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カテゴリー ダメダメ家庭の雰囲気
配信日 10年4月12日
タイトル 「被害者=善」の構図
 ダメダメ家庭の人間は、当事者意識がなく、自分自身の目標もない。
そして、抑圧的であり、自分自身で考えることから逃避している。
だから、単純な二項対立的な図式でしか、物事を理解できない。

それこそ「被害者vs加害者」という単純な図式で物事を見ようとすることになる。そうして、何かあると、「あの○○によって、ワタシは被害を受けた!」と周囲に主張することになる。
自分の被害を語るのはいいとして、被害以外には何を語れるのかというと、何も語れない。そもそも自分自身の目標があるわけでもないし、だからこそ達成した成果もない。
だから、「アナタがその件で被害を受けたのはいいとして、で、結局は、アナタはどうしたいの?」などと聞かれると、『どうして、そんなことを聞くのよ?!』と逆上する始末。

その人にとっての被害とされることを語るにせよ、「自分が達成したい目標のためのハンディキャップとして『○○』がある。」というスタイルなのではなく、むしろ自分が被害者としてのアイデンティティを確立するために、「加害者たる○○」に依存している・・・そんな状況に近くなっている。

ダメダメ家庭の人間の二項対立的な発想は、その「被害者vs加害者の構図」だけでなく、「善vs悪」の単純な図式となって現れたりもします。以前より頻繁に触れておりますが、物事の見方に倫理的な色彩が強くなってしまう。倫理はいいとして、たとえば「大学受験のために勉強する。」などと言ったことは、倫理の問題ではないでしょ?「自分は将来に何をしたいのか?」「そのためにはどんな方法があるのか?」そんなプラグマティックな問題でしょ?
しかし、ダメダメ家庭の人間は当事者意識がないので、プラグマティックな発想はしない。「どっちが倫理的にいい方なのか?」「誰が悪いのか?」そんな観点でしか物事を見なくなっている。

そして、善と悪の役割を分担するに当たっては、その基本的な構図は、従来より身についている「被害者vs加害者」の構図をそのまま適用することになる。
つまり「被害者=善」「加害者=悪」という単純な構図となるわけです。
そんな認識の仕方は、一般的なものの見方と大きく違っているわけではないでしょ?
「被害者を悪」と言ったら、周囲から総スカンを食らうかもしれませんが、「被害者を善」と言っておけば、周囲に対しても通りがいい。

かと言って、それこそ大学受験の勉強のように、何も無理に被害者と加害者の対立の図式に持ち込む必要はないでしょ?自分のやりたいことを自覚し、掲げ、そのために障害があるのなら、その障害をプラグマティックに解決していけばいいだけ。ほとんどの物事には加害者も被害者もありませんよ。
しかし、当事者意識がなく、自分自身の目標がないので、どんな不都合なことも、自分が被った被害と認識してしまう。だから「被害者=善」という図式だったら、自分にとって認識しやすいし、それ以外の構図を持っていない。
つまり、その手の人にしてみれば、加害者を糾弾することは、自分を被害者と認定する行為なのであって、それは自分自身の倫理的な価値、別の言い方をすると「自分は善なる存在である。」ということを周囲に知らしめる行為となっているわけです。

それこそドメスティック・ヴァイオレンスなどでもそんな状況になっている。
妻に暴力を振るっているオトコは、まあ、確かに倫理的に問題があるでしょう。
しかし、そんなオトコと一緒になるような女性も、倫理的には問題がないにせよ、「人を見る目」がないという意味ではプラグマティックに問題があるでしょ?

しかし、その手の状況になると、「暴力オトコ=加害者」という構図を強調し、「自分=被害者」という図式に持ち込み、「被害者であるがゆえに、善である。」という理屈にしてしまう。
「暴力オトコは悪い加害者。」という言葉における「悪い」という言葉の反対の意味としての「善」であり、「加害者」という言葉の反対の言葉としての被害者となる。つまり、ドメスティック・ヴァイオレンスにおいて、被害者と暴力オトコは対立するもので、暴力オトコと善も対立する。つまり反対の反対により、「被害者=善」となる。
何度も書きますが、そんな女性は、確かに被害者であっても、それゆえに「倫理的に善」とは言えないでしょ?加害者は倫理的に悪と言えるのかもしれませんが、被害者が善とは言えませんよ。

しかし、抑圧的なダメダメ人間にしてみれば、「被害者=善」という図式であり、だからこそ加害者を糾弾し、自分自身は被害者だと認めてもらいたがる。
逆に言えば、自分に対して、加害をなす存在が必要になってしまう。
逆説的になりますが、「被害者=善」という構図になってしまっていると、被害を受けないとその人の人間的な価値がないことになってしまうでしょ?
だからこそ、周囲に対して執拗に被害者認定を求めることになる。
逆に言うと自分への加害者認定には過剰に反応し、逆上したりする。
だって、被害者としてしか自分を説明できない人間にしてみれば、加害者認定されてしまえば、自分の全存在を否定されたようなもの。

だからこそ、クレーム自慢が多発することになる。
クレームを主張することによって自分が受けた被害を主張し、自分の被害を語ることで、自分の倫理的な価値を主張しているわけです。そして相手よりも先にクレームを付けることによって、相手からクレームを付けられることを回避しようとする。何かにクレームを付け、自分をかわいそうな被害者と認めてもらうことが唯一の目標となってしまっている。そしてその人たちの心理としては、それは倫理的な向上心に近いといえるくらい。
そんな環境だからこそ、その人の子供も同じような人間になってしまうのは当然ですし、周囲全体がそんな状況だったら、その地域の子供全体がそんなクレーマー予備軍となってしまうでしょ?

何回も書いていますが、「被害者=善」という図式なんだから、クレームを付け続けることは、自分が善なる存在であるアピールとなっている。
その手の人にしてみれば、相手にいやがらせする行為は、心理的には報復行為になっていて、自分の被害を確認する行為となる。つまり、いやがらせであるがゆえに、倫理的になっている。
そして自分が加害者認定したものに、クレームを付け続けたり、被害ばかり主張する同類同士で結びついたりする。同類が結びつくのはいいとして、結局はその内部で、「どっちの側が、より、かわいそうなのか?」でモメることになる。「被害者=善」という構図を元にすれば、「どっちの側が、よちかわいそうなのか?」という問いかけは、「どっちの側が、より善なる存在なのか?」という問い掛けと同意になっている。

そして「よりかわいそう」と認定されれば、それすなわち「より善なる存在」となり、善なるものの高貴なる権利として、周囲に対して無理難題を吹っかけることが、倫理的に正当化されてしまう。
そして、無理難題を吹っかけることで、「こんな無理難題を吹っかけられてしまうオマエたちよりも、ワタシの方がよりかわいそうなんだぞ!」とアピールすることになる。そんな行為ばかりしているので「より被害が大きい=より善なるもの」の構図がスパイラル的に進行してしまう。

しかし、無理難題を周囲にふっかけることによって、「自分は善なる存在である。」と主張されても、周囲としては途方に暮れるだけ。
しかし、韓国人や北朝鮮人の行動って、まさにそんな流れになっているでしょ?あるいは、インターネットの掲示板なんて、そんな様相を呈しているでしょ?

あるいは、昨今話題のモンスターペアレンツの心理も、このような心理を理解していると、意外にも見通しがよくなるものでしょ?
今まで書いてきたことを合わせればわかりますが、モンスターペアレンツ自身は、そのクレーム行為を倫理的なものと考えていて、そんな倫理的な行為ゆえに、自分自身を善なる存在とみなすわけです。

「被害者=善」という構図なので、被害や加害に対してのセンシビリティが高いだけでなく、やたら「善vs悪」でものを見る。
離婚のような状況でも、「どっちが悪いのか?」と、「善vs悪の構図」で議論する。
そんな議論に逃げ込んで「どうして、あんなオトコと結婚してしまったのか?」「どうして周囲の人間はアドヴァイスしてくれなかったのか?」「将来的には、自分はどうしたいのか?」そんな問題から逃避してしまう。

離婚したり、シングルマザーになったら、「ワタシは悪いオトコに騙されたかわいそうな被害者だ。」と認識し、「被害者なんだからワタシは善なる存在。」としてしまう。だからそれを自慢することになる。
離婚自慢とかシングルマザー自慢とかは実際にあったりするでしょ?

本来なら、そんなことは自慢するものではないわけですが、「被害=善という構図」があるので、「離婚したがゆえに、ワタシは立派だ!」となってしまう
そもそも当事者意識がないので、あらゆることを被害としてしまう。離婚だって、自分が被った被害として認識し、「被害者なんだから、善である。」と主張する。そして、それを自慢する

だから、離婚のような事態を繰り返すことになり、更に被害として語り、再び「善vs悪の構図」が登場し、さらに善なる存在となることができる。離婚を何回もやっているからこそ、そんな人は「自分は善なる存在」と、当人としては思ってしまっている。

逆に言うと、結婚する前には、まだ顕著な被害が発生していないわけだから、当人は何も考えない。そもそも自分自身からも、あるいは現状認識からも逃避しているんだから、結婚するにあたって、何も考えませんよ。考えるとしたら、「こんな人と結婚するハメになって、ワタシって、かわいそう!」それくらい。そう思っているのなら、結婚をやめればいいわけですが、内心では被害に惹かれているので、そのまま結婚してしまう。
結局は、予定通りに、「ああ!うまく行かない!」と嘆くことになる。
そうして、「どうして、こんな目に!ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と嘆き、そして「アイツと結婚したせいだ!」と結婚相手を犯人認定して、「アイツが悪いんだから」→「ワタシはいい人だ。」という形で、自分の倫理的な価値に到達することになる。

あるいは、スポーツのゲームについて考えるに際し、単純に敵と味方と分ければいいのに、善悪で分ける。
だからこそ、結果としての負けを認められない。倫理的な視点しか持っていないがゆえに、ゲームで負けたら倫理的に劣ったことになってしまう。だからこそインチキをしてでも勝とうとすることになる。
「オレたちは正義なんだから、イカサマをしてもいいんだ!」という論理になる。別の言い方をすると「オレたちは正しいんだから、正しくない行為をしてもいいんだ!」となるわけ。そしてイカサマをして勝った後で、「勝ったんだから、オレたちが正義なんだ!」と自分で確認し、周囲に主張する。逆に言うと、そんないかさまを正当化するためにも、善悪での構図を作りたがる。

スポーツでも戦争でも、あるいは、結婚においても、本来は善も悪もありませんよ。
しかし、抑圧的な人間にしてみれば、「善vs悪の構図」以外は認識できない。だからこそ、被害感情が登場するようなシチュエーションを自分で作ってしまう。ギャグを書いていると思われる方も多いでしょうが、そんな視点で物事を見ると理解できるようになる事例も多いでしょ?

「被害=善」なんだから、前に書いたように、クレーム自慢をしたりする。
その手の人にしてみれば、自分が受けた被害を語り、クレームを自慢することとは、「自分がいかに倫理的に優れているのか?」の説明のようなもの。だから、やたら苦労自慢や不幸自慢をすることになる。
自分が受けた被害を語ることで、自分が善なる存在であるとアピールしているわけです。
その手の不幸自慢とクレーム自慢って、メンツが重なっているでしょ?その心理が重なっているんだから、当然なんですね。

自分が善なる存在とアピールするためには、被害を受けると分かっていながら、そのまま突き進み、実際にその被害を受け、「ああ!なんてこと!こんなことになってしまって!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と受けた被害を自慢することになる。
まさに、石原東京都知事の「ババぁ発言」への抗議の女性のように『読めば読むほど腹が立った。』なる文句になってしまう。あるいは、このメールマガジンへの感想でも「いつもくだらない。」という感想を自慢げに書き込むことになる。私の文章をどう思おうと自由ですが、くだらないと思うことは、人に対して自慢することではないでしょ?それに「いつもくだらない」とか「読めば読むほど腹が立つ」と言われてもねぇ・・・しかし、その手の人は、被害しか自慢できるものがないし、受けた被害を自慢することで、自分は善であると主張しているわけです。

ダメダメ家庭の人間は「ワタシは○○による被害者」としてしか自分を語れない。
被害を受けたとみなすと、張り切って、その被害を語る。
「被害を感じる、この心の痛みが気持ちいい!」となっている。だからこそ、そんな状況を求めてしまう。以前に取り上げましたがアメリカの詩人エミリー・ディキンソンの詩の中の「人の試練がどんなに錯綜していようとも 結局 予定の苦しみを自ずと選んでしまうもの。」そのまま。

だからこそ、クレームを言い続けられる状況を求めることになる。前に書きましたが「周囲に対し無理難題を吹っかけることで、こんな無理難題を吹っかけられるオマエたちよりもオレの方が、もっとかわいそうなんだぞ!とアピールする。」んだから、それを夫婦間でやればドメスティック・ヴァイオレンスにもなりますよ。

そんな状況になったら、またもや同類が集まってきてしまう。その手の人は、加害者たる暴力オトコをつるし上げて喜ぶことになる。
何度も書きますが、本来なら、たとえ「加害者=悪」だとしても「被害者=善」とは言えないでしょ?
しかし、抑圧的な人間にしてみれば「被害者=善」となっており、逆にいうと、歴然たる加害者の存在を探し回っているものなんですね。
相手が悪だから吊るし上げをするというよりも、誰かをつるし上げができる分野をもとめる。加害者を見つけ、「加害vs被害の構図」を設定し、それを「善vs悪の構図」に置き換え、「被害者だから、ワタシは善なんだ!」と主張する。

このような事態は、それこそ、ダメダメ家庭出身者の親との関係に顕著にもあったりします。
「ワタシは親による被害者なんだ!」と主張し、ヘタをすると、親に対して謝罪を求めたりする。しかし、ダメダメな人間が言う「ごめんなさい。」の言葉が、いかに形式的なものなのか?それについては、親に対し謝罪を求めた側の人が一番よくわかっているでしょ?
謝罪した側も、その場に合わせて「て・き・と・う」に言っているだけですよ、子供時代のその人が、まさにそうであったようにね。

しかし、謝罪の言葉を得られると、「自分は親による被害者なんだ!」と確認できるわけですから、「自分は倫理的にすばらしい!」となってしまうわけ。
しかし、相手に対して執拗に謝罪を求める姿は、まさに親譲り。
本来は、そんなダメダメな親とは没交渉にしてしまうのが、一番合理的ですよ。
しかし、「被害者=善」という構図であり、自分が善なる存在に到達するためには、まさに加害者との関わりが要求されてしまう。

以前に「被害者意識のツボ」という文章を配信しております。
被害者意識が強いダメダメ人間は、自分の被害者意識を刺激されると、ある種の高揚感を得ることになる。まさにツボが刺激されたように「ああ!気持ちいいわ!」となってしまう。被害を語り、それに対するクレームを主張することで、心理的に高揚感を得ていく。
心理的な高揚感だけでなく、能力的にも、普段以上の力が発揮されることになる。
被害を語る段になると、その言葉におけるボキャブラリーも、普段以上に多彩。
そして、そんな当人の中では、単に能力的に高揚感を得ているだけでなく、倫理的に高揚感を得ているわけです。クレームを付ける行為によって、「ああ!ワタシって、なんてすばらしい人間なんだろう!」と歓喜に震えているわけです。以前に書きましたがクレーマーズ・ハイ状態。

その高揚感が忘れられず、クレームを付ける相手を探し回る。
以前にも書きましたが「故意のあら探し」状態となる。
そして、探し当てた「あら」を見つけて大歓喜。
「ああ!この○○のために、とんだヒドイ目に!ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」
そんな大歓喜は、その人にしてみれば、倫理的な高揚感でもあるわけです。
「ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」という嘆きは「ああ!ワタシって、なんてすばらしいの?!」という法悦とほとんど同じなんですね。

そんな人は、被害を求め、被害がないと生きられない。
しかし、そんなことだから何も達成するものがないって、当然のことでしょ?
しかし、何も達成できない自分の境遇をやっぱり被害として認定して、犯人探しに邁進することになる。
そうして、やっぱり「ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と嘆き、「ああ!ワタシって、なんてすばらしいの?!」と喜ぶことになるわけです。

(終了)
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発信後記

何回も書いていますが、このメールマガジンも、もうすぐ終了です。
本日を含めて、あと2週間の予定です。
ちなみに、今週は、結びつきというか、関係性に関する文章を集中的に配信いたします。

本日の文章ですが、たとえ加害者が悪だとしても、被害者が善とはいえない。まあ、まさに「悪くはない。」くらいでしょ?
しかし、ダメダメ人間にしてみれば、「被害者=善」という単純な図式であり、もっと強烈にいうと、「被害者でないものは、善ではない。」くらいに思っている。
だからこそ、被害自慢が頻発することになる。

ダメダメ家庭出身者も、まさにこのパターンに陥っている人が多いもの。
「ワタシは親による被害者です。」とお仲間に語っても、『じゃあ、アンタ自身は何ができるの?何をしたいの?』と聞かれると何も答えられない。

ダメダメ家庭出身者が何かを達成するためのハンディキャップを顕在化するためには、親の問題を自覚する必要があり、このメールマガジンもその役には立つでしょう。
しかし、達成したいものそれ自体は、当人が自分で考えるしかないでしょ?
その当人自身の目標を掲げないと、結局は「ワタシは親による被害者。」ということだけを語り続けることになる。
そんな姿は、「子育てによって、ワタシの人生を棒に振ったわ!」と語っていた、その人の親の姿の鏡そのものでしょ?
R11/1/3