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カテゴリー ダメダメ家庭出身者の状況
配信日 10年3月19日 (10年8月10日 記述を追加)
タイトル 地獄の処世術 (心頭滅却)
このメールマガジンでは、たまに「この門より入るもの、希望を捨てよ!」という言葉を引用したりしております。ご存知のとおり、イタリアのルネッサンス期の詩人であるダンテの「神曲」に出てくる有名な言葉です。
そのダンテさんによると、地獄の門の銘としてその言葉があることになっております。

まあ、実際の地獄の門は見ることはないでしょう。まあ、この私だったら、もうすぐに見るのかな?地獄の門を描いたロダンの彫刻だったら、確か、東京の上野の美術館にありますから、お時間がありましたら、皆様も地獄めぐりでもなさっては?

さて、その地獄においては、実際問題として、希望を捨てないと、とてもじゃないけどやっていけない。地獄では、痛かったり、熱かったり・・・そんなことばかりらしい・・・
「何も見ず、何も感じず、何も考えず、何も求めない。」
そんな境地に至れば、地獄でもやっていけるでしょう。いわば心頭滅却の境地になる必要がある。

しかし、地獄ではやっていけても、この現実の世界においてその方法を取ることができるの?
「この世というものは、基本的には地獄よりもラクな世界なんだから、地獄で通用する処世術だったら、この世だったらもっと効果的なはずだ!」
そのような論理は論理として、本当にそのようにいえるの?

「何も見ず、何も感じず、何も考えず、何も求めない。」
そんな日々だったら、この世においては、逆にトラブル多発ですよ。

地獄だったら、現状認識などをしても、無意味というか、余計に落ち込むだけ。だから現状認識もしない。現状認識がないし、希望もないから、問題意識もない。
だからトラブルも認識できない。
トラブルが見えないがゆえに、「ワタシたちは、うまく行っている!」と言える。
「うまく行っている」というよりも「悪くはない」状態。もっと正確に言うと、「悪い状態を認識しない。」状態。

事態から目をそらし続けていても、目を背けようがないほどに悪くなったら、誰かに対してグチグチと自分の被害を語ることになる。
その不都合な状況が顕在化するまでに、自分で考え、判断したわけではないので、実際に見ても、論理的にも「悪くはない」。
実際に、特に、何も悪いことはしていないでしょ?
だって、当人として、何も判断していないし、何もしていないんだから、「ワタシのせいじゃないわ!」と言えてしまいますよ。そんな嘆きの声があると、ボランティアをやっているような愚鈍な連中が、同情してしまう。

つまり、何も考えないことにより、何もしないことにより、周囲からの同情の獲得という成功体験を得ることになる。いわば、希望を捨てることによる成功体験となるわけ。

だから「希望を捨てる」という地獄の処世術が強化されてしまう。
逆に言うと、「現状はどうなっているの?」「アンタはどう考えるの?」とか「自分で考えなさいな!」「で、結局は、アンタはどうしたいの?」という指摘は、それまでの生存の手法の否定につながるわけだから、恐怖心を呼び起こす。

自分で考えてうまく行かなかったら、それは失敗となるわけですが、何も考えない状態で、うまく行かなかったら、それは、被害ともいえるでしょ?
自分が何も考えなかったら、とりあえず被害者というポジションは獲得できる。ダメダメ家庭の中においては、被害者競争があるので、後は、自分が受けた被害を、配偶者や親や兄弟や、あるいは、周囲の人間との間で、「どっちが大きな被害を受けたのか?」で競争するだけ。
自分で考えて対処してしまうと、結果責任が発生し、そのような被害者競争の土俵にも立てない。
一方的に犯人認定を受けてしまって、まさに自分の身が危なくなってしまう。

地獄にいるのだったら、現状を直視して、対策を検討してもしょうがない。それがまさに地獄というもの。地獄においては、「ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」「なんてここはヒドイの?」と嘆くしかない。希望を抑圧して、嘆きを語る・・・それくらいしかできないでしょ?
逆に言うと、ダメダメ家庭で培ったそのような習性を、一般社会でも発揮してしまうことになる。

「希望を捨てる」という地獄の処世術は、ダメダメ家庭においては必要な処世術であり、それがないと生きてはいけないものですが、一般社会においては、不必要というか、むしろ障害になるもの。
だから、その点を顕在化して排除しなければ、マトモな社会ではやっていけない。
しかし、ダメダメ家庭においては、それがないと生きてはいけなかったわけだから、それを捨てることは、非常に恐怖を伴うもの。退路を絶ってルビコンを渡るが如くの思い切りが必要になってくる。しかし、抑圧的なダメダメ人間は、そんな判断や選択を恐怖する。

それに自己逃避で抑圧的だから、判断を恐怖している自分自身を自覚をすること自体が、当人としても難しい。
当人自身としては、何とかして、その処世術を自覚して、それを捨てようとしても、ボランティアのような人間が寄ってきて、「アナタのせいじゃないわ!」「アナタは悪くはないわ!」「今までいいのよ!」などと甘言を弄する。
だから、その処世術を捨てられない。

ダメダメ家庭において必須の処世術であり、それに慣れてしまったので、結局は、その従来の処世術が成立する世界に安住してしまう。
つまり、地獄のようなダメダメな世界から抜け出ようとしない。
それどころか、一般社会の方を地獄にするような事件を起こしてしまう。

自分の希望を捨てているので、判断の場が怖い。
「○○という自分の希望を実現するために、△△という判断をする。」そんな流れで判断をしないわけ。
何かを獲得するための判断をしてきているのなら、判断の場に恐怖心は起きない。あるいは、プラス方向での選択が多ければ、選択にも恐怖することはない。「夕食を、中華料理にするのか?和食にするのか?」そんな選択だったら、選択も楽しいでしょ?
しかし、ダメダメ家庭で遭遇する判断は、どっちを選んでもイヤという「前門の虎、後門の狼」的な状況ばかり。

たとえば、母親に対して、何かを依頼したり、相談したりすると、母親から文句を言われる。
「いったい、いつになったら、ワタシに迷惑をかけないようになるんだか?!」「そんなことは自分で何とかしろ!」
かと言って、何も言わないでいて、後になってトラブルが発覚したりすると、
「どうして何も言わなかったんだ?」
「ワタシに恥をかかせやがって!」と逆上される。

どっちを選んでも、何も得られないどころか、悪くなる状況ばかり。
それこそ、戦争で、「原子爆弾で殺されるのがいいのか?銃殺された方がいいのか?どっちかを選べ!」と言われても困ってしまうでしょ?
あるいは、選挙の際に「民主党を選ぶのか?自民党を選ぶのか?」と言われても、双方とも減点面ばかりで加点法的には不毛ですよ。それこそ、地獄において、 閻魔様から「『釜茹で』がいいのか?『針の山』がいいのか?どちらか好きな方を選べ。」と言われても、どうしようもないでしょ?

あるいは、以前に言及した「ソフィーの選択」という作品では、ナチスの強制収容所のスタッフによって、「子供2人のうちで、どっちの子供をガス室に送るのか、親であるオマエが選べ!」との要求されるシーンがありましたが、そんな状況での選択は、不毛でしょ?

しかし、ダメダメ家庭における選択は、そんな不毛な選択ばかり。
だからこそ、何も希望しないという地獄の処世術が確立してしまう。
そんな日々だったら、選択というものをポジティヴに考えることはできなくなる。
だから、選択そのものを回避するようになる。

逆に言うと、それほどに選択を回避する姿勢があるということは、まさに「前門の虎、後門の狼」の日常だったということ。選択に対して心理的恐怖心があるのなら、「今までどんな選択をしてきたのか?」ちょっと思い出して見る必要があるわけ。

さて、以前に、我慢ということについて書いております。
希望を抑圧しているダメダメ人間は、苦しい状況を我慢することは、実に上手。まさに自分が育ったダメダメな家庭という地獄で鍛えられているわけですからね。しかし、自分の目標を達成するために、忍耐強くことに当たることはできないわけ。何もしないでじっとしていることはできても、達成するためのアクションを、忍耐を持って、し続けることはできない。我慢と忍耐は違っているわけ。

覚悟を持ってことをはじめ、忍耐を持ってことを遂行する精神がない。
覚悟がないから「てきとう」に、ことをはじめてしまう
しかし、引き返す勇気がないし、他にすることもないので、そのまま耐えることになる。
そんな人は、自分を我慢強い、あるいは、忍耐強い人間だと自称するもの。
しかし、実質的には「あきらめ」に近いわけ。ただ単に、心頭滅却しているだけ。

そんな人間ができることは子供を作ることくらい
そうして、「我慢の美徳」という名目で、子供に対して「あきらめ」を強いる。
以前にも配信いたしましたが「お前は何をやってもムダだ!」「まっ!さっさとあきらめるんだな!」と、自分の子供に対して暖かいアドヴァイス。
そんな環境に育ったら、子供も「この門より入るもの、希望を捨てよ!」となるのは当然でしょ?

たまに監禁事件とか連れ回し事件があって、その後になって「どうして監禁された側は、逃げださなかったんだろう?逃げるチャンスはあったのに・・・」そんなコメントを発する人がいますよね?
しかし、ダメダメ家庭においては、希望を捨てないとやっていけないわけ。
そんな習慣を身につけてしまっている人間は、逃げるチャンスがあっても、逃げ出せませんよ。そもそも現状認識から逃避し、希望を抑圧しているんだから、逃げるチャンスという認識もなく、この場から逃げ出したいという希望も押さえ込んでしまうわけ。
そうしないと、自分の育った家庭では生きていけないわけ。
そんな家庭に順応してしまっているんだから、まさに監禁事件に巻き込まれても、自分の家庭の流儀で行動するだけ。逃げるチャンスがあったら、何とかして逃げるという発想を持っていたら、監禁事件の前に、そんな実家から逃げていますよ。

ダメダメ家庭出身者が、「逃げるチャンスがあっても逃げ出さない。」心理に陥るのは、いわゆる集団的な監禁事件で生じるストックホルム症候群とは全然別物なんですね。
ダメダメ家庭出身者は、ほんのちょっとしたことで、希望を抑圧してしまう。
何回も書きますが、それがダメダメ家庭における処世術。

そして、希望を捨てているという自分自身を周囲に語る際には、どんな言葉になるの?
そう!
「ワタシは特別な希望を持っていないわ!ただ、ふつうの生活がしたいだけ!」
そんな言葉になるわけ。
まさに、自分自身で「特別な希望を持っていない」と語り、そして「ふつうの生活がしたい!」と語る。
「ふつうの生活」って、所詮は、やりたいことが何もない生活でしょ?
周囲の人のやっていることに、盲目的に合わせておくという発想ですよね?
希望を捨てている自分を表現した言葉なんですね。

現状認識から逃避し、自分の希望を抑圧しているんだから、そんな人とやり取りしても、実に、途方に暮れることになる。
以前に「うつろな人」というタイトルの文章を配信いたしましたが、こちらからのアクションに対するリ・アクションが消失してしまう。
キャラクターとしては、ボンヤリ状態であり、まさにマネキン状態。
人間の形はあっても、人間の感情を持っていないわけ。
しかし、「希望を捨てる」という地獄の処世術としては、そんなマネキン状態は、ある意味において、究極の悟りの境地とも言えるでしょ?「心頭滅却すれば火もまた涼し。」の快川上人もひれ伏すほど!
その人が、そのまま涅槃に旅立てば、周囲の人も、安心できるというもの。

しかし、何も考えないがゆえに、「てきとう」に結婚し、「てきとう」に妊娠し、「てきとう」に子育てをする。
いわば、心頭滅却がクセになってしまっているので、「顔をみるのもイヤ!」と言いながら、愛もないのに体を合わせ、子供を作ることに心理的な抵抗がないわけ。

しかし、マネキン人間は出産はできても、子育ては無理ですよ。だって、アクションに対するリ・アクションがない人なんですからね。子供だって、自分からのアクションに対してノー・リアクションの人とどのようにやり取りすればいいの?

そんな親は、「生きていても何も楽しくないわ!」と子供の前で公言しながら、ちゃんと生きている。そして子供に向かってグチり続ける。
まさにマネキンというか機械仕掛けで生きているようなもの。
そんな機械仕掛けの親によって育てられたんだから、「人の気持ちがわからない」ようになるのは当然でしょ?だって、親からは人の気持ちなんて習得できないわけですからね。

そんな心頭滅却の人は、たとえば、勉強するのも、勉強が楽しいからとか、進学とかの目的があるのではなく、一種の忍耐とかの精神修養になっているわけ。
目的達成のための忍耐ではなく、まさに、単にガマンのためのガマンになっている。
だから、ますます心頭滅却が加速し、自身の希望を抑圧してしまう。

こうなると、現状を認識することからも逃避して、問題を見ようともしない。
問題を見ようとしないんだから、つまり、何も問題がないことになり、何も対処する必要もなくなる。
ということで、ますます何も考えず、何も希望を持たない日々を過ごしていく。
こうして、「この門より入るもの、希望を捨てよ!」という地獄が、新たな家庭という形となって、この世において、また出来上がることになるわけです。

(終了)
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発信後記

本文中にも書いていますが、集団的な監禁事件において、拘束された側が、拘束する側に対してシンパシーを持ってしまうというストックホルム症候群と、ダメダメ家庭出身の人間が、誰かに連れまわされてしまう事件の際に、逃げるチャンスがあっても、そのまま逃げないこととは、まったくの別物。
そもそもシンパシーという感情そのものも、もっていないケースが多いのが、ダメダメ家庭出身者。

そもそもダメダメ家庭の人間は、「人に入れ込まれる」ケースも多く、連れまわし事件も発生しやすい。そして、そんな連れまわし事件を理解するためには、「入れ込まれる」理由なり、「連れまわされても逃げない」理由など、ダメダメ家庭のメンタリティを理解していることが必要になる。

何事も過程があるわけ。
事件の前の状況を考えないと、その事件の際の心理も理解できないわけです。
 R.10/8/10