トップページに戻る 配信日分類の総目次へ
カテゴリー分類の総目次に戻る タイトル50音分類の総目次へ
カテゴリー トラブル発生時の行動
アップ日 10年7月27日 (10年10月1日 記述を追加)
タイトル 認識なしの解決 (カルト系の対処法)
 このサイトはダメダメ家庭・・・より正確な呼称となると、機能不全家族を考えるための「視点」を提示することを目的としております。
「機能不全家族の、不全な機能とは、具体的に何なのか?」
「それは、後になって、どんな影響となって現れて来るのか?」
それを客観的に、そして、できれば網羅的にまとめたいと思っております。

ですから、このサイトの文章をお読みになった方より、「色々と問題点は書いてあって、それはそれで役に立つけど、解決策が書いていないじゃないの?」「そこのところをちゃんと書いてよ!だって、ワタシも困っているんだから・・・」そんなご意見が、よく、あったりします。

これについては、まあ、そのように言いたいことも当然でしょう。

「問題点ばかりが書いてあっても、じゃあ、具体的にどうすればいいのさ?」
「このワタシを、目の前が真っ暗な気分にさせておいて、そのままトンズラする気なの?」
「アンタ・・・ホントに外道だね!」

まあ、そのように言いたいこともあるかも?

直接的な解決策ではないにせよ、私としては、一貫して同じことを申し上げております。
それは、「汝自身を知れ!」と言うこと。
ギリシャの時代から言われていることを繰り返しているだけですよ。
自分自身を知らないと、本当の意味での解決策も出てこないでしょ?

自分は何をしたいのか?現状はどうなっているのか?この問題が発生した経緯は?
別の言い方をすると、「自分はどこから来て、いったい何者で、どこに向かっていくのか?」そんな芸術的な?問いかけといえるでしょう。

それらの点について、整理して、自分で理解できないことには、解決案なんて出てくるわけがないじゃないの?
トラブルというのは、うまく行っていない状態と言えるわけだから、じゃあ、上手く行っている状態はどのようなものなのかについて、ちゃんと認識し、周囲の人に説明できないと、うまく行くようになるわけがないでしょ?
しかし、人は、まずもって、自分が知っていないことを、知っていないもの。
まさにソクラテスが言う「無知の知」そのもの。
「知らないことを知らない」という点も、残念ながらギリシャの時代から何も変わっていない。

おまけにダメダメ家庭の人間は抑圧的であり、自分自身から逃避して、現状認識から逃避する。
だから、現状なり問題点を考える視点を提示されても、それを使いこなすことができない。
「そんな面倒なことを言っていないで、もっとチャチャと解決するような方法を教えてよ!」・・・どうしても、そんな感じになってしまう。

まあ、実際に、チャチャっと解決できればすばらしいこと。
しかし、では、ちょっと考えて見ましょう。

自分自身について、あるいは直面している事態について、何も知らないし、知ろうとしない人間がありがたがる、あるいは受け入れる解決策って、じゃあ、どんなものなの?
なんとなくの不満があるけど、その「なんとなくの不満」の正体を直視しないままで、現状のトラブルが解決できる方法って、実際にどんなものなの?

当事者が何も認識しなくても済む解決策って、まさにこんな感じでしょ?

「悪いのは全部○○のせいだ!あの○○をやっつければ、問題はすべて解決だ!」
「△△先生の言っていることは、いつだって正しい!我々は△△先生の言っていることに従っていればいいんだ!」
「今はうまく行っていないかもしれないけど、□□のような状態になったら、今の問題もすべて解決だ!」

まあ、上記のような「解決策」だったら、当事者は何も認識する必要もないし、何も考えなくてもいいでしょ?
しかし、上記のような「解決策」は、まさにカルト団体の主張のお約束でしょ?
宗教系のカルトでも、政治系のカルトでも、あるいは市民運動でも、まさにそのような感じでしょ?

認識とは無縁のままの解決策となると、「とにもかくにも、こうなればすべて解決。」というスタイルにならざるを得ないでしょ?
カルトが隆盛を極めている背景には、現状認識から逃避したがる心情があるといえます。
カルトは、そのような逃避的な心情に、応えているわけです。

だから、たとえ、そのカルト団体から抜け出したとしても、後になってこのように言い出すことになる。
「あの☆☆に所属したせいで、ワタシはメチャクチャになったわ!悪いのは全部☆☆のせいだ!この☆☆から抜け出せさえすれば、ワタシは幸せになれるはずだ!」

ギャグではなく、そんなトラブル対処の提案は実際にあったりするでしょ?
その心理の土壌としては、何も変わっていないわけです。
認識から逃避したままの状態で、事態を改善しようとする。
そんな心の弱さには、カルトの発想は、実にありがたいものなんですね。

だからこそ、「ワタシたちに任せてさえしてくれれば、アナタはあの団体から抜け出ることができるよ!」という誘いなり、あるいは、別の形で、「あの危険なカルト団体の△△をやっつければ、我々の問題は全部解決するはずだ!」という別の団体からの甘い言葉にすがってしまって、結局は同じ事態が繰り返すばかり。

私に相談をお寄せになる方でも、「自分としては、こうしたいから、いい知恵はないか?」とか、「現状はこうなっているから、それを理解するための、適切な視点はどんなものなのか?」そんな質問なら、こちらとしても答えやすい。
しかし、抑圧的な人間は、「オレは、困っているんだけど、どうやったら解決できるんだ?」と、現状認識なり自分の希望を伝えない状態で相談してきたりする。
そんな質問を受けたりすると、「あ〜あ、このまま行っちゃうとカルトの信者になっちゃうだろうなぁ・・・」と思ってしまうもの。

認識から逃避している人間なんだから、『アナタとしてはどうしたいの?』『現状はどうなっているの?』なんて、こちらから質問すると、むしろ逆上してしまう。
「どうして、そんなことを聞くのよ!キーっ!」
しかし、当人の希望なり、現状が分からなければ、相談の回答なんてありえないでしょ?
しかし、カルトなら、そんな人に対しても、回答を提供できてしまう。
だからこそ、抑圧的な人間は、カルトに惹かれてしまう。

認識なしの解決策ばかりを模索する人は、カルトとメンタリティー的に共通しているもの。だから、危険な存在なんですね。
それに、どうせ話をしても、楽しいわけでもないし、示唆的な話が聞けるわけもない。
まさに、カルト的に「あの★★先生と一緒にやりましょうよ!天国にいるように幸せよ!」と、あの顔で語るだけ。

確かに認識から逃避すれば、その人自身は、ある意味において幸福と言えるでしょう。
つまり、トラブル状況にあるという認識を捨てることさえできれば、ある意味において、「困っていない状態」とは言えますよね?
以前より頻繁に例示しておりますが、「オレは酔っていないぞ!酔っていないんだってばぁ・・・ウイっ。」と言っている居酒屋さんでの酔っ払いのようなもの。
まあ、酔っ払いさん本人は、確かに楽しいでしょうよ。天国にいるように幸せと言えるかも?
しかし、酔っ払っている本人はいざしらず、周囲の人間が迷惑を受けてしまう・・・そんなものでしょ?

自身から逃避しているんだから、肯定したい状態が存在せず、目の前のものを否定してばかり。
とりあえず、目の前のものに食いついて、そして、「こうじゃない!」「あれも違う!」と否定して、「あ〜あ、何かいいことないかなぁ・・・」と周囲を見回す。
しかし、「いいことないかなぁ・・・」という言葉はいいとして、『じゃあ、アンタのいいことって、実際はどんな状態なの?』と聞かれると、何も回答できない。
否定ばかりで、肯定が何もない。
だって、自分自身について何も認識していないんですからね。
そして「誰のせいで、こうなったのか?」という犯人探しをするだけ。
結局は、否定する対象を探しているだけになってしまう。
だから、何も達成できず、当然のこととして「いいこと」なんて起こりようがない。

トラブルを考える際においても、抑圧的な人間は、「誰が悪いのか?」「結局はどうすればいいのか?」と、即効的な対処をしようとして、事態の認識からは逃避したまま。
まあ、認識から逃避しているということが認識できないことが、まさに認識から逃避の代表的な症状なのは、論理的に当然のことでしょ?

「うまく行くようにしたい。」と思うのは当然のことですが、それが達成できるようにするためには、その「うまく行っている」状態について、客観的に説明できないと、周囲としても協力しようがないじゃないの?
しかし、抑圧的な人間は「ワタシは、ただ、ふつうになりたいだけだ!」と言って、「うまく行っている」状態について、具体的に考えることから逃避してしまう。
目標が具体的ではないんだから、そんな目標なんて、永遠に達成できませんよ。
結局は、犯人探しに逃げ込んでしまう。
カルトの人たちは、その教義にはヴァリエーションがあっても、現状認識からの逃避、目標の不明確性、具体性のなさ、そして犯人探しの心理・・・そのようなものは実に共通しているでしょ?

認識なしの解決を志向しているがゆえに、理屈の上では「すべての人を幸せにできる。」ことになる。だって、人の目を開かせることは、すべての人を対象とすることはできませんが、人の目を閉じさせることは、すべての人間を対象とすることができますよ。
逆に言うと、「○○によって、すべての人が幸せになる!」というキャッチコピーは、それがカルト的な要素を強く持つことの証明のようなもの。
人の覚醒ではなく、忘我を志向しているといえるでしょう。

何も上記の「○○」は宗教団体の教祖様のような典型的な事例だけでなく、たとえば「芸術的な作品」の場合もあったりします。
たまに、「読んだ人のすべてが幸せになれる作品!」なんて絶賛の言葉があったりしますが、本当に創造的な作品だったら、「すべての人が幸せ」とはいきませんよ。今までにない視点を提示しているんだから、むしろ、読み手の既存の安定を揺り動かすもの。
既存の、別の言い方をすると「かりそめの」安定を揺り動かすからこそ、より高い次元まで到達できることができるわけですが、それは読み手に痛みをもたらしてしまう。

だから、その状態に耐えられない人間は、まさに「心ここにあらず」を求めて逆上してしまう。実際に、創造的な作品が世に出た当時は、大きな騒ぎになったりした経歴を持つ作品もあるでしょ?騒動を起こす作品であれば、創造的であるとは言えませんが、今までにない創造性を持っていれば、受け手は「ざわつき」ますよ。要はその地点から自分なりに考えていけばいいだけ。しかし、抑圧的な人間は、自分で考えるのがイヤ。だから思考停止を求めて逆上してしまう。逆に言うと、スグに逆上するような人間は、「すべての人が幸せ」になる状態こそを理想としているわけです。
実際に、この私がいただいた逆上メールの中にも、「読んだすべての人が幸福になるような文章を書くべきだ!」というクレームがありました。

まあ、実際問題として「心ここにあらず」だったら、何も苦悩を感じないわけでしょ?
そんな状態を作り出すことができれば、「すべての人が幸せになる」といえますよ。
だから、そんな忘我の状態を求めて、トルストイ描くアンナ・カレーニナのように、「ワタシに見せないで!」と周囲に対して要求する。
カルトと逆上は、実につながっているでしょ?
まさに、認識から逃避して忘我状態に安住するという点で、心理的には同じなんですね。

別のところで書いておりますが、カルトでは芸術は出てこない。
「すべての人が楽しくなる」芸能のようなものはでてきても、心に痛みをもたらす芸術は、排除されてしまう。
逆に言えば、芸術に対する距離感を見れば、その人なり、その団体のカルトへの親和性も見えてくることになる。

だから、カルトに入信するような人も、入信する前から、分かったりするものなんですし、あるいは、形式的にはカルトではなくても、その心理としては、カルトとの共通性が大きい集団についても、見分けることができるようになってくる。あるいは、カルトに惹かれそうになる自分についても、自覚できたりする。

そのためには、ギリシャ以来の「汝自身を知れ。」ということが、まずは必要になるわけです。
 R.11/1/29