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カテゴリー ダメダメ家庭問題の考え方
配信日 10年4月23日
タイトル セレモニアル
♪ Auch das Schone muss sterben !・・・♪
〜なんて書き出しだと、「あれれ?前回と同じだ!二重配信かな?」と思われる購読者さんもいらっしゃるかも?
まあ、連続ドラマだと、前回と全く同じ導入のシーンを使うなんてことは、たまにありますよね?まったく同じという違和感を「つかみ」にするわけです。

前回配信の文章では、上記のブラームスの「埋葬の歌」に言及しながら、埋葬されている対象との関係の一回性について考えてみました。今回は、その埋葬の儀式について考えて見ます。
前回の文章と内容的につながっているから、同じ導入にしたんですよ。

埋葬という儀式が必要となるのは、その対象が名前を知っているものであり、名前を知っているからこそ、その関係に一回性を持つことになる。だからこそ、喪失感もある。その喪失感に形を与え、そして鎮めるために、葬送の儀式はあるもの。
葬儀は、死んだ人間のためではなく、生き残った人間のためにあるもの。喪失感に満たされた時間を「区切る」ために、その葬儀の儀式はある。

かけがえのない存在との関係を、心理的に納めるためには、かけがえのない時間が必要になる。
そんなかけがえのない時間は、別の言い方をすると、セレモニーとなる。
旅行とかの単に楽しいイヴェントとかの問題ではなく、その時間に一回性を与える儀式があるでしょ?別の言い方をすると、セレモニーとは、時間に名前を与える行為と言えるでしょ?

しかし、ダメダメ家庭においては、ダラぁ〜と時間が流れる。
時間の区切りのイメージを持っていない。
そして、時間の区切りを規定する儀式に対するセンシビリティがない。
セレモニーと言っても、お葬式のような望まれない儀式ばかりではないでしょ?
学校での入学式、卒業式、そして、会社の入社式なり、結婚式・・・社会には、そんな色々な種類のセレモニーがあるでしょ?その種のセレモニーは家族旅行とかのイヴェントとは趣が違っているでしょ?

前にも書きましたが、セレモニーとは時間に一回性を与え、名前を与える行為と言える。
人間にしてみれば、時間は不均衡に流れるもの。時間の流れるスピードは物理的には同じでも、その心理的な受け止め方はそれぞれ違っている。
だって、その時間で何をするのか?何が起こっているのか?何を考えるのか?それによって、時間の受け止め方は違ってきますよ。しかし、それは、その時間で色々とやったり、考えたりしているマトモな人間でのこと。
「ふつう」を金科玉条とするダメダメ人間は、時間の流れも「ふつう」。
時間の流れを、満たしていくようなイヴェントもないし、自分で何かをやるわけではない。
「な〜んとなく」で流れていくだけ。
たまたま、そんな「目立たない」日があったというのならまだしも、生まれてからずっとそんな調子となっている。

思い出しても、イヴェントとかセレモニーとかが全然出てこない。
時間の流れを止めるような「かけがえのない」体験が存在しない。
形の上では、多少はイヴェントのようなことをやっても、当事者意識を持って参加しているわけではないから、それが心理的なり精神的な成果となって、時間の流れに楔を打ち込むようなものになっていない。
お正月や七五三のようなイヴェントでも、単にカレンダーで規定されているというだけ。
日程上規定されているから、イヴェントをやっているだけで、いわば第3者的で傍観者的な感覚のまま。自分の一生の流れを規定するような、主観的なものではない。
日程上の必要性は認識できても、その精神的な意義はまったく理解できない。

だからこそ、セレモニアルなものに直面すると戸惑ってしまう。
その儀式のルールを知らないというよりも、その目的なり雰囲気が、実感として分からない。
「人の気持ちが分からない」要素の一つとして、人々がセレモニーをする気持ちが分からない。だから、渋々参加している・・・というか参加を強制されていると感じてしまう。
自分が学校を卒業する際の卒業式も、参加を強制されている感覚となっている。
そもそも家族からだって、「卒業おめでとう!」なんて言ってくるわけではないんだから、「おめでたいセレモニー」とは認識できませんよ。日程上決まっているから、卒業式に参加させられていると言うだけ。

学校の卒業式くらいならまだしも、それこそ自分の結婚式でもそんな感じになってしまう。
参加することが決まっているから、渋々参加している・・・と言った第3者的な気分のまま。
いわば、自分の結婚式に対して、「その他大勢の一員」として参加している感覚なんですね。もっと極端な言い方をすると、結婚式のために、動員をかけられているという感覚を持っている。その結婚式の「理由」が、たまたま自分自身だというだけ。
まあ、そんな結婚式をしたら、その後の結婚生活がどうなるかなんて、言うまでもないことでしょ?

しかし、当人としては、
そもそも結婚生活に対して期待しているわけではないし、
その相手が好きであるわけでもない。
親を始めとして、周囲の人が色々と言うし、年齢上結婚しないとマズイから結婚しただけ。
別の言い方をすると「ふつうでなくなるのがマズイ。」ので、結婚するだけ。
純然たる日程上のイヴェントであって、当人としては、主体的に参加する感覚を持っていない。

最初に埋葬の儀式について触れました。
人間にとって、かけがえのない人間がいなくなるという喪失感は非常に大きなもの。
しかし、ダメダメ家庭においては、かけがえのない人間という存在自体が存在しない。
前回の文章でも書きましたが、家族の間でも、その関係性は、一回性がなく、お互いがその他大勢の扱いとなっている。
その他大勢に欠員が出たら、必要に応じ、また補充すればいいだけ。

ダメダメ家庭においては、親は子供を「息子」とか「二番目の娘」とかの肩書き呼称だし、その子供は、親のことを「親」とか「あの人」と呼称する。お互いが一回性がなく、取替え可能な間柄。息子とか娘は、欠員がでたら補充するだけ。「あの人」さんだって・・・そんな「あの人」なんて、世の中にはゴマンといますよ。

代替不可能な、かけがえのない体験なり時間を持っていないので、本質的な意味で喪失感がない。誰かや何かが欠けても、ふつうと違ってしまったとか、補充の手間を考える必要があるという被害感情があるだけ。
生きている実感がないんだから、生きることの喪失もない。
何も失いようがないし、喪失しようがない。
葬儀のようなシチュエーションにおいても、規格化され商品化された喪失の感情を消費しているだけ。

前回の文章では一回性について書きましたが、喪失感の前提としては、その一回性が必要になるもの。
かけがえのない一回性を持つものであるがゆえに、喪失感を持つ。
それは、「ふつう」に流れるだけの日々からは生まれないわけです。
だって、ダメダメ家庭では、かけがえのない一回性を持つものを見たことがないわけですからね。かけがえのないセレモニーもないし、かけがえのない人物もいない。
たとえ、多少のイヴェントはあっても、それがセレモニーとはならない。

たとえば、一般の日本人にしてみれば、クリスマスは一種のイヴェントでしょう。しかし、熱心なクリスチャンにしてみれば、クリスマスはセレモニーでしょ?
イヴェントとしてのクリスマスだったら、別のイヴェントと代替可能となる。しかし、セレモニーとしてのクリスマスだったら、代替は不可能ですよ。クリスマスでやっている行事を、代わりとして、ひな祭りに代用することは、仏教徒だったらOKですが、クリスチャンだったら不可でしょ?
あるいは、自分の結婚式だったら、セレモニーと言えるわけですが、友人の結婚式だったら、むしろイヴェントと言えるのでは?だって、次もあるわけですしね。
代替不可能な一回性を持つがゆえに、その人にとっては、価値がある・・・それがセレモニーと言うもの。

親子関係と言っても、ダメダメ家庭の子供にしてみれば、親は自分にとって最大の理解者でも、最大の協力者でもないし、一緒にかけがえのない体験をしていないし、思い出もない。だから現実的には代替可能な状態となっている。親子関係からして代替可能なんだから、かけがえのない存在なんて、見たこともないし、そのようなものへのセンシビリティが得られない。
そんな状態だったら、尊厳とは無縁になるのは誰でも分かること。
尊厳とはその人の一回性に依存するでしょ?
ある人なり、あるものにとって、あるいは自分自身にとって一回性のかけがえない存在であることが尊厳の最低条件でしょ?
しかし、ダメダメ家庭では、そんな一回性や尊厳には至らない。

だから、そのかけがえのない一回性を、自分で作っていくしかないんですね。
喪失感を得るためには、まず何かを達成しないといけない。
ふつうを掲げ、人に合わせているだけのダメダメ人間は、達成したものがない。
前にも書きましたが、「ふつう」とは、その他大勢を目標とすることでしょ?
そんな人は、かけがえのない存在とは対極ですよ。

自分自身から逃避し、自分自身が自分にとって「その他大勢」となってしまっているダメダメ人間は、そんなかけがえのない一回性なんて達成できようがない。
まずは、自分自身が自分にとって、かけがえのない一回性を持たないようでは、どうしようもないでしょ?

しかし、ダメダメ家庭においては、そんなかけがえのない日々とは無縁という「ふつう」の日々を目標として、そんな可もなし不可もなしの「てきとう」な日々であるがゆえに、結果的に、周囲のマトモ人間とは、様相が違ってきてしまう。
「ふつう」を掲げるがゆえに、「その他大勢」を目指すがゆえに、結果的に「ふつう」ではなくなることになる。
そんな人は、自己逃避であり、自分の問題を認識していない。だから、自分以外の存在に期待することになる。
まさに、「て・き・と・う」に結婚し、「ダラぁ〜」と日々を送りながら、「いつの間にか」できてしまった子供に期待することになる。

かと言って、そんなスタイルで親になってしまったダメダメ人間は、子供に対して期待し、子供から受け取ることは考えても、子供に対して与える発想はない。
それこそ、子供に対し、かけがえのない体験を与えてあげようとか、かけがえのない人物との出会を設定してあげようとは考えない。そもそも親自身が、そんなことを分からなくて、ただ、周囲と違ってきて、「ふつう」でなくなってしまった状況に目が行って、戸惑っているだけなんですからね。
その他大勢を目指していたはずなのに、結果として、周囲と違ってきている状態を何とかしたいと焦っているだけ。一回性を捨てているがゆえに、周囲と違ってきてしまっていることが、そのようなダメダメな親には分からない。自分の子供にとって、親である自分が、代替可能な存在であること・・・それ自体が問題であることが分からない。

一回性を得るためには、周囲を見回しているだけでは意味がないことは、本来は小学生でも分かること。「どうやったら一回性をゲットできるんだろうか?」なんて周囲の人を参考にするよりも、自分自身がまさに自分自身の声を聞くことが、自分自身の一回性への近道ですよ。あるいは、子育てだったら、まさに自分の子供の声を聞くことが、子供との間の一回性のためには必要なことでしょ?
自分の子供の声を聞かないのだから、その子供にとっては、法律上なり生物上は、親という存在であっても、心理的に見て、「かけがえのない」「代替不可能」な存在にはなっていない。
あるいは、自分の本心から逃避しているんだから、自分自身が自分自身にとっての「その他大勢」となっている。もはや「自分がいなくても、自分は困らない。」そんな境地。
しかし、抑圧的なダメダメ家庭では、現実的にそうなってしまうわけです。
そして、そんな状況から脱却するためには、まずは、その人自身が、何か一回性のものを作っていくしかないわけです。

葬式とか入学式とかは、やりたくてもやれるものではない。
だから、自分で何か目標を立てて、それをやり遂げるような、自分ひとりでできる達成感による一回性が現実的なのでは?

その達成した成果が、もしかすると、一回性を持つような作品になっているかもしれません。その成果に一回性がなくても、達成した瞬間の喜びは、その人にとっては、まさに一回性のものでしょ?
そんな自分ひとりのセレモニーはいささか滑稽とは言えますが、ダメダメ家庭出身者にも対応可能でしょ?
何も文章をまとめるとか、絵を描くとかではなく、マラソンを走りきるとか、新しい料理にチャレンジしてみるとかの類だってあるわけですからね。
あるいは、会社などでの仕事においても、余人を持って変えがたい業績を上げれば、それこそが一回性でしょ?

それができた段階で、子育てに取り組むのもいいのでは?
一人では一回性を持っていない人間が、いきなり子供との間の一回性を実現するのは難しい。
ダメダメ家庭は、それこそ、子育てを学校に丸投げしたりする。子育てを学校に丸投げすれば、その親は、子供にとって、代替不可能なかけがえのない存在とは言えないでしょ?
ダメダメな親は、自分の子供に入れ込むことはあっても、子供にとってのかけがえのない存在にはなっていない。だって、子供にとっては、理解者でも協力者でもないんですからね。
子供にしてみれば、スポンサーかもしれませんが、逆に言うと、スポンサーは、別のところにもいますよ。だから代替可能なんですね。

最初にブラームスの曲の歌詞を書きました。
音楽の作曲家というと、皆様もベートーヴェンの名前をご存知でしょう。
彼の作品123番は、「ミサ・ソレムニス」と言う曲です。ここでソレムニスとは荘厳と訳されたりしますが、今回のテーマのセレモニーと似た意味と言えるでしょう。もともとの語源は同じなのでは?
まさに、時間の流れを区切るような圧倒的な体験こそが、セレモニーとなる。
この「ミサ・ソレムニス」の最初に、作曲者のベートーヴェンは「心より発し、心に通じる。」と書いています。

ベートーヴェンと同じレヴェルの精神に到達したり、作品に仕上げることは誰でもできるわけではない。しかし、その気持ちを持つくらいはできるでしょ?
自分自身の血が凍るくらいの思いがないと、受け手の血を凍らせることはできませんよ。そんな圧倒的な感覚こそが、セレモニーというもの。
そんな体験をしないと、時間がダラぁ〜と流れてしまうだけ。

美術や音楽などの芸術分野においても、ちょっとした鑑賞もいいわけですが、そんな「作品鑑賞」は時間を満たし彩ることができることはできても、時間を区切ることはできないでしょ?いわばイヴェントどまり。
本当の芸術なり、セレモニーは、時間を切ることができるもの。
芸術は時間を彩るのもではなく、時間を区切るもの。
作品を作ったり、あるいは、作品が作り出す世界によって、自らを再生し、生に区分を与えることができる。
自分にとってのエポックメイキングな作品、あるいはセレモニーこそが、一回性につながっていくことになる。

時間がダラぁ〜と流れることによって、一回性が消失し、逆に言うと、喪失感がなくなってしまう。喪失感がなくなる状態は、ダメダメにお約束の二重否定状態そのもの。
喪失感がないからと言って、「生きている実感」があるかと言うと、逆でしょ?
時間の流れを止めるような強烈な体験があるからこそ、生きている実感が出てくるもの。

それは「ふつう」を掲げている限り、届かない境地と言える。
本人が、それでOKなら、「ご勝手にどうぞ!」なんですが、ふつうに徹して、何も考えずに、ダラぁ〜としているがゆえに、できてしまうのが子供。

そんな家庭の子供としては、その点を自覚しないとね。
「このままじゃ、ダメだ!」と自覚して、そこから出発をする。
ダメダメな人生に区切りを作る。
その出発こそが、その人にとっての、最初にして、最大のセレモニーとなる。
それでいいのでは?

(終了)
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発信後記

次回配信の文章で、03年から始めたこのメールマガジンも終了です。
つーか・・・予想以上に長く続いてしまって・・・
しかし、まあ、歌の文句じゃあないにせよ、「どんなに長く続くものも、いずれは終わる時が来る。」ものですよ。

メールマガジンの廃止の手続きは、発行者の私がいたしますので、購読者さんの側では手続きは不要です。

前にも書きましたが、バックナンバーのサイト上では、たまに新規の文章をアップすることを考えております。
あと、既存文章の表現の修正や文言の追加もやっていきます。
ですから、ご質問等がありましたら、ご遠慮なくどうぞ!

ちなみに、最終回の文章はチェーホフの最後の小説を題材にした文章です。
最近は異常に文章が長くなってしまっておりますが、最後の回は比較的に短く3000字程度です。

どんな形で終了しようかなと迷っていたのですが、その一つの案として、以前に配信した「エピローグ」というタイトルの文章を最後にする案もありました。まあ、エピローグを最終回にするのが、論理的には妥当でしょう。

あるいは、それこそシェークスピアのように、創造の霊感を解き放っておしまいにするという発想もあるわけですが、ダメダメ家庭の問題を考えるには終わりがないわけですからね。いくら、あらしのような日々が終了するとはいえ、プロスペローを気取るのは難しい。
ということで、ラストにチェーホフを持ってきて、ちょっと余韻を持って終わらせようという方法にしたわけです。
別の言い方をすると「旅にやんで 夢は枯野を かけめぐる」との芭蕉のラストに近いものになっています。

では、あと、ラスト一回、よろしくお願いいたします。
R.11/1/3