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カテゴリー ダメダメ家庭問題の考え方
アップ日 10年7月31日
タイトル 「ふつう」という言葉の周辺
 このサイトは、基本的には、メールマガジン「ダメダメ家庭の目次録」のバックナンバーを収録したものです。
03年9月から10年4月まで配信しておりましたので、収録文章も実に多く、1000本以上の文章が収録されているわけですが、頻繁に取り上げておりますのが、「ふつう」という言葉の問題です。

それこそ、メールマガジンの発行の最初期の03年においても「ふつうの家庭を築きたい」とか「ふつうの子供になれ」というタイトルの文章を配信しております。
それ以降も、頻繁に取り上げておりますので、いまさら取り上げる視点もないわけですが、今回は、その「ふつう」という言葉が使われる周辺に注目して、「ふつう」という言葉を考えてみたいと思っております。
「ふつう」と言う言葉をそのものから見るのではなく、「もっと的確な言葉をなぜに使わなかったのか?」そんな視点から見えてくるものがあるわけです。

それこそ、ダメダメ家庭が愛用する「ワタシは、ただ、ふつうの家庭を築きたいだけだ。」という言葉でも、その言葉そのものよりも、周辺を見た方が、その言葉の心理的な意味を理解できることになる。

たとえば、その「ふつうの家庭」ですが、具体的にはどんな家庭なの?
その人が「ふつうの家庭」とみなせる家庭は、具体的にはどこの家庭なの?
その状況に一番近い家庭は、どこの誰の家庭なの?
あるいは、その人が、一番よく知っている家庭は、本来は、その人の実家でしょ?
その実家は、ふつうの家庭といえるの?
もし、その人の実家がふつうの家庭といえるのなら、「ふつうの家庭を築きたい。」という言葉でなくて「ワタシが育った自分の実家のような家庭を築きたい。」というのがスジでしょ?

そんな表現だったら、実感を持って説明できるでしょ?
たとえ、その言葉に対して質問を受けても、記憶の中にあることを、言っていけばいいだけ。
なぜ、そのように言わないの?

つまり「ふつうの家庭」という物言いは、「自分の家庭」の心理的な否定形なんですね。
かと言って、明確な具体像は想定できない。肯定している家庭像を持っていない。
そもそも、自分が一番知っている家庭といえる自分の実家については思い出したくも、考えたくもない。
とにもかくにも、周囲の人に合わせておく・・・しかし、自分の実家のような家庭はイヤ・・・それが「ふつう」ということでしょ?

あるいは、政治の世界で、「ふつうの国」という言い回しがありましたが、その「ふつうの国」とやらに一番近い国はどこの国なの?
もし、それが明確になっているのなら、「○○のような、いわゆる『ふつうの国』」とでも言った方が聞いていて分かりやすいでしょ?

あるいは、「ふつうの子供になれ!」という物言いですが、じゃあ、その「ふつうの子供」とやらはどんな子供なの?それを具体的に説明しないと、命令された子供の側も対処ができないでしょ?
自分の子供に対しては、「まずは、このような点ができるようになってほしい。」と具体的に言うのは、親の務めなのでは?
そんな的確な物言いだったら、子供としても対処がしやすいでしょ?
しかし、そんな的確な物言いができないがゆえに、自分の子供しか相手になってくれないのがダメダメ家庭の人間というもの。

「ふつう」と言う言葉は、固有性の否定であり、具体性の否定といえます。
周囲と見分けがつかないことが理想となっている。
つまり、認識からの逃避とか、思考からの逃避の便法となっている。
つまりダメダメの心理とのつながりがある言葉なんですね。

もちろん、言葉としては「ふつう」という言葉を使っても、心理の問題ではなく、単にボキャブラリーの貧困ゆえに、使ってしまっている・・・というパターンもあります。
プロ野球チームの監督をされている落合さんが「ふつうの野球を目指す。」とかおっしゃったようですが、それは、それなりの具体像があるようです。それこそ、別の表現を使って「理想とするのは、○○年頃の△△というチーム」とでも明確に言えるのでしたら、たまたま「ふつう」という言葉を使っても、具体性は担保されている。本来なら、「定石を重視したオーソドックスな野球」とかの物言いの方が適切でしょうが、まあ、スポーツの分野で、事細かな言語的な差異に注目しても無理があるでしょう。

だから、ダメダメの分野で注目しなければならないのは、ボキャブラリーの面からの「ふつう」という言葉になってしまっているパターンではなく、考えたくないがゆえに、「とりあえず」の感覚で「ふつう」という言葉に逃げ込んでしまう心理の方です。
抑圧的なダメダメ人間は、自分なりに具体的に考えることが心理的に怖いがゆえに、「これ言っておけば突っ込まれないだろう・・・」そんな感覚で「ふつう」という言葉を使ってしまう。

逆に言うと「ふつう」と言う言葉を頻繁に使う人は、「穏やかな」思考停止状態といえます。だから、ちょっとしたことで「過激な」思考停止状態といえる逆上になりやすい。
「ふつう」「ふつう」と連呼する人に限って、「なんだと!オレがふつうじゃないとでも言うのか?!」「キーっ!ワタシはただふつうになりたいだけなのにっ!!」と顔を真っ赤にして、怒鳴り散らす。
ああ!見事なふつうだなぁ・・・

「ふつう」という言葉は、認識からの解放なり、思考からの解放を得られるわけですので、自己逃避で抑圧的な人間は、異常なまでに、その「ふつう」という言葉というか、レッテルにこだわることになる。

たとえば、たまに騒ぎになったりしますが、身体やあるいは知的な面で障害を持たれた方を、一般のいわゆる「普通学級」に入れるとかで問題になったりしますよね?
もちろん、障害の程度問題はあるでしょう。
たとえば片脚がなくても、授業内容は理解できるし、松葉杖を使えば、移動も一人でできる・・・そんな状態の障害であれば、普通学級で十分でしょう。
しかし、背負っているハンディキャップによって授業内容がまったく理解できない状態だったら、そんな状態においたままだったら、それは教育とはいえないでしょ?

そもそも教育というものは、「このような人間になりたい。」「このような大人になってほしい。」という希望や要望に対する手段といえるでしょ?
無理に「普通学級」に入れようとする親は、障害を持った自分の子供がどんな大人になってほしいの?

まあ、その質問に対する回答は予想できるでしょ?
「ふつうの大人になってほしい。」
まあ、その回答はいいとして、じゃあ、「ふつうの大人」って、どんな人なの?
と重ねて質問されたらどのように答えるでしょうか?

どのように答えるでしょうかも、何も、まあ、回答はできないでしょうね。

たとえば、「○○のようなことを一人でできるようになってほしい。」とか「△△という判断なり、□□の意思表示ができるようになってほしい。」あるいは、「このようなトラブルを回避できるだけの分別を身につけてほしい。」などと、具体的にブレークダウンできればいいわけでしょ?
逆に言うと、その「○○が一人でできるようになるための方法」として教育があるわけでしょ?

それが、いわゆる「普通学級」でできるの?
自分に必要なところなり自分の至らぬところを、習得できるようになることが重要なのであって、「ふつうというレッテル」には意味はないのでは?
逆に言うと、「ふつう」という言葉を掲げることによって、自分の子供がどんな大人になってほしいのかについて、親として考えることから逃避しているんですね。
まさに「ふつう」という言葉の心理の裏面といえる「これを言っておけば、それでいいだろう。」というズボラさとつながっている。

ハンディキャップがあるような場合には、本来は、その「ふつう」とやらに近づくためには、自分自身が背負っているハンディキャップをちゃんと見極める必要があるでしょ?
「このハンディキャップについては、自分なりの努力で対処しよう。」
「こちらのハンディキャップについては、行政機関のサポートを受けよう。」
そんな感じで、具体的にリストアップした上で個別に対処していくしかないじゃないの?
ハンディを認めた上で、そのハンディをどのようにリカヴァリーしていくのかという具体的な方法論になってくるでしょ?
しかし、ダメダメ人間は、闇雲に「ふつう」という言葉を掲げるだけで、ハンディに対する具体的なケアーがなく、ますますダメダメになってしまう。

別のところにも書いておりますが、ダメダメ家庭の人間は、ハンディキャップと被害との区別がつかない。不都合な境遇を、すべて「自分が背負わされた被害」と認識し、目標達成の前に存在するハンディキャップとは認識しない。
被害と認識しているがゆえに、その対処を、「加害者」の側に要求することになる。
そして、当人としては「あ〜あ、オレって、こんな不幸な境遇だ!ああ!オレはなんてかわいそうなんだ?!」と自分を哀れんでいるだけ。

このようなことは、知的なり身体的なハンディキャップだけでなく、まさにダメダメ家庭の出身者が背負うことになるハンディキャップの問題とまったく同じです。マトモな家庭では当然のように得られても、ダメダメ家庭においては得られないスキルは、現在や将来において当然のこととしてハンディになりますし、ダメダメ家庭で培った常識も、世の中ではハンディになりますよ。だから、「それをどのようにケアーしていくのか?」という問題になるでしょ?

ダメダメ家庭出身者は、まさに「ふつうの家庭を築きたい。」と周囲に語り、子供に対しては「ふつうの子供になれ!」と要求する。
呆れるほどに「ふつう」にこだわり、逆に言うと、具体的な各論が何もない。
だから、自分では何も対処せず、結局は、うまく行かず、被害者意識をいっぱいにして、周囲を恨むことになる。

ダメダメ家庭出身ということは、大変なハンディキャップですよ。
だから、どのような点が、どのように影響を及ぼしてくるのか?その点について具体的な各論で理解していないと、対処できないでしょ?
何度も書きますが、ダメダメ家庭の正式名称である「機能不全家族」と言う言葉の「不全な機能」とは具体的に何なのか?それを自覚していないと、対処ができないじゃないの?

視覚に障害があって、それこそ全盲状態なのに、「普通学級」に入れたら、卒業したら、目が見えるようになっているの?あるいは、文章が読めるようになっているの?
むしろ、逆でしょ?
ハンディを認めた上で、適切な対処を取る必要があるでしょ?
別の言い方をすると、「こんな人間になりたい。」という具体像を明確にした上で、現時点で足りないものを、徐々に習得していけばいいだけ。
あるいは、どうしても習得できないようなものなら、それがなくても対処できるものに、目標を修正すればいいだけ。

「ワタシは、ただ、ふつうになりたいだけだ!」と語るダメダメ家庭出身者は、全盲でありながら、強引に「普通学級」に入学し、授業内容もまったく理解できないままの日々を送る人とまったく同じなんですね。

そして、被害者意識だけが膨張していくことになる。結局は、何がしかの事件などを起こしてしまう。
「ふつう」にこだわるがゆえに、ふつうではないことをしてしまう。
何も、その人それぞれの能力と価値観をもって、その人なりに色々と考えて生きていけばいいだけでしょ?
しかし、ダメダメの世界では、その人なりの生き方を阻害する要因として、つまり固有性を放棄する大義名分として、「ふつう」という言葉やレッテルが使われてしまうんですね。
 R.11/1/29