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カテゴリー 認識からの逃避
配信日 10年4月9日
タイトル 認識の共鳴 (オカルト傾向)
以前にこのメールマガジンで「オカルト趣味」についての文章を配信しております。
ダメダメ家庭の人間は、「恋に恋する」ように、守護霊とか幽霊とか前世とか・・・そんなオカルトがかった話をしたがるもの。

しかし、面白いもので、そのような守護霊とか前世とかを、熱く語る人は、幽霊を実際に見る人ではない・・・現実は、そんなものでしょ?
その手のオカルト趣味の人が語るのは「あの○○さんが、守護霊がこうしたせいで、こうなったと言っている・・・」「あの事件の背後には、その地で非業の死を遂げた人の怨念があると言っている人がいる・・・」そんな感じで「又聞きのスタイル」で語ったりするもの。

実際に幽霊を見るという人は、そんな感じで「熱く」語ったりはしませんよ。
実際に幽霊を見ると自称する人と、幽霊についての話をしたりすると、実に地味なもの。
「夜に寝ていると、布団の上にいて、コッチを見ている・・・」とか「夕方に、自転車に乗っていると、気配がするので、後ろを見ると、荷台の上に幽霊が座っていて、脚をブラブラさせている・・・」とかの話をされたことがあります。その人によると、「悪さをするわけではないから、別にいいんだけど・・・何となく鬱陶しい。」とのこと。

まあ、いつの間にか自転車の荷台に乗っかって、脚をブラブラさせている幽霊は、色々な意味で非常識ですよ。自転車も2人乗りは危険ですしね。もし事故でも起こしたら、その幽霊も死んでしまいますよ。

幽霊の話でも、実際に見る人の話は、実に地味なもの。
そもそも、実際に「見える」人は、そんな話を一般の人に話しても、なかなか分かってもらえないと思っているので、自分から率先してはその話をしないもの。
逆に言うと、面白おかしく話をする時点で、ちょっと胡散臭いといえる。

このメールマガジンでは、オカルト趣味については否定的ですが、幽霊そのものを否定しているわけではありません。その人が、本当に見えるのなら、それはその人にとっての現実でしょ?幽霊が見えると語る他者の話を、盲目的に信奉する・・・それは問題なのでは?と申し上げているだけです。

実際に、その手のオカルト「趣味」の人とやり取りをすると、珍妙なことになってしまう。
「守護霊がいるって・・・どうしてアナタはそう考えるの?」
『だって・・・あのエライ○○さんが、そう言っているから・・・』
「その○○さんの言っていることが、どうして正しいことだと思うの?」
『だって・・・あの○○さんは、守護霊が見えるくらいのスゴイ人だから・・・』

まさに幽霊もビックリして生き返るくらいの、雲をつかむようなロジックですよ。
その人が、実際に幽霊が見えないのなら、無理にその判断をする必要はないわけでしょ?
だって、見えないんだから、基本的には関係ないということ。
まずは、当人が見えているものをしっかり認識し、そこから自分でしっかり考えればそれなりの結論も得ることができるでしょ?必要に応じ、オカルト情報もオプショナルに参考にすればいいだけ。

しかし、オカルト趣味の人は、目の前の現実を見ないため、そして、自分で考えないために、「自分が見えていない」ものを持ち出すことになる。
だからこそ、「自分が見えていない」ことが重要になってくるわけです。

だから、面白いもので、幽霊が実際に見えると語る人は、オカルト趣味の人と一緒にはやらないもの。オカルト趣味の人は、その同じ趣味の人と結びつくことはあっても、実際に幽霊を見る人とは一緒にやらない。実際に幽霊を見る人にしてみれば、「オカルト趣味」の人とは現実を認識する根本のスタイルが違っているわけでしょ?そんな人とやり取りをしても面倒なことになるだけですよ。オカルトをありがたがる人は、幽霊を見えている人と自分たちは分かり合っていると「盲目的」に思っても、見える側の人は、そんなに盲目的にはなっていませんよ。実際に幽霊を見る人は、オカルトを「ありがたがったり」は、しないもの。だって、ある意味において、身近な現実に過ぎないわけですからね。

まだ、「一般的な」現実をしっかり見て、そこから自分なりに判断していける人と、実際に幽霊を見る人とはやり取りができる。だって、目の前のものをしっかり見て、そこから自分で考えていくというプロセスは共通しているでしょ?ただ、その見ている現実が、幽霊を見る人は、アディショナルな「別のモノ」が見えると言うだけ。そもそも、現実無視の人とはやり取りができませんよ。幽霊を見る人は、幽霊も含めて現実というだけなんですね。

「見る」と言うことについては、幽霊を見るというオカルト的な例ばかりではなく、世の中には芸術的な「見る」もあります。
このメールマガジンでは、そんな芸術家の語った「見る」という言葉をよく取り上げたりしております。まあ、一般人とは違ったレヴェルの洞察力を持つ人は、現実にいるもの。

その手の芸術的な「見える」でも、先制的に、それを主張したりはしないもの。だって、どうせ一般の人に言っても、実感として理解できるものではないんですからね。まあ、「妙に納得した。」と言われるのがオチ。その点は幽霊のようなオカルトと同じですよ。
むしろ、その見えているものを客観的な作品として残せば、全然知らないところで、理解してくれる人もいるでしょ?同じ場所とか同じ時代とかではなく、あるいは、必ずしも顔を合わせたやり取りではなく、もっと別のところで共感も生まれますよ。実際に、会ったこともない過去の人が制作した作品から、「ああ!この作者さんも、あの△△が見えるんだ・・・」などと共感することもできる。

もちろん、一般の人に対して、先制的にそれを主張しなくても、人から相談などを受ければ、見えている現実に基づいて説明することになります。
その手の芸術的な霊感や洞察は、一般人に対して先制的に主張するものではないわけ。だって、多くの人に説明しても、どうせ実感は持てないわけですからね。ヘタをすれば誤解されるだけ。
それに「見える側の人間」にしてみれば、それが、人によっては「見えていない」ことがわからない。やり取りをして初めて「えっ?この人は、これが見えないんだ・・・へぇ・・・」と驚くだけ。だから「見える」ことを、先制的に主張しようがない。
購読者の皆さんだって、目の前にエンピツがあったとしたら、その「エンピツがある。」ということを先制的には主張しないでしょ?誰かとやり取りをして、その人が「自分にはアナタがいうエンピツが見えない。」と言われたら、その時になって初めて「ワタシにはエンピツが見える。」と主張するだけ。
そんなやり取りを積み重ねると、自分の見ているものが、一般人にとっては、アディショナルなものだとわかってくることになる。

一般の人とは違った芸術的な洞察力があると、どうしても同類が結びつくことになる。
そもそも話が早い。「ああ!キミもあれが見えるの?」『見えるよ。』
そんなやり取りだけで、一般の人とのやり取りでは到達できないレヴェルまで相互理解が進むことになる。同じ感覚で、同じ意味の言葉を使っているので、理解が早い。いわば認識のベースそのものが共有された状態と言える。

それこそ、以前に取り上げたアニメ作品の「蟲師」ではそんなシーンがいっぱい出てきましたし、芸術家を描いた映画などでは、そんなシーンはお約束のように描かれているもの。
血のつながりよりも、「世界の見え方が近い」という、認識のつながりの方が強烈なんですね。

一般的に言われる、家族の間柄だと理解が早いというのは、共通の体験をしていて、認識のベースが近い・・・本来なら、それが原因でしょ?あるいは、多くの会話が積み重なっていて、お互いについてよくわかっている、よく言う言い方をすると「気心が知れている。」・・・・そんな理由からでしょ?生物的なDNA配列の問題ではないわけです。
しかし、ダメダメ家庭においては、共通の体験などはしていない。思い出すだけで不快な気分になってしまう・・・それがダメダメ家庭というもの。
だから、ダメダメ家庭においては、本来は共通認識などは持っていない。

しかし、逆に言うと、マイナスを基盤とした認識ベースは共通していることになる。
楽しい体験の不在を元にした世界認識。
会話の不在を元にした世界認識。
思いやりの不在を元にした世界認識。
最初に被害を考える認識スタイル。
あるいは、現実から逃避する認識スタイル。

その手のマイナスを基本とした認識は、ダメダメ家庭においては、家族で共通している。
だからこそ、家族で合意できるのは、そんなマイナスの面ばかりになってしまう。
もはや世界の見え方が、一般人と違ってしまっている。
ダメダメ家庭出身者は、事物を見ながら、そこに「自分の被害につながる」ものをいち早く見つけることになる。まさに列車に飛び込む前のアンナ・カレーニナのようなもの。

幽霊が見える人とか、芸術的に見える人は、その「語り」は地味なモノ。
そもそも、一般の人に言っても分かってもらえない・・・そう思っているんだから、派手には語りませんよ。
しかし、「被害」や「あら」ばかり見える人は、その「語り」がエキセントリックになってしまう。そうして「どうして、分かってくれないの?!」と更なる嘆き。
結局は、その「被害」を共有出来る人同士で、結びつくことになる。
そうして「ワタシはかわいそうな被害者なのよ!」『まあ!お気の毒に!ワタシも気の毒な被害者なのよ!』で共鳴。

認識ベースが共通しているので、その結びつきも強烈。その点は芸術家同士が「あれが見えるの?」『そうそう、見える。』ですべて分かり合えるのと同じ状況といえる。結局は、その結びつきによって、マトモな一般人から遊離してしまう。

ダメダメ家庭の人間の認識は、幽霊が見えるとか、芸術的な霊感のように、別のモノがアディショナルに見えるというのではなく、客観的な現実がぼやけてしまう・・・そして、被害だけが相対的によく見える・・・そんなスタイルに近くなっている。
客観的な事物が見えないからこそ、その手のダメダメな人と一般人との間の共通認識は、幽霊が見える人や、芸術的な面で見える人が一般人との間に持つ結びつきよりも難しくなる。幽霊を見える人も、芸術的に見える人も、客観的な現実そのものも見えている。その客観的な現実の面においては共通認識として持つことができるでしょ?

しかし、オカルト趣味のダメダメ人間は、その客観的な現実が見えない、というか見ようとしない。ダメダメ家庭の人の「見える」は、実際は、「見えない」に近い。ただ、「被害」とか「あら」が消えずに残っていると言うだけ。
そのように現実が沈んでしまったからこそ、オカルト趣味も受け入れやすくなる。
そして、そんな人同士が結びつき、更に、客観的な現実が沈んでしまう。

そんな人と一般の人がやり取りすると、認識のシステムが違っているのに、一応はやり取りが成立という、いわば「不思議の国のアリス」状態になってしまう。現実認識が出来ない人は、「やり取りが意味的に成立しなかったという現実」を認識できないのは論理的に当然のことでしょ?
結局は、「この人とは、やり取りが成立しなかった。」という現実認識が出来た側の人間が、避けるようになってしまい、その認識が出来なかった人間が、吹きだまりのように集まってしまう。そしてその集まりによって、認識が一般人から更に遊離することになる。

どうせ、話をするなら、話の合う人としたい・・・って、当たり前のこと。
ダメダメな人とやり取りをしている人は、逆に言うと、そんなダメダメな人と話が合っているということ。これが芸術的な面で見えるとか、幽霊が見えるとかのような、アディショナルな認識パターンならともかく、ダメダメな結びつきはマイナスの方向。
いわば、一般の人が見えているものが見えない状態。
それゆえに、同類同士の結びつきは強いわけですし、その人の周囲の人を見れば、当人について、おおよそのことがわかるわけです。まさに類は友を呼ぶという言葉の通り。

そして、そんな人は「見ないで済む」スタイルを求めることになる。むしろ自分の見ているものを否定したがることになる。
まさに「自分が見えないもの」だけをありがたがるオカルト趣味に走ったり、あるいは、「正しい考え」を「学ぶ」という教条的なスタイルに逃げ込んでしまう。

「正しい考え」を「学ぶ」というパターンでも、現実を直視しなくてもいいわけでしょ?
権威筋から言われたことを、ただ言っているだけでいい。
そして、その「正しい考え」が現実に適用できない事態になったら、「ケシカラン!」と怒っていればいい。
だからいわゆる新興宗教は、そんなオカルト的なところと、「正しい考え」を「学ぶ」という教条的なスタイルの両方を持っているものでしょ?
それだけ、構成員が、「見なくても済む」「考えなくても済む」ようにしているわけです。

現実を直視しないんだから、トラブルがあっても「ケシカラン!」と怒っているだけだったり、「アイツのせいで・・・」と相手を犯人認定して恨んでいるだけ。
自分なりの現状認識なり、判断までフィードバックして、善後策を取ったりはしない。
しかし、そんなことだから、同じ失敗を繰り返すことになる。

トラブルになって、相談のような場になった際には、相談を持ちかけている側の人が、当人が見えているモノをしっかり見て、その上で相談を持ちかけてくるのなら、アディショナルな視点も意味が出てくるでしょう。
オカルトというか、いわゆる超能力もいいわけですが、まずは通常の能力が問題でしょ?
中学生レヴェルの認識能力なり説明能力もない人が、「すっごい超能力」とかについて熱く語っても説得力はありませんよ。一般的な事象に対して、標準レヴェルをはるかに凌駕する、分析能力なり説明能力があった上で、オカルトなり超能力についても説明するのならまだしも、そうでなかったら、とてもじゃないけど、マジメには聞けないでしょ?
まずは、一般的な事象を、客観的に説明することが先ですよ。

誰でも見えるような客観的なものまで見ようとしない人から相談を受けたら、回答としては、その「見ようとしない」ことそれ自体を指摘することがまずは最初に必要となるわけです。
自分の子供の名前を1年以上呼んでいないのに、守護霊がどうのこうの・・・でもないでしょ?

しかし、現実逃避のダメダメ人間は、誰でも見ることができる客観的な現実から目をそらし、全部他者のせいになっている。
やり取りを進めていくにあたって、双方が見えるものを基準に進めていくのが当然のこと。
片一方だけが見えるものを中心に語っても、本来は相手の理解は得られない。
オプショナルな形で「見えない」ものに付随した説明をすることも有効であるけど、基本は違うもの。
しかし、神父とか僧侶とかのオカルト系の相談相手は、まずは「見えない」ものから語る。
それは、自己逃避で現実逃避している、抑圧的な人間にしてみれば、ありがたいし、受け入れやすい。

オカルト系の相談相手は、それこそ離婚相談の際に、義母との同居や、夫と子供の仲などは何も尋ねずに、「てきとう」に美辞麗句なり、オカルト話を繰り広げる。
しかし、現実から逃避し、自己から逃避している抑圧的な人間にしてみればその方がラク。
「へぇ・・・そんなものなの?へぇ・・・」と喜んでいればいい。
そして、指摘された犯人を恨んでいればいい。
そして、自身では何も対処せず。
だから、同じようなトラブルを繰り返す。

それこそ結婚生活の問題でも、「夫のせいで・・・」と恨んでいるだけ。
「どうしてあんなオトコと結婚してしまったのか?」
「周囲の人間はどうしてサポートしてくれなかったのか?」
「これからどうしようか?」
そんなことは何も考えない。
『まあ!なんてお気の毒なの?!』と甘言を弄する人間ばかりを周囲に集め、「ああ!ワタシって、何てかわいそうなの?!」と悲嘆に暮れているだけ。

そして、守護霊がうんたらかんたら・・・前世がうんたらかんたら・・・と、オカルト話。
そんな女性は、「子供のために離婚しない!」なんて周囲に語って、周囲からますます同情を得ようとするもの。
しかし、そんな現実逃避の人間に育てられ、お互いが顔を見るのもイヤという間柄の夫婦を間近に見ていた子供がマトモに育つわけがないのは、それこそ小学生でもわかること。
しかし、現実逃避の人間には、そんな当たり前のことも見ようとしない。

結局は、子供がトラブルを起こし、やっぱり守護霊がうんたらかんたら、前世がうんたらかんたら・・・と、やっぱり現実逃避。
当人が同じ失敗を繰り返すくらいなら自己責任でしょうが、結局は、そんな人に育てられた子供も同じ失敗をするものなんですね。

そして、トラブルの張本人は「前世からの因縁だ!」と勝手に納得してしまう。
そんな人は、脚をブラブラさせている幽霊から、「オマエも、もっと地に足をつけろよ!」って怒られてしまいますよ。

(終了)
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発信後記

以前に「超肯定による否定」というタイトルで文章を配信しております。
不確かなものなり、遠くのものを絶対的に肯定することで、身近なものを否定する心理です。
それこそ恒久的な世界平和を主張することで、自分の家族の問題から逃避するわけ。

そんなパターンが認識において発動すると、このようなオカルト趣味になるわけです。
守護霊や前世を絶対的に肯定することで、身近な存在を無視するわけ。
ちなみに、本文中にも書いておりますが、私個人は幽霊の存在を否定しているわけではありません。見えてもいないのにありがたがる心理について、考えているだけです。

ちなみに、明日の文章は、とあるアニメ作品を取り上げますが、この手のオカルトが関係しております。ただ、テーマはオカルトではありません。
認識と判断をテーマにしている作品です。
 R.11/1/3