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カテゴリー | 文芸作品に描かれたダメダメ家庭 |
配信日 | 10年4月24日 |
取り上げた作品 | いいなずけ(1903年作品) |
作者 | アントン・チェーホフ(1860〜1904年) |
以前に、ロシアの作家のチェーホフの「ワーニャおじさん」を紹介いたしました。 ダメダメ家庭の風景を、その空気感を含めて完璧に描写している。にもかかわらず、その筆致は軽め。 私としては、チェーホフを心から敬愛しているんですよ。 今回で、このメールマガジンも最後になりますので、その敬愛している作家のチェーホフの、まさに最後の作品である短編小説の「いいなずけ」を取り上げましょう。 その中からダメダメ家庭の問題を考えて見たいと思っています。 ちなみにストーリーは以下のようなもの。 ロシアの地主の娘のナージャが、もうすぐ結婚する。相手は周囲からの評価が高い人。 周囲の人もその結婚を祝福してくれる。しかし、以前からの知り合いの青年のサーシャが「このまま行っちゃっていいの?」と言い続ける。 疑問を持ったナージャは、自分自身や周囲の人を見つめ直してみると、それが「みせかけ」の幸福でしかないことに気がつく。 意を決したナージャは、結婚前にその家を飛び出し、一人での生活を始める。 そんな話です。 ストーリー的には、平凡な話と言えますよね? 状況的にも、いわば重症のマリッジ・ブルーに罹って、結婚を止めちゃって、トンズラしてしまった・・・という感じ。そんな事例は実際にあるでしょ? 「大作家のチェーホフも、最後には、こんな平凡なストーリーの小説にするなんて?!」と、思われる方もいらっしゃるかも? しかし、チェーホフの作品はもともと日常的な状況を舞台にしています。 そしてそのセリフも実に日常的。真の芸術家にとって、ドラマのシチュエーションやストーリーを奇異なものにする必要はないわけです。 シチュエーションが問題なのではなく、そこに示された視点が重要なんですよ。あるいは、我々の目の前の現実を、新鮮な目で見つめ直すことが重要と言える。 さて、この「いいなずけ」という作品において、重要な言葉があります。 それは「生活の方向を変える」という言葉です。 この「生活の方向を変える」という言葉については、ドイツの文豪であるトーマス・マンが、この「いいなずけ」という作品について論評している文章においても、注目しています。 芸術家の使命とは、まさに「生活の方向を変える」ための、示唆なり視点を提示することなんですね。 「生活の方向を変える」という言葉は、別の言い方をすると、「このままでいいの?」という問い掛けとも言えるでしょ? 「なんとなく惰性で流れているけど、このまま突っ走っていいのか?」その点について、当人が自分自身で考えてみるきっかけを作り出す・・・そんな必要性の問題と言えるでしょう。 この「いいなずけ」という作品において、サーシャが、友人であるナージャに対し「このまま行ってしまっていいの?」という問い掛けを発し続ける。 「このまま行ってしまっていいの?」という質問に対する回答は『ワタシは、こんな希望を持っていて、今はこんな状態だから、当面はこんなことをしたい。』でいいわけです。 しかし、ダメダメ人間は、『自分はこんな希望を持っている。』ということが言えない。 だから「このままでいいの?」という質問に答えられない。答えられないがゆえに、その質問から逃避するようになる。 しかし、本来は『自分の希望は○○です。』と答えられないとダメでしょ? 特に難しいことではないし、本来なら小学生でも答えられる質問でしょ? 自分自身の希望を持って、自分自身の目で見て、自分自身のアタマで考え、自分自身の言葉で語る・・・って、それができない人間に尊厳はありませんよ。 自分自身の目で見て、自分自身のアタマで考えることの重要性。 芸術作品には、そんなメッセージが込められた作品が多くあります。 ちなみに、「自分自身の目で見て、自分自身のアタマで考える。」という言葉は、チェーホフですと、上記の「生活の方向を変える」という言葉になるわけですが、別の言い方だと「目覚める」なんて言い方もありますよね?目覚めるという言葉は、何かの宗教に目覚めるとか、同性愛に目覚めるとか、母性愛に目覚める・・・なんて時に使われるようですが、何もそんな劇的な事例ではなくて、自分の目で見て、自分のアタマで考えることを意味することが多い。 あるいは「目覚める」なんて言い方でなくても、「夜明け」という言い方も芸術作品では頻繁に登場いたします。あるいは、「復活」なんて言い方もある。 基本的には、それらは、「自分の目で見て、自分のアタマで考えること」を表した言葉になるわけです。 「惰性で走っている」自分自身について、立ち止まって、見つめ直す・・・そんな意味なんですね。 その人が自分自身を見つめるきっかけを作るために、芸術家は「このままでいいの?」と語り続けることになる。 それこそ、以前に取り上げましたが、楽しいミュージカル映画である「マイ・フェア・レイディ」におけるヒギンズ教授もそのパターンでしょ? イライザに対して「このまま行ってしまっていいのかい?」と言うことになる。 ヒギンズ教授・・・というか、作者のバーナード・ショーとしては、読者が目覚めてほしいわけです。 あるいは、以前に取り上げたトルーマン・カポーティの「冷血」という作品の中にも、「汚れた顔をしているのは恥ではない。汚れたままにしているのが恥なのです。」という言葉がありました。自分の顔の状態を見つめる・・・それって、要は自分自身を見つめることの意味でしょ? そのために、創作者は、まさに命をかけて語り続けることになる。 目覚めさせるために、命をかけて語り続けるとなると、スペインの映画作家のペトロ・アルモドヴァル監督の「トーク・トゥ・ハー」という映画がそんな作品でした。 植物状態の女性を目覚めさせるために、命がけで、愛を持って、語り続ける。 あの作品における植物状態の女性は、いわゆる一般大衆のメタファーなんですね。 だって、あの作品を紹介する言葉として、こんな言葉があったでしょ? 「泣きました!とにかく見てください!」。 「泣きました!とにかく見てください!」という言葉に大脳皮質の働きがあるの? そんな言葉を出した映画評論家は、大脳皮質が死滅した、いわば植物状態の人間と同じなんですね。 しかし、そんな大脳皮質ゼロの植物状態レヴェルの人間をも、目覚めさせたいとアルモドヴァルは念願しているわけです。彼は大衆を愛しているんですね。 しかし、往々にして、そのための代償は大きいもの。 映画「トーク・トゥ・ハー」で、愛を持って語り続けたベニグノは死んでしまうし、バーナード・ショーにおける「マイ・フェア・レイディ」の原作版のヒギンズ教授は、イライザに逃げられてしまう。チェーホフにおける「いいなずけ」において、ナージャを目覚めさせたサーシャも、結核で死んでしまう。作者のチェーホフと同じように。 「自分の目で見て、自分のアタマで考える。」・・・本来は、そんなことは簡単なことですが、自己逃避で抑圧的な人には実に難しいこと。 それこそ、意を決して、そのようなことをしようとすると、「アナタは悪くないわ!」「だから、このままでいいじゃないの!」などと言い出したりする人たちが現れるものでしょ? そう!ボランティアの連中です。 ボランティアは見せかけの善意は誇示するけど、事態は何も改善しないでしょ? 「マイ・フェア・レイディ」では、ボンクラなフレディが、その役回り。 そもそもボランティアの連中自身が、「自分の目で見て、自分のアタマで考える」ことから逃避しているもの。だから他人の問題に口を突っ込む。 芸術家とボランティアって、結びついている事例って、ほとんどないでしょ? 芸術家にとって、一番キライな連中が、あの手の、ボランティアなんですね。 逆に言うと、ボランティアの連中は、芸術を忌避するでしょ? この「いいなずけ」は、約100年前の作品ですが、描かれている光景は、今と全然変わっていない。 見せ掛けの幸福。 そんな中で惰性に流されていく人。 そのことに警告を発する人。 日常というものは、「生活の方向を変える」きっかけに満ちているもの。 そして、「転落して行く」きっかけにも満ちている。 ありふれた日常が、いかに可能性に満ちているのか? そして、危険性にも満ちているのか? そして、そんな日常が、永遠に続く人間の営みとつながっているのか? それを直接に見ることができる人は少数かもしれないけど、できるかぎり多くの人に見えるようにしたい・・・そんな芸術家としての使命感。 日常を見るそんな視点を示して、「いいなずけ」におけるサーシャも、そしてその作者のチェーホフも世を去って行ったわけです。 作者のチェーホフについては、以前に彼の「ワーニャおじさん」を取り上げた際に、舞台上の音を有効に使っていると、私は書きました。 「かもめ」での、ピストルの音。 「ワーニャおじさん」での、ギターの音。 「3人姉妹」での、楽隊の音。 「桜の園」での、桜を切る音。 ドラマの最後に鳴らされる音は、幕が下りても、観客の心の中で響いている。 その音が心の中で響いている限り、人は考えなくてはならない。 舞台の上でのドラマに意味があるのではなく、幕が下りてからの個々の問題、まさに「生活の方向」の問題こそがテーマなんですね。 ダメダメとは、つまるところ、自己逃避の問題。 「自分はどうしたいのか?」 「どんな幸福を求めているのか?」 その問題を考えることから逃避している状態と言えます。 このメールマガジンで1000本以上に渡って書いてきた、そして、まだ書ききれないダメダメ問題も、自己逃避が様々に形を変えたようなもの。 だから、DAFDCISDEと言って、お別れしたいと思います。 |
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R.11/1/3 |