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カテゴリー | ダメダメ人間の自己逃避 |
アップ日 | 10年6月19日 |
タイトル | 自己逃避のとばっちり |
ちょっと前に、とある精神分析の学者さんが書いた文章を読んでいたら、おもしろい記述がありました。 「古来より、『汝自身を知れ!』ということが、人間が幸福になるための第一条件とされているけど、本当にそうなのだろうか?自分自身について知らない方が幸福につながることもあるのではないだろうか?」 そんな内容の記述でした。 まあ、そんな考えも現実としてあるでしょう。 対して、この私の文章は、実に伝統的で、まさにギリシャ以来の人間の叡智といえる「汝自身を知れ!」という方向性に忠実に沿っていることは、お読みになられている皆さんだったら、お分かりのことでしょう。 プラトンが言う「魂でさえ、自らを知るために、魂を覗き込む。」という姿勢に、忠実に従っているわけですしね。 私のような「伝統的な」「保守本流?」の考えに対し、『ちょっと違うのでは?』と疑問を呈すること・・・それ自体は結構なことですよ。 学問は、そんな疑問によって、発展してきたわけですからね。 その文章を書かれた方は、東京大学の医学部を出られて博士号も持っている人らしい・・・ アタマだっていいんでしょう。 それに、精神分析の分野で、それなりの臨床経験もお持ちらしい・・・ 病院で治療している人に対して、自分自身を直視することを要求しても、うまく行かない・・・ そんな経験を踏まえ、「人が自分自身を見つめることが、必ずしも幸福につながらないのでは?」そんな疑問が出てきたんでしょうね。 「自分自身を直視することが、必ずしも幸福につながらない。」という考えは、それこそ一人で家の中で引きこもっている状態だったら、まさにそのように言えるでしょう。 インターネットの掲示板で、ご意見とやらを書き込んで、ウサを晴らしていればいいんでしょう。 あるいは、病院で、もうすぐ死期が迫っている・・・そんな状況だったら、その発想も有効性があるでしょう。「自分は、あと、3ヶ月の命だ。」・・・そんな状況を無理に知る必要はないとは言えるでしょう。 しかし、病院における患者さんに対しては有効でしょうが、病院以外ではどうなの? 一般的には、人という存在は、他者との関わりが発生しながら生きていますよね? そんな関わりに際しては、「自分自身を知っていないと」トラブルになってしまうのでは? それこそ、「自分は子供を育てる能力がない。」そんな自覚は、当人にとっては実に厳しいものと言えるでしょうし、確かに幸福にはつながらないでしょうが、その自覚がなければ、逆に言うと、「何も考えずに子供を作ってしまう」ことになる。 そんな子供はどうなっちゃうの? 「自分は子供を持つ資格がない。」と自分自身について知ることは、幸福になるためにはつながらないけど、それ以上、悪くなることを回避することができるでしょ? 当人としては、自身の問題点を「見たくない」「知りたくない」と思うのは勝手ですが、そんな逃避的な心情は、他者との関わりにおいては、トラブルの元なんですね。 一生、病院で治療を受けるのなら許される発想でも、現実社会では許されない発想といえるでしょう。 あるいは、やり取りにおいて、自分に会話の能力がないことが自覚できていれば、それこそ説明資料などを準備するような形で、補完するという方法も取れるでしょ? しかし、自分には会話の能力がないという自覚もなかったら、相手が合意しなかったり、「アンタの話は、全然分からないよ!」などと反応が返ってきたら、「どうして、アイツは分かってくれないんだ?!」と相手の責になってしまって、ヘタをすれば「分かろうとしないアイツたちを、やっつけるんだ!」と相手を攻撃するようになってしまう。 あるいは、「自分には人を見る目がない。」ということを自覚していれば、結婚するような段になったら、多くの人と相談するような方法も取れるでしょ? しかし、「人を見る目が無い」という自覚がないがゆえに、「まっ、この人でいいや!」と「てきとう」に結婚し、結局はドメスティック・ヴァイオレンスになったり、あるいは離婚騒動になってしまう。 汝自身を知り、問題点を自覚していれば、それなりに慎重に行動することもできるわけですが、問題点を知らないままなので、何も考えずに、周囲の人に合わせて、「ふつう」の行動をしてしまう。 だから結果的にトラブルになってしまう。 それこそ、このサイトでよく例示しておりますが、居酒屋さんにおいて「自分は酔っ払っている。」と自覚があれば、無茶な行動はしないもの。 しかし、「酔っ払っている」という自覚がないがゆえに、もっともっとお酒を飲んだり、あるいは、自動車を運転して事故を起こしたりする。 こうなると、当人だけの問題ではないでしょ? 何も倫理的な観点から、あるいは「より充実した人生を送るために」汝自身を知るというパターンだけではない。 「より悪くしない」ために、あるいは、「クラッシュになることから回避する」ために、自分の問題点を自覚しておく・・・そんな必要があるわけです。 「オレは酔っていないぞぉ〜」と言いながら自動車を運転してしまうと、その人とは何も関係の無い人間が犠牲者となってしまうだけ。 あるいは、「ワタシはふつうよ!」と自分を騙しながら生きているような、自分自身について何も知らないダメダメ人間が、そのまま結婚して、何も考えずに子供を作ってしまう。 そんな親によって、犠牲になるのは、その親本人ではなく、そんな親を持つ子供の側でしょ? そんな子供は、あらゆる問題を自分ひとりで抱え込み、トラブルになってしまいますよ。 そんなトラブル状況になると、ダメダメな親は「ワタシたちはふつうなのに、どうしてこんなことに?!」と嘆きの声を上げる。 そんな状況は、酔っ払い運転で人身事故を起こした後で、「出来上がった」赤ら顔で、事故の風景を傍観者然として見ている運転手の姿と同じでしょ?そんな出来上がった運転手は、ヘタをすると、「アイツがトロトロと運転しているから、オレがぶつかってしまったじゃないか?!」と自分を被害者の側においてしまう。 自分自身について、自分の問題点について、見ようとせず、知らないがゆえに、自分以外の誰かを犯人認定してしまうわけです。 その「ひずみ」や「とばっちり」は、一番弱い立場の存在・・・一般的には子供に集約してしまうもの。 「汝自身を知れ!」という古来よりの叡智は、そこまで踏まえたもの。 たかが、病院での治療経験を基にしただけでは、分からないんでしょうね。 医師として患者本人の幸福を考えることはいいことでしょう。しかし、現実においては、患者本人の周囲の人もいる。その関係を踏まえた対処が求められるといえるのでは? このようなことは、何も医療現場だけの問題ではありません。 それこそ「へぇ・・・アナタは産まれてから、いいことなんて一つもないの?まあ、お気の毒な!じゃあ、あなたも子供を持ってみたら?子供って、かわいいし、楽しいわよ!」とお気軽に言う人も、実際にいますよね?しかし、そんな「善意」のアドヴァイスを送る人は、今まで生きていて楽しいことが一つもない人間に育てられる子供のことは眼中にない。 結局は、そのツケは子供に集約してしまう。 「知らない」「見ない」幸福に浸りたかったら、前後不覚になるまでお酒でも飲んで、そのまま死んでしまえばいいだけ。 「出来上がった」まま、あの世にいけるんだから、それこそ至福でしょう。 しかし、他者とのやり取りが発生する現実の世界だと、医療現場だけの論理では事態が悪化してしまうだけ。 その手の善意の人は、つまらないアドヴァイスをして、「ああ!この人のことをこんなにも考えてあげているワタシって、なんていい人なの?!」と喜んだりするだけで、アドヴァイスの対象の人の「生活」にまで目を向けていない。 自己逃避の人は、自分の問題点が全く見えていないがゆえに、説教くさいもの。 ボランティアなどをして、実体に即しない、現実離れした「善意」をふりまき、周囲の人間までダメダメにしてしまう。 自分の問題に真摯に取り組めばまだましなのに、自分の問題点が見えていない人ほど、周囲に説教くさいものでしょ? 自己逃避とは自分が自己逃避していることをわからない状態。 まずは、自分は自己逃避していると自覚させることが、最低限は必要になってくる。 そのまま、自己逃避を続けるにせよ、それなら自覚を持って自己逃避すればいいだけ。 前にも書きましたが、お酒を飲み続けて死んでしまってもいいでしょうし、モルヒネを大量に打って、そのまま死んでも、その人の勝手ですよ。 最低限の自己責任は要求されるわけです。 「必ずしも、自分の問題点を知る必要はないのでは?」という医療の論理もいいわけですが、放置してしまうと、そのツケが子供に集約されてしまう。 そんな子供がどうなっちゃうの? 「汝自身を知れ!」という伝統的な叡智は、単なる伝統的な発想というだけではなく、普遍につながった叡智なんですね。 |
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R.11/1/29 |