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カテゴリー ダメダメ家庭問題の考え方
アップ日 10年10月9日
タイトル 楽園への道
イギリスの作曲家にフレデリック・ディーリアスという人がいます。彼が作曲したオペラに「村のロミオとジュリエット」という作品があります。ストーリーとしては、そのタイトルとおりで、仲の悪い間柄の家の若い男女が、心中する話。
と言っても、そのオペラの全曲が演奏されるのは滅多にありません。CDというか、レコードもほとんど出ていません。作曲家のディーリアスはどっちかというと小品が得意な人であって、オペラをまとめるのは得意ではないと言えるでしょう。
ストーリーが陳腐なのはともかく、もうちょっと、台本を練り上げればいいのに・・・と、全曲を聞きながら思ったものでした。

その「村のロミオとジュリエット」というオペラですが、全曲はともかく、その間奏曲は、割と頻繁に演奏されます。「楽園への道」というタイトルをつけられており、イギリス風の田園ののどかさを背景に、やるせなさやノスタルジーを色彩豊かに描いた曲といえます。

その「楽園への道」を経て、恋人たちは彼岸へと旅立っていくわけ。

「楽園」という言葉は、甘美に響くわけですが、物事は簡単ではない。
それこそ、日本の近くにある「地上の楽園」を標榜した国がどんな国なのか?
そのようなことを思い起こしてみると、「楽園」という言葉が持つ「あやうさ」も見えてくるでしょ?

じゃあ、その「楽園」とはどんな意味なの?
皆様は、その「楽園」という言葉の意味について質問されたら、どのように説明しますか?

まあ、説明をするとしたら「何も憂いもなく」「不安もなく」「争いもない」・・・そんな世界・・・と言えるでしょ?
しかし、上記のような説明の言葉は、ダメダメにお約束の二重否定表現ばかりでしょ?
「楽園」というのは、まさに「マイナスがない」ことであり、発想の基本が減点法であり、その対処も否定形となってしまっている。
「楽園」という言葉の響きはすばらしいものですが、その内実は、重症のダメダメなんですね。「楽園」は、その内実として死に近いところにある。それは「地上の楽園」の国でも、「楽園への道」という音楽でも同じ。
あるいは、「憂いなしに・・・」と二重唱を繰り広げたトリスタンとイゾルデが何を求め、どうなったのか?「憂いのない世界」を求める楽園思想は、死への憧れの変種とみることができるわけ。

この「楽園」という言葉ではなくても、そのような二重否定的な理想状態を掲げる人は結構いたりするもの。
それこそ、「心の平安」なんて言葉がよく登場したりするものです。
まあ、私宛のメールの中にも、その言葉があったことがあります。皆様も、たまに見たりするのでは?
その「心の平安」という言葉はいいとして、じゃあ、その言葉の意味は?
となると、まさに「楽園」という言葉と同じでしょ?
「憂いがない」という二重否定であり、発想の基本が減点法。

もちろん、誰だって、その「憂い」を好んでいるわけでもない。
しかし、「憂いがない」のはいいとして、じゃあ、何があるの?
当人は何をしたいの?何を得たいの?

そんな質問をすると、返って来る答えとしては、まさにダメダメにお約束の「ふつう」となってしまうんじゃないの?まあ、「ふつう」に暮らして、「憂いもなく」って・・・一見は通りがいいわけですが、それって、絵に描いたようなボンヤリ状態でしょ?別の言い方をすると、まさに「楽園」状態と言えるのかも?しかし、それって、麻薬でラリっている状態と、その心理状態としては、どのように違うの?
結局は、自分自身から逃避してしまっているわけ。自分自身では何も考えたくないわけ。
自分で何も考えていないし、痛切に感じることもない。
それが「憂いがない」「心の平安」にいる状態でしょ?

だから、「心の平安」なんて言葉が出てくる人は、ちょっとのことでスグに逆上することになる。何回も書きますが、「心の平安」を得るためには、何も見ず、何も考えないことが鉄則ですよ。だから、「で、アナタとしては、どのように考えるの?どうしたいの?」と質問されると、「心の平安」が乱れ、パニックになり、思考停止状態を獲得するために、我を忘れるという逆上状態に逃げ込んでしまうわけ。

皆様も、たまに「心の平安」という言葉に接することもあるでしょうが、その際には、その言葉を使った人は、「我を忘れて」暴走する危険があることは、アタマの片隅に入れておいてくださいな。その点は、「地上の楽園」の人たちとまったく同じなんですね。逆上状態は、我を忘れているんだから、別の視点でみると、心は平安ですよ。だって、「憂い」どころか、心そのものを喪失している状態なんですからね。

ちなみに、この「楽園」というか、「心の平安」と極めて近い意味を持つ言葉が、最近になって登場してきました。
「最少不幸社会」という言葉です。
現在日本の首相をされておられる管さんが、そのような言葉を、真顔で、語っている、らしい。国連の総会で、世界に向けて、語った・・・らしい。

この「最少不幸社会」という言葉が、「心の平安」や「楽園」という言葉に近いことは、皆様も納得されるでしょ?
意味的には「憂いがない」という二重否定の言葉に近い言葉ですよね?まあ、最少という言葉だから、厳密な意味としては「憂いが可能な限り少ない」となるでしょうが、その発想の基本は同じですよ。

じゃあ、その最少不幸社会で何が達成できるの?
あるいは、社会全体はともかく、その中の個人個人は、どんなことが達成できるの?
あるいは、不幸が少ないのはいいとして、個人の幸福についてはどんなイメージを持っているの?

最少不幸社会というモットーはいいとして、そして、目についた「不幸」を除去するのはいいとして、じゃあ、それが個人にとっての幸福につながるの?
最少不幸社会という言葉からは、マイナスばかりに視点を向けて、プラス方向には何も考えない人間の姿が見えてくる。
不幸を見て、その不幸を減らすことばかりで、自分なりの幸福イメージについて考えることから逃避しているわけ。

ダメダメ家庭の人間が、「幸福への嗅覚」を持っていないことは、以前(09年7月)に文章を配信しております。
ダメダメ家庭の人間にしてみれば、「どんな状態が幸福なのか?」について自分でもわかっていないし、考えたくもないし、幸福状態への嗅覚をもともと持っていないわけ。
だからこそ、不幸なり被害に対してのみ、嗅覚が働いて、それに対し、必死で対処しようとする。しかし、幸福への嗅覚を持っていなくて、不幸への嗅覚を持ったままの状態で、目の前の不幸に対処しているので、結局は、対処しているものとは別の不幸を呼び込んでしまって、ますますドツボにはまってしまう。

目の前にあるマイナスに対して切羽詰まった対応を取ることで、逆に言うと、そのマイナスの横にある幸福へのチャンスを無視してしまうわけ。

そもそも、「心の平安」なり、あるいは「憂いがない」も、それって、現実的に見て、実現は簡単なことでしょ?
死ねばいいだけ。

死ねば「憂いもなくなります」し、心も平安ですよ。
あるいは、「最少不幸社会」も、同じでしょ?
その社会から人類を根絶すればいいだけだし、はっきり言うと、それしかない。
少なくとも、それ以上の方法論は存在しない。

最も現実的で、最も根源的な対策を除外して、「あーでもない、こーでもない。」と議論しても、そんなことは議論のための議論に終わるだけ。

人が生きていれば、必ず「憂いはある」ものですよ。
毎日が「心が平安」で「憂いがない」人の方が胡散臭いでしょ?
それこそ、「地上の楽園」が、いかに、胡散臭い国なのか?
最少不幸社会というモットーも、基本的には同じなんですね。
そんなことは、ちょっとでも考えれば、小学生でもわかること。

私としては、「アナタが掲げる最少不幸社会を実現させるために、地球上から人類を根絶すればいいじゃないの?」「どうして、それではダメなの?」と、管首相に対して、周囲にいる誰かが質問しないことが不思議ですよ。
だって、結局は、それしかないでしょ?

あるいは、「アナタが語る『最少不幸社会』は、『地上の楽園』と、どう違うの?」という質問をしないのが不思議ですよ。まあ、それだけ、政治家という種族はアタマが悪いのかな?

ちなみに、「人類根絶が一番現実的で根源的」・・・そんな発想は、管首相の前任者の鳩山さんにもみられたでしょ?
鳩山さんも「結局は、人類が地球の諸悪の根源だ!」そのようなことを語っていましたよね?

加点法で考えるがゆえに、調整なり妥協の必要もあるのであって、
減点法の極致は、結局は、死なり根絶という「無」の状態になってしまう。
そんなことは、ちょっと考えればわかることですが・・・

私としては、その最少不幸社会という発想や理想そのものを云々するつもりはありませんよ。
その考えに信念があるのなら、実行に移せばいいだけ。
一国の首相として、人類根絶のために堂々と行動すればいいだけですよ。
信念ではないのに、「てきとう」に語ったのなら、それは、政治家というよりも人間として下等でしょう。

「王道楽土」とか、「最少不幸社会」とか、「地上の楽園」とか、そのような現実離れした理想郷や、あるいは個人としての「心の平安」は、その現実離れゆえに、現実逃避の便法として有効であり、そして、説明することからも解放される。
ダメダメ家庭の人間にしてみれば、ツボなんですね。
高邁な理想郷を掲げる人は、歴史的に見て、胡散臭い人ばかりでしょ?

「心の平安」なんて、当人に、達成したいものがない人ということでしょ?
人間にとって、やりたいことを自覚し、そのために行動したら、心の平安なんて状態になるの?「これだけは達成したい!」という強い気持ちを持っていない人の尊厳って、いったい何?

「心の平安」に到達するためには、「死ぬしかない」と前に書いておりますが、現実的には「生きた屍」になることでしょ?
「最少不幸社会」も、社会としてのヴァイタリティを喪失し、何も生み出さないことに徹することでしょ?

自分なりの幸福のイメージを持ち、その達成のために行動すれば、ある種の「業」も発生しますよ。「これだけはやり遂げたい!」と思っていれば、「それ以外」には、配慮しきれませんよ。しかし、減点法のダメダメ人間は、自分なりの幸福のイメージを排除することによって、そのような「業」から逃避し、「何も欠点がない」「きれいなまま」の「いい子ちゃん」でいようとするわけ。
「ワタシは汚いものは見たくないのよ!」
「ワタシは不幸は見たくないのよ!」

そうやって、「出る杭をたたき続ける」ことになる。
それが、まさに「地上の楽園」の姿でしょ?

何かを達成するために、「憂い」はつきものでしょ?
何も画家のデューラーだけでなく、そんな「憂い」こそが、創造の源泉でもあるでしょ?
あるいは、ベートーヴェンだって、「苦悩を通じで、歓喜に至る。」って言っているじゃないですか?苦悩や憂いを回避していて、何ができるの?

しかし、抑圧的な人間は、自分では何も生み出そうとはしない。
ただ、権威者から言われたことに従っているだけにしたい。
従うことだけに徹することで、自分で考えることから逃避し、自分で考えることそのものを否定して、それによって、「憂い」から解放されようとする。いわばマゾヒズム志向なんですね。
マゾ集団といえるカルトの人たちは、往々にして「心の平安」とか、地上の楽園とか・・・その手の現実離れした理想郷の話が好きでしょ?

以前にも書いていますが、カルトの人たちは、感覚的な悦びを排斥しようとするもの。だって、感覚的な悦びがあれば、その裏面として、その悦びが得られない不満が発生してしまうでしょ?
だからこそ、カルトは喜ぶこと自体から、排斥しようとするわけ。
生き生きした肯定的な感情の段階から排斥することで、否定的な感情も同時に避けようとする。
そんな姿は、まさに「生きる屍」そのものですよ。
感じることそのものを否定し、そして、考えることも否定する。
逆に言うと、だからこそ不満も不安もなく、心の平安そのもの。

そのようなことは、鳩山さんが掲げた「いのち」でも全く同じ。
「生きること」は、苦悩や憂いや、歓喜に繋がりますが、「いのち」は、ただ「死んでいない」というだけ。
「最少不幸社会」も「楽園」も、そして、「いのち」も、そのすぐ横には「死」あるでしょ?

そのような人たちは、自分で考えることなり、主体的に対処することが心理的に怖いんですね。
何かを達成したり、やる続ける日々は、「あらし」そのものですよ。
その「あらし」の日々に、どこに「心の平安」があるの?

「あらし」の中に飛び込む勇気のない人間に、何ができるの?
地獄の業火に焼かれる覚悟がないものが、成果を出せるものなの?
それこそ、子供を育てることすら、きれいごとでは行かないでしょ?
業火に焼かれるがゆえに、フェニックスのように再生があるんじゃないの?
それは決して、心の平安ではありませんよ。

「心の平安」なり「最少不幸社会」などは、宗教『団体』的な発想と言えるでしょう。
芸術的な発想は、不幸を背負い、覚悟を持って前に進む発想。
その人なり、その成果が、一粒の麦となればそれでいいのでは?

しかし、自己逃避のダメダメ人間は、「楽園」を掲げることで、自分自身の問題から逃避する。
「憂い」から逃避するがゆえに、何も生み出さない。
「生きた屍」に逃げ込むことで、「心の平安」を得ようとする。
だからこそ、成果を得ることができない。
だから、本当の意味での幸福なり充実感とは無縁。

あのキリストも、「ワタシは、オマエたちに『心の平安』を与えるために、語っているのではない!」と言っているじゃないですか?彼は「こうすれば、すべてが解決だよ!」というような安直な楽園思想を語っていたわけではないでしょ?
苦悩を背負うからこそ、得られるものもあるわけ。
その覚悟こそが、その人の尊厳でしょ?
そして、そのようなことは、創作の面だけではなく、子育てだって全く同じでしょ?

楽園への道は、天国への道なのか?
paradiseとheavenは、微妙に違うのでは?
天国への道は、やっぱり狭き門をくぐらないとね。
それには、炎に焼かれるくらいの覚悟も必要なのでは?
最少不幸社会とか、地上の楽園とか・・・甘ったるい言葉もいいのですが・・・
地上の楽園に安住するがゆえに、天国からは遠くなる・・・
そうとも言えるのでは?

私は何も党派的な観点から申し上げているわけではないんですよ。
それこそ、頻繁に言及しておりますが、ゲーテの「ファウスト」の最後に出てくる「絶えず務め励むものを私たちは救うことができる。」という言葉に立ち返っているだけです。
この世における苦悩や憂いを否定的に見ている人には、尊厳がないと申し上げているだけですよ。

以前のメールマガジンにおいてアンドレ・ジッドの「狭き門」を取り上げた際に、トーマス・マンがジッドを紹介した文を取り上げました。
ここでも、その紹介文を、今回の文章の最後に使わせていただきましょう。

『短見な道学者は彼に非難を投げ掛けたけれども、彼は精神の好奇心の極点を持ち続けていった。彼の場合におけるような高度の好奇心は、懐疑主義となり、この懐疑主義はさらに創造力と変わってくる。彼はこの好奇心を、彼の好きなゲーテとともに分け持っていた。彼はゲーテのように、絶え間ない衝動によって動かされ、探求の方に絶えず押しやられていた。魂の平穏無事や逃避は、彼の取らないところだった。不安、創造的な懐疑、無限の真理探究が、彼の領分だった。そしてこの真理の方へ、英知と芸術とによって与えられたあらゆる方法を以て、進もうと努力したのだった。』
 R.10/10/15