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カテゴリー ダメダメ家庭問題の考え方
配信日 10年4月21日
タイトル 一回性
♪ Auch das Schone muss sterben !・・・♪
〜なんて書くと、「おいおい!またブラームスかよ!」と思われる購読者さんは・・・いらっしゃらない・・・でしょうね。

以前にブラームスの「アルト・ラプソディ」という曲を取り上げております。と言うよりも、その歌詞となった、ゲーテの「冬のハルツの旅」について考えた文章でした。
ブラームスの「アルト・ラプソディ」は、作曲家ブラームスにとって、比較的若い頃の曲です。そして、若者の苦悩を歌い上げた作品です。
しかし、ブラームスだって、いつまでも若いままというわけにはいかない。天才芸術家も歳を取る。
まさに「♪ どんなに美しいものも、死の運命からは逃れられない ♪」となる。

ちなみに、そのブラームスの「埋葬の歌」の歌詞はゲーテの盟友とも言えるシラーの詩によっています。上記にドイツ語の詩の冒頭部分を載せておりますが、ドイツ語の表記をそのまま載せると、文字化けする可能性もあるので、文字は英語風にしております。

死んだものを悼む気持ち・・・そして、神の元へ召されると言う肯定的な心情。
シラーの詩は、そんな内容の詩です。ただ、作曲したブラームスは、亡くなった人が、神の元へ召され、安息を得てほしいというよりも、自分が制作した作品が神の元で永遠の生命を得る・・・そのような、芸術家意識を持って、作曲しています。
このメールマガジンは、音楽などの芸術解説を目的としているわけではありません。まあ、ご興味がありましたら、CDでも借りて、聞いてみてくださいな。

亡きものを悼む・・・こんな心情は、実に自然な感情と言えるでしょう。
しかし、細かく考えてみると、それほど、単純なものではない。

「人が死んだから悲しい・・・それは常識じゃないの?」
多くの人はそう思われるでしょう。
しかし、それこそ戦争だったら、相手を殺すことを目的に戦っている。相手を殺したからと言って、殺した相手をいちいち悼んでいられない。
しかし、そのように、戦争において相手方の人間を躊躇なく殺す人も、自分のペットが死んでしまったら、悲しみを持つもの。
戦争の相手方よりもペットの動物を大切に思う心情は外道とされてしまうの?必ずしもそうとは言えないでしょ?
つまり、哀悼の気持ちは、対象が人間であるかどうかは、二の次なんですね。

むしろ、人間の死が悲しいというよりも、その対象との間にあった一回性の関係が消えてしまったことに哀悼の念を持つものでは?
別の言い方をすると、「名前を知っているものが亡くなってしまったら、悲しむ。」そんなものなのでは?

戦争のような状況だと、殺し合いといっても、相手方の兵士は名前も知らない存在と言えます。
いわば、「その他大勢」同士が殺しあう状況と言えるでしょう。
それに対し、ペットだったら、犬のポチでも、猫のタマでも、ハムスターのハム太郎でも、基本的には名前がある。あるいは、動物においても、ペットにはそれぞれの名前があっても、家畜には名前なんてない。
たとえば、肉牛を飼育している農家さんが、育てた牛を売ったら、まあ、その後にその牛がどうなるかは当然のこととして予想できるとは言え、その点に悲しむわけではないでしょう。しかし、そんな農家さんも、ペットの猫であるタマが死んだら悲しむのでは?
本来なら、飼っている牛こそ、人間にとって役に立つ存在で、猫なんて役に立たないもの。
牛が死んでも悲しまないのに、猫が死んだら悲しむなんて、経済的にヘンですよ。しかし、人間の心理としては自然でしょ?
だって、ペットの猫には名前がある。その他大勢ではない。別の言い方をするとその関係に一回性がある。その一回性が消失したことに、心理的な喪失感を受けるのでは?

名前というのは、一回性とつながっているもの。
まさにその存在に固有のものでしょ?
名前がある、名前を知っているものが亡くなってしまったら、それを悼むことになる。
極端な話になりますが、名前を付けたぬいぐるみの腕が取れてしまって、そのぬいぐるみを捨てるような事態になったら、人は悲しむもの。人間と言うのは、存在そのものよりも、存在との間にあった関係性に反応するものなんですね。

戦争での殺し合いがイヤだという心理においても、相手方が純然たるその他大勢であるうちは抵抗がないわけですが、ヘタに相手方の兵士の名前を知ってしまったら、心理的な抵抗が、とたんに大きくなる。人間を殺す殺さないという「いのち」の問題ではなく、関係性が消失することが問題になっているわけです。
だから、戦争においても、相手方の兵士の家族を思うと、やっぱり心理的な抵抗が大きくなる。その兵士で完結しているのだったらともかく、その兵士と関係を持っている、別の言い方をするとその兵士の名前を知っている関係者の心情を思うと、心理的な抵抗が大きくなる。何回も書きますが、哀悼の気持ちというものは、亡くなるものが、人間かどうかは二の次の問題で、名前を持っている存在との間にある関係性の喪失に反応するものなんですね。

人間が注目するのは、存在そのものではなく、あるいは、「いのち」の問題ではなく、関係性の方であり、その関係性をよく表しているのが名前の存在と言えるでしょう。
哀悼の気持ちが起きるのは、その対象が名前を持っているからと言えるでしょ?
たとえば、ネアンデルタール人は死んだ仲間を埋葬いたしました。その遺骨の横には花の化石もみつかったりするそう。まあ、入っていた花については、たまたま入ってしまったから・・・とか言う人もいるようですが、死者に対して埋葬を行ったのは考古学的にわかっているようです。

花という存在は、種から芽を出し、花を咲かせるということで、復活のメタファーであることが多いもの。ネアンデルタール人には、死者を悼み、復活を願う気持ちがあったわけでしょう。別の言い方をすると、ネアンデルタール人には個々の名前があったのでは?
その前のアウストラロピテクスには個々の名前がないのでは?
もちろん、ネアンデルタール人は寒いところに住んでいましたから、死体を放っておいても、そのままの状態になりがち。だから処置する必要がある。それに対し、暖かいところに住んでいた、アウストラロピテクスは、放っておいたら死体も腐ってしまったり、他の動物に食べられてきれいさっぱりとなる・・・そんな実際的な理由も、やっぱりあるでしょう。しかし、人間とDNA的に極めて近い存在であるゴリラもチンパンジーは、初歩的な道具を使ったりしても、埋葬のような儀式的なものはしない。
葬送の感情は、まさに人間に固有のものと言えるでしょう。

埋葬の気持ちには、一回性の消失という心情があるのでは?
そして、その一回性は、まさにその存在に固有のものである名前とつながっているのでは?

名前と一回性が直結している事例となると、以前にこのメールマガジンでルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」を取り上げましたが、そのアリスの発言からも見えてきます。冒険の最後になってアリスがトランプの女王に対して「アンタたちなんて、所詮はトランプのカードじゃないのっ!」なんて言い放ちますよね?まあ、実際としてトランプのカードなんだから、その言葉は論理的にはそのとおり。

しかし、もし、あのトランプの女王に名前があったら、そんなアリスの言葉になるでしょうか?
あの女王様にヴィクトリアとかエリザベスとかキャサリンとか・・・そんな名前があったら、「たかがトランプじゃないの!」なんて言葉をアリスも言うでしょうか?アリスが逆切れするにせよ、別の言葉を使うのでは?「オバサン!鬱陶しいわよ!」それくらいなのでは?「たかが」という言葉は入らないでしょう。

あの「不思議の国のアリス」には珍妙な登場人物?がいっぱい出てきましたから、トランプのカードが色々としゃべっても、問題はない。しかし、あのトランプの女王は一回性がない。いわばトランプの集団の中の女王という役割を果たしているだけ。
つまり、個人としてのヴィクトリア女王様ではなく、単なる肩書きなり役職としての女王様なので、「たかがトランプ!」と言われてしまう。
ヘンな話になりますが、あのトランプの女王様は、取替え可能な存在なんですね。

さて、このメールマガジンの趣旨とは直接的には関係がない話が続いていますが、ここでダメダメ家庭の問題に戻ってきましょう。
ダメダメ家庭においては、名前を使わない。
そのようなことは、頻繁に言及しております。親は子供の名前を呼ぶことがない。それこそ1年のうちで1回も子供の名前を呼ばないこともある。どうしても名前とぎこちない。ぎこちないどこか、そもそも名前なんてあってないようなもの。だから子供だって、自分の名前の由来なんて知らないし、どうせ、名前を付けた親の側も「てきとう」に付けただけ。名前を付けないと法律上差しさわりがあるから、しょうがなく付けただけ。
だから、子供も、祖父母の名前も知らない。祖父母と同居していれば、封筒の宛先の名称から「知る」ことはあっても、同居していなければ、祖父母の名前は知らないまま。
だって、家庭内で「おばあさんの、下の名前って、どんな名前なの?」なんて会話が色々な意味でない。そもそも家庭内で会話自体がないし、たまにあっても名前を話題にすることもない・・・それがダメダメ家庭というもの。

親が子供を呼ぶ際には「おい!」とか「こら!」とか、あるいは「息子」「娘」と肩書きを言うだけ。だからこそ、そんな家庭の子供は「親」という単語をよく使うようになる。
この問題については、以前に配信しております。
親という単語は、いわば肩書きを意味しているもの。
どっちかというと、オフィシャルな呼び名でしょ?

その「親」とやらに、朝に顔を合わせた際に「親、おはようございます。」と呼ぶの?
そんな呼びかけは、ないでしょ?
「お母さん、おはようございます。」というのが、「ふ・つ・う」の呼びかけ。
つまり、「親」という単語がスグに出てくるということは、逆に言うと「お母さん」とか「パパ」という呼称が、普段から使っていないので、スグに出てこない・・・そのような状況を意味していることが推定できる。

「親」という単語は、その「親」とされる存在に面と向かった場合には使われない・・・そのことは、誰でも認めるでしょ?
ダメダメ家庭においては、顔を合わせた状況では、親の側は「おい!」とか「こら!」の呼称となる。子供の側は、「あのぉ〜」とか「ちょっとぉ〜」との呼称となる。
そんな関係においては、「お母さん」とか「おやじ!」とかの『呼びかけ呼称』ではなく、「ひろし」とか「めぐみ」とかの『名称』でもなく、「親」「息子」「娘」という『肩書き呼称』になるわけです。会社の中で「社長」とか「部長」とかで呼び合っているのと、ほとんど同じなんですね。

まさに、家庭内において「ちょっと・・・息子を呼んできて・・・」との依頼の言葉になり、「パパ!ヒロシを呼んできてよ!」という依頼の言葉にはなることはない。
親という言葉は、「親子関係における子供ではない側の存在」・・・そんな論理を指し示す用語でしょ?「親」という言葉には肩書きの一種であり、論理性があっても、実体性がない。

肩書きであり、役職であるがゆえに、取替え可能であり、一回性がない。
そんな「親」にしてみれば、その人の「子供」だって、「息子」とか「娘」とかの肩書き呼称なんだから、取替え可能であり、一回性を持っていない。だって、なくなったらまた作ればいいだけなんですからね。
「娘の花子」が死んだら、取り返しが付かないけど、「2番目の娘」が死んでも、必要に応じ、また作るだけですよ。それは、まさに使われている言語が指し示している。

一回性がなく、取替え可能な存在なので、「なくなっても」悼む気持ちはない。
その後での後始末などの面倒に発想が行ったり、せっかくの投資がムダになった自分の被害に発想がいくだけ。
それこそ戦争中に、○○小隊の軍曹さんが戦死したようなもの。
戦力ダウンは認めるけど、逆に言うと、それだけの認識。必要に応じ補充をすればいいだけ。これが、戦争中に、仲のよかった戦友である麻生由紀夫二等兵が戦死して、深い悲しみにくれる・・・というわけではない。
ダメダメ家庭においては、子供に関して何かトラブルが起きた場合に、親としては、言葉としては、色々と嘆くことがあっても、そもそもが自分の子供は、一回性のない「その他大勢」の扱いなんですね。

よく学校で事件があった際に言われる「命の大切さを教える。」なんて言葉も、ダメダメ家庭においては、子供の名前がない、つまり一回性が喪失しているんだから、命が失われたら、また作ればいい・・・そうなっている。
ダメダメ家庭においては、命の大切さと、お金の大切さは、発想の基本としては同じとなっている。たとえ、大切であっても、「喪失」ではなく、「損失」なんですね。
損失であるがゆえに、なかったら色々と不都合が起きる・・・そんなプラグマティックな認識で止まっている。そんな状況下では「いのちの大切さ」という言葉は、子供の商品性の高さを意味しているのに過ぎない。
子供本人にしてみれば、その命は一回性なのかもしれないけど、親にしてみれば、子供の命など取替え可能なもの。だって名前がないんだから。
と言うか、そんな一回性がないがゆえに、とおりのいい言葉はスグに出て来る。
その状況にしか使えないような一回性のある言葉ではなく、まさに既製品的な嘆きや、規格品的な愛情の言葉が考えもなしに出てくることになる。

以前にちょっと言及したことがある、フランスの映画作家フランソワ・トリュフォーの映画「隣の女」において、通りのいい言葉を、さもありがたがって提示する医師が出てきます。
「人間は愛し、愛される存在だ!」なんて、いかにもな、別の言い方をすると、規格品的な正論をぶっこくわけ。
そのような通りのいい言葉はいいとして、その医師は患者の女性を、人間として真剣に愛しているの?
その医師は、そんな一回性から逃げている。
だから、そんなありがたい正論を言われた女性としては、『アンタ・・・自分の言っていることが分かっているの?』と思ってしまうだけ。
だから、『アナタは都合のいい聞き役よ!人生の重さをわかっていない。』とその医師に言うことになる。人生の重さとは、まさに、その存在の、その日々の一回性と言うこと。

一回性がなくなると、規格品の言葉を「学ぶ」だけ、消費するだけで、自分で考え、生み出すことはしない。そんな、ありきたりな言葉には痛みも、重みもない。
しかし、そんな規格的な言葉であるがゆえに、消費しやすく、受け入れられやすい。
その人固有の一回性を求めれば、多くの人に受け入れられることにはならないでしょ?
その人固有の一回性は、芸術につながるもの。芸術は一回性を追求し、それに対し、芸能は、一回性から距離を置く。
規格品的な、その他大勢の人間は、芸術から距離を置き、一回性からも逃避する。
それが単に、感性が鈍感なので芸術を受け入れないというくらいならともかく、あらゆる一回性を失なってしまう。
つまり思考や感情も一回性を失なってしまう。
だから、時間も一回性を失うことになる。
そうなれば、その存在の一回性を失いますよ。

自分の子供が、親である自分にとって「その他大勢状態」になり、人とやり取りにおいて使用する言葉も、その他大勢に対して通りのいい言葉ばかりになる。そしてそんな日常も、いつもの変わり映えのない「その他大勢」の日々。
それを、「ふつうの家庭」と呼称する。
ヘンな話になりますが、その手の人たちの発想としては、子供の名前を使わないがゆえに、「ふつう」の家庭とみなしてしまっている。まさに自分の家庭そのものが、自分にとって、一回性のない「その他大勢」となっているわけですからね。

子供の名前も言わず、「息子」「娘」と呼称し、一回性が喪失した家庭・・・そんな姿は、以前に取り上げたマルグリット・デュラスの「ラ・マン」でも描写されていました。
そんな状況だったら、その子供自身の一回性はどうなるの?
だって家庭内では、その家庭の子供はその他大勢になっている。そんな中から一回性を獲得するためには、自分で獲得していくしかないでしょ?
まさにデュラスのように、「作品」を作るくらいしかない。
出来がいい悪いはともかく、作品を作ることで、その作品によって、一回性を作っていくしかない。そして、自分自身にとっての固有の「名前」を、自分で獲得していくしかない。

しかし、現実では、ダメダメ家庭のその他大勢の雰囲気に安住してしまって、そのまま「なんとなく」、それが「みんながやっている、ふつう」だからと、新たな家庭を持ち、そして、自分の親と同じことを繰り返す。
まさに、「その他大勢」街道をまっしぐら。

一回性を極めない限り、言葉の重みは得られないし、人生の重みも得られない。
つまり尊厳が得られない。
人間にとっての一回性とは、まさに「自分の目で見て、自分の頭で考え、自分の言葉で語ること。」
そのようなことは、本来は、難しいことではないわけですが、ダメダメ家庭においては、その面が欠落しているもの。だからこそ、意識して、覚悟を持って作っていくしかないわけです。

(終了)
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発信後記

このメールマガジンも、今週で終了ですので、当然のこととして、文章はもう仕上がっております。
今は、いささかホッとしているところ。

とはいえ、世の中はダメダメ家庭の騒動がいっぱい。
前回のメールマガジンでは、冒頭でエーリッヒ・フロムの「破壊性は生きられない生命の爆発である。」という言葉について言及いたしましたが、まさにドンピシャな事件が、先週の愛知県でのひきこもり青年の事件ですね。
まったく・・・絵に描いたような典型的な事例ですよ。
皆さんも、そう思われたでしょ?

あのご両親も、各方面には、一応は相談を持ちかけていたとのことですが・・・
警察とか、消費者センターとか・・・
まあねぇ・・・この私に相談してくれれば、まさにドンピシャな回答ができますが・・・
逆に言うと、そうなると、その親のダメダメを、事細かに指摘することになってしまう。
改善のためには、それが必要なことは当然ですが、そんな覚悟や現状認識がないがゆえに、まさにダメダメ家庭になってしまっているわけ。

100点満点のテストで95点だったら、「どうして5点分ミスしたのか?」という厳しい指摘も、まあ聞くことができる。
しかし、100点満点で10点しか取れなかったら、人間というものは、「まあ!お気の毒ね!」という同情の言葉を求めてしまうもの。そんな同情の言葉を得て、自分を憐れむだけで、結局は何も対処しない。
そんな積み重ねが臨界点を超えると、まさにあんな事件になるわけです。

ダメダメ家庭を作る親は、まずもって自分がダメダメな親だということをわかっていない。うまく行かないことは、全部他者のせいになっている。逆に言うと、そんな「全部他者のせいにする」ところは「子は親の鏡」というわけ。
 R.11/1/3