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カテゴリー ダメダメ家庭が好きな言い回し
アップ日 10年7月17日 (10年10月8日,11年2月12日 記述を追加)
タイトル 「裏切られた」という言葉
 ダメダメ家庭の人間は、「信頼と好意の区別」がつかない。
このことについては、実に頻繁に触れております。
「信頼と好意の区別」がつかないと言うよりも、実際には、「信頼」というものを心理的に理解できないといえます。

信頼というものは、その前提として、相手に対する理解が必要ですよね?
「あの○○さんとは、以前はこんなやり取りをしてきた。そのやり取りは、自分には満足ができるものであった。だから、このワタシはあの○○さんを信頼している。」
信頼について語る際には、そんな形になるでしょ?
そして、そんなスタイルの説明なんて、小学生でもできること。

しかし、ダメダメ家庭の人間は、会話の意欲も能力もない。だから、実質的には「やり取り」にはならないし、一時的に成立しても、それが積み重なることはない。
それに、認識や判断から逃避しているのがダメダメ人間なんだから、やり取りが良好であったとか、成果があったかどうかの判断もしない。
つまり、相手のキャラクターについて何も理解していないし、相手とのやり取りもしていないし、たとえ、やり取りをしても、それを自分なりに評価することもない。
そんな人が、相手を理解し、相手を信頼することなんてできるわけがないでしょ?

何度も書きますが、信頼というものは、その背景として、相手に対する理解が不可欠といえます。
しかし、逆に言うと、信頼というものが心理的に理解できていないがゆえに、「信頼」という言葉を「お気楽」に使ってしまう。
二重否定表現になってしましますが、ダメダメ人間は、相手との間が「信頼ではないことが、分からない。」状態といえます。

「信頼」というものの対象は、何も特定の人に対してだけではなく、たとえば機関のようなものもあるでしょ?
それこそ、新聞を信頼しているとか、していないとか・・・たまに議論になったりするでしょ?
新聞の購読者さんが、新聞の記事から有意義な情報を得て、日々を生きていくことに生かしている、そしてそんな経験を積み重ねている・・・そんなことなら、新聞を信頼することも自然でしょう。
逆のパターンとして、新聞の記事の情報と現実が食い違っている・・・だから、新聞を信頼しない・・・そのパターンでも、心理的には、自然でしょう。

新聞記事と現実を照らし合わせて、肯定的な評価を下せば信頼し、否定的な評価を下せば、信頼しないということになる。要は、その人なりの評価の問題でしょう。
それは評価というか判断の問題であって、心理の問題ではありません。
しかし、心理的に抑圧されてしまうと、現実を見ようとしないし、あるいは、記事に対して、自分なりの評価を下さない。
そうなってくると、少なくとも信頼というファクターがなくなってしまうでしょ?

以前に面白い文章があって、「新聞による民主党の小沢幹事長(当時)に対する記事に問題がある。自分は新聞を信じていたのに、裏切られた気分だ。」なる文章がありました。
まあ、ある時期におけるマスコミによる小沢バッシングは、常軌を逸していました。
検察によるリークという不法手段によって記事を書いていましたよね?
しっかし、不法手段によって得た情報で、政治家の不法を追求することに対する、疑問や自責・・・そんな視点は何もない。そして、その記事もスポーツ新聞もビックリの扇情的なもの。
そんな記事を読めば、さすがに「おいおい!こんな記事を載せている新聞というメディアは、信頼に足るのか?」と疑問を持たれるのも当然でしょう。

ちなみに、このサイトにおいては、政治家の心理を取り上げることがありますが、政治信条については言及しておりません。あるいは、いわゆる「政治とお金の問題」についても、言及しておりません。
まあ、政治家だったらキレイごとだけではやっていけないでしょう。
池にいる白鳥の姿が優雅に見えたとしても、水の中では足をバタバタさせているように、政治家だって見えないところでは色々とあって当然でしょう。
じゃあ、水面の上の姿はどうなっているの?
それが一番重要なことでしょ?

政治家だったら、一般国民に対し、自分なりの現状認識を語り、その解決策を語っていく・・・そんな発信力が重要でしょ?
それができなければ、政党スタッフとしてはともかく、国民の代表としての政治家としては不適ですよ。そのようなことはお金の問題以上の問題でしょ?
白鳥だって、水面の下のバタバタに目を向けるのではなく、水面の上の姿が、ガチョウの姿だったら、足でバタバタする以前の問題ですよ。
小沢さんについての記事を書くのなら、政治家として、より重要といえる水面の上のところも、しっかり書く必要があるのでは?

まあ、小沢さんについての記事の問題はともかく・・・
ヘソの下を詮索する記事ばかりなのは、何も小沢さんの問題だけではないでしょ?
前からそんな記事ばかりでしょ?
本来なら、そんな記事を読んだ時点で、「ちょっとおかしいな。」と思うものなのでは?
しかし、逆に言うと、その時点で的確に認識し、判断していない人は、目を背けきれなくなって初めて問題を認識し、結局は、「信頼していたのに、裏切られた!」と大騒ぎすることになる。

そのような「裏切られた。」と叫ぶ人に限って、信頼していると語る対象に対しては、マトモには理解していないものでしょ?
たとえ、何かの前兆があったとしても、そこから目を背けてしまうもの。
相手について、知ろうとしていない。
と言うか、事前には実態を見ようとしないし、言わせないようにしてしまう。
そして、トラブルが顕在化すると、「裏切られた!」と大騒ぎ。
逆に言うと、後になって、「裏切られた!」と大騒ぎするような人間は、事前には何も見ようとはしないもの。

と言うか、「オマエを信じているぞ!」「ワタシは、○○を信じているんだ!」という言葉を掲げたり、投げつけたりすることで、すべてを相手側の問題にしてしまい、自分の問題ではないとしてしまう。
自分は信じているんだから、「信じられている側」の問題にしてしまう。
逆に言うと、何かあった際に「裏切られた!」という言葉を発することにより、「自分は何も知らなかった・・・・ワタシは悪くない!・・・ワタシは被害者なんだ!」という主張になっている。
当人が、ただ単に、鈍感とか愚鈍ということなら、あるいは、判断能力が低いということなら、いたし方がない面もあるでしょう。
しかし、問題なのは、心理的な逃避のパターンが多いことなんですね。

ただ、単に鈍感ということなら、人から指摘されれば、認識できることになるでしょ?
『おいおい!キミキミ!今のところは、まだ大きな問題になってはいないけど、このまま行くと、大きなトラブルになってしまうよ!今のうちに、この点を修正した方がいいよ!』という指摘に対しても、冷静に対処することができるでしょ?
しかし、「見たくない」「知りたくない」という逃避的な心理を持っている場合には、周囲からの指摘を受けると逆上することになる。

「そんなことはない!」「オマエは何をトンチンカンなことを言っているんだ?!」「オレたちをバカにするのか?!」と目を血走らせて反論?することになる。
逆上することで、認識から逃避し、思考停止状態を獲得するわけ。
それこそ、小沢さんに関する記事が出てくる以前から、新聞の記事はとてもじゃないけど、知的なレヴェルにおいて、問題を抱えていたでしょ?
その問題から目を背けておいて、後になって大騒ぎ。
そして、自分が目を背けていたことを弁解するために「裏切られた!」という言葉を持ち出すことになる。
そして、その言葉によって、自分は被害者の側だと、自分を納得させ、周囲に主張する。
そんな被害者主張が通用してしまうと、「裏切られた!」という嘆きの言葉を繰り返すことになる。

それこそ、新興宗教の周辺なんて、そんな流れの典型でしょ?
その団体に入信した人は、周囲の人がいくら言っても逆上するだけ。そして後になって、「ワタシは騙されていたわ!」と大騒ぎ。

そのようなことは、男女関係でも同じ。
『おいおい!あんなオトコと付き合っていても、ロクなことにはならないぞ!今のうちに、スッパリ別れた方がいいよ!』『彼がやっているこのような点について、もっとアナタなりに考えてみたら?』
そんなアドヴァイスに対しては、「アナタはあの人の良さを、全然分かっていないのね!失礼しちゃうわ!」と抗弁していても、結局は、「ああ!ワタシはなんてヒドイ男に引っ掛かってしまったんだろう?!ああ!あの人を信じていたのに裏切られたわ!」と嘆くだけ。
明確な前兆があっても、それを見ようとしないし、見なければならないような事態になると逆上するだけ。まさに、トルストイ描く「アンナ・カレーニナ」の姿そのもの。

相手について見たくない、考えたくないと思っていて、相手を理解しようなんてまるで考えていない。
だからこそ、そんな人が使う「信頼」なり「信じている」という言葉は、「支配」とか「逆らうことができない」あるいは、「考えなくても済んでいる」という言葉の意味に近い。
信頼していたのに、裏切られたのではなく、その心理の実質としては、支配していたのに裏切られたとなっている。

それこそ、ダメダメな親が子供に対して言ったりする「オマエを信頼しているぞ!」という言葉は、「オマエはワタシの支配下だ!」という言葉と同じでしょ?
「ワタシに面倒を持ち込むな!」と命令しているだけ。
あるいは、「オレに逆らうな!」という意味でしょ?
だから、相手のことを知ろうとしないし、知るという発想もない
だって、「自分が命令すれば、相手は従う。」という認識が、その手の人にとっての信頼というもの。
「信頼」という言葉を使っても、その言葉を使う人によって意味は大きく違っているわけです。

ダメダメ家庭においては、家族の間も、心理的には支配関係になっている。
夫婦の間でも、どっちの側が支配者なのかは別として、支配・被支配の構図となっている。
そんな状態で子供ができたら、子供は当然のごとく被支配の側になってしまう。
子供は親に反論しませんし、特にダメダメ家庭においてはできない。
子供としては、まさに唯々諾々で面従腹背となる。そして、結局は、臥薪嘗胆となる。
臥薪嘗胆が実際に起こってしまうと「裏切られた!」と大騒ぎ。

ダメダメ家庭の人間は、自己逃避であり、他者には期待はするけど、自分自身の希望や目標がない。「ふつう」という名目を掲げ、周囲に合わせているだけ。つまり、その人自身の「あり方」も、相手に依存している。
自分自身でもやりたいことがあって、他者とも協力して物事を進めていくのではなく、そもそも自分自身にやりたいことを持っていない。
そんな依存心理を持っているもの同士で結婚し、結局は泥沼。
その時点で反省すればまだましですが、まさに依存の精神をそのまま持続して、今度は子供に期待することになる。しかし、大人同士でもうまくいかないのに、コミュニケーション能力がより低い子供に期待しても、無理に決まっているでしょ?

そして、やっぱり「あれだけ子供に期待していたのに、裏切られたわ!」と大仰に嘆くことになる。
本来は、「自分自身がどうしたいのか?」という自覚が最初になされなければならないのに、その点から逃避するために、他者に依存していただけ。
そして、逃避しているがゆえに、自分から逃避しているという自覚はない。
むしろ「自分は裏切られた被害者の側なんだ!」ということを確認するための儀式を行い、自分自身を納得させることになる。それこそ自分の子供を虐待するなどの報復行為を行うことにより、自分を被害者だと確認する。

裏切られたという感情は、それだけ、その対象に依存していたということなので、その心理的なベースがあるままだと、何か不都合なことがあると、すぐに「裏切られた。」と叫び、自分を納得させることが続いてしまう。
当事者意識をもって自分で対処する人だったら、人に頼るのではなく、協力するとか利用するという発想になるでしょ?

言葉としては、

期待していた → が → 裏切られた
あるいは、
支配していた → が → 裏切られた

ですが、

自分でやった → が → 失敗した

と、なりますよね?

あるいは、
協力してもらった → が → ダメだった
利用しようとした → が → 失敗した

・・・そんなものでしょ?
逆に言うと、「裏切られた」と言う言葉は、依存なり支配の心理を意味していて、信頼とは遠うといえます。後になって「裏切られた」と嘆く人は、裏切られる前から、その対象を信頼はしていないわけです。
裏切られたという言葉が出てくる背景には、その人の主体的な認識と判断がほとんどない。
相手を理解していないがゆえに、後になって「裏切られた」と騒いでいるだけ。
そんな人の語る「期待」は、知的な予想という面よりも、心理的な依存に近いわけです。

その手のダメダメ人間は、その人のアタマの中での設定と違ってしまっていたら、その段階で「裏切られた!」と大騒ぎすることになる。
「アナタこそが、このワタシを救ってくれると期待していたのに、どうして助けてくれなかったの?ああ!ワタシは裏切られたわ!」
そんなクレームもあったりするでしょ?

ある人が困っている様子だったので、ちょっと手を貸したら、「この人こそ、ワタシの運命の人だ!」「前々から願っていた白馬に乗った王子様は、きっとこの人だ!」と認定されてしまう。そして、その脳内認定と違ってしまうと、「裏切られた!」と非難されることになる。
困っている様子に、たまたま手を貸しただけなのに、後になって「裏切りもの!」と糾弾されるなんて、ギャグそのものですが、妄想いっぱいのダメダメ家庭の人間の周辺では、現実に起こっていること。
まあ、実体験をされた方もいらっしゃるのでは?

逆に言うと、人から過剰に期待され、あるいは過剰に頼られた段階で警戒する必要があるわけです。依存的な心理を持つ人からの期待は、裏切り者認定と表裏一体のもの。そんな裏切り者認定は、報復行為を呼び込むことになる。
ヘンな話になるわけですが、この私に相談するにせよ、この私を利用し、活用する・・・それくらいの「不遜」な態度が必要になってくるわけです。
だって、その「不遜」さは、別の言い方をすると、当事者意識ということなんですからね。

ただ、ダメダメ人間は、相談とか質問の際に、この私を誘導しようとする。
「ワタシはかわいそうな被害者だ。」というロジックを完成させるピースとして、この私を利用しようとするわけです。しかし、よりにもよってこの私がそんな誘導に引っかかるわけもない。そうなると、まさに「期待していたのに、裏切られたわ!」と罵倒されてしまう。
いや、まあ、やっかいなことで・・・

まあ、何かに手を付けたら、失敗することもあるでしょうが、失敗だったら次につながるでしょ?
だから、次には成功することになる。
しかし、「裏切られた」場合には、結局は、同じように、また裏切られることになる。
だって、「裏切られた」という言葉は、「自分自身には何も問題がない・・・自分は被害者なんだ。」・・・そんな心理が背景としてあるものでしょ?
逆に言うと、「裏切られた。」という言葉は、その人の被害者意識を示していて、その「裏切られた。」という言葉を言いたいがために、そんな状況を自身で求めていくパターンもあるわけです。

それこそ、何かの不祥事が発覚すると、ここぞとばかりに「信じていたのに、裏切られた!」と大騒ぎする人もいるでしょ?
しかし、信じているも何も、それまではあまり関心がなかった場合も多いんですね。
それこそ、11年の大相撲の八百長問題などは、発覚後になって「裏切られた!」と大騒ぎしている人は、それまではお相撲などには関心がなかった人も多いでしょ?
その手の人は「裏切られた!」という言葉を言いたいがために、その事件に関心をもったわけです。その手の事件は、自身の被害者意識を満足させ、そして大義名分を与えてくれるので、被害者意識が強い人間にしてみれば、惹かれるネタなんですね。

「裏切られた」という言葉は、「ワタシは悪くない。」とか、「ワタシって、かわいそう!」というメッセージとなっている。「自分は悪くない。」と思っているんだから、当人としては何もせず、結局は、また、トラブルになりますよ。それに、被害者意識が強い人間にしてみれば、「裏切られた。」という言葉を語ることは心地がいい。だから、そんな状況を自身で求めてしまう。
皆さんの目の前にいるダメダメ人間も、そんな感じで、いつも「裏切られて」いるものでは?
R.11/2/12