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カテゴリー | ダメダメ家庭が持っていない発想 |
アップ日 | 10年10月30日 |
タイトル | フロンティア・スピリット (開拓者精神) |
以前に配信していたメールマガジンおいて、ダメダメ家庭の人間はチャレンジ精神がないことについて書いた文章を配信しております。 何事も減点法のダメダメ家庭においては、現状を肯定するという大義名分を持ち出し、新たなことに挑戦することを否定するわけ。 ダメダメ家庭においては、もし、子供が新しいことにチャレンジして、そこで失敗したら、親の側より手厳しいお叱りとなる。 「まったく・・・この子は、余計なことに手を出して!」 「いったい、いつになったら、親に迷惑をかけないようになるんだか?!」 「えらい人も言っているでしょ?『人間は生きているだけですばらしい!』って・・・だから、つまらないことに手を出すんじゃないよ!」 新たなことに手を付けることを、ことごとく否定されてしまったら、とてもじゃないけどチャレンジ精神なんて持ちようがないでしょ? そもそも、ダメダメ家庭は被害者意識が強く、「子育ては親である自分が背負わされた被害」と認識している。だから、子育てによる被害者である親が、自分への加害者とみなしている自分の子供のサポートなどもしない。 子供としては、親からのサポートはないし、手を付けると、親から文句を言われるし・・・と、どうしても減点法的になってしまうわけ。 新たなことに手を付けないがゆえに、周囲に合わせて、現状のまま、生きていくことになる。逆に言うと、そんなライフスタイルを、「ふつう」と言って、大いに肯定するわけ。 別の言い方をすると、「ふつう」ということは、人が行うチャレンジ精神を否定した言葉でしょ? 新たなことにチェレンジしないのだから、覚悟も必要ない。 だって、今のままでやっていればいいだけなんだから、覚悟も要りませんよ。 個人としてのチャレンジ精神がより大きな次元となると、フロンティア・スピリットになりますよね? その集団全体なり、それこそ人類の活動における最前線となると、単なる個人レヴェルのチャレンジとは言えず、フロンティアとなるでしょ? それこそ、アメリカの西部開拓の際に、そのように言われましたし、あるいは、日本のスポーツ選手が今まで関係なかった外国でプレーするような場合にもその言葉が使われますよね? あるいは、宇宙開発のような科学技術の分野でも、フロンティア・スピリットがよく語られますよね?あるいは、芸術表現の分野でも、開拓者の精神を持って、新しい表現手法を広げていく・・・そのようなことは言われるでしょ? それこそ、アメリカで野球に挑戦することも、今ではそれほど珍しくはありませんので、今となってはその選手個人としてのチャレンジでしょうが、昔は、日本人プレーヤーが誰もいない状況での挑戦だったわけでしょ? そんな挑戦は、単なる個人的なチャレンジではなく、開拓者と言えるでしょ? スポーツの分野だったら、「何も無理にアメリカで挑戦しなくても、日本でやっていれば、ラクにお金が稼げるのに・・・」そんな声もあったりするようです。 あるいは、宇宙開発のような巨額な経費が必要となる分野だと、「人類にとって、もっと急いで対応する必要がある貧困の問題に費用を投入すべきだ!」という議論が起こったりするもの。 この貧困の問題と、フロンティアを広げるための費用の問題は、後で詳しく考えてみます。 フロンティアにおける開拓というのは、結果がわかるのが遅いもの。 だから批判を受けやすい。 おまけに、その手のフロンティアの開拓に携わるものは、まあ、一般のマトモな人間とは違ったちょっと異質な人も多い。だから、一般人からは「あの人たち・・・何をわけわからないことをやっているの?」と思われてしまうのも無理はない。 現実的に見て、フロンティアの開拓などに直接的に携わるのは、オバカさんでしょう。 しかし、後世の人間は、過去のそんなオバカさんの成果がなければ実に貧しいものになっている・・・これは現実でしょ? それに、そんなオバカさんたちは、往々にして、そんな開拓者としてくらいしか使い道がない人が多い。その点は、芸術表現の開拓が代表例ですし、科学技術の開拓にも、そんな面があったりする。フロンティアという場所は奇人変人の巣窟ですよ。 使命感を持って、あるいは、子供っぽい好奇心をもって、命を懸けて、フロンティアの開拓に携わっている人たちは、敬意に値するオバカさんですよ。 しかし、努力しても、どうせ「ふつう」になれないダメダメ家庭の人間は、逆に言うと、そんな形で尊厳を目指してもいいのでは? そんな感じで、その「トンデモ」な面をうまく生かすことができたダメダメ家庭の人間は、実にレアケース。大体のダメダメ家庭のケースでは、子供っぽい好奇心も育たないし、当事者意識がないので、使命感も理解できないし、敬意というものも理解できない。だから、命がけでフロンティアで戦っている人を見て、「バカなことをやっているぞ!」とか「なんて、ムダなことをやっているんだ?」と揶揄したり、否定したりするだけ。 それこそ、前に例示した「食べるものも食べられないアフリカの子供たちのことを考えれば、宇宙開発などは手掛けるべきではない!」などの立派な文句になってしまう。 貧困によって、食べるものも食べられない状態の人たちが存在するのは確かにそうだとして、じゃあ、どうしてそんな人は、子供を作ってしまったの? 貧困にあえいでいる人への配慮ということなら、そんな環境で子供を作ってしまったアフリカの親たちが、一番配慮に欠けた人たちでしょ? もし、その親たちが、困難に満ちた自分たちの現状を踏まえ、自分たちの可能性を一歩でも広げるために、子供がほしいということなら、つまりそんな覚悟があるのなら、それは、そのアフリカの人たち自身の判断でしょう。それこそ、自分の子供のためにいざとなったら自分の腎臓を売ってもいい・・・それくらいの気迫を持って、子供を持ったのなら、敬意に値することですよ。 それは、自分たち家族のフロンティアを広げるという覚悟があってのことですからね。 しかし、家族として現状が全く上手く行っていないのに、「な〜んとなく」子供を作ってしまっておいて、「現状は宇宙開発などにお金を使っている場合じゃないぞ!貧困に困っている我々を、まず先に助けろよ!」という主張は、主張と行動のつながりが欠けているでしょ?そんな人たち自身は、「現状として、子供なんて作っている場合じゃないぞ!まずは、自分たちを何とかしなくちゃ!」とは考えないの? 宇宙開発も、自分たちの家族も、フロンティアを広げるという覚悟こそが貴いと言えるのでは? フロンティアというか最前線に立つと、その覚悟が試されるのと同時に、過去の業績なり、業績を作り上げた先人たちの葛藤の意味も分かってくる。 そんな覚悟や葛藤の意味は、本などで言葉だけで習得でできるものではないわけ。 学ぶものではなく、体験するものなんですね。 最前線に立ち、自分の命を曝してこそ、見えてくるものなんですよ。 人の思いが形になっている・・・それがフロンティアなのであって、その場においては、時を超えて、場所を超えて、生死に関わらず、その覚悟を通じて、連帯できる。 それこそ、芸術の分野におけるフロンティアもそのようなもの。 芸術の歴史なんて、最前線に立ったものの屍の積み重ねですよ。 逆に言うと、最前線において覚悟を決めることによって見えてくる連帯の世界あるわけ。 最前線の後方で、格好のいいことを言っている人が、どんな業績を上げたの? そんな人はどんな人と、どんな面でつながっているというの? 何も科学技術なり芸術とか、あるいはプロスポーツのような特殊な分野におけるフロンティアだけの問題ではありません。 アフリカの貧困の問題でも書きましたが、子供を持ち、育てるということも、まさに最前線に立っての、フロンティアの開拓でしょ?まあ、子育てというものは、一般のマトモな人が携わる唯一のフロンティアと言えるのでは? フロンティア・スピリットを持って、命がけの覚悟を持って育てるから、子供も前に進むことができるのであって、「てきとう」とか「ふつう」の感覚で子供を育てていても、確かに人口は増えたわけですが、その家庭の可能性が広がったということにはならないでしょ? その家庭の未来が開拓されたわけではないでしょ? 未来を開拓しようとする覚悟がないかぎり、可能性を広げることはできないわけ。 どんな国の人であれ、覚悟を持って必死で子育てをしている親が、宇宙開発の費用を、アフリカの子供たちに回せと言っていますか? スグにアフリカの子供の話を持ち出す人が、いい親だったことがありますか? 何かと言うと、アフリカの子供のネタを持ち出す人は、見てもいない子供を議論するしか能がないということ。それは、目の前にいる現実の子供のことに対処する能力も意欲もないということなんですね。 よく、「自分で子供を育ててみて、親の偉大さがわかった。」という物言いがありますよね? 親が持っていた覚悟とか気迫とか・・・自分も同じことをやってみて実感できるわけ。 しかし、ダメダメ家庭においては、上記の言葉はちょっと違っている。 「自分で子供を育ててみて、親の苦労がわかった。」となる。 「苦労」というか「被害」の面に対して、視線が向かっている。 当事者意識があれば、親の当事者意識に反応し、 被害者意識が強ければ、親の被害に反応する。 偉大さが理解できているのなら、その人自身も、子育てによって、それなりに大きくなったと言えるでしょうし、苦労が理解できたということなら、ますます被害者意識が強くなっているということ。 もちろん、世の中の一般的な人は、この私のように細かく言葉を使い分けてはいませんから、上記の「偉大さ」と「苦労」も、明確には区別していないでしょう。 しかし、「偉大さ」と言っている人は、まあ、確実にマトモな人でしょ? マトモだった自分の親の覚悟を理解し、それを受け継いで、当人自身もマトモな子育てをしているということになりますからね。 被害にばかり反応するダメダメ家庭の人間は、子育てにおいても、親の被害に反応するし、宇宙開発なり芸術振興においても、その恩恵にあずかれない人間の被害に目が行ってしまう。 それは、一見は、「配慮にあふれた」「いい子ちゃん」の発想と言えるわけですが、「そんなに被害を訴えたいのなら、最初から子供を持たない方がいいのでは?」という当事者意識からの疑問には答えられない。 ただ、とおりがいい正論を語ることによって、「ワタシは各方面に配慮するいい子ちゃんなんだよ!」と言いたいだけ。 「ワタシは悪くない!」と言いたいだけ。 人のやっている宇宙開発にケチをつけることはあっても、「ワタシはアフリカの子供たちの問題に命がけで取り組んでいるから、支援してほしい!」とは言えない。 当人自身に使命感がない人は、他者が持っている使命感をわからない。 アフリカの子供のことを語りながら、アフリカの子供の救済に使命感を持っているわけではない。 自分の善意をアピールしたいだけで、サポートの対象のことは二の次となっている。 つまり、単なる言い訳なんですね。 だから、自分では、何もしないわけ。アフリカの子供に募金をするわけでもない。 そんな人が結婚し、親になってしまったら、子供からの要望は何も聞かず、「アフリカの子供のことを考えろ!」と言うだけ。 その人が真剣にアフリカの子供のことを思っているのなら、自分では子供などはつくらず、アフリカにボランティアにでも行くのが先でしょ? 世界の不平等を放置して、宇宙開発とか科学技術のフロンティアに向かうことは、人道上許されない・・・そんなご高説はいいとして、命を懸けて、使命感を持って取り組むというフロンティアという感覚がないからこそ、家庭内で上手く行っていないし、当人自身が順調でもないのに、子供を作ってしまう。 そんな環境で育った子供が、「社会の不平等に対してまず先に対処しろ!」と要求することになる。しかし、それって、自分が何もしないための言い訳でしょ? フロンティアというか、最前線は一種の修羅場であり、以前にも書きましたが、修羅場とは言い訳が通用しない状況。そんな状況だからこそ、その人の覚悟が試されるわけ。 覚悟とは無縁のダメダメ人間は、人が一生懸命にやっていることを後方から揶揄することしかできない。 否定するしか能がないダメダメ人間は、フロンティアを前に進むことはできない。 それに、当事者意識がないので、いわば、業を背負ってでも達成したいという使命感もない。 最前線の状況への心理的な距離感を見ると、その人の内面が見えてくるわけです。 |
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R.10/11/3 |