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カテゴリー ダメダメ家庭問題の考え方
アップ日 10年11月3日 (11年1月21日 記述を追加)
タイトル 夢が語ることを聞く
 このサイトにおいては、深層心理学の祖と言えるジークムント・フロイトの考えを取り入れたりしております。
と言っても、私はその面においては、専門家ではありませんから、私の文章を読んで興味を持たれた方は、ご自身でお調べになってくださいな。

さて、そのフロイトは夢ということを重視したしました。
このサイトでは、以前より「夢」について言及しておりますが、それは「希望」(=hope)という意味に近い夢であって、夜寝ている時に見る夢(=dream)ではありません。

抑圧的なダメダメ家庭においては、子供に希望を持たせないようにしてしまう。
つまり、夢というか希望を持たせないようにしてしまう。
ちなみに、フロイトは、抑圧された心理が、無意識的な状況において現れる・・・そのようなことを、記述しております。
それこそ、夜に寝ている際に見る夢は、その人の抑圧されている希望・・・別の言い方をすると夢の反映といえます。無意識の世界では、dreamとhopeは繋がっているものなんですね。

それこそ、エディプス・コンプレックス的な心理を強く持っていれば、その種のシーンを夢に見ることになる。
そんな夢によって、当人の無意識的な内面も見えてくることになる。
まさに、目を背けているがゆえに、目を閉じたら見えてしまうことになる。

希望のようなプラス方向を夢見るだけではありません。
それこそ、敵意のようなマイナスの感情から、ある種の危機感や恐怖感のようなものまで・・・日頃から目を背けているものが、夢となって目の前に現れてくることになる。

頻繁に書いておりますが、ダメダメ家庭は抑圧的であり、当人自身の希望を抑圧するようにしてしまう家庭と言えます。希望を持って、それが適えられないとなると、心理的なストレスになってしまう。だからこそ、希望そのものを持たないようにしてしまう。
しかし、抑圧しているがゆえに、意識的には抑圧できない状況になると、それが現れてくる。

寝ている際の夢というシチュエーションだけでなく、眠りに落ちる前の微妙な時間帯に、今までにない発想が出てきたりすることもあったりしませんか?意識によって抑圧されている心理や感情は、意識が弱まってくると、明確ではないにせよ、顕在化されることになる。
それに類似して、フロイトは自由連想法という手法を用いました。被験者が自由に連想していき、観察者がそれを記録していく方法です。自由に連想することにより、ちょっとした「意識の隙間」ができることになる。その隙間から、普段自覚できない無意識も見えてくることもあるわけです。
夢にせよ、自由連想においても、意識が弱まったり、隙間が発生する時だからこそ、隠された本音も見えてくるわけです。

さて、以前のことですが、個人的なことで、「あれれ?」と思ったことがあります。
夜に寝ている時に見る夢について、人と雑談をしていた際に、「連続モノの夢の場合は・・・」とか、この私が言ったら、『連続モノの夢?何それ?』と言われちゃったんですね。

質問を受けたので、「連続モノの夢って・・・レギュラーの登場人物がいて、場所的に同じで、その他の状況もいつも同じタイプの夢・・・まるでテレビの連続ドラマのようなタイプの夢のことですよ。アナタだって、たまに見るでしょ?」と回答したら、『そんな夢は見ない。夢なんて、いつも単発だ。』と言われちゃったんですね。

単発の夢しか見たことがないという言葉を受けたので、周囲の人に聞きましたが、連続モノの夢を見る方が少数派でした。と言うか、連続モノの夢を見る人は、ダメダメっぽい人が多い。それも、かなり重症のレヴェル。それだけ、自分の本心を抑圧しているということなのかな?
それだけ、心の中で「引っかかっている」ものが、確たる存在となっていて、そこから逃れられないということなんでしょうね。

ちなみに、メールマガジンとして配信していた折に、バルザックの「谷間のゆり」という小説を取り上げました。バルザックの「谷間のゆり」という作品は、バルザックの「人間喜劇」というシリーズの一つです。人間喜劇というシリーズは、共通の舞台設定なり、人物設定の元に、多くの人間の姿を描き出している作品群です。
そんな壮大なシリーズについて、研究者とまりの人は、「バルザックは、なんて、壮大な構想を持っていたんだ!」と絶賛するのかもしれませんが、バルザックが連続モノの夢を見る人だったら、それは壮大な構想というよりも、その手の夢をよく見ていた・・・ということに過ぎないわけです。連続モノの夢を頻繁に見る人間にしてみれば、人間喜劇のような構想こそが自然なスタイルといえます。

まあ、芸術的な分野においては、創作者にとっての当たり前が、研究者にとっての当たり前とはかなり違う・・・このことは、頻繁に言及しておりますが、この人間喜劇というシリーズへの捉え方についても、まさにそんな感じなんでしょうね。

夢というのは、意識によって抑圧している希望なり感情が発現したものである・・・
そのことを認識すれば、まさに自分自身の本心が夢によって見えてくるわけです。

しかし、重要なことは、シチュエーションではなく、あくまで感情の方なんですね。
希望なり、恐怖・・・そんなものが、色々なシチュエーションで表現されることになる。
人は、後になって夢を思い出した場合には、夢ならではの突飛なシチュエーションの方に関心を持ってしまう。

それこそ、一人で空を飛ぶ夢だったら、「ああ!鳥になったぞ!」というドラマ設定の面に関心を持つことが多いわけですが、実は重要なことは、上から見た俯瞰した視点からの感情なり、あるいは、空を飛んでいても、いつ落ちるかもわからないという不安だったりするわけです。

泥棒になった夢を見た場合には、泥棒をするというシチュエーション以上に、危険を冒してもヤバイものを取りたいという心理だったり、あるいは、人から追いかけられて怖かったという恐怖の方が、その人の無意識を語っているといえます。
抑圧的なダメダメ家庭の問題を考えるに当たって、夜の夢から見えてくる本心を認識することが有効になるわけです。

ダメダメ家庭というか機能不全家庭の問題を考えるに当たって、「言おうとしないもの」「しようとしないもの」から見出していく・・・そのことについては、頻繁に言及しております。
機能不全であるがゆえに、それは見えてこない。
そして、「言おうとしない」「しようとしない」がゆえに、現れるのが夢というもの。
だから、夢を見た場合には、そのシチュエーションよりも、その時の感情が自分自身の状態を教えてくれるわけです。

普段、語られないものが語られる状態・・・それは、寝ている時に見る夢が、まさにその代表例ですが、このサイトで頻繁に取り上げる芸術作品も、そんなところがあるでしょ?
そもそも「We are such a stuff as dreams are made on 」なんて、大昔の芸術家が言うくらいですからね。

ダメダメ家庭は機能不全の家庭であり、その不全な機能をどのように認識していくのか?
それは、実に難しいことなんです。従来からのfunctionalな手法では、何も理解できないわけです。

不在を表現していくのは、夢の仕事であり、夢と同じもので出来ている芸術作品の方なんですね。そして、夢は他者と共有できませんが、芸術作品は他者とも共有できるでしょ?

語られないものが、語られている状態。
それは夢でもあり、芸術作品でもある。
そのようなものを通じて、自分自身の本心を知ることができる。

自分自身との対話においても、夢が語るものとの対話が必要になるわけですし、誰かの作品を通じての対話が有効になることも多い。
もちろん、一番有効なことは、自分なりに作品・・・に類するもの・・・を作ってみることでしょう。
そんな作品が、自分の隠された感情を語っている・・・そこから見えてくるものがあるわけです。

「語られないものと、どのように対話していくのか?」
「簡単には見えないものを、どうやって認識していくのか?」
その問題意識なしには、ダメダメの問題は何も理解できません。

別のところで取り上げておりますが、アメリカの詩人のエミリー・ディキンソンは、現実の世界を「angled road」と言っております。それだけ、見通しが悪いといえる。
あるいは、ベルギーのメーテルリンクは、現実の世界を「運命の裏側」と表しております。
運命の表側は、むしろ、夢の世界で表されたりするもの。
夢の世界の一貫性があるとしたら、その人の無意識は一貫性があるんでしょうね。

語りえぬものに対しては、最終的には、沈黙しなくてはならないのかもしれません。しかし、そんな最終的な沈黙の前には、色々と試行錯誤があってもいいのでは?
それが、「汝自身を知る。」という古来よりの叡智につながるのでは?
 R.11/1/21