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カテゴリー ダメダメ家庭の人間の行動
アップ日 10年7月3日
タイトル レッテルの貼り合い
 以前にダメダメ家庭のメールマガジンを発行していて、現在ではこのバックナンバーのサイトを運営しているこの私に対して、文章をお読みになられた方より、様々なお便りがあったりします。
そのこと自体は、歓迎しておりますし、賛同するもの以外は受け付けない・・・と言うものではありません。

この私と反対する意見であっても、それを相手・・・つまり、私に分かりやすい形で伝えようとしているのか?その点が重要になるわけ。
怒鳴り散らしているだけの「ご意見」も、多くありますが、その人自身の考えに、そんなに自信があり、あるいは責任感や使命感のようなものがあるのなら、もっと分かりやすい形で伝えようとするものでしょ?あるいは、それなりに合意を志向したスタイルの文章にするでしょ?怒鳴っていただけだったら、合意にはつながりませんよ。
まあ、内容自体がダメダメなものは、その文章表現もダメダメなものなんですね。

そんなダメダメな「ご意見」のメールで、以前に面白いものがありました。
私の文章が気に入らないらしく、「オマエは左翼か!」と、私を罵倒している。
それはそれでいいとして、その10行くらい後で、「アンタは右翼か!」と罵倒していらっしゃる。

右翼でも左翼でも、どうでもいいわけですが、本来は、その2つは両立しないものでしょ?
結局は、この私は右翼なの?左翼なの?
どっちだと言いたいの?この私は何を分かればいいの?

この私が右翼だと思うのなら、「アナタが書いたこのような記述から、発想の偏りが見受けられ、それは一般的な用語でいう右翼という存在に該当するよ!」と説明すればいいだけ。
いきなり「アンタは右翼か!」と罵倒しても、「で、この人は、いったい何が言いたいの?」と呆気にとられるだけですよ。
おまけに、後になって「アナタは左翼か!」と罵倒しているんですからね。
いったい全体、何が言いたいのやら?

このようなことも、「アナタは右翼だ!」とか「キミは左翼のようだ!」という論理命題を説明し主張しているのではなく、何がしかのレッテルを相手に対して貼り付けたいという心理を想定すると、意外にも理解できるようになりました。
「右翼」とか「左翼」とかの問題ではなく、とにもかくにもレッテルを相手に貼り付ける・・・それが、「その手」の人にしてみれば快感なんでしょうね。だからこそ、「右翼」でも「左翼」でもどっちでもいいことになる。

まさに「わーい!わーい!ボクはアイツにレッテルを貼り付けてやったぞ!ザマーみろ!」という気分なんでしょうね。
いわば「捨てセリフ」に近いものなのかな?
だって、自分の考えを理解してもらい、相手から合意を取るという発想は全くないでしょ?ただ、投げつけているだけなんだから、その実質としては捨てセリフですよ。

同じようなことは、別のレッテルでもありました。
以前にも書いたことがありますが、「オマエは『にちゃんねら』か!」と、私を罵倒していらっしゃる。
まあ、私の文章をお読みになれば、インターネットの掲示板に入り浸っている人間かどうかなんて、スグにわかることでしょう。
だから、そんなレッテル貼りは意味がないもの。
しかし、レッテルを相手に貼り付けること・・・それ自体が、相手にダメージを与え、やり取りにつながる・・・はずだ・・・そんな心理を想定すると、「オマエは『にちゃんねら』か!」という罵倒の言葉も意味を持ってくる。

相手に対する罵倒によって、罵倒を受けた側である私が、「私は『にちゃんねら』ではない。」そして「オマエこそが、△△じゃないか!」と切り返してくることを予想し、それによって、「反論が反論を呼ぶ」というダメダメ人間のオハコのやり取りに持ち込もうとしているんでしょうね。
しかし、私としては、「オマエは『にちゃんねら』か!」と、いきなり罵倒してくる人に、どのように思われようとどうでもいいことですよ。
だから、無視するだけ。

ヘンな話になりますが、犬が「ワンワン!」と吠えていたとして、実はその意味が、「オマエは『にちゃんねら』か!」とか「オマエは右翼か!」いう意味かもしれないでしょ?
しかし、犬が「ワンワン」という声に思いを込めていたとしても、人間としてはどうでもいいことですよ。
犬から『にちゃんねら』とレッテルを貼られても、痛くも痒くもありませんよ。
音響的に不快かもしれませんが、意味的にはどうでもいいこと。

以前にメールマガジンにおいて、「烙印」ということについて考えております。
動的な生成感を持っていない抑圧的なダメダメ人間は、誰かから自分の欠点を指摘されると、それを、固定的な「烙印」として認識してしまうことになる。
生成感を持っていれば、たとえ自分に欠点があっても、それを修正すればいいだけ。
しかし、自己逃避であり、当事者意識がないがゆえに、自分に問題点があれば、それを修正していくという流れにはならず、「ああ!ワタシにはこんな欠点があるんだ!ああ!困ったことだ!」とパニックになってしまう。
パニックになるんだから、その種の烙印というかレッテルには敏感になってしまう。
「相手にレッテルを貼り付けることによって、相手をパニックにさせてやろう!」と攻撃的に考えたり、
「相手からレッテルを貼られないように、周囲に対して注意しておこう!」と守備的に考えることになる。

その手の人は、やり取りにおいて、「言いたいこと」はあっても、「分かってほしいこと」はない。「分かって欲しいこと」があったら、「分かりやすい」スタイルで記述しますよ。
逆に言うと、やたらレッテルを貼り付けようとしたり、レッテルに対して過剰反応している人間は、分かってほしいことはなく、言いたいことだけがある人間と言えるでしょ?
まあ、インターネットの掲示板において、レッテルの貼り合いが頻繁に起こっているのは、当然と言えば当然なんですね。

本来は、相手にレッテルを貼って喜んでいるような阿呆などは放っておけばいいだけ。
だって、やり取りにおいて、相手に対して分かってほしいことがあるのなら、やり取りの相手が「分かろうとする意欲」を持っている人なのか?あるいは、「分かるだけの知能」を持っている人なのか?
説明する際の、前提条件として、その点が重要になってくるでしょ?

「オマエは阿呆だ!」
というレッテル貼りは、まあ、言葉としては意味があっても、阿呆に対して、「オマエは阿呆だ!」と言っても理解はしてくれませんよ。そんな理解力の低さが阿呆ということ。
阿呆という言葉で相手を罵倒するよりも、阿呆から距離を置くことこそが、お利口さんの適切な対応でしょ?
しかし、ダメダメ家庭の人間は、減点部分への過剰な食いつきがあるもの。
自分自身でやりたいことがないので、目の前に発生してしまった減点に対して、どうしても食いついてしまう。

そのようなことは、以前には「嫌われたくない」という文章において触れております。
減点法であり、「いい子ちゃん」志向が強いダメダメ人間は「アンタなんか、大嫌いだ!」と人から罵倒されると、『キミはボクのことを誤解しているんだ!』『ホントウのボクはいい子なんだよ!』と必死に食いついてしまう。

つまり、相手を罵倒することで、楽しいやり取りが始まることになる。
だからこそ、初対面でいきなり罵倒するようなことを平気でやってしまう。
初対面で罵倒なんてことをする人も、実際にいるでしょ?

そんなパターンの親戚として、いきなりのレッテル貼り・・・と見れば実に理解しやすいでしょ?
それこそ、インターネットの掲示板では「ネット右翼」とかの用語が飛び交っているようですが、そんなレッテルを誰かから貼られた人は、往々にして過剰反応するでしょ?
「違う!違うんだ!ボクはネット右翼なんかじゃないぞ!」
そして「オマエこそ、○○じゃないか!」と反論し、やり取りが始まり発展していく。

本来なら、自分の考えに自信があるのなら、「ワタシはこのような現状認識で、このように考えております。そんなワタシの考えを、どのようにカテゴライズするかは、する側のご自由でしょう。」「それがネット右翼というのなら、そして、そのことでアナタがご満足されるのなら、ご自由にどうぞ!」と言えばいいだけ。

誰かからどのように判断されようと、自分では何ともできないことでしょ?
ましてや、自分が何も敬意を持てない程度の相手から、どのように思われようとどうでもいいことですよ。
阿呆から貼られたレッテルなんて、無視すればいいだけ。
しかし、ダメダメ人間は、自分にレッテルを貼られると「そのレッテルは違っているぞ!」と弁明し、必死に反論することはしても、「そんなレッテルを貼って何が楽しいの?」「やりたければ勝手にやっていれば?」というやり取りにはならない。

そのような流れを引き起こす代表的なレッテルとして、「カルト」というレッテルがあります。
「オマエが属している団体はカルトだ!」なる物言いがあるでしょ?
そんな物言いに対して、実際にカルトに近いメンタリティーを持っている人ほど過剰に反応することになる。
『なんだと!オレたちをバカにするのか?!』
『権威ある○○先生が、オレたちのことを絶賛しているんだぞ!』
と、食いつきよく反応する。

しかし、その団体が、その精神としてカルトとは距離がある団体なら、
『フーン・・・アンタにはそのように見えるの?ふーん・・・』とか、
『そのようなことを言って、そんなにうれしいのなら、存分におやりになったら?』という落ち着いた反応でしょ?

このようなことは、陰謀史観に関するやり取りのケースと同じ。
訳知り顔で語られた陰謀史観に対して、
「そのような陰謀は本当ではないんだ!本当の陰謀はこうなっているんだ!」という形で、語られた陰謀史観に対する疑義は呈しても、「そんな陰謀が本当にあったとしても、アンタ自身とどんな関係があるの?」「アンタ自身は何をしたくて、その陰謀がどんな形で、その目標を達成するためのハンディキャップになっているの?」なんてやり取りにはならない。
レッテルに過敏に反応する人は、常に周囲の人が気になってしまう自意識過剰状態であり、やり取りの方向が、人からの評価を上げるための努力であり、自分自身の目標を達成するための努力にはなっていない。

レッテルの貼り合いのバトルというものは、結局は、参加者が同類であることを示しているもの。まさに近親憎悪の典型なんですね。
本当に、自分がやりたい目標があるのなら、誰かからの、それも阿呆から貼られたレッテルなんてどうでもいいことですよ。

ちなみに、このメールマガジンというか、このサイトの用語であるダメダメ家庭と言う言葉ですが・・・
私はその言葉をレッテルとして使っているわけではありません。
あくまで、それぞれの家庭を考えるための視点の総称のようなものです。
何度も書いておりますが、「機能不全家族」における「不全の機能」を個別的に具体的に考えることができるようにしているだけです。

そのようなことは、まあ、それなりの理解力のある人は、お分かりのことでしょう。
しかし、逆に言うと、何でもレッテルとして捉えてしまうような、レッテルへの親和性の高い人は、ダメダメ家庭という用語もレッテルの一種として捉えてしまうことになる。
そして、「ああ!ワタシはダメダメだ!」と嘆いたり、
「ワタシの親はダメダメだ!だから、悪いのは全部、親のせいだ!」としてしまい、当人自身では何も対処しなくなってしまう。

あるいは、以前に書きましたが、「ふつうというレッテル」もあります。
「ワタシの家庭は、何も問題のない『ふつう』の家庭だ!」とレッテルを貼り付けることで、それ以上まで考えることから逃避してしまう。
どのようなものであれ、誰かにレッテルを貼り付けて喜んでいる状態になったら、ダメダメもかなり重症になっている。
だって、レッテルというのは、現実逃避や自己逃避としては、実に便利で有効なものといえる。
そんなものに、なじんでいたり、過剰反応することから、色々と見えてくるわけです。
 R.11/1/29