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カテゴリー 会話のスタイル(発言側)
配信日 10年3月22日
タイトル サプライサイドの暴走
インターネットの検索をかけるとポイントがもらえるサイトがあったりしますよね?そんなサイトにおいて、ポイント目当てで、適当に言葉を入れてみたことがあります。
と言うことで「分かりにくいサイト」だったかな?
そんな言葉を入れたら、例の「H&M」のサイトについてのコメントがヒットしましたことがあります。
「H&M」って、スウェーデン発祥のファッション・チェーンです。まあ、ユニクロのスウェーデン版といえば分かりやすいでしょう。
数年前に日本にお店を出して、その後もお店が増えているようです。

しかし、あの「H&M」のホームページは、確かに分かりにくかった。
いきなりフラッシュ・ムーヴィーが出てきたり、そして肝心のお店についての情報がなかったり、商品である服についての情報がなかったり・・・まあ、不親切。
ただ、それがあのホームページのコンセプトとは言えるんでしょう。

私としては、いつ出店するのかな?お店の場所はどこかな?とか、
服のサイズのヴァリエーションに関心があっただけなので、いきなりのフラッシュ・ムーヴィーに困ってしまいました。まあ、他の人もそうだったんでしょうね。だから、分かりにくいサイトとかの言葉でヒットしてしまうことになる。まったくの素人さんのページなら笑って済むわけですが、プロが作っていて、それこそ動画も入っているのに、肝心な情報が出てこないと腹が立つ人もいるでしょう。
ユーザーとしては、最初にそのショップのサイトであることが確認できることが必要ですし、そのショップの特徴が分かることが必要でしょ?サイトを、作品として「鑑賞」してはいないんですからね。

まあ、PRする側にしても、サイトを制作する側にしても、色々と言いたいことはあるでしょうが、サイトを訪問する人の全員が、サイト全体を楽しもうとする人ばかりとは言えない。それこそ「この店は、このサイズの服はあるのかな?」という点に絞って訪問する人もいるでしょう。結局は、求める情報がサイトから得られなかったので、私は銀座のH&Mのお店に出かけ、店員さんにサイズについて質問して、結局なかったので、その店を後にした次第です。スウェーデン発祥のお店だから、あるかなとも思ったわけですが、なかったねぇ・・・

本来は、サイズのヴァリエーションくらいは、サイトで記載しておけばユーザーもラクと言えるわけですが、そのようなことは考えていなかったのかな?サイト全体を楽しんでほしいという思いが強すぎるのでは?
私としては、そのH&Mの商品とか、お店自体について云々しているわけではないんですよ。サイトについて考えているだけです。

しかし、たまに、ちょっと調べようとして、サイトにアクセスすると、いきなりフラッシュ・ムーヴィーがでてきて、肝心の情報がよく分からないサイトも実際にありますよね?
それこそ映画を紹介した公式サイトには、そんなパターンはありがち。
いきなりの映画の予告とかダイジェスト部分のフラッシュ・ムーヴィーがでてきても、上映映画館とかスケジュールとかに、なかなかたどりつけなかったりする。
コッチは、「あの映画館ではいつまでやっているのかな?そして何時から始まるのかな?」そんな点だけをチェックしたかっただけなのに、いきなりのフラッシュ・ムーヴィーなんて見せられて・・・

もちろん、映画を紹介するサイトなんだから、「こんなにいい映画なんですよ!」という思いがあるのでしょう。そんな気持ちを持って、そのサイトを制作したんでしょうね。その気持ちは自体は大切なもの。
しかし、そのサイトを訪問する人に配慮する必要があるでしょ?
上映している映画館についてチェックできないと、映画を見に行かなくなってしまいますよ。

そもそも、いきなりのフラッシュ・ムーヴィーだと、それが本当に探していた映画の公式サイトなのか?それとも、別のサイトなのか分からないでしょ?どこかの飲み屋さんなのか?それとも服飾のお店なのか?輸入小物のお店なのか?ちょっと見では分からないことも多い。
まずは、サイトの訪問者なりユーザーの状況を踏まえた上で、訪問者の要望に対応していくのが、適切な情報提供のスタイルなのでは?
作り手なり発し手が、「見せたい」「言いたい」と思うのはいいとして、それが、読み手なり聞き手にとっての「知りたい」「分かりたい」に対応していないと、逆効果になる・・・そんなことは分かりきったこと。

まあ、上記のH&Mのサイトは、その分かりにくさもコンサプトなんでしょう。
あるいは、映画の公式サイトは、サイト制作者の気持ちが暴走してしまったのでは?

それくらいならともかく、ダメダメの領域では、作り手なり言う側の暴走があったりするもの。
別の言い方をすると、「言いたい」という気持ちが暴走して、「分かってほしい」という面がおろそかになってしまっている場合も多い。

そもそもダメダメ家庭においては、当事者意識がない。
自分自身で達成したいものがない。だから誰かに協力を求めるようなこともない。
そんなことだから、会話の能力がない。
言いたいことといえば、「ワタシは悪くない!」それくらい。
それにダメダメ家庭の人間は、抑圧的であり、心理的には他者というものを認識できていない。いわば白昼夢の登場人物のように、自分以外の人を「なんとなく」認識していることになる。だから、相手という存在を踏まえたやり取りにはならない。

そんなやり取りを積み重ねていると、「分かってほしいこと」と「言いたいこと」の間の乖離が起こってしまう。
「言いたいこと」はどんどんと暴走していくのに、それが「分かってほしいこと」にはつながらなくなってしまう。
と言うか、自己逃避のダメダメ人間は、その「自分の○○を、このような人に分かってほしい!」そんな気持ち自体を持っていない。いわば白昼夢の中で大声で叫んでいるかの様相を呈してしまう。

「これを絶対に言うんだ!」
そんな気持ちを持つのはいいとして、言う対象は見えていないし、想定できていない。
本来は、コミュニケーションの基本は、「このような人に、このようなことを分かってほしい。」と言うものでしょ?
何かを表現する際には、対象については、当たり構わずというわけにはいきませんよ。
自分の考えを理解し、合意してくれる可能性のある人に対して、真摯に説明すればいいだけ。
しかし、何度も書きますが、その自分の考えそのものがないのがダメダメ人間というもの。
だからこそ「分かってほしいこと」が存在せず、「言いたいこと」との乖離がどんどんと大きくなってしまう。
そんな乖離は、比較的落ち着いた状況でのやり取りくらいなら目立たなくても、ちょっとパニックになったり、あるいはエキサイトしたりすると、まさに「言いたいこと」が暴走してしまう。

以前におもしろい実例があったんですよ。
私が家にいると、突然に訪問者がありました。
その人が、インターネットがどうのこうの・・・とか言い出している。
正直言って何を言っているのか分からなかったので、「あのぉ〜、いつまでそれをやるんですか?」と聞いたところ、『あと5分ほどです。』との笑顔での回答。
そして、相変わらずの説明を続けている。
サスガに私もブチ切れてしまって、「さっきから何を言っているのかサッパリわからないよ!」「アナタはそもそも何者なの?」と言ったところ、その人の言葉が突然に関西弁になってしまって、説明を必死で続けようとする始末。
急に関西弁になったということは、「何を言っているのか、さっぱりわからない!」と怒られて、パニックになったんでしょうね。
しかし、そもそも「後、どれくらいそれを続けるつもりなの?」と婉曲的に言われた段階で、『この人は脈がないな・・・』と判断すればいいだけ。そして『お忙しいところを、ありがとうございました。』と心にもない社交辞令を言って終了すればいいだけですよ。

訪問販売だったら、契約を取るのが目的でしょ?
説明をすることが目的ではないでしょ?
脈のない客に無理に説明しようとしても、契約が取れないだけでなく、相手から怒られるのは、子供でもわかりますよ。
それに、その訪問販売の人は、最初にそもそもの立ち位置を明確にしませんでした。だから何を説明しているのか、その大枠が分からないまま、説明を聞くことになる。
こちらとしては、それこそ宗教の勧誘なのかな?新聞の勧誘なのかな?布団の販売なのか?そんな大枠の整理からやる必要がある。それができていない段階から、細々と言われても何を言っているのかわからないのは当然のこと。
インターネットの光回線の勧誘なら、それはそれでいいわけですが、まずはその点を明らかにしないと、聞いている側は分かりませんよ。

最初に例示した、分かりにいくいサイトと同じように、まずは、大枠を押さえることが必要になるわけです。そして、その後に、細かな情報を提示すればいいだけ。
いきなり細かな情報を提示されても、情報をサプライした側としては、インターネットの関係のセールスのつもりでも、受け手の側としては「へぇ・・・光がどうのこうのって、ヘンな宗教だなぁ・・・」と思われちゃうだけですよ。
しかし、「言いたいこと」が暴走してしまって、「分かってほしいこと」がなくなってしまっているという状況は、そんなトンチンカンな訪問販売の事例ばかりではありません。

それこそ、インターネットの掲示板なんて、そんな状況の典型でしょ?
銘々の参加者が「言いたいこと」を声高に書き込んでいるのはいいとして、その書き込んでいる人は「どんな人に対して、どんなことを分かってほしいのか?」その点をちゃんと自覚した上で書き込んでいるの?
文章を書き込むのはいいとして、その掲示板に参加していて、自分の書き込みの文章を読む人は、自分の文章なり考えを理解できるだけの知的能力があると判断した上で書き込んでいるの?
分かってほしいことが明確なら、それを理解できる知的能力のある人に宛てて、説明しなくては意味ないでしょ?
魚に説教する聖アントニウスじゃあないけど、やるだけムダですよ。

知りたい、分かりたいという気持ちを持っている人だからこそ、情報なり意見を提示すると、分かることになるのであって、そもそも「知りたい」「分かりたい」なんて思ってもいないような参加者に対して声涙下る熱弁をふるっても、ピエロですよ。しかし、そんなギャグ的な光景は、掲示板だといつもやっていることでしょ?
あんな掲示板の参加者って、「言いたい」という気持ちを持っていても、「分かりたい」という気持ちを持って参加してしないでしょ?だから、「読んでやる!」と上から目線で他者の文書を読むことになる。そもそも「知りたい」「分かりたい」という気持ちがないんだから、それは当然のこと。そもそもそんな連中に説明するだけ、オバカですよ。
分かりたいと言う気持ちのない連中に無理に説明して、相手にされず、「どうして分からないんだ?!」と、更に熱くなる始末。
そして、過激な言葉を使い出す。過激な言葉はいいとして、その言葉を読んだ側は、何を分かるの?

そんな状況は、「言いたいこと」と「分かってほしいこと」の乖離の観点から見ると、意外にも理解しやすいもの。
ダメダメ家庭の人間は、合意を取るという発想がないことは、以前に配信しております。
そんな人の物言いは、「言い放し」であって、相手のキャラクターなり、相手からのリアクションを踏まえたものにはならない。
「相手から合意を取った」という成果を求めているのではなく、「自分は言った。」ということしか成果?はない状態。
逆に言うと、ヘタに理解されてしまうと、相手から反論をくらってしまう。
だから反論を食らわないようなローカルな表現を取ることになる。その場所でしか使われないような表記とか、あるいは方言を使用したり・・・
インターネット上の方言こそ、「言いたいこと」と「分かってほしい」ことの乖離の様相としては、典型的な事例でしょ?

あるいは、最近だと、日本の首相の鳩山さんがその典型と言えます。
それこそ、所信表明演説でインドのガンジーさんの言葉を引用したり、あるいは、「ブレは宇宙の真理・・・云々」との言葉はいいとして、じゃあ、そのガンジーさんの言葉なり、ブレの問題を語ることで、どんな人に何を分かってほしいの?
所信表明におけるガンジーの言葉の引用が、鳩山さんの考えを理解してもらうために、どんな効果があったの?
鳩山さんは、ガンジーの言葉を「言いたかった」のかもしれませんが、「何を分かってほしいのか?」その自覚がないんですね。

結局は、「ボクちゃんは悪くないよ!」ということでしょ?
だからこそ、対象を絞れないし、本当の意味で合意してほしいことはない。
だって、そんな「ボクは悪くない!」という言葉は、所詮は自己弁護であって、誰か他者に宛てたものではなく、自分を納得させているだけなんですからね。

それこそ、インターネットの掲示板で、罵倒の応酬になって、なんとなくご立派な言葉を引用しているようなもの。相手より、自分に言い聞かせているだけ。
分かってほしいことが、自分でも明確なら、そもそもそんな掲示板などには行きませんよ。
最初から、客観的な文章をまとめればいいだけ。

分かってほしいことがない人ほど、何かあると、「どうしても言わなくっちゃ!」というサプライサイドの発想が暴走してしまう。
そうして、その「言わなくっちゃ!」の暴走のために、強い表現を使って、感覚が麻痺してしまう。鳩山さんのご立派な言葉も、インターネットの掲示板で出てくる、粗暴な言葉の変種と見ると、意外にも理解しやすいでしょ?

その手の人は、言葉や表現の熱さはあっても、結局は軽いもの。
言葉の重さや人生の重さがわかっていない。
掲示板で熱くなるような連中は本当の人生が見えていない。
もともと、「伝えたい」ものを持っていはいない。
だから、ますます軽く、そして熱くなってしまう。

その手の言葉は、相手から合意を取るための言葉ではなく、自分を騙すための言葉なんですね。
サプライサイドが暴走している人は、「合意を取るためにどうすればいいのか?」という発想がない人でしょ?
だからこそ、粗暴な言葉や、ムダに立派な言葉を使ったりする。
あるいは、それこそつるし上げのようなことが大好き。

このようなことは、それこそ、誰かから痛いことを指摘された際に、典型的に発生したりするものです。以前に「反論しなくちゃ!」というタイトルの文章を配信しておりますが、反論することは熱心でも、その反論によって、指摘してきた相手に対して分かってほしいことがないわけです。
自分の考えを説明したいのなら、落ち着いて説明すればいいだけ。
指摘した側の論理に無理なり間違いがあるのなら、その点を、落ち着いて指摘すればいいだけ。
そんな落ち着いた表現で納得しないような相手なら、やり取りするだけムダですよ。
バカは放っておけばいいだけでしょ?

「言わなくてはいけない!」
そんな心情になっている場合には、ある種の後ろめたさがあるものなんですね。
「ああ!この人はこの点についての理解が不十分なようだから、この点をより詳しく説明しておいた方がいいな・・・」それくらいの落ち着いた状態における説明なら、相手も合意してくれる可能性も高いし、合意がなくても、お互いの考え方を相互に認め合うことができる。

後ろめたかったり、本当に説明したいことがなかったり、相手に分かってほしいことがなかったり、あるいは、自分でも分かっていないことだったりだと、マニュアルどおりで通用する状況においては対応ができても、いったん、そこから外れるとパニックになり、「どうしても言わなくっちゃ!」と燃え上がってしまう。
「言わなくっちゃ!」はいいとして、そんな人に限って、「このことを分かってもらいたい!」そんな気持ちがないし、そもそも「分かってもらいたいこと」それ自体が存在しない。その点を自覚すればいいわけですが、そんな自分自身を、粗暴な言葉やご立派な言葉でごまかすことになる。

抑圧的なダメダメ人間にしてみれば、「言わなくっちゃ!」と「分かってほしい」の間には、大きな乖離があり、ちょっとのパニックでスグに発現したりするものなんですよ。
そうして、暴走してしまう。
そんな状況では、「言わなくっちゃ!」と当人は思っていても、実際にはその主張に自信はない。
自信があれば、そんなに安っぽく扱いませんよ。
「言わなくっちゃ!」という感情は、「どうしても伝えたい」とか「後世に残したい!」という心情とは別なんですね。
だから、分かりやすい形なり、後世まで残るような客観的なスタイルの表現にまとめたりはしないでしょ?
所詮は、インターネットの掲示板とか、あるいは新聞とかの「言い放し」が通用する世界でしょ?

どんな見解を持つのもいいわけですが、それを「言いたいのか?」、それとも「分かってほしいのか?」そんな点に注意して、もう一度見直してみると、その見解以外の点についても色々と見えてくるわけです。

(終了)
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発信後記

今週は、「言いたいこと」と「わかってほしいこと」の間の乖離の問題に関する文章を集中的に配信いたします。

多くの人は「わかってほしい」から、相手に対して、一生懸命に「言っている」と思っているわけですが、ダメダメの領域では、それは違っているわけ。
ダメダメの領域では、「言う」対象を凝視することにより、自己逃避しているわけ。
対象を見つめても、自分自身から逃避しているんだから、「わかってほしい」ことではない。

本文中にも書いていますが、インターネット掲示板なんて、まさにそんな様相でしょ?
 R.11/1/9