメ人間にはそんなことは不可能。だから制度を作って、「ハイ!オシマイ!」となり「ああ!ワタシって、なんていい人なの?!」と自画自賛するだけ。
しかし、結局は子供の問題は何も改善されないまま。だって家族関係に変化がないんだから当然でしょ?

またドメスティック・ヴァイオレンスの問題も同じ。抑圧的な人たちは、「根絶させる制度」をさんざんに主張するものです。確かに、そのような制度を使ったサポートも必要ですが、被害者の当人は、暴力オトコを見分ける判断力はないままでしょ?そんな女性が子育てをすれば、育てられた子供がバカになるだけ。

そんな子供の被害はどうするの?子供だって、暴力をふるう親にも、そんな人間を見分ける能力のない親にも育てられたくありませんよ。すべてを制度で解決という発想は、個々の判断からの逃避なんですね。そして抑圧的であるがゆえに「自分は判断から逃避している。」という認識からも逃避することになる。そんな親とのやり取りなんて不毛ですよ。だって話をしての合意には何も意味はないわけですからね。そんな環境で育ったら、それこそ暴力的になってしまいますよ。

すべてを制度によって解決するという発想は、まさに問答無用の精神につながり、結局は暴力を助長しているだけ。何も狙った逆説を書いているわけではなく、現実的に、その手の運動をしている人は問答無用ですし、やっていることは「つるし上げ」でしょ?

抑圧的なダメダメ人間は、現状認識や判断や、相互の合意に依存するようなものから逃避したい。
制度という形だったら、個々の判断は存在しないし、「ただ、従っていれば」いいだけ。
不都合な事態になったら、「そんな制度を押しつけられた」「かわいそうな自分!」と嘆いていればいいだけ。抑圧的なマゾヒズム人間には心休まるものと言える。

ダメダメ人間にとってのルールは、親からの命令の具現化のようなもの。だからルールをむやみに破ろうとしたり、やたら絶対視してしまう。
往々にして制度を絶対視している人は、その地点で思考停止になっていて、そしてその制度の元となっている参加者の意向についても、まったく頓着しないもの。逆に言うと、個々の参加者や自分の判断について考えたくないが故に、制度の問題にしてしまう。

制度というものは、「しなくてはならないこと」、あるいは「してはならないこと」を決めているものでしょ?しかし、物事の多くは、そのどっちでもなく、個々の判断にゆだねられるもの。しかし、マゾヒズム人間にはそれが心理的な苦痛となってしまう。
だからこそ、規則・・・つまり拘束との対応がぎこちなくなってしまう。

「そのルールを絶対に見直さない!」なんて言っている状態は、そのルールがたとえいいルールであっても、そんなことを言っている人としてダメダメなんですね。
ルールの元にある、個々の判断なり意向からの逃避を会話によって、合意を取っていく・・・そのようなことは、抑圧的なダメダメ人間にしてみれば、実に困難なことになっている。

そんなダメダメ人間は、規則との対応がぎこちないものになってしまう。
ぎこちないからこそ、なおのこと規則を凝視する。
しかし、逆に言うと、自分自身の心の声を聞こうとはしない。
すべてを規則の問題にしてしまって、結局は、自己逃避してしまう。
そんな姿を見た、周囲の人が往々にして言うは、「色々と言っているけど・・・結局は、アンタとしてはどうしたいの?」・・・そんなモノでしょ?

(終了)
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発信後記

今週は、選択とか判断に関わる文章を集中的に配信いたしました。
規則の問題も、選択や判断からの逃避という面があったりするもの。

選択を過剰に怖がる人ほど、制度の問題にうるさいものでしょ?
そして、そんな人ほど、「自分は、どうしたいのか?」については言おうとしないものでしょ?
あるいは、制度との関係が深い分野である政治の問題の議論をしようとするもの。
どんな政治体制がいいのかは別にして、じゃあ、その体制で何をしたいの?

ダメダメの問題を考えるには、つまりところ、「自分はどうしたいのか?」という自分の心の声を真摯に聞くことから始めるものなんですよ。そんなことは誰でもできることですしね。
R.11/1/2