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カテゴリー ダメダメ家庭の雰囲気
配信日 10年4月14日 (10年9月16日 記述を追加)
タイトル 欠乏による結びつき (傷の舐め合い)
かなり以前の文章で、フランスの映画俳優であるアラン・ドロンについて触れております。
彼はもう映画界を引退してしまいましたが、彼が引退せざるを得ないのは、彼が父親役ができないから・・・そんなことに触れた文章です。
父親役とは、子供に愛を与える役どころでしょ?
しかし、それができない俳優もいるわけ。そのパターンは、女優だとオードリー・ヘップバーンもそう。
愛を求める役はできても、愛を与える役はできない。
恋人役はできても、若い恋人たちを陰から暖かく見守る役はできない。
満たされぬ思いを持ち続け、周囲に愛を求め続けていくことになる。
逆に言うと、だからこそ、愛を求める役であれだけハマるわけ。

愛を求め続ける人間にしてみれば、愛を与える人間と結びついたらベストカップルとなる・・・論理的にはそう言えます。
しかし、それって、あくまで論理の上での話。

愛を求める人間と、愛を与える人間の関係は、確かに役割分担が明確なので、その点はラクなんですが、そもそも、「どうして、そんなに愛を求める人間になってしまったのか?」そんな点まで考え合わせれば、単純にはいかないわけ。
つまり、それだけ、子供時代に愛情を受けていないわけですからね。
だからこそ、いつまでも愛を求めるような人間になってしまう。

子供時代に愛情を受けていない人は、単に愛情が欠乏しているだけでなく、もっと多くのものが欠乏していますよ。それこそ会話の精神なり能力や、一般常識や家族でのイヴェント体験のようなものも欠落している。養育時に、感情の伴ったやり取りをしていないんだから、人の気持ちも分からない。
それに対し、子供時代にちゃんと親からの愛情を受けてきた人間は、会話の精神や能力や様々な体験を持っている。
だから子供時代に愛情を受けていないダメダメ家庭出身の人間と、マトモ家庭出身の人間は、話がかみ合わないわけ。心理的なベースが違うので、お互いが理解できないわけ。

凸と凹の関係のように、片方が求め、片方が与えて、スムーズにやり取りができる・・・そんなものじゃないわけ。
結局は、育った背景が近いもの同士がくっつくことになる。

ここで、マトモ家庭出身同士・・・つまり子供時代に親からの愛情を受けてきたもの同士だと、話は簡単。まあ、「どっちが愛情を与えるのか?」という点でケンカになるわけもないでしょ?お互いで与え合えばいいだけ。まあ、こんな多重否定的な物言いはよくありませんが、愛情を与えたいと思っていることは、愛情を受け取ることを拒否することを意味しているわけではないんですからね。結果的に、愛情をお互いで与え合う関係が築けることになり、そして子供ができたら、今度は、愛情を子供に向けることになる。
子供としては、それを受け取ればいいだけ。
そうやって、マトモ家庭は連鎖していくことになる。

さて、じゃあ、愛情を求めるもの同士がくっついたら?一時的にくっつくことはできるでしょう。なんと言っても、バックグラウンドが近いんだから、話が弾む。しかし、夫婦のお互いが、相手の側から愛情を受け取ろうとするわけですが、もともと愛情を持っていないもの同士なんだから、相手から受け取りようもありませんよ。
相手からの愛を求めるのはいいとして、愛情による結びつきの雛形を見たことがない。
参考となるテンプレートがないんだから、達成したい具体的なイメージがなく、「こうじゃない!」「こんなんじゃない!」と否定形ばかりとなってしまう。
だから、不満が募り、ますます愛情を求めることになる。
そうして、「どっちが与えるべきなのか?」でケンカ。

結局は、子供を作って、その子供に「自分に愛情を与える役割」を託すことになる。
そうして、最初の頃は「子供を持って、初めて愛というものを知ったわ!」「子供から愛というもの教えてもらった!」と大喜び。
しかし、子供の側は、自分の親に対して愛情を与え続けないといけない。
その結果がどうなるかなんて、それこそ子供でもわかること。
そして、実際には、子供の側からトラブルが発生して、そんな夫婦は、「こんなに子供に期待していたのに・・・」と子供に恨みの心を向ける。

その時点で、現状を認識すればまだましと言えるわけですが、ダメダメな人間はそんな現状認識はできない。一人目の子供で失敗したから・・・ということで、また子供を作って、その次の子供に期待する。しかし、その結果がどうなるかなんて、本来なら、子供でもわかること。

年端も行かない子供に期待していたからこそ、トラブルになるわけですが、当事者意識がなく思考停止のダメダメ人間はそんなことをわかるわけもない。それにダメダメ家庭の周囲はダメダメな環境になっていて、そんな環境だと「親の側が、子供から愛情を受け取る」ことがデフォルト状態。だからそんな家庭の子供としては、愛情を受ける体験とは無縁のまま。
そんな環境で育った子供が成長したら、どんな人とくっつくの?
愛情を与えることができる人とくっつくことができるの?

こうやって、ダメダメ家庭もどんどんと連鎖していくことになる。
ダメダメ家庭というものは、愛情に限らず、色々と欠乏しているもの。
前にも書きましたが、会話の能力なり、子供時代の体験なり、あるいは当事者意識や自分自身の目標も持っていない。
そして、自己逃避であり、「自分には多くのものが欠乏している。」という自覚すら欠乏している。
ただ、「何となく、うまく行かないなぁ・・・」と漠然とした不満の中にいる。
愛情が欠乏していると明確に自覚できれば、そして、その理由までちゃんと考えることができれば、まだ対処もあるわけですが、自己逃避であり現実逃避なので、結局は、何かを犯人認定して「ああ!あの○○のせいで、うまく行かない!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と自分を哀れんで、被害者の立場に自分を置いて、それ以上は何も考えない。

そんな漠然とした不満状態の人間は、まさにその不満状態であるがゆえに、その不満を媒介して人と結びつく。
「ああ!ワタシって、いつもうまく行かないわ!」
『うーん・・・オレも色々とトラブル続きで・・・』
「ワタシたちって、なんか話が合うわねぇ・・・」
そうやって、やり取りが弾み、一緒になってしまう。

それに、その手の人は、「うまく行かない」ということ以外には語るものがないわけ。
そもそも当事者意識がないんだから、自分で達成した成果や業績がなく、「うまく行かない」ということくらいしか語れませんよ。
逆に言うと、その手の人は「うまく行ってしまう。」と語るものがなくなってしまうわけ。

欠乏感があるからこそ、存在感があるという逆説的な状況になってしまう。

だからこそ、欠乏を残そうとするし、あるいは、周囲の人に対して、その欠乏感をアピールすることになる。
「ねぇ!ねぇ!ワタシって、こんなにかわいそうなのよ!こんなにうまく行っていないのよ!」とアピールするわけ。

そんなアピールに対して「まあ、お気の毒ねぇ!」と寄って行くのは、「愛情を与えたい」と思っている同情心あふれる人間・・・と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
実際に、たまたまとか、「気の迷い」があったりして「愛情あふれる」人も、寄っていくこともあるもの。
しかし、「かわいそう」アピールに余念がない人とやり取りをしても、話がかみ合わないわけ。

「アナタ・・・タイヘンねぇ・・・で、あれはやったの?」
『ううん。』
「こんなことをしてみた?」
『やっていない。』
「アナタ・・・現状をどう思っているの?」
『なんかなぁ・・・』
「アナタ・・・結局はどうしたいの?」
『とにかく、ふつうに行けばいい・・・』

そんなやり取りはギャグと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、幸か不幸かノンフィクションなんですよ。
結局は、「愛情を与えてもいい」と考えている人と、「愛情がほしい」と思っている人とのやり取りはまったくかみ合わないわけ。

逆に言うと、その手の「愛情を求めている」人と、やり取りが可能な人は、外面での言葉はともかく、内面的には同類なんですね。
「まあ、なんてお気の毒な!」と同情し、「ワタシがこの人に愛を与えてアゲルんだ!」と言葉の上では意気込むのはいいとして、逆に言うと、その程度の人にしか愛を与えられないわけ。
このメールマガジンで頻繁に言及しておりますボランティアの連中がその代表ですが、愛情あふれる言葉を投げ掛けて、そして同情の気持ちを表明したりしますが、結局は一緒になってグチっているだけでしょ?その手の人たちって、事態を改善しようとはしないでしょ?
一緒になってグチることで、「愛情を求めている」相手から、自分への同情の言葉を得ようとしているわけ。

「まあ、アナタ・・・こんなことになってしまって・・・本当に、お気の毒ね!」
『まあ!ご親切に!アナタもわざわざワタシを助けてくれて!』
「いいのよ!ワタシもアナタの気持ちがわかるもの!」
『まあ、アナタも色々とあったのねぇ・・・』
「そうなの・・・ワタシもねぇ・・・」と遠い目、
『ねぇ、聞かせてくれるかしら・・・』
「実は・・・」

そして、最後になって「ああ!ワタシたちって、なんて不幸なの〜♪」とデュエットとなるわけ。そんな流れなんて、ダメダメ家庭の周囲では実にポピュラーでしょ?

しかし、そんな傷の舐め合いに過ぎないものであっても、とにもかくにも結びつくことはできる。
欠乏の共有だけが、人との結びつき。欠乏に反応しないと、人と結び付けない。
だからこそ、人に舐めてもらうための傷を持ち続け、維持しようとする。
「どう?見て、見て!ワタシはこんなにスゴイ傷があるのよ!」
「ワタシの傷を舐めて!」
「だからワタシを慰めてよ!」

傷の舐め合いの関係ができるように、周囲の人に欠乏をアピールし、相手の欠乏を探し回ることになる。
それこそ、メールなどを出す際にも、そんな言葉が飛び交っているもの。
最初のメールからしてグチの連呼だったりする。
「ワタシはヒドイ親による被害者だ!」とか・・・
まあ、現実にそうでしょうが、じゃあ、そこからどうするのかという問題が重要でしょ?
傷を舐め合ってそれでオシマイというものではないでしょ?事態の改善のためには、具体的な説明なり当人なりの考察が必要ですよ。

心の傷は自分の目標を達成するためのハンディキャップではあるわけですが、ダメダメ人間にしてみれば、一種のアイデンティティになっている。そして、そのアイデンティティで周囲の人と結びつく。
傷の舐め合いによって人と結びつこうとするダメダメ人間にしてみれば、自分の傷を差し出すことが、最初の挨拶になっているわけ。
まさにビジネスマンが最初の挨拶の際に名刺を出して、「ワタシはこういうものですが・・・」とやるようなもの。
それが名刺ではなく、心の傷だというだけ。

そして、そんな姿は、「ワタシは子育てによる被害者だ!」と言い続けたその人の親の姿の生き写しだったりする。そんなことを言うと、「そんなことはないわ!」「ワタシは親を反面教師としている!」と逆切れ。
しかし、都合が悪くなると逆切れする姿も親譲りでしょ?
まあ、その人にしてみれば、「せっかく丁寧に心の傷を見せてあげたのに・・・」と不満に思うわけ。傷の舐め合いだけがコミュニケーションなんだから、それ以外の方法を知らない。

傷の舐めあいこそがコミュニケーションなので、大きな傷の方が立場が上となる。
逆に言うと、大きな傷を自慢し、自分で作ろうとする。
まさに、このメールマガジンで頻繁に触れております「不幸への憧れ」状態。

そして、お互いの不幸が結びついて、お互いの傷が合さって、欠乏が結びついて、強固な結びつきが達成されることになる。高校時代に化学の授業でやった共有結合のようなもの。ダイヤモンドなみの強固な結びつきとなってしまう。
共有結合とかの量子化学的?な言い方ではなく、心理的な言い方をすると、「入れ込み」「入れ込まれ」の結合となってしまう。

まさに「オレだけが彼女の苦しみを分かって上げられるんだ!」となってしまう。
結局は、ストーキングとか刃傷沙汰とかになってしまう。
「オレだけが彼女の苦しみを分かって上げられるんだ!」とういう言葉は、言葉の上だけでは愛情や理解を与えているように見えるわけですが、その内実は、自分の苦しみをわかってもらいたいという「求めるパターンの心情」なんですね。相手の苦しみをわかる自分という形で、自分の苦しみを語っているわけ。
以前にも書きましたが、「入れ込み」とは、いびつな自己愛に過ぎないわけ。

まあ、ストーキングなり刃傷沙汰を起こしてくれれば、まだラクというもの。
大きなトラブルを起こさずに、その危険性を当人自身が認識せずに、そのまま結婚してしまったら、できてしまった子供がしわ寄せを受けることになるわけ。
愛を与える発想はもともと持っていないままで、やっぱり子供から愛情を得ようとしてしまう。最初のうちはそれなりに応えていた子供の側も、いつまでもそんなことができるわけもなく・・・子供も親から離れようとする。

しかし、そんな子供の脱却の努力を妨害し、子供の心に傷を作り、その子供の傷と自分の傷とで舐め合いをしようとすることになる。
なんともまあ!生暖かい家庭だこと!
欠乏による結びつきしか知らない人が、結婚して親になってしまうと、子供の長所を伸ばそうとは考えない。ただ、ただ、子供とグチの共有で結びつこうとするだけ。

そして、ダメダメ家庭の周囲もダメダメになっていて、そんなグチの共有による結びつきがデフォルトになっている。だから、何かと欠乏を作ろうとする。それこそ、イスラム教徒がやる、断食による連帯も、その一種でしょ?

ダメダメな人は、その欠乏を埋めるに際して、マトモなもので埋めることはしない。
それこそ、心の空虚感を、目的意識なり教養なり表現力で埋めていけば、それなりの対処といえるわけですが、ダメダメ家庭の人間は思考停止なので、自分の空虚さを埋めるものは、ロクなものは入らない。改善に繋がるようなマトモなものは、そもそも欠乏の空間に入れることもしない。
それこそ陰謀史観のような、自分自身とは関係ないような、どうでもいい知識だったり、あるいは、安直に自分の役割を求めて、ボランティアなどをすることになる。
「こうすれば、あっという間にトラブルは解決。」というカルト的な発想くらいしか認識できないので、そんなものしか、自分の空虚空間に入れられない。
しかし、そんなものばかりで、心の隙間を埋めようとしているので、結果的にますますダメダメになってしまう。

「新しい酒は新しい皮袋に。」という言葉がありますが、ダメダメな皮袋には、ダメダメな酒しか入らない。そして、実際にダメダメな酒を入れて、結局は腐ってしまう。

前にも書きましたが、ダメダメ人間のアイデンティティは、自分の傷くらい。
そして欠乏感こそが、存在感。
そして、欠乏の共有により結びつく・・・
ダメダメ家庭って、そんなところなんですね。

(終了)
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発信後記

この手の人は、欠乏によってでしか人と結び付けないので、結局は修羅場になってしまい、その修羅場によって、またもや欠乏を作る。
そして・・・と、延々と繰り返す。
当人だけで済めばいいわけですが、「アナタは何も悪くないのよ!」というボランティアの甘言を受けて、やっぱり同じことを繰り返す。

そして、子供を作って、結局は、子供を自分と同じような欠乏以外には何もない人間にしようとする。

そんな家庭に育ってしまったら、それを自覚しないと、どんどんと世代にわたって繰り返してしまうんですね。
 R.10/9/16